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通らない道  作者: asnt2026


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24/30

第24話 角の向こう

塀の向こうから、子どもの声がした。


「待って、まだ行かないで」


 瀬戸亮介は顔を上げた。


 声は丁字路の先から聞こえてきたが、姿は見えなかった。


 すぐに別の子どもが何かを答え、二人分の足音が遠ざかっていく。どうやら友達同士で走っているらしい。


 亮介は道路の端に立ったまま、その声が消えるのを待った。


 数か月前の自分は、ここで足を止めなかった。


 久世治が保存していた映像には、濃紺の作業服を着た男が映っていた。肩に鞄を掛け、道路を歩いている。丁字路へ近づくと、横から来た男性が鞄の肩紐を直すために足を止めた。


 そして自分は、そのまま通り過ぎていった。


 たったそれだけだった。


 亮介は足元を見た。


 道路には細いひびが入っている。


 側溝の蓋が並び、塀の根元から雑草が一本伸びていた。


 七月に同じ場所を通ったとき、こんなものまで見ただろうか。


 おそらく、見ていない。


 仕事の帰りだった。


 駅へ向かって歩いていた。


 道を譲ってくれた男性がいても、わざわざ振り返るようなことはしなかったはずだ。


 亮介は丁字路の先へ目を向けた。


 そこにも、住宅街が続いていた。


     ◇


 日曜日の午後だった。


 秋の陽は明るかったが、道の片側にはすでに屋根の影が落ちていた。乾き始めたアスファルトから、前日の湿り気を含んだ土の匂いが立ち上っている。どこかの家で換気扇が回り、炒めた玉ねぎの甘い匂いが漂ってきた。


 亮介は、さっきまで久世家の居間にいた。


 古い防犯映像を見せてもらい、七月十六日の夕方、自分がこの道を通っていたことを知った。


 久世の妻は、映像を外へ持ち出さず、必要以上に他人へ見せないでほしいと言っていた。


 当然のことだった。


 亮介も、それ以上のことを頼むつもりはなかった。


 ただ、帰る前に現場を見ておきたかった。


 あのカメラには、どこまで映っていたのか。


 自分が通り過ぎた先には、何があったのか。


 仕事で道路を確認するときと似た行動だったが、今日は図面も巻尺も持っていない。


 亮介は丁字路を通り過ぎた。


 数歩進むと、右手の塀が切れていた。


 そこに、人が一人通れるくらいの細い道がある。


 左右を住宅の壁に挟まれた、短い抜け道だった。


 入口の手前には古い電柱があり、壁の角には小さな反射板がつけられている。


 亮介は足を止めた。


 この道は、久世家の前から見えただろうか。


 振り返ってみる。


 久世の家の屋根は見えた。


 しかし軒下の防犯カメラは、塀と植木に隠れている。


 少なくとも、この細い道の入口を正面から見通せる位置ではなかった。


 亮介は少し戻った。


 丁字路の端に立つ。


 そこから細道を見ようとしたが、ブロック塀が重なって、入口の奥までは分からない。


 一歩、先へ進む。


 まだ見えない。


 もう一歩進むと、ようやく右手に細い通路が現れた。


 亮介は立ち止まった。


 いま自分が歩いた数歩のあいだに、見える景色が変わった。


 ただそれだけのことだった。


 道は、最初からそこにあった。


 誰かが隠していたわけではない。


 角度の問題だった。


 亮介は細道をのぞき込んだ。


 奥には別の道路が見えている。


 さらにその向こうには、白い壁の住宅と小さな公園のフェンスがあった。


 綾音が通う学校の裏手へつながるあたりだろう。


 亮介は少し考え、細道へ入ってみた。


     ◇


 道幅は、大人二人が並ぶには少し狭かった。


 壁の下には雨水の流れた跡が残り、ところどころに小石が集まっている。


 途中の家では窓が開いていて、テレビの音が聞こえてきた。


 亮介はゆっくり歩いた。


 数歩進むと、道の向こうから一人の女性が現れた。


 買い物袋を片手に提げている。


 亮介は、壁の凹んだ場所へ少し身体を寄せた。


 女性も肩を引き、二人は普通にすれ違った。


「すみません」


 女性が言った。


「いえ」


 亮介も答えた。


 それだけだった。


 女性は足を止めなかった。


 亮介も止まらなかった。


 通り抜けた先には、少し広い道路があった。


 左へ進めば学校の裏手へ出られるようだった。


 右には小さな児童公園が見え、緑色のブランコがフェンス越しに揺れている。


 先週、綾音と歩いた公園だった。


 亮介はフェンスを見つめた。


 娘は、この辺りをよく知っている。


 晴香という友達の家から帰るときにも通ると言っていた。


 ブランコが新しくなったことも知っていた。


 公園の桜が春になるときれいなことも。


 亮介はそんな話を聞きながら、娘のあとを歩いた。


 学校から本屋へ向かった土曜日のことだった。


 あのとき、綾音は迷わず道を選んでいた。


 自分には覚えのない曲がり角を、当たり前のように曲がった。


 亮介は公園の入口へ近づいた。


 今日は滑り台の近くに、親子連れが一組いた。


 小さな女の子がしゃがみ込み、地面に落ちた木の実を集めている。


 父親らしい男性は、その横で紙袋を広げていた。


「それも入れるの?」


 男性が尋ねた。


「これはだめ。虫の穴があるから」


「よく分かるな」


「見れば分かるよ」


 女の子はそう言って、木の実を一つ地面へ戻した。


 亮介は通りから二人を眺めた。


 父親が笑っている。


 女の子は、次の木の実を探していた。


 父親のほうが、娘に教えられている。


 先週の自分たちにも、少し似ていた。


 亮介はその横を通り過ぎた。


 公園のフェンスが終わるところで、来た道を振り返った。


 細道の入口が、塀のあいだから暗く見えている。


 あそこを誰かが歩いてきたとしても、丁字路からはすぐに姿が見えない。


 逆に、細道から出てきた人間なら、丁字路を通り過ぎた人の背中を見ることがあるだろう。


 距離によっては、声も届く。


 ただ、それは誰かが実際に歩いていた場合の話だった。


 亮介は、公園の前に立ったまま考えた。


 七月のあの時間。


 細道には、誰かいたのだろうか。


 久世の映像からは分からない。


 日誌にも、ここを歩いた人のすべてが書かれているわけではなかった。


 記録されていないからといって、誰もいなかったとは言えない。


 その逆も、同じだった。


 亮介はポケットからスマートフォンを取り出しかけた。


 時刻を確かめようとして、やめた。


 いま何時なのかを知っても、三か月前のこの場所に誰がいたかは分からない。


 スマートフォンをしまい、もう一度細道を見た。


 そのとき、向こうから自転車を押した少年が出てきた。


 小学校高学年くらいだろうか。


 少年は細道を抜けると自転車へまたがり、そのまま学校のほうへ走っていった。


 亮介はその背中を見送った。


 少年は、あの道を知っている。


 きっと何度も通っている。


 自分が知らなかった道を、普段の生活の一部として使っている人がいる。


 そのことが、胸の奥へゆっくり沈んでいくようだった。


     ◇


 駅へ向かう途中、亮介は何度か振り返った。


 別に何かが追いかけてくるわけではない。


 ただ、さっき見た細道が気になっていた。


 自分が通り過ぎた場所。


 映像には映らなかった場所。


 久世が見ていた道路の、すぐ隣にあった場所。


 そこにも人が歩いている。


 その人たちは、それぞれの用事でどこかへ向かっている。


 久世の記録は、あの道で起きた出来事の一部分にすぎなかった。


 亮介は、そういう当たり前のことを今さら確かめていた。


 駅に着く頃には、午後二時を過ぎていた。


 電車へ乗る前に、亮介は小さな売店で飲み物を買った。


 冷たいお茶だった。


 蓋を開け、一口飲む。


 喉の奥が冷えた。


 久世の映像を見てから、あまり水を飲んでいなかったことに気づいた。


 ホームには、家族連れや買い物帰りの人が何人かいた。


 亮介は列の最後尾へ並んだ。


 前の男性が鞄を持ち直す。


 亮介はその動きを見た。


 男性は立ち止まったまま、肩紐を直している。


 亮介も、列の中で動かなかった。


 電車を待っているのだから当然だった。


 それなのに一瞬、七月の映像が重なった。


 鞄の肩紐。


 足を止める男性。


 その横を歩いていく自分。


 亮介は目を伏せた。


 あの男性は、いまどうしているのだろう。


 どこに住んでいるのかも分からない。


 名前も知らない。


 ただ一度、道ですれ違っただけだった。


 それなのに、その人が肩紐を直した数秒間を、自分は何度も見直している。


 もし本人が知ったら、何と言うだろう。


 たぶん、困るだろう。


 鞄がずれたから直しただけです。


 それで終わる話だった。


 亮介はホームの先を見た。


 電車が近づいてくる。


 風が吹き、上着の裾が揺れた。


 亮介は列に合わせて一歩進んだ。


     ◇


 午後四時。


 亮介は自宅の食卓に座り、スマートフォンを耳へ当てた。


 数回呼び出し音が鳴ってから、綾音が出た。


『パパ?』


「うん。約束の時間だろ」


『ちゃんと覚えてたんだ』


「当たり前だよ」


『この前もそう言ってた』


 亮介は笑った。


「準備できてる?」


『うん。ちょっと待って。ページ開くから』


 電話の向こうで紙をめくる音がした。


 何枚か続けてめくり、一度止まる。


『あ、最初からだった』


「慌てなくていいよ」


『慌ててないし』


 少し間が空いた。


 それから綾音が言った。


『じゃあ、読むね』


「うん」


 娘の声が始まった。


 夜の海を進む小さな船の物語だった。


 最初は少し速かった。


 綾音もそれに気づいたらしく、途中から言葉を区切るようになった。


 登場する動物が話すところでは声を変え、地の文へ戻るとまた元の声になる。


 何度も練習したのだろう。


 亮介は、思わず口元を緩めた。


 やがて、船が暗い海の向こうに灯りを見つける場面へ差しかかった。


 綾音の声が少し小さくなる。


 次の文章を読む前に、ほんの一拍置いた。


 亮介は、その間がいいと思った。


 けれど、途中で口を挟まなかった。


 最後まで聞きたかった。


 娘は読み終えると、すぐに尋ねた。


『どう? 何分だった?』


 亮介は時計を見た。


「五分二十秒くらいかな」


『ええ、まだ長い』


「でも、前より短くなったんじゃない?」


『うん。最初は六分以上だった』


「ずいぶん縮まったじゃないか」


『でも五分じゃないと駄目なんだよ』


 綾音は少し不満そうだった。


 亮介は笑った。


「もう少し練習したら届くんじゃないかな」


『そうかな』


「うん。それに、途中のところ、よかったよ」


『どこ?』


「船が灯りを見つけるところ。ちょっと間が空いただろ」


『あそこは、わざと』


「そうなの?」


『うん。聞いてる人が絵を見る時間がいるから』


 亮介は頷いた。


 相手には見えないのに、つい頷いてしまった。


「なるほど」


『先生にも言われたの。急いで読むだけじゃ駄目って』


「そうだね」


 亮介は食卓の端へ目を向けた。


 午後の光が、カーテンの隙間から床へ細く落ちている。


 誰も歩いていない。


 誰も道を譲らない。


 ただ娘が本を読んでいる。


 その声を聞くために、亮介はここへ座っている。


『パパ、聞いてる?』


「聞いてるよ」


『今、何か別のこと考えてたでしょ』


「いや、綾音がずいぶん上手になったなって」


『ほんと?』


「ほんと」


 綾音が少し笑った。


『じゃあ、もう一回読もうかな』


「今から?」


『最初からじゃなくて、最後のところだけ』


「いいよ」


 亮介は時計を伏せた。


 時間を測る必要は、もうなかった。


     ◇


 読み終えたあとも、綾音は電話を切らなかった。


 学校のことを少し話し、昨日見たテレビの話をして、それから思い出したように言った。


『そういえばパパ、今日どこ行ってたの?』


「今日は、前に仕事で行った住宅街のほうへ」


『お仕事? 日曜日なのに』


「今日は仕事じゃないよ。ちょっと用事があって」


『ふうん』


 亮介は少し考えた。


「綾音がこの前教えてくれた公園の近くも通ったよ」


『学校の裏の?』


「そう。ブランコが緑色になったところ」


『ああ、あそこね』


「前は青だったんだろ」


『そうだよ。パパ、覚えたんだ』


「教えてもらったからね」


 綾音は少し笑った。


『あそこ、晴香の家から帰るときに通るんだよ』


「そう言ってたね」


『うん。細い道あるでしょ。塀のあいだの』


 亮介は背筋を伸ばした。


「あるね」


『あそこ抜けると早いんだよ。車も来ないし』


 亮介は、昼間見た細道を思い出した。


 久世のカメラからは見えない場所。


 丁字路を通り過ぎた先にある、狭い抜け道。


「綾音は、あの道をよく使うの?」


『うん。晴香の家に行ったときとか』


「そうか」


『パパも通った?』


「今日、初めてちゃんと歩いたよ」


『え、初めて?』


「仕事で近くを通ることはあったけどね」


 綾音は少し黙った。


 紙をめくる音が聞こえる。


『そっか』


 それから、何でもない声で言った。


『パパ、あのへん仕事でも歩くんだね』


「うん。たまにね」


『そうなんだ』


 亮介は娘の返事を聞いていた。


 何か言いかけたようにも聞こえたが、すぐに恵子の声がして、綾音がそちらへ返事をした。


『あ、ごはんだって』


「じゃあ、そろそろ切ろうか」


『うん。今日はありがとう』


「こちらこそ。朗読、よかったよ」


『また練習するね』


「楽しみにしてる」


 電話が切れた。


 亮介はスマートフォンを食卓へ置いた。


 窓の外では、夕方の光が少しずつ薄くなっていた。


 細い道。


 学校の裏の公園。


 晴香という友達の家。


 綾音にとっては、普段から使っている道だった。


 自分が何も知らなかっただけで。


 亮介は、久世の映像に映っていた丁字路を思い出した。


 あのとき、自分は通り過ぎた。


 横道を見ることもなく。


 角を曲がった先に何があるのか、考えもしなかった。


 その場所は、今も変わらずそこにある。


 綾音も知っている。


 久世も見ていた。


 自分だけが、何も考えずに通り過ぎていた。


 亮介は食卓の上のスマートフォンを見つめた。


 あの道を、娘がいつから通っていたのか。


 今度、聞いてみようと思った。


 ただし、それは道路の調査ではない。


 娘が毎日どこを歩き、何を見ているのか。


 そういうことを、もう少し知りたかった。

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