第24話 角の向こう
塀の向こうから、子どもの声がした。
「待って、まだ行かないで」
瀬戸亮介は顔を上げた。
声は丁字路の先から聞こえてきたが、姿は見えなかった。
すぐに別の子どもが何かを答え、二人分の足音が遠ざかっていく。どうやら友達同士で走っているらしい。
亮介は道路の端に立ったまま、その声が消えるのを待った。
数か月前の自分は、ここで足を止めなかった。
久世治が保存していた映像には、濃紺の作業服を着た男が映っていた。肩に鞄を掛け、道路を歩いている。丁字路へ近づくと、横から来た男性が鞄の肩紐を直すために足を止めた。
そして自分は、そのまま通り過ぎていった。
たったそれだけだった。
亮介は足元を見た。
道路には細いひびが入っている。
側溝の蓋が並び、塀の根元から雑草が一本伸びていた。
七月に同じ場所を通ったとき、こんなものまで見ただろうか。
おそらく、見ていない。
仕事の帰りだった。
駅へ向かって歩いていた。
道を譲ってくれた男性がいても、わざわざ振り返るようなことはしなかったはずだ。
亮介は丁字路の先へ目を向けた。
そこにも、住宅街が続いていた。
◇
日曜日の午後だった。
秋の陽は明るかったが、道の片側にはすでに屋根の影が落ちていた。乾き始めたアスファルトから、前日の湿り気を含んだ土の匂いが立ち上っている。どこかの家で換気扇が回り、炒めた玉ねぎの甘い匂いが漂ってきた。
亮介は、さっきまで久世家の居間にいた。
古い防犯映像を見せてもらい、七月十六日の夕方、自分がこの道を通っていたことを知った。
久世の妻は、映像を外へ持ち出さず、必要以上に他人へ見せないでほしいと言っていた。
当然のことだった。
亮介も、それ以上のことを頼むつもりはなかった。
ただ、帰る前に現場を見ておきたかった。
あのカメラには、どこまで映っていたのか。
自分が通り過ぎた先には、何があったのか。
仕事で道路を確認するときと似た行動だったが、今日は図面も巻尺も持っていない。
亮介は丁字路を通り過ぎた。
数歩進むと、右手の塀が切れていた。
そこに、人が一人通れるくらいの細い道がある。
左右を住宅の壁に挟まれた、短い抜け道だった。
入口の手前には古い電柱があり、壁の角には小さな反射板がつけられている。
亮介は足を止めた。
この道は、久世家の前から見えただろうか。
振り返ってみる。
久世の家の屋根は見えた。
しかし軒下の防犯カメラは、塀と植木に隠れている。
少なくとも、この細い道の入口を正面から見通せる位置ではなかった。
亮介は少し戻った。
丁字路の端に立つ。
そこから細道を見ようとしたが、ブロック塀が重なって、入口の奥までは分からない。
一歩、先へ進む。
まだ見えない。
もう一歩進むと、ようやく右手に細い通路が現れた。
亮介は立ち止まった。
いま自分が歩いた数歩のあいだに、見える景色が変わった。
ただそれだけのことだった。
道は、最初からそこにあった。
誰かが隠していたわけではない。
角度の問題だった。
亮介は細道をのぞき込んだ。
奥には別の道路が見えている。
さらにその向こうには、白い壁の住宅と小さな公園のフェンスがあった。
綾音が通う学校の裏手へつながるあたりだろう。
亮介は少し考え、細道へ入ってみた。
◇
道幅は、大人二人が並ぶには少し狭かった。
壁の下には雨水の流れた跡が残り、ところどころに小石が集まっている。
途中の家では窓が開いていて、テレビの音が聞こえてきた。
亮介はゆっくり歩いた。
数歩進むと、道の向こうから一人の女性が現れた。
買い物袋を片手に提げている。
亮介は、壁の凹んだ場所へ少し身体を寄せた。
女性も肩を引き、二人は普通にすれ違った。
「すみません」
女性が言った。
「いえ」
亮介も答えた。
それだけだった。
女性は足を止めなかった。
亮介も止まらなかった。
通り抜けた先には、少し広い道路があった。
左へ進めば学校の裏手へ出られるようだった。
右には小さな児童公園が見え、緑色のブランコがフェンス越しに揺れている。
先週、綾音と歩いた公園だった。
亮介はフェンスを見つめた。
娘は、この辺りをよく知っている。
晴香という友達の家から帰るときにも通ると言っていた。
ブランコが新しくなったことも知っていた。
公園の桜が春になるときれいなことも。
亮介はそんな話を聞きながら、娘のあとを歩いた。
学校から本屋へ向かった土曜日のことだった。
あのとき、綾音は迷わず道を選んでいた。
自分には覚えのない曲がり角を、当たり前のように曲がった。
亮介は公園の入口へ近づいた。
今日は滑り台の近くに、親子連れが一組いた。
小さな女の子がしゃがみ込み、地面に落ちた木の実を集めている。
父親らしい男性は、その横で紙袋を広げていた。
「それも入れるの?」
男性が尋ねた。
「これはだめ。虫の穴があるから」
「よく分かるな」
「見れば分かるよ」
女の子はそう言って、木の実を一つ地面へ戻した。
亮介は通りから二人を眺めた。
父親が笑っている。
女の子は、次の木の実を探していた。
父親のほうが、娘に教えられている。
先週の自分たちにも、少し似ていた。
亮介はその横を通り過ぎた。
公園のフェンスが終わるところで、来た道を振り返った。
細道の入口が、塀のあいだから暗く見えている。
あそこを誰かが歩いてきたとしても、丁字路からはすぐに姿が見えない。
逆に、細道から出てきた人間なら、丁字路を通り過ぎた人の背中を見ることがあるだろう。
距離によっては、声も届く。
ただ、それは誰かが実際に歩いていた場合の話だった。
亮介は、公園の前に立ったまま考えた。
七月のあの時間。
細道には、誰かいたのだろうか。
久世の映像からは分からない。
日誌にも、ここを歩いた人のすべてが書かれているわけではなかった。
記録されていないからといって、誰もいなかったとは言えない。
その逆も、同じだった。
亮介はポケットからスマートフォンを取り出しかけた。
時刻を確かめようとして、やめた。
いま何時なのかを知っても、三か月前のこの場所に誰がいたかは分からない。
スマートフォンをしまい、もう一度細道を見た。
そのとき、向こうから自転車を押した少年が出てきた。
小学校高学年くらいだろうか。
少年は細道を抜けると自転車へまたがり、そのまま学校のほうへ走っていった。
亮介はその背中を見送った。
少年は、あの道を知っている。
きっと何度も通っている。
自分が知らなかった道を、普段の生活の一部として使っている人がいる。
そのことが、胸の奥へゆっくり沈んでいくようだった。
◇
駅へ向かう途中、亮介は何度か振り返った。
別に何かが追いかけてくるわけではない。
ただ、さっき見た細道が気になっていた。
自分が通り過ぎた場所。
映像には映らなかった場所。
久世が見ていた道路の、すぐ隣にあった場所。
そこにも人が歩いている。
その人たちは、それぞれの用事でどこかへ向かっている。
久世の記録は、あの道で起きた出来事の一部分にすぎなかった。
亮介は、そういう当たり前のことを今さら確かめていた。
駅に着く頃には、午後二時を過ぎていた。
電車へ乗る前に、亮介は小さな売店で飲み物を買った。
冷たいお茶だった。
蓋を開け、一口飲む。
喉の奥が冷えた。
久世の映像を見てから、あまり水を飲んでいなかったことに気づいた。
ホームには、家族連れや買い物帰りの人が何人かいた。
亮介は列の最後尾へ並んだ。
前の男性が鞄を持ち直す。
亮介はその動きを見た。
男性は立ち止まったまま、肩紐を直している。
亮介も、列の中で動かなかった。
電車を待っているのだから当然だった。
それなのに一瞬、七月の映像が重なった。
鞄の肩紐。
足を止める男性。
その横を歩いていく自分。
亮介は目を伏せた。
あの男性は、いまどうしているのだろう。
どこに住んでいるのかも分からない。
名前も知らない。
ただ一度、道ですれ違っただけだった。
それなのに、その人が肩紐を直した数秒間を、自分は何度も見直している。
もし本人が知ったら、何と言うだろう。
たぶん、困るだろう。
鞄がずれたから直しただけです。
それで終わる話だった。
亮介はホームの先を見た。
電車が近づいてくる。
風が吹き、上着の裾が揺れた。
亮介は列に合わせて一歩進んだ。
◇
午後四時。
亮介は自宅の食卓に座り、スマートフォンを耳へ当てた。
数回呼び出し音が鳴ってから、綾音が出た。
『パパ?』
「うん。約束の時間だろ」
『ちゃんと覚えてたんだ』
「当たり前だよ」
『この前もそう言ってた』
亮介は笑った。
「準備できてる?」
『うん。ちょっと待って。ページ開くから』
電話の向こうで紙をめくる音がした。
何枚か続けてめくり、一度止まる。
『あ、最初からだった』
「慌てなくていいよ」
『慌ててないし』
少し間が空いた。
それから綾音が言った。
『じゃあ、読むね』
「うん」
娘の声が始まった。
夜の海を進む小さな船の物語だった。
最初は少し速かった。
綾音もそれに気づいたらしく、途中から言葉を区切るようになった。
登場する動物が話すところでは声を変え、地の文へ戻るとまた元の声になる。
何度も練習したのだろう。
亮介は、思わず口元を緩めた。
やがて、船が暗い海の向こうに灯りを見つける場面へ差しかかった。
綾音の声が少し小さくなる。
次の文章を読む前に、ほんの一拍置いた。
亮介は、その間がいいと思った。
けれど、途中で口を挟まなかった。
最後まで聞きたかった。
娘は読み終えると、すぐに尋ねた。
『どう? 何分だった?』
亮介は時計を見た。
「五分二十秒くらいかな」
『ええ、まだ長い』
「でも、前より短くなったんじゃない?」
『うん。最初は六分以上だった』
「ずいぶん縮まったじゃないか」
『でも五分じゃないと駄目なんだよ』
綾音は少し不満そうだった。
亮介は笑った。
「もう少し練習したら届くんじゃないかな」
『そうかな』
「うん。それに、途中のところ、よかったよ」
『どこ?』
「船が灯りを見つけるところ。ちょっと間が空いただろ」
『あそこは、わざと』
「そうなの?」
『うん。聞いてる人が絵を見る時間がいるから』
亮介は頷いた。
相手には見えないのに、つい頷いてしまった。
「なるほど」
『先生にも言われたの。急いで読むだけじゃ駄目って』
「そうだね」
亮介は食卓の端へ目を向けた。
午後の光が、カーテンの隙間から床へ細く落ちている。
誰も歩いていない。
誰も道を譲らない。
ただ娘が本を読んでいる。
その声を聞くために、亮介はここへ座っている。
『パパ、聞いてる?』
「聞いてるよ」
『今、何か別のこと考えてたでしょ』
「いや、綾音がずいぶん上手になったなって」
『ほんと?』
「ほんと」
綾音が少し笑った。
『じゃあ、もう一回読もうかな』
「今から?」
『最初からじゃなくて、最後のところだけ』
「いいよ」
亮介は時計を伏せた。
時間を測る必要は、もうなかった。
◇
読み終えたあとも、綾音は電話を切らなかった。
学校のことを少し話し、昨日見たテレビの話をして、それから思い出したように言った。
『そういえばパパ、今日どこ行ってたの?』
「今日は、前に仕事で行った住宅街のほうへ」
『お仕事? 日曜日なのに』
「今日は仕事じゃないよ。ちょっと用事があって」
『ふうん』
亮介は少し考えた。
「綾音がこの前教えてくれた公園の近くも通ったよ」
『学校の裏の?』
「そう。ブランコが緑色になったところ」
『ああ、あそこね』
「前は青だったんだろ」
『そうだよ。パパ、覚えたんだ』
「教えてもらったからね」
綾音は少し笑った。
『あそこ、晴香の家から帰るときに通るんだよ』
「そう言ってたね」
『うん。細い道あるでしょ。塀のあいだの』
亮介は背筋を伸ばした。
「あるね」
『あそこ抜けると早いんだよ。車も来ないし』
亮介は、昼間見た細道を思い出した。
久世のカメラからは見えない場所。
丁字路を通り過ぎた先にある、狭い抜け道。
「綾音は、あの道をよく使うの?」
『うん。晴香の家に行ったときとか』
「そうか」
『パパも通った?』
「今日、初めてちゃんと歩いたよ」
『え、初めて?』
「仕事で近くを通ることはあったけどね」
綾音は少し黙った。
紙をめくる音が聞こえる。
『そっか』
それから、何でもない声で言った。
『パパ、あのへん仕事でも歩くんだね』
「うん。たまにね」
『そうなんだ』
亮介は娘の返事を聞いていた。
何か言いかけたようにも聞こえたが、すぐに恵子の声がして、綾音がそちらへ返事をした。
『あ、ごはんだって』
「じゃあ、そろそろ切ろうか」
『うん。今日はありがとう』
「こちらこそ。朗読、よかったよ」
『また練習するね』
「楽しみにしてる」
電話が切れた。
亮介はスマートフォンを食卓へ置いた。
窓の外では、夕方の光が少しずつ薄くなっていた。
細い道。
学校の裏の公園。
晴香という友達の家。
綾音にとっては、普段から使っている道だった。
自分が何も知らなかっただけで。
亮介は、久世の映像に映っていた丁字路を思い出した。
あのとき、自分は通り過ぎた。
横道を見ることもなく。
角を曲がった先に何があるのか、考えもしなかった。
その場所は、今も変わらずそこにある。
綾音も知っている。
久世も見ていた。
自分だけが、何も考えずに通り過ぎていた。
亮介は食卓の上のスマートフォンを見つめた。
あの道を、娘がいつから通っていたのか。
今度、聞いてみようと思った。
ただし、それは道路の調査ではない。
娘が毎日どこを歩き、何を見ているのか。
そういうことを、もう少し知りたかった。




