第25話 見えていた背中
七月十六日。
その日付を見つけたのは、月曜日の昼休みだった。
瀬戸亮介は市役所の休憩スペースで、三か月前のメッセージを読み返していた。
画面には、恵子との短いやり取りが並んでいる。
学校の提出物。
綾音の体調。
週末の予定。
離婚してからも、娘に関する連絡は続いていた。
長い文章は少ない。
必要なことを伝え、返事をする。
時折、綾音の写真が送られてくることもあったが、最近は本人が嫌がるようになったのか、その数も減っていた。
亮介は画面をゆっくり動かした。
七月十六日、午後四時三十一分。
恵子からのメッセージがあった。
『今日は綾音、晴香ちゃんの家に寄ってから帰るそうです。五時を少し過ぎるかも』
亮介は指を止めた。
その下には、自分の短い返事が残っている。
『了解』
送信時刻は、午後四時四十六分。
さらに下には、午後五時二十四分のメッセージがあった。
『綾音、帰ってきました』
亮介は画面を見つめた。
同じ日だった。
久世治が保存していた映像に、自分の姿が残っていた日。
午後五時六分、濃紺の作業服を着て丁字路を歩いていた。
綾音はその頃、晴香の家から帰る途中だった可能性がある。
しかも晴香の家は、学校の裏手の公園に近い。
亮介は椅子の背から身体を起こした。
休憩スペースの窓の向こうには、午後の薄い日差しが広がっていた。朝の雨で濡れた植え込みから土の匂いが立ち上り、少し開いた窓の隙間から冷たい風が入ってくる。廊下では職員が台車を押しており、車輪が床の継ぎ目を越えるたび、短く硬い音が響いていた。
亮介はもう一度、画面を確認した。
七月十六日。
間違いない。
ただし、綾音がどの道を通ったのかは書かれていなかった。
晴香の家を何時に出たのかも分からない。
午後五時二十四分に帰宅したということは、その前のどこかで歩いていたはずだが、それだけで丁字路にいたとは言えない。
亮介はスマートフォンを握ったまま、少し考えた。
昨日、綾音は細い道のことを話していた。
晴香の家から帰るときに使う。
車が入ってこないから歩きやすい。
娘にとっては、何度も通ったことのある道だった。
自分が通り過ぎたあの丁字路の先を、娘が歩いていたかもしれない。
亮介は立ち上がりかけた。
しかし、どこへ行こうとしていたのか分からず、また椅子へ座った。
いま道路へ行っても仕方がない。
三か月前の娘が、そこにいるわけではない。
画面を閉じる。
少し間を置いて、また開いた。
七月十六日。
文字は変わっていなかった。
◇
午後の仕事は、普段どおりに進んだ。
道路台帳の修正。
施工業者から届いた写真の確認。
高野が担当している工事について、問い合わせが一件入った。
亮介は電話を取り、必要な説明をした。
相手は納得し、追加の資料を送ることになった。
何も難しいことはなかった。
電話を切ると、高野が机の横へ来た。
「瀬戸さん、ありがとうございました」
「うん。写真が届いたら、こっちでも確認するよ」
「お願いします」
高野は頷き、自分の席へ戻っていった。
亮介は、机の端に置いたスマートフォンを見た。
画面は暗い。
触れば、さっきのメッセージが出てくる。
七月十六日。
午後五時二十四分。
綾音、帰宅。
文字が頭から離れなかった。
いま何をしても、昔の時刻を変えることはできない。
それなのに、もう一度確認したくなる。
亮介は椅子を引き、書類へ視線を戻した。
次の現場の図面を開く。
赤い線を引く。
補修範囲を確認する。
普段なら迷わない作業だった。
ところが、数字を一つ入力したところで手が止まった。
十七時六分。
あの時間が浮かんだ。
亮介は画面を閉じた。
席を立ち、給湯室へ向かった。
廊下には数人の職員がいた。
向こうから来た男性が、書類を抱え直すために少し足を緩めた。
亮介はその横を通り過ぎた。
いつもなら気になる動きだった。
しかし今日は、ほとんど目に入らなかった。
考えていることが、別にあったからだ。
◇
午後五時半。
亮介は仕事を終え、庁舎の外へ出た。
空はすでに暗くなり始めている。
街灯の下には細かな落ち葉が集まり、風が吹くたびに乾いた音を立てた。近くの飲食店から焼いた肉の匂いが漂い、駅へ向かう人々の靴音が道路に重なっている。
亮介は庁舎の階段を下りた。
以前なら、向こうから来る人の動きを気にして、何度も足を止めていた場所だった。
今日は、少し違った。
誰かが近づいてきても、必要なら身体を寄せる。
通れる場所があれば、そのまま進む。
頭の中では、あの細い道のことを考えていた。
綾音が歩いていたかもしれない道。
七月の夕方。
自分が通り過ぎた丁字路。
亮介は駅へ向かって歩いた。
途中、スマートフォンを取り出した。
恵子へ電話をかけようと思ったが、少し迷った。
何と聞けばいいのだろう。
七月十六日、綾音はどこを歩いていた?
そんなことを尋ねれば、不審に思われるに決まっている。
しかも、相手が覚えているとは限らない。
恵子も仕事をし、家事をし、娘の世話をしている。
三か月前のある夕方について、細かく覚えている理由などない。
亮介は電話をかけず、メッセージを送った。
『七月十六日のことなんだけど、綾音は晴香ちゃんの家に寄ってたんだよね』
送信したあと、スマートフォンをしまった。
駅までの道を歩く。
向こうから来た女性が、鞄の持ち手を直すために道の端へ寄った。
亮介はその横を通り過ぎた。
女性はすぐに歩き出した。
その動きを見ても、何も分からなかった。
いま自分が何を知りたいのかだけが、妙にはっきりしていた。
◇
恵子から返事が届いたのは、駅のホームへ着いてからだった。
『そうだと思うけど、どうしたの?』
亮介は少し考えてから返信した。
『昨日、あの辺りを通ったんだ。綾音が前に道のことを聞いてきたのが気になって』
しばらくして、電話が鳴った。
恵子だった。
「もしもし」
『亮介?』
「うん」
『何かあったの?』
恵子の声は落ち着いていたが、いつもより少し低かった。
「いや、何かあったわけじゃないんだけど」
『じゃあ、どうしてそんな前の日のことを聞くの』
亮介はホームの端へ寄った。
周囲では帰宅する人々が電車を待っている。
発車案内の電子音が鳴り、遠くから別のホームへ入る電車の音が聞こえてきた。
「仕事で、前にあの辺りを通った記録があって」
『うん』
「その日、綾音も近くにいたのかなと思って」
恵子は少し黙った。
『そういうこと?』
「そう」
『でも、もう三か月も前でしょう』
「うん」
『どの道を通ったかまでは、私も分からないよ』
「そうだよね」
亮介は頷いた。
電話の向こうには見えない。
それでも、自然に頷いていた。
『晴香ちゃんの家に行ったのは覚えてるけど、帰りは綾音一人だったと思う』
「一人で?」
『うん。晴香ちゃんのお母さんから、そろそろ帰しますって連絡があったから』
亮介はホームの床を見た。
黄色い点字ブロックが、足元の少し先へ続いている。
「何時頃だったか、覚えてる?」
『そこまでは覚えてないな。帰ってきたときは、もう五時過ぎてたと思うけど』
「そうか」
亮介は息を吐いた。
時刻は分からない。
場所も分からない。
ただ、娘がその日に晴香の家から帰ってきたことだけは確からしかった。
『亮介』
「うん」
『この前、歩くことが怖くなったって話してたでしょう』
亮介は顔を上げた。
『それと関係あるの?』
「少し」
恵子は黙っていた。
亮介は言葉を探した。
「昔、自分がどこを歩いてたのか気になって」
『そう』
「その日に、綾音も近くにいたのかなと思っただけなんだ」
電話の向こうで、食器の触れ合う音がした。
恵子は夕食の支度をしているのだろう。
『綾音に聞けば覚えてるかもしれないけど』
「うん」
『でも、何か困ってるなら、昔のことを調べるより今のことを考えたほうがいいんじゃない?』
亮介は何も言えなかった。
恵子は続けた。
『この前、歩くのが怖くて迎えに行けなかったって話してくれたでしょう。私はそっちのほうが気になってる』
「分かってる」
『ならいいんだけど』
少し間が空いた。
恵子の声が、やや柔らかくなった。
『綾音は元気だよ。今は読み聞かせのことで頭がいっぱいみたい』
亮介は小さく笑った。
「昨日、電話で聞かせてもらった」
『うん。嬉しそうに話してた』
「そうか」
『また聞いてあげてね』
「もちろん」
電話が切れた。
亮介はスマートフォンをしまった。
ホームへ電車が入ってくる。
風が吹き、コートの裾が揺れた。
亮介は列へ戻った。
古い記録を確かめたい。
娘がどこを歩いていたのか知りたい。
それは本当だった。
けれど恵子が言ったことも、間違っていなかった。
今の綾音は、読み聞かせのことで頭がいっぱいなのだ。
三か月前の道ではなく、目の前の絵本を見ている。
亮介は電車へ乗った。
窓の外に、駅の明かりが流れていった。
◇
帰宅後、亮介は簡単な夕食を済ませた。
食卓には、買ってきた弁当の容器が残っている。
冷蔵庫のモーターが低く唸り、窓の外からは、誰かが歩いている足音が聞こえていた。
亮介はスマートフォンを取り出した。
綾音に連絡するかどうか、しばらく迷った。
恵子が言うように、いまさら昔のことを聞いても仕方がないかもしれない。
けれど、昨日の電話で娘は話していた。
学校の裏の細い道。
晴香の家から帰るときによく通る道。
そのことを知っているのは、綾音自身だった。
亮介は短いメッセージを送った。
『綾音、今少し電話できる?』
数分後、返事が来た。
『いいよ。どうしたの?』
亮介は電話をかけた。
すぐに綾音が出た。
『パパ?』
「うん。急にごめん」
『大丈夫だよ』
電話の向こうから、ページをめくる音が聞こえた。
「本、読んでた?」
『うん。ちょっとだけ』
「練習、進んだ?」
『昨日より少し速く読めたよ』
「そうか。よかったな」
『でもね、急ぎすぎってママに言われた』
綾音は少し不満そうだった。
亮介は笑った。
「時間を短くするのも難しいね」
『そうなんだよ』
娘はしばらく、絵本の話をした。
どこで声を変えるか。
どの場面で間を置くか。
一年生がちゃんと聞いてくれるか。
亮介は相槌を打ちながら聞いていた。
やがて話が途切れたところで、少し迷ってから切り出した。
「そういえば、前に学校の裏の公園のこと、聞いてきたよね」
『うん』
「パパがあの辺りを歩くのかって」
『聞いたね』
「どうして、あんなこと聞いたの?」
電話の向こうで、綾音が少し黙った。
紙を閉じる音がした。
『えっとね』
亮介は待った。
急かさなかった。
娘は何かを思い出しているらしい。
『前に、パパに似た人が歩いてるの見たことあったから』
亮介は顔を上げた。
「俺に似た人?」
『うん』
「いつ頃?」
『夏だったと思う』
亮介は食卓の端を指で押さえた。
「夏?」
『うん。晴香の家から帰るとき』
部屋の中で、冷蔵庫の音が大きくなった。
亮介はスマートフォンを持ち直した。
「どの辺りで?」
『公園の近く。細い道あるじゃん』
「塀のあいだの?」
『そう。あそこ出たところ』
亮介は口を開きかけた。
しかし、声が出なかった。
昼間、自分が立っていた場所だった。
久世のカメラからは見えない細道。
丁字路を通り過ぎた先にある、短い抜け道。
あそこから、綾音は出てきたのだろうか。
「それで?」
ようやく尋ねた。
『それでって?』
「その人、どうしてパパに似てると思ったの?」
綾音は少し考えた。
『服が同じだったから』
「服?」
『パパが仕事で着てるやつ。紺色の』
亮介は自分の上着を見た。
今日はもう作業服を脱いでいる。
それでも、あの服の色は思い浮かべられた。
『あと、鞄も似てた』
「鞄も?」
『うん。黒いやつ。パパ、いつも左に掛けてるでしょ』
亮介は、玄関のほうを見た。
仕事用の黒い鞄が、いつもの場所に置いてある。
細い灰色の線が入った、肩掛けの鞄だった。
「その人、どっちへ歩いてた?」
『駅のほう』
「駅のほう?」
『うん。わたしから見たら、向こうへ歩いてた』
亮介は息を吸った。
娘は続けた。
『最初は、パパかなって思ったんだけど』
声が少し小さくなった。
『後ろ姿だったから、よく分かんなくて』
亮介は、久世の映像を思い出した。
濃紺の作業服。
左肩に掛けた鞄。
足を止めずに丁字路を通り過ぎる男。
その先に、細い道がある。
もし、あのとき綾音がそこから出てきていたなら。
亮介は目を閉じた。
ただし、まだ同じ日だとは分からない。
綾音は夏と言っただけだった。
晴香の家へは何度も行っていた。
別の日に見た、似た服の男性だった可能性もある。
それでも、胸の奥で何かが強く押し上げられるようだった。
「綾音」
『なに?』
「その人、パパだったと思う?」
電話の向こうで、娘が少し黙った。
それから、ゆっくり答えた。
『たぶん』
「たぶん?」
『うん。歩き方も似てたし』
亮介は何も言えなかった。
『それにね』
綾音が続けた。
『そのあと、角を曲がるところまで見てたんだ』
亮介は顔を上げた。
丁字路の先には、もう一つ角がある。
久世の映像には、その先まで映っていない。
自分がどこへ歩いていったのかは、映像からは分からなかった。
しかし、駅へ向かうなら、次の角を曲がるのが自然だった。
『パパ、いつもああいう感じで歩くでしょ』
綾音が言った。
「どういう感じ?」
『何か考えながら、まっすぐ歩いてく感じ』
亮介は口元を動かした。
笑おうとしたのかもしれない。
けれど、うまく笑えなかった。
「そうかな」
『そうだよ』
娘は普通の声だった。
特別なことを話しているつもりはないらしい。
ただ、以前見かけた父親のことを思い出している。
亮介は、しばらく黙っていた。
『パパ?』
「ああ、ごめん」
『どうしたの?』
「いや、ちょっと思い出してた」
『何を?』
亮介は答えに迷った。
三か月前の自分が、あの道を通ったこと。
鞄を直した男性の横を通り過ぎたこと。
その先の細道から、娘が出てきたかもしれないこと。
どれも、綾音にはまだ話していない。
話したところで、何を分かってもらいたいのだろう。
亮介は息を吐いた。
「そのとき、綾音はパパに気づいてたんだね」
『うん。たぶんパパだと思った』
「そうか」
『でも、パパは気づいてなかったよね』
亮介は答えられなかった。
気づいていなかった。
それだけは確かだった。
あの頃、娘を見かけた記憶はない。
誰かが自分の背中を見ていたことも、知らなかった。
「うん」
ようやく答えた。
「気づいてなかったと思う」
綾音は少し黙った。
電話の向こうで、誰かが食器を置く音がした。
恵子だろうか。
『そっか』
娘はそれだけ言った。
亮介は、言葉を探した。
あのとき声をかけたのか。
どうして自分を呼ばなかったのか。
聞きたいことはいくつもあった。
けれど、次の言葉をすぐに出すことができなかった。
綾音は何も悪くない。
仮に父親だと分かったとしても、声をかけなければならない理由はない。
自分だって、娘が近くにいることに気づかなかったのだ。
亮介は食卓の上へ視線を落とした。
弁当の容器が残っている。
割り箸が一本、少しずれた位置に置かれていた。
片づけようと思いながら、まだそのままにしてある。
『パパ、まだ聞いてる?』
娘の声がした。
「聞いてるよ」
『なんか今日、静かだね』
「そうかな」
『うん』
亮介は小さく笑った。
「綾音の話、ちゃんと聞こうと思って」
『ふうん』
娘は少し照れたように笑った。
『じゃあ、また本の練習したら聞いてね』
「うん。もちろん」
『今度は五分切れるようにする』
「楽しみにしてるよ」
電話が切れた。
亮介はスマートフォンを食卓へ置いた。
部屋の中が静かになった。
窓の外では、誰かが歩いている。
足音が近づき、家の前を通り過ぎていく。
亮介は、その音を聞いていた。
◇
しばらくして、亮介は玄関へ向かった。
黒い鞄が置いてある。
左肩に掛ける、いつもの仕事用の鞄だった。
亮介はそれを持ち上げた。
肩紐を左肩へ掛ける。
鞄の底が、身体の横へ触れた。
鏡を見る。
そこには、普段どおりの自分が映っていた。
濃紺の作業服ではない。
今日は普段着だった。
それでも、鞄の位置は同じだった。
亮介は鏡の前で背中を向けた。
少しだけ首をひねり、背後の鏡へ視線を送る。
自分の背中が見えた。
鞄の肩紐が左肩から斜めに伸びている。
何度も見たことのある姿だった。
綾音は、この背中を見ていたのだろうか。
三か月前の夕方。
あの細い道から出てきたとき。
数歩先を歩く父親の背中を。
亮介は鏡から目を離した。
肩紐を外す。
鞄を元の場所へ置いた。
久世の映像には、自分が通り過ぎるところまでしか映っていない。
娘の姿は残っていない。
綾音の記憶も、日付まで正確とは限らない。
すべてが同じ日の出来事だったとは、まだ言えなかった。
しかし、娘は自分に似た男を見ていた。
その男は、あの道を歩いていた。
娘のほうを振り返らずに。
亮介は玄関の照明を消した。
廊下が暗くなる。
居間の明かりだけが、床の上へ細く伸びていた。
娘は、自分の後ろ姿を覚えていた。
自分は、娘がそこにいたかもしれないことさえ知らなかった。
その違いが、どうしても頭から離れなかった。




