第26話 呼ばなかった
「パパ!」
少女の声に、瀬戸亮介は振り返った。
声は道路の向こうから聞こえた。
赤いランドセルを背負った女の子が、片手を大きく振っている。もう片方の手には黄色い傘を持っていた。
亮介は一瞬、その子が自分を呼んでいるのかと思った。
しかし、少女の視線はもっと先へ向いていた。
道路の反対側を歩いていた男性が足を止める。
「おう、どうした」
男性は笑いながら振り返った。
少女は駆け寄ろうとしたが、横断歩道の信号が赤だったため、手前で止まった。
「今日、早かったんだね!」
「たまたまな。そこで待ってろよ」
「分かってる!」
少女は傘を持った手を下ろし、信号が変わるのを待った。
男性も道路の向こうで立っている。
そのあいだ、二人は何かを話していた。
車が通るたびに声が聞こえなくなるのか、少女は何度か大きな声で聞き返した。
亮介は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
火曜日の午後五時十七分。
市役所から駅へ向かう通りには、学校帰りの子どもや買い物客の姿があった。
空は薄い雲に覆われ、屋根の向こうに残った夕陽が建物の窓を鈍く照らしている。朝方まで降っていた雨のせいか、道路脇の植え込みにはまだ湿り気が残り、風が吹くたびに濡れた土と枯れ葉の匂いが混ざった。近くの惣菜店からは揚げ油の匂いが漂い、店員が金属製のトレーを重ねる音が聞こえていた。
信号が青になる。
少女は横断歩道を渡り始めた。
男性は、その場で待っている。
少女は途中から少し歩幅を広げたが、走ることはしなかった。
渡り終えると、男性の上着の袖を掴んだ。
「帰り、一緒に帰ろ」
「そのつもりで待ってたんだけどな」
「じゃあ、なんで先に歩いてたの」
「お前がもう少し遅いと思ったんだよ」
少女が笑った。
男性も笑った。
二人は並んで歩き始めた。
少女は何かを話しながら、何度も父親の顔を見上げていた。
亮介は、その背中が角を曲がるまで見送った。
少女が父親を呼んだ。
父親は振り返った。
そして二人は、一緒に帰っていった。
何でもない光景だった。
それなのに亮介は、少女の最初の声が耳から離れなかった。
パパ。
たった二文字だった。
あの子が呼ばなければ、父親はそのまま歩き続けていたかもしれない。
父親が先に気づいて、振り返ったかもしれない。
どちらだったかは分からない。
ただ、さっきの二人は互いに気づいた。
だから、同じ道を歩いていった。
亮介は鞄を持ち直した。
昨日、綾音から聞いた話を思い出す。
夏の夕方。
晴香の家から帰る途中、父親に似た男の後ろ姿を見た。
濃紺の作業服。
黒い肩掛け鞄。
駅へ向かって歩く背中。
綾音は、その男が角を曲がるところまで見ていた。
しかし亮介には、娘を見かけた記憶がない。
声をかけられた記憶もなかった。
それなら、綾音はあのとき何をしていたのだろう。
亮介は歩き出した。
向こうから若い男性が近づいてくる。
男性は亮介の少し手前で足を緩め、肩に掛けた鞄の位置を直した。
亮介はその横を通り過ぎた。
男性はまた歩き始める。
いつものことだった。
今日は、その動きを確かめるために振り返ろうとは思わなかった。
◇
帰宅したのは午後六時半を少し過ぎた頃だった。
亮介は玄関の照明を点け、靴を脱いだ。
黒い仕事用の鞄を、いつもの場所へ置く。
肩紐が床へ落ち、小さな音を立てた。
亮介はその鞄を見つめた。
綾音は、後ろ姿で父親を見分けられるのだろうか。
親子なのだから、不思議ではない。
顔が見えなくても、歩き方や服装で家族だと分かることはある。
しかし、娘はたぶんと言っていた。
絶対に父親だったとは言わなかった。
それも当然だった。
後ろ姿だけで、三か月も前の出来事なのだから。
亮介は鞄の肩紐を持ち上げ、金具がねじれていないことを確かめた。
何も問題はなかった。
直す必要もない。
それなのに、何となく手を離しにくかった。
やがて鞄を置き直し、居間へ向かった。
窓を開けると、冷たい空気が流れ込んできた。
隣家の換気扇が低い音を立て、遠くでは自動車が砂利を踏んでいる。住宅街の街灯が一つずつ点き始め、細い道路の上に白い光が落ちていた。
亮介は食卓へ座り、スマートフォンを取り出した。
昨日の綾音との通話は、十分ほどだった。
最初は絵本の練習について話していた。
そのあと、学校の裏の細い道の話になった。
綾音は、父親に似た人を見たと言った。
亮介が詳しく聞いた。
娘は思い出せる範囲で答えてくれた。
ただ、肝心なことを聞いていなかった。
なぜ、呼ばなかったのか。
亮介は画面を見つめた。
聞いてどうするのだろう。
娘が知らない人かもしれないと思ったからだと言えば、それで終わる。
遠かったからと言われても、どうすることもできない。
呼ぼうとしたら角を曲がってしまったのだとしても、今さら何も変えられない。
それでも気になった。
綾音はあのとき、自分の背中を見ながら何を考えていたのだろう。
亮介はメッセージの入力欄を開いた。
『昨日の話、もう少し聞いてもいい?』
そこまで打って、指を止めた。
昨日も同じ話をした。
娘には、読み聞かせの練習という大事なことがある。
その時間をまた自分のために使わせるのか。
亮介は文章を消しかけた。
しかし、画面から指を離すことができなかった。
知らないままでいれば、あの背中のことをいつまでも考え続けるだろう。
そう思った。
亮介は文章を少し変えた。
『この前見かけたっていう人のこと、もう少し聞いてもいい? 忙しかったらまた今度で大丈夫』
送信する。
画面が暗くなる。
亮介はスマートフォンを食卓へ置いた。
それから夕食の準備を始めた。
冷蔵庫を開け、昨日買った総菜を取り出す。
電子レンジへ入れる。
温める時間を設定する。
回転皿が動き始めたところで、スマートフォンが震えた。
綾音からだった。
『いいよ。でもあんまり覚えてないかも』
亮介は画面を見た。
続けて、もう一通届いた。
『ごはん食べたあとなら話せる』
亮介は少しだけ肩の力を抜いた。
『ありがとう。じゃあ、あとで』
返信してから、電子レンジへ向き直った。
総菜はまだ温まっていなかった。
回転皿の上を、同じ容器がゆっくり回っている。
亮介はその動きを見ながら、綾音が話してくれることを考えた。
何か新しいことが分かるかもしれない。
しかし、それより先に、娘があのとき何を思ったのかをきちんと聞こう。
そう決めた。
昨日のように、時刻や場所ばかり尋ねるのではなく。
あのときの娘の話を。
◇
午後七時四十八分。
綾音から電話がかかってきた。
「もしもし」
『パパ?』
「うん」
『ごはん終わったよ』
「ありがとう。急に聞いてごめんね」
『いいよ』
電話の向こうで、綾音が椅子を動かす音がした。
少しして、紙をめくる音が聞こえる。
「今、本読んでた?」
『うん。ちょっとだけ』
「練習の途中なら、あとでもいいよ」
『大丈夫。休憩してたから』
亮介は食卓の椅子へ座った。
目の前には、食べ終えた夕食の皿が残っている。
片づけようとして、手が止まった。
今は、娘の話を聞こう。
「昨日のことなんだけど」
『うん』
「夏に、パパに似た人を見たって話」
『ああ、あれね』
「そのとき、声をかけたりはしなかったの?」
電話の向こうで、綾音が少し黙った。
亮介は待った。
時計の秒針が、静かな部屋で小さな音を立てている。
『呼ばなかったよ』
やがて娘が答えた。
「そうなんだ」
『うん』
「どうして?」
聞いた直後、亮介は少し後悔した。
どうして。
理由を尋ねられても、綾音は困るかもしれない。
大人でも、数か月前に何を考えていたか正確には覚えていない。
それなのに、娘に説明を求めている。
亮介は言葉を足そうとした。
しかし、その前に綾音が口を開いた。
『だって、パパかどうか分かんなかったし』
「うん」
『それに、会う日じゃなかったから』
亮介は顔を上げた。
「会う日?」
『うん』
綾音は当たり前のことのように答えた。
『パパと会うのって、いつも約束してからでしょ』
亮介は黙った。
離婚してから、綾音と会う日には事前に連絡を取っていた。
恵子と予定を合わせ、時間と場所を決める。
学校の行事へ行くときも、休日に買い物をするときも、そうしていた。
娘が急に訪ねてくることは、ほとんどない。
自分も、約束のない日に娘を訪ねることはなかった。
それが今の暮らし方だった。
「そうだね」
亮介は答えた。
『だから、違う人だったら恥ずかしいし』
綾音は少し笑った。
『知らないおじさんにパパって言ったら、変じゃん』
亮介も笑おうとした。
しかし、思ったほど声が出なかった。
「確かにね」
『うん』
電話の向こうで、娘が何かを机へ置く音がした。
『でも、ちょっと呼ぼうかなとは思ったよ』
亮介は息を止めかけた。
「そうなの?」
『うん』
「いつ?」
『いつって?』
「その人を見たとき?」
『そう。パパかなって思ったから』
亮介は目を閉じた。
細い道から出てくる綾音。
少し先を歩く男。
濃紺の作業服。
黒い鞄。
男は振り返らない。
娘はその背中を見ている。
亮介は、何度も見た映像の続きを思い浮かべようとした。
しかし、あの映像には綾音が映っていない。
その先の角も、はっきり見えない。
どれほど考えても、映っていないものを確かめることはできなかった。
『パパ?』
「ああ、ごめん。聞いてるよ」
『どうしたの?』
「いや。続けて」
綾音は少し考えた。
『呼ぼうかなって思ったんだけど、その人、どんどん歩いてっちゃって』
「うん」
『追いかけるほどでもないかなって』
亮介は食卓の端を指で押さえた。
娘の声は落ち着いていた。
何か大きな出来事を思い出しているというより、以前見かけた人の話をしているだけのようだった。
『それで、角を曲がっちゃったから』
「そうか」
『うん』
亮介は頷いた。
通り過ぎた男が誰だったのか、綾音には最後まで分からなかったのだろう。
それでも、あの背中を覚えていた。
父親に似ていたから。
呼ぼうかどうか迷ったから。
それとも、もう少し別の理由があったのか。
亮介は、すぐには尋ねられなかった。
電話の向こうで、綾音が椅子を小さく揺らしているらしい。
脚が床へ触れる音がした。
『ねえ、パパ』
「うん」
『あれ、ほんとにパパだったの?』
亮介は口を開いた。
しかし、言葉が出てこなかった。
久世の映像には、自分があの丁字路を歩いたことが残っている。
七月十六日。
午後五時六分。
その先で角を曲がった可能性は高い。
綾音も、夏の夕方に似た男を見たと言っている。
けれど、二人が同じ日にあの場所へいたと断定できるわけではなかった。
「たぶん、そうかもしれない」
亮介は答えた。
『たぶん?』
「うん。パパも夏にあの道を歩いてたから」
『そうなんだ』
「でも、綾音を見かけた覚えはないんだ」
『そっか』
綾音はそれ以上、尋ねなかった。
亮介は少し迷った。
もし同じ日だったのなら。
自分が数秒遅く歩いていたら。
あの男性が鞄を直さずに歩き続けていたら。
綾音が声をかける前に、角を曲がらずに済んだだろうか。
頭の中で、何度も同じ考えが浮かんだ。
けれど、娘にはその話をしなかった。
綾音は、そんなことを知る必要がない。
ただ父親に似た男を見かけた。
呼ぶかどうか迷った。
呼ばなかった。
そのことに、何か責任があるわけではない。
「綾音」
『なに?』
「もし今度、どこかでパパを見かけたら」
亮介は少し間を置いた。
「呼んでくれていいからね」
綾音が笑った。
『そりゃ呼ぶよ』
「そう?」
『だって、今度は間違えないようにちゃんと見るもん』
亮介は少しだけ笑った。
「そうだね」
『でも、パパも見つけてよ』
その言葉に、亮介の指が止まった。
娘は続けた。
『わたしばっかり見つけるの、ずるいじゃん』
冗談めいた声だった。
亮介も笑った。
「分かった。ちゃんと探すよ」
『約束ね』
「うん。約束」
綾音はそれで納得したらしい。
少し間を置いて、別の話を始めた。
『そういえばね、今日の練習で』
亮介は、すぐに相槌を打った。
「うん」
『船が灯りを見つけるところ、先生がもうちょっとゆっくりでいいって』
「そうなんだ」
『でも、ゆっくり読むと五分超えちゃうんだよ』
亮介は笑った。
「難しいな」
『でしょ』
綾音は、そこからしばらく絵本の話をした。
亮介は聞いていた。
途中で、あの丁字路のことを考えかけた。
しかし娘が声を変えて一節を読んでみせると、自然にそちらへ意識が戻った。
上手くなったところを褒める。
もう少し練習したいという娘へ、無理しすぎないようにと言う。
そんなやり取りが続いた。
やがて恵子の声がして、綾音が電話を切る時間になった。
『じゃあね、パパ』
「うん。またね」
『今度会うときは、ちゃんと見つけてよ』
綾音は笑っていた。
「分かったよ」
『絶対ね』
「うん」
電話が切れた。
亮介はスマートフォンを食卓へ置いた。
そのまま、しばらく動かなかった。
◇
食卓に残っていた皿を片づけた。
冷たくなった箸を流しへ運び、水を出す。
蛇口から落ちる水が、皿の表面で跳ねた。
亮介は洗剤をつけたスポンジで皿を擦った。
油の残った部分を何度か洗う。
水で流す。
皿を立てかける。
普段なら何も考えずに終わる作業だった。
けれど、手を動かしているあいだも、綾音の言葉が頭の中に残っていた。
『会う日じゃなかったから』
亮介は水を止めた。
離婚してから、娘と会う日は決められていた。
日曜日の午後。
学校の行事がある日。
誕生日が近い週末。
そういうときには、前もって恵子と連絡を取り、時間を決めていた。
会う約束をすれば、綾音はいつも楽しそうにしてくれた。
土曜日もそうだった。
発表を見に行き、本屋へ寄った。
絵本を選ぶのに長い時間がかかり、帰り道では猫の名前について笑った。
あんな時間が、もっとあればいいと思った。
しかし、約束のない日に娘と顔を合わせることを、これまでどれほど考えただろう。
学校の近くを通ったとき。
公園の前を歩いたとき。
街で子どもたちの集団を見かけたとき。
その中に綾音がいるかもしれないと、立ち止まって探したことがあっただろうか。
亮介は濡れた手をタオルで拭いた。
自分から娘へ連絡することはある。
誕生日には必ず電話をしているし、学校の行事にも行くようにしている。
けれど、その多くは日程が決まってからだった。
何日、何時。
どこで会うか。
何をするか。
仕事の予定を組むように、親子で会う日を決めていた。
それが悪いことだとは思っていなかった。
実際、離れて暮らす以上、予定を合わせなければ難しいこともある。
恵子の都合もあるし、綾音にも自分の生活がある。
ただ、娘はあのとき、父親らしい男を見つけてもすぐには呼ばなかった。
会う日ではなかったから。
その言葉を、亮介はうまく受け止められなかった。
もし相手が本当に父親だったとしても、声をかけるべきか迷う。
間違えたら恥ずかしい。
追いかけるほどでもない。
そんなことを考えているうちに、男は角を曲がってしまった。
亮介は窓際へ移動した。
街灯の下を、一人の女性が歩いている。
手には買い物袋を持っていた。
女性は家の前で足を止め、鞄から鍵を取り出した。
門扉を開け、家の中へ入っていく。
何でもない帰宅の光景だった。
亮介はその動きを見ていた。
誰も、女性の行く手を塞いでいない。
どの道を歩いてきたのかも分からない。
ただ、家へ帰ってきた。
それだけだった。
◇
亮介は冷蔵庫の横に掛けた小さなカレンダーを見た。
綾音と会う予定には、青いペンで丸がつけてある。
土曜日の発表。
そのあとの本屋。
少し前には、夏休みに一緒に出かけた日も記されていた。
亮介は七月のページをめくった。
十六日。
何の印もなかった。
普通の平日だった。
その日の仕事については覚えていなかったが、久世の映像で、自分が午後五時六分に住宅街を歩いていたことを知った。
綾音も、その頃あの辺りを歩いていたかもしれない。
ただし、同じ日だったかどうかは分からない。
もし同じ日だったとしても、数秒違っていれば会えたとは限らない。
綾音は声をかけるか迷っていた。
自分は何も知らずに歩いていた。
そこまでは、分かっている。
その先は、確かめようがなかった。
亮介はカレンダーから手を離した。
七月十六日の隣には、十七日がある。
その次には十八日。
どちらにも、特別な印はついていなかった。
その日、娘が何をしていたのか。
自分がどの道を歩いていたのか。
今となっては、思い出せないことのほうが多かった。
亮介は現在の月へ戻した。
次に綾音と会う予定は、まだ決めていない。
電話なら、いつでもできる。
そう思いながら、実際には前もって時間を決めていた。
昨日も今日も、娘はその時間に合わせてくれた。
あの夏の夕方には、何の約束もなかった。
だから綾音は、呼ぼうかどうか迷った。
亮介はカレンダーの空白を見つめた。
昔、綾音は公園で遊んでいるとき、何度も自分を呼んだ。
滑り台を滑る前。
鉄棒にぶら下がるとき。
小さな虫を見つけたとき。
振り返れば、娘は必ずこちらを見ていた。
何かを見せようとして、手を振っていた。
あの頃は、呼ばれることを何とも思っていなかった。
父親なのだから、呼ばれて当然だと思っていた。
いつから、娘は父親を呼ぶ前に考えるようになったのだろう。
亮介は、その答えを探そうとした。
しかし、すぐにやめた。
何月何日から変わったと分かるようなことではない。
自分も、少しずつ変わってきたのだろう。
会う日を決め、時間を決め、約束を守る。
そういう父親になっていた。
窓の外で、誰かの足音がした。
亮介は顔を上げた。
足音は家の前を通り過ぎ、遠ざかっていった。
誰も呼ばなかった。
亮介も、声をかけなかった。
やがて足音が聞こえなくなると、部屋には冷蔵庫の低い音だけが残った。
亮介はカレンダーを閉じず、そのままにした。
青い丸のついていない日が、いくつも並んでいた。




