第27話 もし、三秒
午後五時六分。
瀬戸亮介は、腕時計を見てから顔を上げた。
目の前には、いつもの住宅街が広がっている。
右手には古いブロック塀が続き、少し先に丁字路があった。その向こうには細い抜け道があり、塀が途切れる場所から、別の住宅街へ続く道路がわずかに見えている。
七月十六日。
午後五時六分十八秒。
久世治が残した映像の中で、自分がこの丁字路を通過した時刻だった。
亮介は鞄の肩紐を握り直した。
水曜日の夕方、仕事を終えたあと、駅へ向かう途中でこの道へ立ち寄った。
来るつもりはなかった。
少なくとも、朝はそう思っていた。
午前中には道路台帳の確認を済ませ、午後は高野と補修工事の写真を整理した。帰る頃には日が短くなったことを話し、来週の予定を確かめてから事務室を出た。
いつもと同じ一日だった。
ところが駅へ向かう交差点で信号を待っているうちに、頭の中にあの数字が浮かんだ。
十七時六分。
今日も、その時刻にあの場所へ行ける。
そう思った途端、気づけば進む方向を変えていた。
雨は降っていなかったが、空には低い雲が残っていた。街路樹の葉は黄色くなり始め、風が吹くたびに歩道へ落ちてくる。近くの家から漂う夕食の匂いには、味噌を煮立てたような温かさがあった。七月の映像で見た強い西日はなく、道路の端から暗さが静かに広がっていた。
亮介は時計から目を離した。
あの頃とは、季節が違う。
陽の高さも違う。
通る人も違う。
そのことを分かっていながら、どうして同じ時刻に来てしまったのだろう。
亮介は丁字路へ向かって歩き始めた。
◇
最初に立ち止まったのは、鞄を持った男性が足を止めた場所だった。
久世の映像では、薄い茶色のシャツを着た男がこの辺りを歩いていた。
右肩に掛けた鞄の紐がずれる。
男が肩を持ち上げる。
右手が紐へ伸びる。
その動きに合わせるように、足が止まった。
亮介は道路の端に立ち、自分の右肩を少し持ち上げてみた。
何も掛かっていない肩だった。
仕事用の鞄は、いつもどおり左側にある。
亮介は鞄を右肩へ掛け直した。
少し重い。
肩紐が首の近くへ寄り、上着の布地が引かれる。
歩いているうちに、紐が少しずつ下がってきた。
亮介は右手でそれを直した。
足を止める必要はなかった。
歩きながらでもできた。
もう一度、わざと肩紐を浅く掛ける。
今度は、数歩進んだところで鞄が大きく傾いた。
亮介は反射的に足を止めた。
右手で紐を掴む。
鞄の底が腰へ当たる。
位置を直し、もう一度歩き出そうとした。
そのとき、自分が何をしているのか急にはっきりした。
あの男性が鞄を直した動きを、真似している。
同じ場所で。
似た鞄を使って。
何度も。
亮介は肩紐を元へ戻した。
通りかかった女性が、少し不思議そうにこちらを見た。
彼女はそのまま歩いていった。
亮介は道の端へ寄り、女性を先に通した。
あの男性も、こうして普通に鞄を直したのだろう。
ただし七月の彼は、そのタイミングで足を止めた。
映像の中の自分が、ちょうど通り過ぎられるような瞬間に。
それが偶然ではないと考えたくなるほど、似た動きを何度も見てきた。
けれど、ここに立ったところで、三か月前の男性がどうしてあの一歩を止めたのかは分からない。
亮介は時計を見た。
午後五時九分。
もう三分が過ぎていた。
あの映像は、二十数秒で終わっている。
それなのに自分は、同じ場所で三分も過ごしていた。
◇
丁字路を通り過ぎたところで、亮介は足を止めた。
久世の映像に映っていた自分は、ここを歩いていった。
肩に鞄を掛け、前を向いて。
十七時六分十八秒頃、丁字路を抜けている。
その数秒後には、さらに先へ進んでいたはずだった。
亮介は振り返った。
右側の塀が少し張り出し、細道の入口を隠している。
この位置からは、抜け道の奥が見えない。
一歩下がる。
まだ見えない。
もう一歩下がると、ようやく塀のあいだに細い空間が現れた。
亮介はそこで立ち止まった。
あの夕方、綾音はこの道から出てきたのだろうか。
娘は、夏の夕方に父親らしい男の後ろ姿を見たと言っていた。
濃紺の作業服。
黒い肩掛け鞄。
その男は駅のほうへ歩き、やがて角を曲がった。
服装も場所も、自分が映っていた映像とよく似ている。
ただ、綾音は日付を覚えていない。
晴香の家へ行った日だったことは確からしいが、夏のあいだには何度も訪ねていた。
あの映像と同じ日だったとは、まだ言えなかった。
亮介は細道を見つめた。
もし、同じ日だったとしたら。
もし、あの男性が足を止めなかったとしたら。
自分は、もう少し遅くここへ来ただろうか。
亮介は数歩戻り、丁字路の手前へ立った。
あの男性とすれ違うところから、もう一度歩いてみる。
今度は、誰かが道を譲ってくれたつもりにはならなかった。
相手が進んでくると考え、自分から歩調を緩める。
一歩。
もう一歩。
角へ近づく。
亮介は細道の入口へ顔を向けた。
そこに誰かがいたら、見えただろうか。
塀の陰から出てくる人間がいれば、気づいただろうか。
数秒だけ、その場で待ってみた。
誰も出てこなかった。
当たり前だった。
今日は、あの日ではない。
亮介は息を吐いた。
しかし、足を動かすことができなかった。
三秒。
たった三秒違っていれば。
あの男が肩紐を直す場所を少し変えていれば。
自分が歩く速度を少し落としていれば。
何かが違ったのだろうか。
亮介は細道の奥を見た。
そのとき、背後から声がした。
「すみません、通ります」
亮介は振り返った。
小さな台車を押した男性が近づいてきていた。
台車には段ボール箱が二つ積まれている。
亮介が道路の中央寄りに立っていたため、通れる場所が狭くなっていた。
「あ、すみません」
亮介は慌てて端へ寄った。
男性は軽く頭を下げ、台車を押していく。
車輪が舗装の継ぎ目へ差しかかる。
がたん、と一度だけ箱が揺れた。
男性は持ち手を強く握り、歩幅を変えずに進んでいった。
亮介はその背中を見た。
あの男性は自分を避けるために立ち止まらなかった。
ただ、通りますと声をかけた。
自分が道を空けた。
それで終わった。
もし今の自分が、三秒遅く端へ寄っていたら。
台車の男性は待っただろうか。
もう一度声をかけただろうか。
別の道を選んだだろうか。
亮介は、そこまで考えてから顔を伏せた。
そんなことまで考え始めたら、きりがなかった。
自分が三秒動かなかっただけで、いくつもの可能性を並べられる。
その中のどれが本当に起きたはずの出来事なのかは、誰にも分からない。
◇
細道の入口へ近づいた。
亮介は、塀の角に指先を触れた。
冷たいコンクリートだった。
表面は少しざらついていて、雨の流れた跡が薄く残っている。
ここから、娘は父親らしい男を見た。
たぶん。
夏の夕方。
晴香の家から帰る途中。
綾音は男の背中を見て、呼ぼうかどうか迷った。
けれど、会う約束の日ではなかった。
本当に父親かどうかも分からなかった。
そのあいだに、男は歩いていった。
亮介は細道から道路へ出る形で数歩歩いた。
それから、駅へ向かう方向へ顔を向ける。
道の先には、もう一つ角があった。
今の距離なら、歩いていく人の背中が見える。
もし相手が少し先を歩いていれば、顔までは分からないかもしれない。
大きな声を出せば、届くだろうか。
亮介は口を開きかけた。
しかし、声を出さなかった。
何と呼べばいいのだろう。
自分の名前か。
パパ、と。
そう思って、口を閉じた。
それは綾音が呼ぶ言葉だった。
自分がここで声を出しても、何も確かめられない。
亮介は道の先を見つめた。
いまなら誰かが歩いていく姿を見送れる。
だが、あの頃の自分は、振り返らなかった。
娘がいたかもしれない細道へ、顔を向けることさえなかった。
足を止めていれば気づいたのか。
それとも、立ち止まったところで、前だけを見ていたのか。
分からない。
亮介は、ようやく塀から手を離した。
◇
午後六時を過ぎる頃、亮介は駅へ着いた。
改札を通り、ホームへ向かう。
帰宅する人々の足音が重なり、構内には電車の到着を知らせる放送が流れていた。
亮介は人の少ない場所へ立った。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
取り出すと、綾音からメッセージが届いている。
『パパ、今日の練習、聞ける?』
その下に、もう一通。
『五分切れそうなんだよ』
亮介は画面を見つめた。
送信時刻は、午後五時二十六分だった。
半時間以上前。
ちょうど、あの丁字路で立ち止まっていた頃だ。
亮介は返信しようとした。
そのとき電車がホームへ入ってきた。
人々が列を整え、前へ進み始める。
亮介はスマートフォンをしまい、電車へ乗った。
車内は混んでいた。
つり革を握り、扉の近くに立つ。
綾音には、あとで返そう。
そう思った。
すぐに帰れば、家で落ち着いて聞ける。
しかし、電車が動き出してからも、あの丁字路のことが頭から離れなかった。
十七時六分十八秒。
鞄を直した男性。
歩き続ける自分。
その先の細道。
娘の後ろ姿ではなく、自分の背中がそこにあった。
亮介は窓へ映った自分の顔を見た。
以前より少し疲れて見えた。
目の下に薄い影がある。
それでも、電車の揺れに合わせて立っているだけなら、何も考えずに済む。
足を動かす必要もない。
ただ、目的地へ運ばれていく。
亮介は目を閉じた。
◇
帰宅したのは午後七時前だった。
玄関の照明を点け、靴を脱ぐ。
鞄を置く。
上着を脱ぐ。
いつもの順番だった。
亮介は食卓へ座り、スマートフォンを取り出した。
綾音のメッセージが残っている。
『パパ、今日の練習、聞ける?』
亮介は時計を見た。
午後七時三分。
まだ遅くない。
電話をかけようとして、指を止めた。
先に一言、返事を送ったほうがいいだろうか。
『ごめん。今帰った。これから聞けるよ』
送信する。
画面を見つめる。
すぐには返事が来なかった。
亮介は鞄を片づけ、夕食を温めた。
そのあいだも、何度かスマートフォンを確かめた。
七時十五分。
七時二十三分。
返事はなかった。
夕食を食べ終える頃、ようやく画面が光った。
『今日はもう練習終わった』
続けて、
『明日でもいい?』
亮介は箸を置いた。
『もちろん。ごめんね、返事遅くなって』
送信すると、少し間を置いて返事が来た。
『うん。今日はママに聞いてもらった』
亮介は、その文字を見つめた。
綾音が練習しているあいだ、自分は何をしていたのだろう。
あの丁字路に立ち、数秒の違いを考えていた。
鞄を直す男の姿を思い浮かべ、三か月前の自分が立ち止まるところを想像していた。
いま娘が声をかけてくれていることには、すぐに返事をしなかった。
亮介はスマートフォンを伏せた。
目の前には、食べ終えた夕食の皿がある。
冷蔵庫のモーターが動き始め、室内に低い音が広がった。
窓の外からは、誰かが歩いている足音が聞こえる。
その人は、家の前で少しだけ足を緩めた。
鍵を探しているのだろうか。
やがてまた歩き始めた。
亮介は顔を上げなかった。
その足音を聞きながら、綾音のメッセージを思い出していた。
『今日はママに聞いてもらった』
娘は、ちゃんと練習を終えた。
誰かに聞いてもらえた。
何も困っていない。
それなのに、自分だけが何かを逃したような気がしていた。
亮介はスマートフォンをもう一度手に取った。
画面には、娘とのやり取りが残っている。
明日でもいい。
そう書いてある。
亮介は、しばらくその文字を見つめていた。
そして、ふと思った。
三か月前の自分が数秒遅く歩いていたら、娘と会えたかもしれない。
けれど今日の自分は、娘から届いた言葉に返事をするまで、一時間半以上もかけていた。
その時間は、何のせいだったのだろう。
誰も自分を止めなかった。
道も塞がれていなかった。
自分であの場所へ行き、自分で立ち止まり、自分で考え続けていただけだった。
亮介はスマートフォンを持ったまま、食卓に座っていた。
あの男性が足を止めた三秒間よりも、今日の自分が使った時間のほうが、ずっと長かった。
そのことを考えると、もう一度あの映像を見る気にはなれなかった。




