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通らない道  作者: asnt2026


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27/30

第27話 もし、三秒

午後五時六分。


 瀬戸亮介は、腕時計を見てから顔を上げた。


 目の前には、いつもの住宅街が広がっている。


 右手には古いブロック塀が続き、少し先に丁字路があった。その向こうには細い抜け道があり、塀が途切れる場所から、別の住宅街へ続く道路がわずかに見えている。


 七月十六日。


 午後五時六分十八秒。


 久世治が残した映像の中で、自分がこの丁字路を通過した時刻だった。


 亮介は鞄の肩紐を握り直した。


 水曜日の夕方、仕事を終えたあと、駅へ向かう途中でこの道へ立ち寄った。


 来るつもりはなかった。


 少なくとも、朝はそう思っていた。


 午前中には道路台帳の確認を済ませ、午後は高野と補修工事の写真を整理した。帰る頃には日が短くなったことを話し、来週の予定を確かめてから事務室を出た。


 いつもと同じ一日だった。


 ところが駅へ向かう交差点で信号を待っているうちに、頭の中にあの数字が浮かんだ。


 十七時六分。


 今日も、その時刻にあの場所へ行ける。


 そう思った途端、気づけば進む方向を変えていた。


 雨は降っていなかったが、空には低い雲が残っていた。街路樹の葉は黄色くなり始め、風が吹くたびに歩道へ落ちてくる。近くの家から漂う夕食の匂いには、味噌を煮立てたような温かさがあった。七月の映像で見た強い西日はなく、道路の端から暗さが静かに広がっていた。


 亮介は時計から目を離した。


 あの頃とは、季節が違う。


 陽の高さも違う。


 通る人も違う。


 そのことを分かっていながら、どうして同じ時刻に来てしまったのだろう。


 亮介は丁字路へ向かって歩き始めた。


     ◇


 最初に立ち止まったのは、鞄を持った男性が足を止めた場所だった。


 久世の映像では、薄い茶色のシャツを着た男がこの辺りを歩いていた。


 右肩に掛けた鞄の紐がずれる。


 男が肩を持ち上げる。


 右手が紐へ伸びる。


 その動きに合わせるように、足が止まった。


 亮介は道路の端に立ち、自分の右肩を少し持ち上げてみた。


 何も掛かっていない肩だった。


 仕事用の鞄は、いつもどおり左側にある。


 亮介は鞄を右肩へ掛け直した。


 少し重い。


 肩紐が首の近くへ寄り、上着の布地が引かれる。


 歩いているうちに、紐が少しずつ下がってきた。


 亮介は右手でそれを直した。


 足を止める必要はなかった。


 歩きながらでもできた。


 もう一度、わざと肩紐を浅く掛ける。


 今度は、数歩進んだところで鞄が大きく傾いた。


 亮介は反射的に足を止めた。


 右手で紐を掴む。


 鞄の底が腰へ当たる。


 位置を直し、もう一度歩き出そうとした。


 そのとき、自分が何をしているのか急にはっきりした。


 あの男性が鞄を直した動きを、真似している。


 同じ場所で。


 似た鞄を使って。


 何度も。


 亮介は肩紐を元へ戻した。


 通りかかった女性が、少し不思議そうにこちらを見た。


 彼女はそのまま歩いていった。


 亮介は道の端へ寄り、女性を先に通した。


 あの男性も、こうして普通に鞄を直したのだろう。


 ただし七月の彼は、そのタイミングで足を止めた。


 映像の中の自分が、ちょうど通り過ぎられるような瞬間に。


 それが偶然ではないと考えたくなるほど、似た動きを何度も見てきた。


 けれど、ここに立ったところで、三か月前の男性がどうしてあの一歩を止めたのかは分からない。


 亮介は時計を見た。


 午後五時九分。


 もう三分が過ぎていた。


 あの映像は、二十数秒で終わっている。


 それなのに自分は、同じ場所で三分も過ごしていた。


     ◇


 丁字路を通り過ぎたところで、亮介は足を止めた。


 久世の映像に映っていた自分は、ここを歩いていった。


 肩に鞄を掛け、前を向いて。


 十七時六分十八秒頃、丁字路を抜けている。


 その数秒後には、さらに先へ進んでいたはずだった。


 亮介は振り返った。


 右側の塀が少し張り出し、細道の入口を隠している。


 この位置からは、抜け道の奥が見えない。


 一歩下がる。


 まだ見えない。


 もう一歩下がると、ようやく塀のあいだに細い空間が現れた。


 亮介はそこで立ち止まった。


 あの夕方、綾音はこの道から出てきたのだろうか。


 娘は、夏の夕方に父親らしい男の後ろ姿を見たと言っていた。


 濃紺の作業服。


 黒い肩掛け鞄。


 その男は駅のほうへ歩き、やがて角を曲がった。


 服装も場所も、自分が映っていた映像とよく似ている。


 ただ、綾音は日付を覚えていない。


 晴香の家へ行った日だったことは確からしいが、夏のあいだには何度も訪ねていた。


 あの映像と同じ日だったとは、まだ言えなかった。


 亮介は細道を見つめた。


 もし、同じ日だったとしたら。


 もし、あの男性が足を止めなかったとしたら。


 自分は、もう少し遅くここへ来ただろうか。


 亮介は数歩戻り、丁字路の手前へ立った。


 あの男性とすれ違うところから、もう一度歩いてみる。


 今度は、誰かが道を譲ってくれたつもりにはならなかった。


 相手が進んでくると考え、自分から歩調を緩める。


 一歩。


 もう一歩。


 角へ近づく。


 亮介は細道の入口へ顔を向けた。


 そこに誰かがいたら、見えただろうか。


 塀の陰から出てくる人間がいれば、気づいただろうか。


 数秒だけ、その場で待ってみた。


 誰も出てこなかった。


 当たり前だった。


 今日は、あの日ではない。


 亮介は息を吐いた。


 しかし、足を動かすことができなかった。


 三秒。


 たった三秒違っていれば。


 あの男が肩紐を直す場所を少し変えていれば。


 自分が歩く速度を少し落としていれば。


 何かが違ったのだろうか。


 亮介は細道の奥を見た。


 そのとき、背後から声がした。


「すみません、通ります」


 亮介は振り返った。


 小さな台車を押した男性が近づいてきていた。


 台車には段ボール箱が二つ積まれている。


 亮介が道路の中央寄りに立っていたため、通れる場所が狭くなっていた。


「あ、すみません」


 亮介は慌てて端へ寄った。


 男性は軽く頭を下げ、台車を押していく。


 車輪が舗装の継ぎ目へ差しかかる。


 がたん、と一度だけ箱が揺れた。


 男性は持ち手を強く握り、歩幅を変えずに進んでいった。


 亮介はその背中を見た。


 あの男性は自分を避けるために立ち止まらなかった。


 ただ、通りますと声をかけた。


 自分が道を空けた。


 それで終わった。


 もし今の自分が、三秒遅く端へ寄っていたら。


 台車の男性は待っただろうか。


 もう一度声をかけただろうか。


 別の道を選んだだろうか。


 亮介は、そこまで考えてから顔を伏せた。


 そんなことまで考え始めたら、きりがなかった。


 自分が三秒動かなかっただけで、いくつもの可能性を並べられる。


 その中のどれが本当に起きたはずの出来事なのかは、誰にも分からない。


     ◇


 細道の入口へ近づいた。


 亮介は、塀の角に指先を触れた。


 冷たいコンクリートだった。


 表面は少しざらついていて、雨の流れた跡が薄く残っている。


 ここから、娘は父親らしい男を見た。


 たぶん。


 夏の夕方。


 晴香の家から帰る途中。


 綾音は男の背中を見て、呼ぼうかどうか迷った。


 けれど、会う約束の日ではなかった。


 本当に父親かどうかも分からなかった。


 そのあいだに、男は歩いていった。


 亮介は細道から道路へ出る形で数歩歩いた。


 それから、駅へ向かう方向へ顔を向ける。


 道の先には、もう一つ角があった。


 今の距離なら、歩いていく人の背中が見える。


 もし相手が少し先を歩いていれば、顔までは分からないかもしれない。


 大きな声を出せば、届くだろうか。


 亮介は口を開きかけた。


 しかし、声を出さなかった。


 何と呼べばいいのだろう。


 自分の名前か。


 パパ、と。


 そう思って、口を閉じた。


 それは綾音が呼ぶ言葉だった。


 自分がここで声を出しても、何も確かめられない。


 亮介は道の先を見つめた。


 いまなら誰かが歩いていく姿を見送れる。


 だが、あの頃の自分は、振り返らなかった。


 娘がいたかもしれない細道へ、顔を向けることさえなかった。


 足を止めていれば気づいたのか。


 それとも、立ち止まったところで、前だけを見ていたのか。


 分からない。


 亮介は、ようやく塀から手を離した。


     ◇


 午後六時を過ぎる頃、亮介は駅へ着いた。


 改札を通り、ホームへ向かう。


 帰宅する人々の足音が重なり、構内には電車の到着を知らせる放送が流れていた。


 亮介は人の少ない場所へ立った。


 ポケットの中でスマートフォンが震えた。


 取り出すと、綾音からメッセージが届いている。


『パパ、今日の練習、聞ける?』


 その下に、もう一通。


『五分切れそうなんだよ』


 亮介は画面を見つめた。


 送信時刻は、午後五時二十六分だった。


 半時間以上前。


 ちょうど、あの丁字路で立ち止まっていた頃だ。


 亮介は返信しようとした。


 そのとき電車がホームへ入ってきた。


 人々が列を整え、前へ進み始める。


 亮介はスマートフォンをしまい、電車へ乗った。


 車内は混んでいた。


 つり革を握り、扉の近くに立つ。


 綾音には、あとで返そう。


 そう思った。


 すぐに帰れば、家で落ち着いて聞ける。


 しかし、電車が動き出してからも、あの丁字路のことが頭から離れなかった。


 十七時六分十八秒。


 鞄を直した男性。


 歩き続ける自分。


 その先の細道。


 娘の後ろ姿ではなく、自分の背中がそこにあった。


 亮介は窓へ映った自分の顔を見た。


 以前より少し疲れて見えた。


 目の下に薄い影がある。


 それでも、電車の揺れに合わせて立っているだけなら、何も考えずに済む。


 足を動かす必要もない。


 ただ、目的地へ運ばれていく。


 亮介は目を閉じた。


     ◇


 帰宅したのは午後七時前だった。


 玄関の照明を点け、靴を脱ぐ。


 鞄を置く。


 上着を脱ぐ。


 いつもの順番だった。


 亮介は食卓へ座り、スマートフォンを取り出した。


 綾音のメッセージが残っている。


『パパ、今日の練習、聞ける?』


 亮介は時計を見た。


 午後七時三分。


 まだ遅くない。


 電話をかけようとして、指を止めた。


 先に一言、返事を送ったほうがいいだろうか。


『ごめん。今帰った。これから聞けるよ』


 送信する。


 画面を見つめる。


 すぐには返事が来なかった。


 亮介は鞄を片づけ、夕食を温めた。


 そのあいだも、何度かスマートフォンを確かめた。


 七時十五分。


 七時二十三分。


 返事はなかった。


 夕食を食べ終える頃、ようやく画面が光った。


『今日はもう練習終わった』


 続けて、


『明日でもいい?』


 亮介は箸を置いた。


『もちろん。ごめんね、返事遅くなって』


 送信すると、少し間を置いて返事が来た。


『うん。今日はママに聞いてもらった』


 亮介は、その文字を見つめた。


 綾音が練習しているあいだ、自分は何をしていたのだろう。


 あの丁字路に立ち、数秒の違いを考えていた。


 鞄を直す男の姿を思い浮かべ、三か月前の自分が立ち止まるところを想像していた。


 いま娘が声をかけてくれていることには、すぐに返事をしなかった。


 亮介はスマートフォンを伏せた。


 目の前には、食べ終えた夕食の皿がある。


 冷蔵庫のモーターが動き始め、室内に低い音が広がった。


 窓の外からは、誰かが歩いている足音が聞こえる。


 その人は、家の前で少しだけ足を緩めた。


 鍵を探しているのだろうか。


 やがてまた歩き始めた。


 亮介は顔を上げなかった。


 その足音を聞きながら、綾音のメッセージを思い出していた。


『今日はママに聞いてもらった』


 娘は、ちゃんと練習を終えた。


 誰かに聞いてもらえた。


 何も困っていない。


 それなのに、自分だけが何かを逃したような気がしていた。


 亮介はスマートフォンをもう一度手に取った。


 画面には、娘とのやり取りが残っている。


 明日でもいい。


 そう書いてある。


 亮介は、しばらくその文字を見つめていた。


 そして、ふと思った。


 三か月前の自分が数秒遅く歩いていたら、娘と会えたかもしれない。


 けれど今日の自分は、娘から届いた言葉に返事をするまで、一時間半以上もかけていた。


 その時間は、何のせいだったのだろう。


 誰も自分を止めなかった。


 道も塞がれていなかった。


 自分であの場所へ行き、自分で立ち止まり、自分で考え続けていただけだった。


 亮介はスマートフォンを持ったまま、食卓に座っていた。


 あの男性が足を止めた三秒間よりも、今日の自分が使った時間のほうが、ずっと長かった。


 そのことを考えると、もう一度あの映像を見る気にはなれなかった。

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