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通らない道  作者: asnt2026


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28/30

第28話 今の約束

目覚まし時計が鳴る前に、亮介は目を覚ました。


 カーテンの隙間から、まだ弱い朝の光が差している。


 枕元の時計を見ると、午前六時二十二分だった。


 いつもより二十分ほど早い。


 もう一度眠ろうと思ったが、目を閉じても落ち着かなかった。


 昨日、綾音から届いたメッセージを思い出す。


『今日はもう練習終わった』


 続けて、


『明日でもいい?』


 亮介は布団の中で寝返りを打った。


 娘は怒っていなかった。


 返事が遅れたことを責める言葉もなかった。


 ただ、昨日はもう練習を終えたと言った。


 自分が聞けなかっただけだった。


 窓の外で、新聞配達のバイクが通り過ぎた。


 低いエンジン音が遠ざかり、住宅街に静けさが戻る。


 亮介は布団から起き上がった。


 台所へ行き、やかんに水を入れる。


 蛇口から落ちる水が金属の底へ当たり、少し高い音を立てた。


 朝の台所は冷えていた。


 窓ガラスには薄く曇った部分があり、換気扇の近くから冷たい空気が流れ込んでくる。隣家の庭では落ち葉を掃いているらしく、箒が地面を擦る音が何度か聞こえた。湯が沸き始めると、台所には少しずつ暖かい湿気が広がり、茶葉の匂いが立ち上った。


 亮介は湯飲みを食卓へ置いた。


 スマートフォンを取り出す。


 綾音とのやり取りが残っている。


 昨日の返事は、午後七時を過ぎてからだった。


 帰りの電車を待っていたときには、すでにメッセージを読んでいた。


 返そうと思えば返せた。


 電車に乗る前に、短い返事だけでも送れた。


 しかし、そのときは家へ帰ってからでいいと思った。


 娘は待っていてくれるだろう。


 そう考えた。


 亮介は湯飲みを持ち上げた。


 まだ熱かった。


 口へ近づけたところで手を止め、少し冷めるのを待った。


 待つことは、普段からよくしている。


 仕事でもそうだった。


 相手の都合を聞き、日程を決め、その時間まで待つ。


 綾音と会うときも同じだった。


 前もって約束し、時間を守る。


 それで十分だと思っていた。


 けれど昨日の娘は、約束していない時間に声をかけてきた。


 今日の練習を聞いてほしい。


 それだけだった。


 亮介は湯飲みを置いた。


 今朝は、昨日の続きから始めるのをやめようと思った。


 七月の映像でも、三秒の違いでもなく。


 綾音が今夜、何時なら読めるのか。


 まず、それを聞こう。


     ◇


 市役所へ着いた頃には、空がすっかり明るくなっていた。


 木曜日の午前八時十七分。


 正面玄関では、清掃員がガラス扉を拭いている。


 亮介は扉の前で少し歩幅を緩めた。


 清掃員は手を動かしたまま、こちらへ目を向ける。


「おはようございます」


「おはようございます」


 亮介は軽く頭を下げ、扉の片側から中へ入った。


 清掃員は拭き終えた部分を確かめ、次のガラスへ移っていった。


 亮介は振り返らなかった。


 事務室へ入ると、高野がすでに席へ着いていた。


「おはようございます」


「おはよう」


「瀬戸さん、昨日の写真、確認してもらっていいですか」


「うん。今見るよ」


 亮介は鞄を置き、パソコンを起動した。


 高野が送ってきた写真には、補修後の舗装が写っている。


 雨水桝の周囲を確認する。


 施工範囲に問題はない。


 撮影位置も分かりやすかった。


「これなら大丈夫だね」


「ありがとうございます」


 高野は少し笑った。


「前に教えてもらった位置から撮ってみました」


「うん。よく分かる」


 亮介は写真を閉じた。


 高野が自分の席へ戻っていく。


 その背中を見ていると、以前、現場へ遅れた日のことを思い出した。


 高野も施工業者も、自分が来るのを待っていた。


 けれど、いつまでも待っていられるわけではない。


 高野は先にできる確認を進めた。


 業者も作業の準備をしていた。


 亮介が来なくても、できることをしていた。


 それが普通だった。


 綾音も同じなのかもしれない。


 父親の返事をいつまでも待って、練習を始めないわけではない。


 恵子に聞いてもらい、自分で時間を測り、次に向けて準備をする。


 娘には娘の生活がある。


 亮介は机の上のメモ用紙を一枚取った。


 そこに、短く書いた。


『綾音 読み聞かせ』


 続けて、


『今日、時間を確認』


 紙をモニターの端へ貼った。


 それから今日の仕事を始めた。


     ◇


 昼休み、亮介は恵子へ電話をかけた。


 すぐには出なかった。


 数分後、折り返しがあった。


『もしもし。何かあった?』


「いや、急ぎじゃないんだけど」


『うん』


「昨日、綾音から練習を聞いてほしいって連絡があったんだ」


『ああ、言ってたね』


「返事が遅くなって、聞けなかった」


 電話の向こうで、恵子が小さく息を吐いた。


『そうだったんだ』


「今日はちゃんと聞こうと思ってる」


『それはいいんじゃない』


「何時頃なら大丈夫かな」


『夕食が終わってからなら、七時半くらいかな。本人にも聞いてみて』


「分かった」


 亮介はそこで一度、口を閉じた。


 伝えたいことは、もう一つあった。


 しかし、どう言えばいいのか迷った。


『亮介?』


「ああ、ごめん」


『ほかにも何かある?』


 亮介は廊下の窓へ目を向けた。


 外では二人の職員が駐車場を歩いている。


 一人が何かを話し、もう一人が頷いた。


 二人は同じ方向へ曲がっていった。


「この前、七月のことを聞いたでしょう」


『うん』


「綾音にも、あのときの話を聞いたんだ」


 恵子は黙っていた。


「俺に似た男を見たって」


『そうみたいね』


「話してた?」


『うん。前に見かけた人が、本当にパパだったかもしれないって』


 亮介は頷いた。


「そう」


『でも、綾音はそんなに気にしてなかったよ』


「そうなんだ」


『むしろ、パパが何でそんな前のことを気にしてるのか、不思議みたいだった』


 亮介は窓枠へ手を置いた。


 金属が少し冷たかった。


「そうだよね」


 恵子は少し間を置いた。


『亮介、何か分かったの?』


「分かったこともあるけど、分からないことのほうが多いかな」


『そう』


「昔の自分が、あの道を歩いてたことは分かった。でも、そのとき綾音がいたのかどうかは、はっきりしない」


 亮介はそこで言葉を切った。


 恵子は答えなかった。


 電話の向こうで、何かの引き出しを閉める音がした。


「ずっと考えてたんだ」


 亮介が続けた。


「もし少し遅く歩いてたら、綾音に気づけたのかなって」


『うん』


「でも、考えても分からなくて」


 亮介は息を吐いた。


「昨日もそれを考えてたら、綾音からの連絡に返事するのが遅くなった」


 恵子はしばらく黙っていた。


『そうだったんだ』


「うん」


『あの子、昨日は嬉しそうだったよ』


 亮介は顔を上げた。


「嬉しそう?」


『初めて五分を切れそうだって。帰ってから何回も時計を見ながら練習してた』


「そうか」


『パパにも聞いてほしいって言ってたから、連絡したんだと思う』


 亮介は窓の外を見た。


 植え込みの葉が風で揺れている。


『でも、返事がなかったから、私に聞いてって』


「うん」


『別に、それで怒ってたわけじゃないよ』


 恵子は少し声を落とした。


『ただ、昨日聞いてほしかったんでしょうね』


 亮介は頷いた。


 昨日。


 その日だったから、聞いてほしかった。


 五分を切れそうになった日。


 何度も練習して、少し上手になった日。


 誰かに聞かせたくなった日。


 明日でも聞ける。


 来週でも聞ける。


 けれど、昨日の娘がその瞬間に聞いてほしいと思ったことは、もう戻ってこない。


「今日、聞くよ」


 亮介が言うと、恵子は静かに答えた。


『うん。それがいいと思う』


 少し間を置いて、続けた。


『あと、亮介』


「何?」


『前に歩くのが怖いって言ってたでしょう』


「うん」


『最近は、どう?』


 亮介は考えた。


 以前よりは、歩けるようになっている。


 向こうから人が来ても、毎回立ち止まることはなくなった。


 自分から端へ寄り、相手が通れる場所を空けることもできる。


 しかし、道を選ぶときにはまだ考えてしまう。


 人が少ない道を探したり、遠回りしたりすることもある。


 そして昨日は、あの丁字路で何度も歩き直していた。


「前よりは大丈夫だと思う」


『そう』


「でも、まだ気になることはある」


『うん』


 恵子はそれ以上尋ねなかった。


 亮介は少し迷ってから言った。


「今度、綾音と会う日を決めたいんだけど」


『いつ?』


「日曜日の午後は、どうかな」


 電話の向こうで、恵子が少し考えている気配がした。


『たぶん大丈夫だと思う。本人に聞いてみて』


「うん」


『何か予定あるの?』


「まだ決めてない」


 亮介は答えた。


「何をしたいか、綾音に聞こうと思って」


 恵子は短く笑った。


『それがいいね』


 亮介も少し笑った。


 電話を切る前、恵子が言った。


『じゃあ、日曜日のことも綾音と決めてね』


「分かった」


『時間だけ、決まったら教えて』


「うん」


 電話が切れた。


 亮介は窓の外を見た。


 昼休みが終わりかけていた。


 庁舎へ戻る職員たちが、少しずつ歩く速度を上げている。


 その中に、書類を抱えた男性が一人いた。


 男性は階段の手前で足を止め、腕時計を見た。


 それからまた歩き始めた。


 亮介は、その動きを追いかけなかった。


     ◇


 午後七時三十分。


 亮介は食卓に座り、スマートフォンを手元へ置いていた。


 夕食は済ませてある。


 食器も片づけた。


 テレビは点けていない。


 机の上には、紙とペンだけが置いてある。


 メモを取るつもりではなかった。


 ただ、手元に何もないと落ち着かなかった。


 午後七時三十二分、綾音から電話がかかってきた。


「もしもし」


『パパ、聞ける?』


「うん。準備できてるよ」


『昨日よりちょっと速くなったんだよ』


「そうなんだ」


『でも、速すぎないようにした』


 綾音の声は弾んでいた。


 亮介は笑った。


「難しいところだね」


『そうなの。じゃあ読むね』


「うん」


 娘の声が始まった。


 夜の海を進む小さな船の物語だった。


 最初の文章は、以前聞いたときより少しゆっくりだった。


 亮介は時計を見なかった。


 今は、時間を測る役ではない。


 娘が読んでいることを聞く役だった。


 綾音は途中で声を変えた。


 登場人物の言葉を、少し高い声で読む。


 次の文章では元の声へ戻る。


 ページをめくる音がした。


 紙が少し引っかかったらしく、一瞬だけ間が空く。


 亮介は待った。


 急かさなかった。


 綾音は何事もなかったように読み続けた。


 やがて、船が暗い海の向こうに灯りを見つける場面になった。


 娘の声が少し小さくなる。


 言葉が終わったあと、短い間ができた。


 亮介はその間に、あの丁字路のことを思い出しかけた。


 何も聞こえない数秒間。


 その数秒で、何かが変わるかもしれない。


 そんな考えが浮かんだ。


 しかし、すぐに娘の声が戻ってきた。


 亮介は顔を上げた。


 物語は、まだ続いている。


 綾音は、今ここで読んでいる。


 そのことへ意識を戻した。


 最後の文章を読み終えると、綾音が小さく息を吐いた。


『終わり』


「うん」


 亮介は笑った。


「よかったよ」


『ほんと?』


「うん。前より聞きやすかった」


『どこが?』


「最後のところ。船が灯りを見つけるところで、少し間を置いたでしょう」


『うん』


「あそこがよかった」


 綾音は少し嬉しそうに笑った。


『先生にも、そこはそのままでいいって言われた』


「そうなんだ」


『でもね、前のところはもうちょっとゆっくりだって』


「なるほど」


『で、また時間が長くなっちゃうんだよ』


 亮介は笑った。


「大変だな」


『うん。でも、もうちょっとでできそう』


「そうだね」


 綾音は少し黙った。


 それから尋ねた。


『パパ、時間測ってなかった?』


「今日は測ってない」


『ええ、なんで』


「聞くほうに集中してたから」


 電話の向こうで、娘が小さく笑った。


『そっか』


「何分だった?」


『自分で測ってた。四分五十六秒』


「すごいじゃないか」


『うん!』


 綾音の声が明るくなった。


『初めて五分切った』


 亮介は、椅子の背へ少し身体を預けた。


 四分五十六秒。


 あの絵本を選んだとき、娘は五分に収まるかどうかを心配していた。


 何度も練習し、途中で読む速度を変え、少しずつ時間を縮めてきた。


 今日、ようやく五分を切った。


 亮介はそのことを、いま娘から聞いている。


「よかったね、綾音」


『うん』


 短い返事だった。


 しかし、その声はいつもより少し高かった。


 亮介はスマートフォンを耳へ当て直した。


「頑張ったね」


『まだ本番あるけどね』


「そうだな」


『でも、今日はできた』


「うん。できたね」


 綾音はしばらく笑っていた。


     ◇


 話が落ち着いたところで、亮介は日曜日のことを切り出した。


「そういえば、綾音」


『なに?』


「今度の日曜日、午後は空いてる?」


『たぶん。どうして?』


「よかったら、一緒に出かけないかなと思って」


 電話の向こうが少し静かになった。


『どこに?』


「まだ決めてないんだ」


『え、決めてないの?』


 綾音が笑った。


「うん。綾音が行きたいところがあれば、そこへ行こうと思って」


『ほんと?』


「うん」


 娘は少し考えているらしかった。


 紙をめくる音がした。


 机の上に何かを置く音も聞こえる。


『じゃあね』


「うん」


『図書館行きたい』


「図書館?」


『うん。学校の近くじゃなくて、駅の向こうの』


 亮介は少し考えた。


 駅の北側にある市立図書館のことだろう。


 何度か仕事で近くを通ったことはあるが、中へ入ったことはほとんどなかった。


「大きい図書館のこと?」


『そう。あそこ、絵本いっぱいあるんだって』


「そうなんだ」


『晴香が言ってた。あと、読むところもあるらしいよ』


「じゃあ、そこへ行こうか」


『いいの?』


「もちろん」


 綾音は少し嬉しそうに笑った。


『じゃあ、何時?』


「午後三時くらいはどう?」


『うん。いいと思う』


「恵子さんにも確認してもらえる?」


『分かった。あとで聞いてみる』


 亮介は頷いた。


 それから、少し迷って尋ねた。


「どこで待ち合わせようか」


『えっとね』


 綾音は考えた。


『駅の北口、分かる?』


「うん」


『あそこの時計のところ』


「ああ。広場の時計?」


『そうそう。そこなら分かりやすいでしょ』


「分かった。三時に時計のところで」


『うん』


 娘は少し間を置いて、笑った。


『今度は、わたしのこと見つけてよ』


 亮介は口元を緩めた。


 この前、電話で約束したことだった。


 もし街で見かけたら、父親のほうも娘を見つける。


 それだけの約束だった。


「もちろん」


『ほんとに?』


「ちゃんと探すよ」


『じゃあ、わたしはちょっと隠れてようかな』


「それは困るな」


 綾音が声を上げて笑った。


『冗談だよ』


 亮介も笑った。


「分かってるよ」


 娘は少し考えてから言った。


『でも、ちゃんと三時に来てね』


「うん。行くよ」


『早すぎなくてもいいからね』


「え?」


『パパ、この前学校にすごい早く来てたでしょ』


 亮介は思わず笑った。


「あれは、ちょっと余裕を持って」


『余裕ありすぎ』


「そうかな」


『そうだよ』


 綾音は楽しそうだった。


 亮介は、その声を聞いていた。


 娘は父親に、特別なことを求めていない。


 日曜日の午後三時。


 駅の北口。


 時計のところ。


 そこで会う。


 それだけだった。


 亮介はスマートフォンを耳へ当て直した。


「分かった。三時に行く」


『うん。約束ね』


「約束」


 電話が切れたあと、亮介はしばらく食卓に座っていた。


     ◇


 窓の外では、夜の住宅街を誰かが歩いていた。


 足音が近づき、家の前を通り過ぎていく。


 途中で、一度だけ音が止まった。


 何かを確かめたのかもしれない。


 鍵を探したのか。


 スマートフォンを見たのか。


 靴を直したのか。


 亮介は窓へ目を向けた。


 カーテンの向こうに、歩行者の姿は見えない。


 やがて足音が戻り、遠ざかっていった。


 何も分からなかった。


 亮介はスマートフォンを開いた。


 予定表を表示する。


 日曜日。


 午後三時。


 駅北口の時計前。


 綾音と図書館。


 短い文章を入力した。


 保存する。


 画面に予定が表示された。


 以前なら、ここから経路を調べていた。


 どの電車に乗るか。


 駅まで何分かかるか。


 乗り換えに余裕があるか。


 そのすべてを先に決めていた。


 今も、時間を守るための確認は必要だった。


 ただ、今日はすぐに地図を開かなかった。


 図書館へ行くことを、まず楽しみにしていたかった。


 娘と本を選ぶ。


 まだ知らない絵本の棚を見る。


 帰り道に、何か食べてもいい。


 綾音が行きたい場所があれば、少し寄り道をしてもいい。


 亮介はそんなことを考えた。


 どの道を通るかは、まだ決めていない。


 人の多い道になるかもしれない。


 誰かが立ち止まり、自分の進路を空けることもあるだろう。


 自分が足を止めてしまうことも、きっとある。


 それでも、日曜日には駅へ向かうつもりだった。


 亮介は予定表を閉じた。


 冷蔵庫の横に掛けたカレンダーへ近づく。


 日曜日の日付を見つけ、青いペンで小さな丸をつけた。


 これまでにも、娘と会う日には同じように印をつけてきた。


 その一つが、また増えた。


 亮介はペンの蓋を閉めた。


 そのとき、スマートフォンが震えた。


 恵子からだった。


『日曜日、午後三時で大丈夫。よろしくね』


 亮介は返信した。


『ありがとう。綾音と図書館へ行ってくる』


 すぐに返事が来た。


『楽しみにしてるみたいだよ』


 亮介はその文字を見つめた。


 綾音が楽しみにしている。


 それは、今日のことだった。


 三か月前の出来事ではない。


 まだ起きていない、日曜日の約束だった。


 亮介はカレンダーへ目を戻した。


 青い丸が一つ、増えている。


 あの丁字路のことは、まだ気になっている。


 七月の自分が数秒遅く歩いていたら、何が起きたのか。


 娘が本当に同じ日に、あの場所にいたのか。


 いつか確かめられるのかもしれない。


 何も分からないまま終わるのかもしれない。


 そのことは、今も変わらなかった。


 けれど、今日決めた約束なら、まだ守ることができる。


 日曜日の午後三時。


 駅の北口で、綾音を見つける。


 亮介は、青い丸の横へもう一度時刻を書き込んだ。


 今度は、忘れないためだけではなかった。


 そこへ行こうと、自分で決めたからだった。

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