第28話 今の約束
目覚まし時計が鳴る前に、亮介は目を覚ました。
カーテンの隙間から、まだ弱い朝の光が差している。
枕元の時計を見ると、午前六時二十二分だった。
いつもより二十分ほど早い。
もう一度眠ろうと思ったが、目を閉じても落ち着かなかった。
昨日、綾音から届いたメッセージを思い出す。
『今日はもう練習終わった』
続けて、
『明日でもいい?』
亮介は布団の中で寝返りを打った。
娘は怒っていなかった。
返事が遅れたことを責める言葉もなかった。
ただ、昨日はもう練習を終えたと言った。
自分が聞けなかっただけだった。
窓の外で、新聞配達のバイクが通り過ぎた。
低いエンジン音が遠ざかり、住宅街に静けさが戻る。
亮介は布団から起き上がった。
台所へ行き、やかんに水を入れる。
蛇口から落ちる水が金属の底へ当たり、少し高い音を立てた。
朝の台所は冷えていた。
窓ガラスには薄く曇った部分があり、換気扇の近くから冷たい空気が流れ込んでくる。隣家の庭では落ち葉を掃いているらしく、箒が地面を擦る音が何度か聞こえた。湯が沸き始めると、台所には少しずつ暖かい湿気が広がり、茶葉の匂いが立ち上った。
亮介は湯飲みを食卓へ置いた。
スマートフォンを取り出す。
綾音とのやり取りが残っている。
昨日の返事は、午後七時を過ぎてからだった。
帰りの電車を待っていたときには、すでにメッセージを読んでいた。
返そうと思えば返せた。
電車に乗る前に、短い返事だけでも送れた。
しかし、そのときは家へ帰ってからでいいと思った。
娘は待っていてくれるだろう。
そう考えた。
亮介は湯飲みを持ち上げた。
まだ熱かった。
口へ近づけたところで手を止め、少し冷めるのを待った。
待つことは、普段からよくしている。
仕事でもそうだった。
相手の都合を聞き、日程を決め、その時間まで待つ。
綾音と会うときも同じだった。
前もって約束し、時間を守る。
それで十分だと思っていた。
けれど昨日の娘は、約束していない時間に声をかけてきた。
今日の練習を聞いてほしい。
それだけだった。
亮介は湯飲みを置いた。
今朝は、昨日の続きから始めるのをやめようと思った。
七月の映像でも、三秒の違いでもなく。
綾音が今夜、何時なら読めるのか。
まず、それを聞こう。
◇
市役所へ着いた頃には、空がすっかり明るくなっていた。
木曜日の午前八時十七分。
正面玄関では、清掃員がガラス扉を拭いている。
亮介は扉の前で少し歩幅を緩めた。
清掃員は手を動かしたまま、こちらへ目を向ける。
「おはようございます」
「おはようございます」
亮介は軽く頭を下げ、扉の片側から中へ入った。
清掃員は拭き終えた部分を確かめ、次のガラスへ移っていった。
亮介は振り返らなかった。
事務室へ入ると、高野がすでに席へ着いていた。
「おはようございます」
「おはよう」
「瀬戸さん、昨日の写真、確認してもらっていいですか」
「うん。今見るよ」
亮介は鞄を置き、パソコンを起動した。
高野が送ってきた写真には、補修後の舗装が写っている。
雨水桝の周囲を確認する。
施工範囲に問題はない。
撮影位置も分かりやすかった。
「これなら大丈夫だね」
「ありがとうございます」
高野は少し笑った。
「前に教えてもらった位置から撮ってみました」
「うん。よく分かる」
亮介は写真を閉じた。
高野が自分の席へ戻っていく。
その背中を見ていると、以前、現場へ遅れた日のことを思い出した。
高野も施工業者も、自分が来るのを待っていた。
けれど、いつまでも待っていられるわけではない。
高野は先にできる確認を進めた。
業者も作業の準備をしていた。
亮介が来なくても、できることをしていた。
それが普通だった。
綾音も同じなのかもしれない。
父親の返事をいつまでも待って、練習を始めないわけではない。
恵子に聞いてもらい、自分で時間を測り、次に向けて準備をする。
娘には娘の生活がある。
亮介は机の上のメモ用紙を一枚取った。
そこに、短く書いた。
『綾音 読み聞かせ』
続けて、
『今日、時間を確認』
紙をモニターの端へ貼った。
それから今日の仕事を始めた。
◇
昼休み、亮介は恵子へ電話をかけた。
すぐには出なかった。
数分後、折り返しがあった。
『もしもし。何かあった?』
「いや、急ぎじゃないんだけど」
『うん』
「昨日、綾音から練習を聞いてほしいって連絡があったんだ」
『ああ、言ってたね』
「返事が遅くなって、聞けなかった」
電話の向こうで、恵子が小さく息を吐いた。
『そうだったんだ』
「今日はちゃんと聞こうと思ってる」
『それはいいんじゃない』
「何時頃なら大丈夫かな」
『夕食が終わってからなら、七時半くらいかな。本人にも聞いてみて』
「分かった」
亮介はそこで一度、口を閉じた。
伝えたいことは、もう一つあった。
しかし、どう言えばいいのか迷った。
『亮介?』
「ああ、ごめん」
『ほかにも何かある?』
亮介は廊下の窓へ目を向けた。
外では二人の職員が駐車場を歩いている。
一人が何かを話し、もう一人が頷いた。
二人は同じ方向へ曲がっていった。
「この前、七月のことを聞いたでしょう」
『うん』
「綾音にも、あのときの話を聞いたんだ」
恵子は黙っていた。
「俺に似た男を見たって」
『そうみたいね』
「話してた?」
『うん。前に見かけた人が、本当にパパだったかもしれないって』
亮介は頷いた。
「そう」
『でも、綾音はそんなに気にしてなかったよ』
「そうなんだ」
『むしろ、パパが何でそんな前のことを気にしてるのか、不思議みたいだった』
亮介は窓枠へ手を置いた。
金属が少し冷たかった。
「そうだよね」
恵子は少し間を置いた。
『亮介、何か分かったの?』
「分かったこともあるけど、分からないことのほうが多いかな」
『そう』
「昔の自分が、あの道を歩いてたことは分かった。でも、そのとき綾音がいたのかどうかは、はっきりしない」
亮介はそこで言葉を切った。
恵子は答えなかった。
電話の向こうで、何かの引き出しを閉める音がした。
「ずっと考えてたんだ」
亮介が続けた。
「もし少し遅く歩いてたら、綾音に気づけたのかなって」
『うん』
「でも、考えても分からなくて」
亮介は息を吐いた。
「昨日もそれを考えてたら、綾音からの連絡に返事するのが遅くなった」
恵子はしばらく黙っていた。
『そうだったんだ』
「うん」
『あの子、昨日は嬉しそうだったよ』
亮介は顔を上げた。
「嬉しそう?」
『初めて五分を切れそうだって。帰ってから何回も時計を見ながら練習してた』
「そうか」
『パパにも聞いてほしいって言ってたから、連絡したんだと思う』
亮介は窓の外を見た。
植え込みの葉が風で揺れている。
『でも、返事がなかったから、私に聞いてって』
「うん」
『別に、それで怒ってたわけじゃないよ』
恵子は少し声を落とした。
『ただ、昨日聞いてほしかったんでしょうね』
亮介は頷いた。
昨日。
その日だったから、聞いてほしかった。
五分を切れそうになった日。
何度も練習して、少し上手になった日。
誰かに聞かせたくなった日。
明日でも聞ける。
来週でも聞ける。
けれど、昨日の娘がその瞬間に聞いてほしいと思ったことは、もう戻ってこない。
「今日、聞くよ」
亮介が言うと、恵子は静かに答えた。
『うん。それがいいと思う』
少し間を置いて、続けた。
『あと、亮介』
「何?」
『前に歩くのが怖いって言ってたでしょう』
「うん」
『最近は、どう?』
亮介は考えた。
以前よりは、歩けるようになっている。
向こうから人が来ても、毎回立ち止まることはなくなった。
自分から端へ寄り、相手が通れる場所を空けることもできる。
しかし、道を選ぶときにはまだ考えてしまう。
人が少ない道を探したり、遠回りしたりすることもある。
そして昨日は、あの丁字路で何度も歩き直していた。
「前よりは大丈夫だと思う」
『そう』
「でも、まだ気になることはある」
『うん』
恵子はそれ以上尋ねなかった。
亮介は少し迷ってから言った。
「今度、綾音と会う日を決めたいんだけど」
『いつ?』
「日曜日の午後は、どうかな」
電話の向こうで、恵子が少し考えている気配がした。
『たぶん大丈夫だと思う。本人に聞いてみて』
「うん」
『何か予定あるの?』
「まだ決めてない」
亮介は答えた。
「何をしたいか、綾音に聞こうと思って」
恵子は短く笑った。
『それがいいね』
亮介も少し笑った。
電話を切る前、恵子が言った。
『じゃあ、日曜日のことも綾音と決めてね』
「分かった」
『時間だけ、決まったら教えて』
「うん」
電話が切れた。
亮介は窓の外を見た。
昼休みが終わりかけていた。
庁舎へ戻る職員たちが、少しずつ歩く速度を上げている。
その中に、書類を抱えた男性が一人いた。
男性は階段の手前で足を止め、腕時計を見た。
それからまた歩き始めた。
亮介は、その動きを追いかけなかった。
◇
午後七時三十分。
亮介は食卓に座り、スマートフォンを手元へ置いていた。
夕食は済ませてある。
食器も片づけた。
テレビは点けていない。
机の上には、紙とペンだけが置いてある。
メモを取るつもりではなかった。
ただ、手元に何もないと落ち着かなかった。
午後七時三十二分、綾音から電話がかかってきた。
「もしもし」
『パパ、聞ける?』
「うん。準備できてるよ」
『昨日よりちょっと速くなったんだよ』
「そうなんだ」
『でも、速すぎないようにした』
綾音の声は弾んでいた。
亮介は笑った。
「難しいところだね」
『そうなの。じゃあ読むね』
「うん」
娘の声が始まった。
夜の海を進む小さな船の物語だった。
最初の文章は、以前聞いたときより少しゆっくりだった。
亮介は時計を見なかった。
今は、時間を測る役ではない。
娘が読んでいることを聞く役だった。
綾音は途中で声を変えた。
登場人物の言葉を、少し高い声で読む。
次の文章では元の声へ戻る。
ページをめくる音がした。
紙が少し引っかかったらしく、一瞬だけ間が空く。
亮介は待った。
急かさなかった。
綾音は何事もなかったように読み続けた。
やがて、船が暗い海の向こうに灯りを見つける場面になった。
娘の声が少し小さくなる。
言葉が終わったあと、短い間ができた。
亮介はその間に、あの丁字路のことを思い出しかけた。
何も聞こえない数秒間。
その数秒で、何かが変わるかもしれない。
そんな考えが浮かんだ。
しかし、すぐに娘の声が戻ってきた。
亮介は顔を上げた。
物語は、まだ続いている。
綾音は、今ここで読んでいる。
そのことへ意識を戻した。
最後の文章を読み終えると、綾音が小さく息を吐いた。
『終わり』
「うん」
亮介は笑った。
「よかったよ」
『ほんと?』
「うん。前より聞きやすかった」
『どこが?』
「最後のところ。船が灯りを見つけるところで、少し間を置いたでしょう」
『うん』
「あそこがよかった」
綾音は少し嬉しそうに笑った。
『先生にも、そこはそのままでいいって言われた』
「そうなんだ」
『でもね、前のところはもうちょっとゆっくりだって』
「なるほど」
『で、また時間が長くなっちゃうんだよ』
亮介は笑った。
「大変だな」
『うん。でも、もうちょっとでできそう』
「そうだね」
綾音は少し黙った。
それから尋ねた。
『パパ、時間測ってなかった?』
「今日は測ってない」
『ええ、なんで』
「聞くほうに集中してたから」
電話の向こうで、娘が小さく笑った。
『そっか』
「何分だった?」
『自分で測ってた。四分五十六秒』
「すごいじゃないか」
『うん!』
綾音の声が明るくなった。
『初めて五分切った』
亮介は、椅子の背へ少し身体を預けた。
四分五十六秒。
あの絵本を選んだとき、娘は五分に収まるかどうかを心配していた。
何度も練習し、途中で読む速度を変え、少しずつ時間を縮めてきた。
今日、ようやく五分を切った。
亮介はそのことを、いま娘から聞いている。
「よかったね、綾音」
『うん』
短い返事だった。
しかし、その声はいつもより少し高かった。
亮介はスマートフォンを耳へ当て直した。
「頑張ったね」
『まだ本番あるけどね』
「そうだな」
『でも、今日はできた』
「うん。できたね」
綾音はしばらく笑っていた。
◇
話が落ち着いたところで、亮介は日曜日のことを切り出した。
「そういえば、綾音」
『なに?』
「今度の日曜日、午後は空いてる?」
『たぶん。どうして?』
「よかったら、一緒に出かけないかなと思って」
電話の向こうが少し静かになった。
『どこに?』
「まだ決めてないんだ」
『え、決めてないの?』
綾音が笑った。
「うん。綾音が行きたいところがあれば、そこへ行こうと思って」
『ほんと?』
「うん」
娘は少し考えているらしかった。
紙をめくる音がした。
机の上に何かを置く音も聞こえる。
『じゃあね』
「うん」
『図書館行きたい』
「図書館?」
『うん。学校の近くじゃなくて、駅の向こうの』
亮介は少し考えた。
駅の北側にある市立図書館のことだろう。
何度か仕事で近くを通ったことはあるが、中へ入ったことはほとんどなかった。
「大きい図書館のこと?」
『そう。あそこ、絵本いっぱいあるんだって』
「そうなんだ」
『晴香が言ってた。あと、読むところもあるらしいよ』
「じゃあ、そこへ行こうか」
『いいの?』
「もちろん」
綾音は少し嬉しそうに笑った。
『じゃあ、何時?』
「午後三時くらいはどう?」
『うん。いいと思う』
「恵子さんにも確認してもらえる?」
『分かった。あとで聞いてみる』
亮介は頷いた。
それから、少し迷って尋ねた。
「どこで待ち合わせようか」
『えっとね』
綾音は考えた。
『駅の北口、分かる?』
「うん」
『あそこの時計のところ』
「ああ。広場の時計?」
『そうそう。そこなら分かりやすいでしょ』
「分かった。三時に時計のところで」
『うん』
娘は少し間を置いて、笑った。
『今度は、わたしのこと見つけてよ』
亮介は口元を緩めた。
この前、電話で約束したことだった。
もし街で見かけたら、父親のほうも娘を見つける。
それだけの約束だった。
「もちろん」
『ほんとに?』
「ちゃんと探すよ」
『じゃあ、わたしはちょっと隠れてようかな』
「それは困るな」
綾音が声を上げて笑った。
『冗談だよ』
亮介も笑った。
「分かってるよ」
娘は少し考えてから言った。
『でも、ちゃんと三時に来てね』
「うん。行くよ」
『早すぎなくてもいいからね』
「え?」
『パパ、この前学校にすごい早く来てたでしょ』
亮介は思わず笑った。
「あれは、ちょっと余裕を持って」
『余裕ありすぎ』
「そうかな」
『そうだよ』
綾音は楽しそうだった。
亮介は、その声を聞いていた。
娘は父親に、特別なことを求めていない。
日曜日の午後三時。
駅の北口。
時計のところ。
そこで会う。
それだけだった。
亮介はスマートフォンを耳へ当て直した。
「分かった。三時に行く」
『うん。約束ね』
「約束」
電話が切れたあと、亮介はしばらく食卓に座っていた。
◇
窓の外では、夜の住宅街を誰かが歩いていた。
足音が近づき、家の前を通り過ぎていく。
途中で、一度だけ音が止まった。
何かを確かめたのかもしれない。
鍵を探したのか。
スマートフォンを見たのか。
靴を直したのか。
亮介は窓へ目を向けた。
カーテンの向こうに、歩行者の姿は見えない。
やがて足音が戻り、遠ざかっていった。
何も分からなかった。
亮介はスマートフォンを開いた。
予定表を表示する。
日曜日。
午後三時。
駅北口の時計前。
綾音と図書館。
短い文章を入力した。
保存する。
画面に予定が表示された。
以前なら、ここから経路を調べていた。
どの電車に乗るか。
駅まで何分かかるか。
乗り換えに余裕があるか。
そのすべてを先に決めていた。
今も、時間を守るための確認は必要だった。
ただ、今日はすぐに地図を開かなかった。
図書館へ行くことを、まず楽しみにしていたかった。
娘と本を選ぶ。
まだ知らない絵本の棚を見る。
帰り道に、何か食べてもいい。
綾音が行きたい場所があれば、少し寄り道をしてもいい。
亮介はそんなことを考えた。
どの道を通るかは、まだ決めていない。
人の多い道になるかもしれない。
誰かが立ち止まり、自分の進路を空けることもあるだろう。
自分が足を止めてしまうことも、きっとある。
それでも、日曜日には駅へ向かうつもりだった。
亮介は予定表を閉じた。
冷蔵庫の横に掛けたカレンダーへ近づく。
日曜日の日付を見つけ、青いペンで小さな丸をつけた。
これまでにも、娘と会う日には同じように印をつけてきた。
その一つが、また増えた。
亮介はペンの蓋を閉めた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
恵子からだった。
『日曜日、午後三時で大丈夫。よろしくね』
亮介は返信した。
『ありがとう。綾音と図書館へ行ってくる』
すぐに返事が来た。
『楽しみにしてるみたいだよ』
亮介はその文字を見つめた。
綾音が楽しみにしている。
それは、今日のことだった。
三か月前の出来事ではない。
まだ起きていない、日曜日の約束だった。
亮介はカレンダーへ目を戻した。
青い丸が一つ、増えている。
あの丁字路のことは、まだ気になっている。
七月の自分が数秒遅く歩いていたら、何が起きたのか。
娘が本当に同じ日に、あの場所にいたのか。
いつか確かめられるのかもしれない。
何も分からないまま終わるのかもしれない。
そのことは、今も変わらなかった。
けれど、今日決めた約束なら、まだ守ることができる。
日曜日の午後三時。
駅の北口で、綾音を見つける。
亮介は、青い丸の横へもう一度時刻を書き込んだ。
今度は、忘れないためだけではなかった。
そこへ行こうと、自分で決めたからだった。




