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通らない道  作者: asnt2026


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29/30

第29話 そちらへ行く

日曜日の午後二時二十七分。


 瀬戸亮介は玄関で靴を履いた。


 片方の踵を指で押さえ、もう片方も同じように履く。立ち上がって鞄を肩へ掛けると、玄関の鏡にいつもの自分が映った。


 紺色の上着。


 黒い肩掛け鞄。


 少し伸びた前髪。


 綾音に会うのだから、もう少しきちんとした服を着ていけばよかったかもしれない。


 そう思って袖口を見たが、汚れているわけではなかった。


 昨日洗濯したばかりだ。


 亮介は靴箱の上に置いたスマートフォンを手に取った。


 綾音との約束は午後三時。


 駅の北口にある時計の前で待ち合わせて、それから市立図書館へ行く。


 電車の時刻は確認していた。


 この時間に出れば、待ち合わせの十分ほど前に到着する。


 遅くはない。


 早すぎもしない。


 先日の学校では、綾音にずいぶん早く来ていたと言われた。あのときは会場へ入る前から人の動きを気にして、校門の近くで何度も立ち止まっていた。


 今日はそうならないようにしたかった。


 亮介は玄関の鍵を閉め、廊下を出た。


 外へ出ると、思ったより空気が冷たかった。


 十月の終わりが近づき、昼間でも日陰には冬の気配が混じり始めている。向かいの家では布団が干され、陽に温められた布の匂いが風に乗ってきた。道路脇の植え込みには乾いた落ち葉がたまり、少し離れた場所からは自転車のブレーキが鳴る高い音が聞こえた。


 亮介は駅へ向かって歩き始めた。


 角を一つ曲がる。


 向こうから犬を連れた女性がやってくる。


 犬は地面を嗅ぎながら歩いていたが、女性はリードを短く持ち直した。


 亮介は自然に道の反対側へ寄った。


 女性が軽く頭を下げる。


 亮介も会釈した。


 犬は足を止めなかった。


 その小さな背中を見送りながら、亮介は以前、住宅街で見かけた赤いリードの犬を思い出した。


 飼い主が立ち止まっても、犬は先へ進もうとしていた。


 あのときは、何が起きているのか分からなかった。


 今も、分かったとは言い切れない。


 ただ、人が立ち止まる理由を考え続けることだけは、少しずつ減ってきた。


 亮介は歩いた。


 歩道の向こうから学生が二人やってくる。


 二人は話しながら横を通り過ぎた。


 片方が笑い、もう片方が軽く肩を叩く。


 足は止まらなかった。


 亮介も、そのまま歩いた。


     ◇


 駅へ着いたのは、午後二時四十七分だった。


 改札を抜けると、日曜日の構内には買い物客や家族連れが多く、平日の夕方とは違うざわめきが広がっていた。


 北口の時計へ行くには、中央の通路をまっすぐ進めばいい。


 その先に広場がある。


 ただ、亮介はその通路があまり好きではなかった。


 駅の南側から北側へ抜ける人と、反対方向へ向かう人が重なる場所だった。休日には大きな鞄を持った人や子ども連れも多く、以前から何となく歩きにくいと感じていた。


 最近は、人通りの少ない西側の通路へ回ることが増えている。


 そちらなら、ほかの人とすれ違う回数が少ない。


 ただし、北口の時計へは少し遠回りになる。


 亮介は改札の先で足を止めた。


 正面には中央通路。


 右へ曲がれば西側の通路。


 どちらも、北口へ行ける。


 腕時計を見る。


 二時四十八分。


 時間はある。


 いつものように遠回りしても、約束には間に合うだろう。


 亮介は右へ身体を向けかけた。


 そのとき、すぐ前を歩いていた若い男性が、肩に掛けた布製の鞄を持ち直した。


 男性は歩幅を小さくし、壁のほうへ一歩寄る。


 鞄の中で何かが動いたらしく、布が膨らみ、口元から細い筒がのぞいた。


 男性はその筒を押し込み、鞄の口を閉じた。


 亮介は、動きの一部始終を見ていた。


 男性が道の端へ寄ったため、中央通路へ続く場所が少し広くなった。


 そこをほかの人たちが通り過ぎていく。


 亮介は自分の足元を見た。


 いま右へ曲がれば、人の少ない通路へ行ける。


 正面へ進めば、約束の場所へまっすぐ向かえる。


 どちらでも構わない。


 ただ、今日は娘に会うために来た。


 道のことを考えるためではない。


 亮介は正面へ足を出した。


 男性の横を通り過ぎる。


 肩紐を直し終えた男性は、少し遅れて歩き始めた。


 亮介は振り返らなかった。


 中央通路には、向かってくる人が何人もいた。


 前から歩いてきた夫婦が、互いに肩を寄せて通り過ぎる。


 そのあと、子どもを連れた女性が来た。


 子どもは片手で母親の服を掴み、もう片方の手に小さな紙袋を持っている。


 亮介は左へ寄った。


 女性も少しだけ進路を変える。


 二人のあいだに、通れるだけの空間ができた。


 亮介はそのまま進んだ。


 少し先で男性が立ち止まり、スマートフォンを取り出した。


 その横を通り過ぎる。


 別の女性が、落としそうになった買い物袋を持ち直した。


 亮介は歩幅を変えずに進んだ。


 何も起こっていないように見える。


 しかし、これまでと同じことが起きているのかもしれない。


 誰かが自然な理由で足を緩め、進路を空ける。


 自分がその横を通る。


 相手は何事もなかったように歩き出す。


 亮介は、その可能性を頭の片隅に置いたまま歩いた。


 目の前の通路は、北口へ続いている。


 いまは、そちらへ行く。


 それだけを決めていた。


     ◇


 北口の広場へ出ると、陽の光が正面から差し込んできた。


 屋根の下にいたため、外の明るさが一瞬強く感じられた。


 亮介は目を細めた。


 広場の中央には、小さな時計が立っている。


 金属製の支柱の上に丸い文字盤が二つ取り付けられ、どちら側からでも時刻が見えるようになっていた。


 その周囲には、待ち合わせをしている人が何人かいる。


 ベンチに座った女性。


 旅行用の鞄を持った男性。


 小さな子どもを連れた夫婦。


 時計の近くでは、中学生くらいの女の子が二人、スマートフォンの画面を見比べていた。


 亮介は広場へ足を踏み出した。


 午後二時五十三分。


 約束まで、あと七分。


 時計の下へ行こうとして、少し足を緩めた。


 あそこには人が多い。


 近づけば、誰かが道を譲るかもしれない。


 相手が止まるかもしれない。


 そう思うだけで、歩幅が小さくなる。


 亮介は広場の端へ寄った。


 柱のそばに立ち、時計を見た。


 まだ七分ある。


 ここで待っていても、綾音が来れば分かるだろう。


 そう考えた。


 けれど、しばらくすると別のことが気になり始めた。


 娘は、時計の前で待ち合わせようと言った。


 こっちの柱の前ではない。


 時計のところ。


 それが約束だった。


 亮介はもう一度、広場を見た。


 時計の近くには、さっきの女の子たちがまだ立っている。


 少し離れたベンチでは、男性が本を読んでいた。


 小さな子どもが時計を見上げ、母親へ何か話している。


 亮介は柱から離れた。


 時計へ向かって歩き始める。


 向こうから来た男性が、ポケットに手を入れた。


 取り出したのは折り畳んだ紙だった。


 男性は広げた紙を確かめるため、少し道の端へ寄った。


 亮介はその横を通り過ぎた。


 時計が近づく。


 あと十歩ほど。


 そのとき、時計の反対側に立っていた女の子が、ゆっくり振り返った。


 肩のあたりまで伸びた髪。


 右側につけた小さな髪留め。


 片手には、紺色の手提げ鞄を持っている。


 亮介は足を止めた。


 綾音だった。


     ◇


 娘は、まだこちらに気づいていなかった。


 時計の下で、誰かを探すように広場を見渡している。


 視線が駅の入口へ向く。


 それから、バス停のほうへ動いた。


 綾音は少し背伸びをした。


 周囲の大人の頭越しに、何かを確かめようとしている。


 亮介は、その姿を見ていた。


 見間違えるはずがなかった。


 小さな髪留めも、少し肩を上げて立つ癖も、知っている。


 しかし、娘はまだ父親に気づいていない。


 亮介は一歩前へ出た。


 綾音とのあいだを、旅行用の大きな鞄を引いた男性が横切った。


 車輪が舗装の継ぎ目へ差しかかり、小さく跳ねる。


 男性の背中が、ほんの一瞬だけ綾音を隠した。


 亮介は足を止めた。


 次の瞬間には、男性が通り過ぎた。


 その向こうで、綾音が時計を見上げている。


 亮介は口を開いた。


「綾音」


 声は思っていたより小さかった。


 周囲の話し声に混じり、娘には届かなかったらしい。


 亮介はもう少し近づいた。


「綾音」


 今度は、はっきり呼んだ。


 娘の肩が動いた。


 顔がこちらを向く。


 右側の髪留めが、陽の光を受けて小さく光った。


「あ、パパ!」


 綾音が笑った。


 その声を聞いたとき、亮介はようやく歩き出した。


 娘もこちらへ来る。


 二人のあいだには、数人の歩行者がいた。


 綾音は人の流れを見ながら少し右へ寄り、亮介も反対側から近づいた。


 すれ違う人がいる。


 道の端へ寄る人もいる。


 立ち止まって誰かを待つ人もいた。


 けれど、亮介は娘から目を離さなかった。


 あと三歩。


 二歩。


 綾音が手提げ鞄を持ち直した。


 その手が少し上がる。


 最後の一歩を進んだところで、二人は時計の横に並んだ。


「ちゃんと見つけたね」


 綾音が言った。


 亮介は笑った。


「見つけたよ」


「わたしのほうが先に来てたんだよ」


「そうだったの?」


「うん。二分くらい前」


 亮介は時計を見た。


 午後二時五十七分。


 まだ約束の時間より早かった。


「恵子さんは?」


「向こう。ママ、バス停のところにいる」


 綾音が指さした先に、恵子が立っていた。


 こちらへ気づくと、軽く手を振った。


 亮介も頭を下げた。


 恵子は綾音へ何か合図し、そのままバス停のほうへ歩いていった。


「ママ、買い物して帰るんだって」


「そうか」


「図書館、ちゃんと行ける?」


 綾音が尋ねた。


「もちろん。場所も確認してきたよ」


「じゃあ大丈夫だね」


 娘は嬉しそうに笑った。


 それから、少し首を傾げた。


「パパ、何かあった?」


「何が?」


「さっき、ちょっと変な顔してた」


 亮介は一瞬、言葉に詰まった。


「そう?」


「うん。わたし見つけて、びっくりしてたみたい」


 亮介は笑った。


「そうかもしれない」


「どうして?」


 娘は不思議そうだった。


 亮介は少し考えた。


 あの夏の夕方、娘は自分に似た男の背中を見た。


 呼ぼうかどうか迷っているうちに、その男は角を曲がった。


 自分だったかどうかは、まだ分からない。


 けれど今日は、娘を見つけた。


 顔も見えた。


 名前を呼んだ。


 綾音は振り返った。


 そのことが、思っていたよりも大きく感じられた。


「見つけられて、よかったなと思って」


 亮介は答えた。


 綾音は一瞬、きょとんとした。


 それから笑った。


「何それ。約束してたんだから、いるに決まってるじゃん」


「そうだね」


「じゃあ、行こうよ」


 綾音は図書館の方向を指さした。


 亮介は頷いた。


     ◇


 駅の北側には、商店の並ぶ通りがある。


 その先に、図書館へ続く小さな道が二本あった。


 一つは車の通る大通り。


 もう一つは、古い住宅のあいだを抜ける細い道だった。


 亮介は地図を確認した。


 図書館へ行くなら、大通りのほうが分かりやすい。


 しかし細い道も途中で同じ場所へつながっている。


 その入口には、小さな花屋があった。


 綾音が店先を見ている。


 白い菊と薄い桃色の花が、低い桶に並べられていた。


「パパ、あれ何の花?」


「どれ?」


「小さい黄色いやつ」


 亮介は花屋の前へ近づいた。


 菊に似た、小さな花だった。


「何だろうね」


「知らないの?」


「分からないな」


 綾音は笑った。


「パパ、植物のこと全然知らないね」


「そうだね」


 店の奥から女性が出てきた。


 花を入れた桶の位置を直している。


 亮介はその邪魔にならないよう、少し脇へ寄った。


 綾音も同じように寄る。


 女性は軽く頭を下げ、花の向きを揃え直した。


 それから店の中へ戻っていく。


 綾音は、もう一度黄色い花を見た。


「かわいいね」


「うん」


「図書館で調べられるかな」


 亮介は笑った。


「図鑑ならあるかもしれない」


「じゃあ探してみよう」


 綾音は花屋の脇の道を指さした。


「こっちから行ってみない?」


 亮介はその道を見た。


 大通りから外れた、細い住宅街だった。


 向こうから一人の男性が歩いてくる。


 片手に書類を持ち、もう片方の手で鞄の肩紐を押さえていた。


 亮介は少し足を緩めた。


 男性が近づく。


 鞄の肩紐が、わずかに肩から滑った。


 男性は右手を上げ、紐を持ち直す。


 その動きに合わせて、歩幅が小さくなる。


 亮介は、その一瞬を見てしまった。


 七月の映像に映っていた男性と、よく似た動きだった。


 鞄を直す。


 足を緩める。


 道の端へ寄る。


 何でもない行動だった。


 しかし、いま自分が進めば、ちょうど男性の横を通り過ぎることになる。


 亮介は、その場で立ち止まりかけた。


 綾音が顔を向ける。


「パパ?」


 亮介は娘を見た。


「うん」


「こっちでいい?」


 綾音が細い道を指さしている。


 男性は、もう肩紐を直し終えていた。


 そのまま歩き始める。


 亮介は道の入口を見た。


 行ける。


 そこを曲がれば、図書館へ近づける。


 それに、娘が行ってみたいと言っている。


「そちらへ行こう」


 亮介が答えると、綾音が笑った。


「うん!」


 二人は並んで角を曲がった。


 その後ろでは、さっきの男性が何事もなかったように歩いていた。


 亮介は振り返らなかった。


 細い道の先には、まだ知らない風景が続いている。


 綾音は花の名前を考えながら歩いていた。


「キクかな。でも葉っぱが違ったよね」


「図鑑で確かめてみようか」


「うん。絶対あると思う」


 娘の声が、住宅街の静かな空気に溶けていく。


 亮介はその隣を歩いた。


 どの道を選んでも、誰かが立ち止まることはある。


 自分が通ったことで、相手の歩く時間が少し変わることもあるかもしれない。


 そのことは、もう消えない。


 けれど、曲がる前に考えていた道のことを、いつまでも振り返っていては、いま歩いている場所を見ることができない。


 亮介は娘の横顔を見た。


 綾音は、向こうに見え始めた大きな建物を指さしている。


「あ、図書館じゃない?」


 亮介は顔を上げた。


 街路樹の向こうに、白い壁の建物が見えた。


「そうみたいだね」


「思ったより近かった」


「うん」


 綾音が歩幅を広げた。


 亮介も、その速さに合わせた。


 肩に掛けた鞄が少し揺れる。


 足元には乾いた落ち葉が散っていた。


 二人はそれを踏みながら、図書館へ向かった。

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