第30話 通らない道
綾音が最初に見つけたのは、花の図鑑ではなかった。
「あ、これ!」
小さな声を上げ、棚の前で足を止めた。
瀬戸亮介は娘の視線を追った。
そこには、表紙いっぱいに夜空が描かれた絵本が並んでいた。
黒に近い紺色の空。
小さな星。
その下に、細い道が一本伸びている。
「これ、学校にあるやつだ」
綾音は本を取り出した。
「好きなの?」
「うん。前に図書室で読んだ」
「そうなんだ」
「でも、これじゃないんだよね」
娘はすぐに棚へ戻した。
「今日は花の本、探すんでしょ」
亮介は笑った。
「そうだったね」
午後三時十一分。
市立図書館の児童書コーナーには、親子連れが何組かいた。
背の低い書架が並び、その間に小さな丸い椅子が置かれている。窓から差し込む午後の光は床の上に細長く伸び、棚の隙間へ入り込むたびに本の背表紙を明るく照らした。館内には乾いた紙と古い木の匂いがあり、空調の穏やかな音に混じって、どこかでページをめくる小さな音が聞こえていた。
亮介は鞄を肩へ掛け直した。
図書館に来るのは久しぶりだった。
市役所にも資料室はあるが、仕事で使う図面や報告書が中心で、こうした児童書を眺める機会はほとんどない。
綾音は棚の表示を一つずつ読んでいた。
「植物って、どこだろう」
「図鑑のところかな」
「図鑑、あっちだって」
娘は少し先の案内板を指さした。
亮介もそちらを見る。
奥の棚には、動物や昆虫、宇宙についての本が並んでいるらしい。
二人は棚の間を歩いた。
途中で、小さな男の子が絵本を抱えて出てきた。
男の子は亮介の姿を見ると、足を止めた。
抱えていた本の一冊がずれ、落としそうになっている。
男の子は慌てて両手を添えた。
亮介は一歩脇へ寄った。
すぐ後ろから母親らしい女性が来て、男の子の本を一冊受け取る。
「そんなに持てないでしょう」
「持てるよ」
「一冊落ちかけてたよ」
「落としてないもん」
男の子はそう言い、母親と一緒に歩いていった。
亮介はその背中を見送った。
少し前なら、男の子が足を止めた瞬間に何かを確かめようとしていただろう。
どのくらいの距離だったか。
自分が歩いていたか。
相手はいつ本を持ち直そうと思ったのか。
しかし今は、綾音が先へ進んでいる。
「パパ、あったよ」
娘の声がした。
亮介は顔を上げた。
綾音は図鑑の棚の前にいた。
「花の本、いっぱいある」
「そうだね」
二人は並んで棚を見た。
◇
図鑑は思ったより重かった。
綾音が取り出した一冊を、亮介は両手で受け取った。
表紙には色とりどりの花が並んでいる。
娘はページをめくり、黄色い花が載っているところを探し始めた。
「あ、これかな」
指さしたのは、小さな花がいくつも集まって咲く植物だった。
「似てるね」
「でも、葉っぱが違う気がする」
綾音は少し首を傾げた。
「花屋さんのは、もっと細かった」
「そうだった?」
「うん。たぶん」
亮介は写真を見た。
花の形は似ている。
けれど、店先で見たものを正確には覚えていない。
自分が見ていたのは、ほとんど花の色だけだった。
「ほかにも黄色い花はあるからね」
亮介が言うと、綾音は頷いた。
「もうちょっと見る」
娘はページを進めた。
黄色い花がいくつも出てくる。
丸い花。
細長い花びらのもの。
中心だけ色が濃いもの。
どれも、さっき花屋の前で見たものに少しずつ似ていた。
「こんなにあるんだ」
綾音が言った。
「そうだね」
「黄色いってだけじゃ分かんないね」
「うん」
綾音は一度ページを戻した。
最初に見つけた写真をもう一度眺める。
それから、図鑑を閉じた。
「今度、花屋さんの前でもう一回見てみようかな」
「そのほうが確かかもしれないね」
「写真撮ってもいいかな」
「お店の人に聞いてみたら?」
「そうする」
綾音は図鑑を棚へ戻そうとしたが、少し高い位置にあったため、亮介へ手渡した。
亮介は元の場所へ差し込んだ。
厚い本が隣の本を押し、背表紙が一冊だけ少し飛び出した。
亮介はそれを揃えた。
綾音が隣で待っている。
何も急ぐ必要はなかった。
「次、何見る?」
亮介が尋ねた。
「えっとね。絵本も見たい」
「じゃあ、そっちへ行こうか」
「パパは?」
「俺?」
「何か見たい本ないの?」
亮介は少し考えた。
図書館に来たのは、綾音が行きたいと言ったからだった。
自分が本を選ぶことは、あまり考えていなかった。
「まだ決めてないな」
「せっかく来たのに」
娘は笑った。
「パパも探しなよ」
「そうだね」
「じゃあ、十五分後にあそこの椅子で集合」
綾音が窓際の丸い椅子を指さした。
亮介は少し驚いた。
「別々に見るの?」
「うん。近くだから大丈夫でしょ」
「まあ、そうだね」
「十五分ね」
綾音はそう言って、絵本の棚へ向かった。
亮介は娘の背中を見送った。
少し前まで、一緒に歩いているあいだも娘の姿を見失うことが気になっていた。
けれど図書館の中では、綾音が自分で見たい棚を選んでいる。
そのことを、止める理由はなかった。
亮介も別の棚へ向かった。
◇
亮介が手に取ったのは、南倉市の昔の風景をまとめた写真集だった。
古い商店街。
道路を走っていた路面電車。
川に架かる木造の橋。
今では見かけなくなった建物が、何枚も載っている。
道路維持の仕事をしているせいか、自然に道の幅や舗装の状態へ目が向いた。
昭和の終わり頃に撮られたという駅前の写真では、現在とまったく違う場所に横断歩道があった。
亮介はページをめくった。
古い地図も載っている。
自分が毎日通っている駅前の通りが、以前はもっと細かったらしい。
写真の中には、道を歩く人々がいた。
買い物袋を持った女性。
制服姿の学生。
自転車を押した男性。
誰もカメラを見ていない。
写真が撮られたことにも気づいていないのだろう。
その中の一人が、路上で立ち止まっていた。
男性だった。
片手を上げ、帽子を直しているように見える。
亮介は、その写真のところで手を止めた。
どうして止まったのだろう。
そんな考えが浮かんだ。
すぐに、答えを探すことをやめた。
写真は数十年前のものだった。
この男性が誰なのかも分からない。
帽子を直そうとしたのか、誰かを待っていたのか、あるいは歩き始めようとしていたのか。
一枚の写真から、そこまでは分からない。
亮介はページをめくった。
次には、昔の南倉駅の写真があった。
今より小さな駅舎だった。
入口の上に時計がついている。
亮介は少し笑った。
時計のある場所で待ち合わせることは、昔からあったのだろうか。
駅前の風景はずいぶん変わっている。
それでも、人が来るのを待つ場所は必要だったはずだ。
亮介は写真集を閉じた。
今日は、この本を借りてみようかと思った。
家でゆっくり見てみたい。
昔の南倉市を知っている人に話を聞いてみるのも面白そうだった。
そのとき、ふと久世治のことが頭に浮かんだ。
古い道路の写真を見れば、久世も何か話してくれただろうか。
交通誘導の仕事をしていた人だった。
きっと、道路の形が変わった場所や、昔は危なかった交差点のことを知っていただろう。
けれど久世には、もう会えない。
亮介は写真集を持ったまま、しばらく椅子に座っていた。
久世が残したのは、手帳と短い映像だった。
そこには道路を歩く人たちの動きが、細かく記録されていた。
しかし、久世がその記録をどう考えていたのかまでは分からなかった。
本人が亡くなってしまった今、それを確かめる方法はない。
亮介は写真集の表紙を見た。
知らないことはいくらでもある。
過去の道。
昔の街。
誰かの暮らし。
自分が何も知らないまま通り過ぎた場所。
それらをすべて確かめることはできない。
それでも、今ここにある写真集を読むことはできる。
亮介は立ち上がった。
写真集を抱え、児童書コーナーへ戻った。
◇
綾音は約束した椅子に座っていた。
膝の上には、絵本が二冊ある。
亮介が近づくと、娘は顔を上げた。
「パパ、遅い」
「え、そう?」
時計を見る。
約束の時間を二分ほど過ぎていた。
「ごめん。ちょっと本を見てた」
「何の本?」
亮介は写真集を見せた。
「昔の南倉市の写真」
綾音は表紙をのぞき込んだ。
「また道路?」
「またって何だよ」
「だって、パパ、道路の仕事してるじゃん」
「そうだけど」
「休みの日まで道路見てるの?」
綾音が笑った。
亮介も笑った。
「たしかにね」
娘は写真集の表紙をもう一度見た。
「でも、昔の駅ってこんなだったんだ」
「そうみたい」
「今と全然違うね」
「うん」
「パパ、昔の駅も知ってる?」
「いや、これは俺が生まれる前の写真だと思うよ」
「そっか」
綾音は少し考えた。
「じゃあ、パパも知らないんだ」
「そうだね」
娘は納得したように頷いた。
それから膝の絵本を持ち上げた。
「わたしはこれ」
一冊は動物の出てくる絵本。
もう一冊は、いろいろな町の風景を描いた絵本だった。
亮介は二冊を見比べた。
「借りるの?」
「うん。カード持ってきた」
綾音は手提げ鞄を開き、小さな図書館カードを取り出した。
亮介はそれを見た。
綾音の名前が印字されている。
「いつ作ったの?」
「三年生のとき」
「そうなんだ」
「ママと来たときに作ったの」
亮介は頷いた。
知らなかった。
けれど、今日はそのことを聞いても、以前のように長く考え込まなかった。
娘には、自分が知らない時間がある。
そこでは娘が自分で本を選び、図書館カードを作り、友達と話し、読み聞かせの練習をしている。
それをすべて知っている必要はないのだろう。
ただ、今日こうして一緒に来たことで、新しく知ったことがある。
亮介は写真集を持ち直した。
「じゃあ、俺も借りようかな」
「パパ、カードある?」
「ないかもしれない」
「じゃあ作れば?」
「そうだね。受付で聞いてみよう」
綾音は椅子から立ち上がった。
二人は貸出カウンターへ向かった。
◇
図書館を出たのは、午後四時二十三分だった。
亮介は新しく作った利用カードと、借りた写真集を鞄へしまった。
綾音は二冊の絵本を手提げ鞄へ入れている。
外へ出ると、午後の光は少し黄色くなっていた。
建物の前に植えられた銀杏の葉が風で揺れ、歩道へ一枚ずつ落ちてくる。図書館の中に残っていた紙の匂いとは違い、外には冷たい空気と乾いた土の匂いがあった。近くの道路を走る車の音が、街路樹のあいだから小さく聞こえていた。
「楽しかったね」
綾音が言った。
「うん。思ったより本が多かった」
「でしょ」
「また来たいな」
「わたしも」
綾音は手提げ鞄を持ち直した。
「でも、次はもうちょっと長くいたい」
「そうだね」
「今日は十五分ずつしか見なかったし」
「次は時間を多めに取ろうか」
「うん」
亮介は腕時計を見た。
まだ四時半前だった。
綾音を恵子の家まで送っても、約束の時間には十分間に合う。
二人は駅とは反対の方向へ歩き始めた。
途中、綾音が図書館で見つけた本の話をした。
動物の絵本には、変わった名前の鳥が出てくること。
町の絵本には、小さな店が何軒も並んでいること。
友達の晴香は、最近もっと厚い本を読むようになったこと。
亮介は聞きながら歩いた。
「晴香ちゃん、どんな本読んでるの?」
「ミステリー」
「へえ」
「何かね、最後に犯人が分かるやつ」
「それは大体そうじゃないかな」
綾音が笑った。
「パパ、そういう本読まないの?」
「昔は少し読んだよ」
「じゃあ、今度おすすめ教えて」
「綾音が読めそうなのを探してみるよ」
「うん」
娘は嬉しそうだった。
そのとき、前から二人連れの女性が歩いてきた。
一人は大きな鞄を肩に掛けている。
もう一人は、片手に買い物袋を提げていた。
亮介は少し道路の端へ寄った。
鞄を掛けた女性が、こちらへ近づいてくる。
あと数歩ですれ違う位置だった。
女性は肩紐を持ち上げようとした。
鞄が少しずれている。
右手が紐へ伸びる。
歩幅が小さくなる。
亮介は、その動きを目で追った。
女性は立ち止まった。
鞄の肩紐を掛け直す。
隣の女性が何か言いかけたが、すぐに黙った。
亮介は、その横を通り過ぎた。
綾音は隣で話し続けている。
「それでね、晴香が最後まで読んだら貸してくれるって」
「そうなんだ」
「でも、借りる前にわたしも別の本読もうかな」
「いいんじゃないかな」
亮介は歩きながら答えた。
少し先で、綾音が顔を上げた。
「パパ、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ」
「ほんと?」
「晴香ちゃんが読み終わったら本を貸してくれるんだろ」
「そうそう」
綾音が笑った。
亮介も笑った。
背後では、鞄を直した女性が歩き始めていた。
その靴音は、すぐにほかの音へ紛れて聞こえなくなった。
◇
恵子の家へ着いた頃には、午後五時を少し過ぎていた。
玄関の前で、綾音が手提げ鞄を持ち上げた。
「今日はありがとう」
「こちらこそ。楽しかったよ」
「また図書館行こうね」
「うん」
綾音は鍵を取り出そうとして、鞄の中を探った。
少し時間がかかった。
亮介は、その横に立って待った。
以前、同じ場所で娘が鍵を探したとき、何でもないその動きまで気になったことがある。
いまも、鍵を探す娘の指先が目に入る。
しかし、ここでは自分も娘も立ち止まっている。
家へ入るために鍵を探している。
何も不思議なことはない。
「あった」
綾音が小さな声を上げた。
鍵を取り出し、玄関の扉を開ける。
そのとき亮介は、娘へ声をかけた。
「綾音」
「なに?」
「この前、迎えに行けなくてごめんね」
綾音は少し驚いたように顔を上げた。
「ああ、読み聞かせの練習の日?」
「うん」
「ママが来たから大丈夫だったよ」
「そうか」
「でも、パパにも聞いてもらおうと思ってた」
亮介は娘を見た。
綾音は玄関の鍵を持ったまま、少し考えた。
「だから電話しようと思ったんだけど、あの日パパも忙しそうだったから」
「ごめんね」
「もういいよ。あとで聞いてもらったし」
娘はあっさり答えた。
亮介は、少しだけ笑った。
「そうだね」
「今度また聞いてくれる?」
「もちろん」
「じゃあ、また連絡する」
「うん。待ってるよ」
綾音は頷いた。
それから、少しだけ首を傾げた。
「パパも、何かあったら連絡してね」
亮介は顔を上げた。
「俺も?」
「うん。わたしだけじゃなくて」
綾音はそう言って笑った。
「今日みたいに、どこか行こうって誘ってよ」
亮介は、娘の顔を見た。
綾音は何でもないことを言ったように、玄関の扉へ手を掛けている。
けれど、その言葉を聞いた亮介は、すぐには返事ができなかった。
これまで娘と会う日は、ほとんど予定を合わせて決めていた。
恵子から連絡が来ることも多かった。
自分から誘うこともあったが、最近は少なくなっていた。
どうしてだろう。
仕事が忙しかったからか。
娘にも予定があると思っていたからか。
あるいは、断られるのが嫌だったからか。
理由は一つではないのだろう。
亮介は小さく頷いた。
「そうするよ」
「うん」
「また誘うね」
「待ってる」
綾音が笑った。
玄関の扉が開く。
家の中から、恵子の声が聞こえた。
「おかえり」
「ただいま!」
綾音が明るく返事をした。
そのあと、亮介へ振り返った。
「じゃあね、パパ」
「うん。またね」
娘は手を振り、家の中へ入っていった。
亮介も手を振った。
扉が閉まる。
鍵の回る音がした。
亮介はしばらく玄関の前に立っていたが、やがて歩き出した。
◇
駅へ戻る道は、もう夕暮れの色に変わっていた。
空の低いところには薄い橙色が残り、その上に灰色の雲が広がっている。道路の端では街灯が点き始め、家々の窓から暖かい光が漏れていた。風は昼間より冷たく、近くの家で煮ている醤油と生姜の匂いが、細い道へ流れ出していた。
亮介は歩いた。
少し先には、丁字路がある。
左へ曲がれば、いつもの大通りへ出る。
右へ曲がれば、住宅街の中を抜ける道へつながっている。
駅までの距離は、左のほうが短い。
亮介はそのことを知っていた。
何年も、左へ曲がってきた。
右へ曲がったこともあるが、ほとんど覚えていない。
今日も、まっすぐ左へ進めばよかった。
ところが丁字路の手前で、向こうから一人の女性が歩いてきた。
小さな犬を連れている。
犬は薄い茶色で、赤いリードをつけていた。
女性は右手に買い物袋を持ち、左手でリードを握っている。
亮介は歩幅を少し狭めた。
犬が近づいてくる。
鼻を低く下げ、舗装の匂いを嗅ぎながら歩いている。
女性は、その少し後ろを歩いていた。
二人がすれ違う位置に近づいたとき、女性の足が緩んだ。
靴の踵が、少し浮いていた。
女性は足元を見た。
右足を軽く上げ、靴の中へ踵を入れ直そうとする。
そのために、立ち止まった。
犬は、そのまま歩こうとした。
赤いリードが斜めに伸びる。
女性は片足で身体を支えたまま、リードを握り直した。
「ちょっと待って」
小さな声だった。
犬は一度だけ飼い主を振り返った。
それでも、鼻先は道路の向こうへ向いていた。
亮介は、その光景を見た。
赤いリード。
立ち止まる女性。
歩き続けようとする犬。
最初にあの道で見た光景と、よく似ていた。
女性は靴を直し終えた。
地面へ足を下ろす。
リードを持ち直し、犬のあとを歩き始める。
亮介は、その横を通り過ぎた。
女性は軽く頭を下げた。
亮介も会釈した。
何も起こらなかったように、二人はすれ違った。
犬は一度も立ち止まらなかった。
亮介は歩き続けた。
数歩進んだところで、丁字路へ着いた。
右へ曲がる道が見える。
左には、いつもの大通りがある。
亮介は一度だけ足を止めた。
女性が靴を直した場所を振り返ろうとして、やめた。
いま振り返れば、あの女性が何をしているか見えるだろう。
犬を連れて歩いているかもしれない。
また別の用事で立ち止まっているかもしれない。
けれど、そのどちらであっても、自分が通り過ぎたあとに起きたことだった。
確かめたからといって、何かが変わるわけではない。
亮介は前を向いた。
右へ曲がる道には、まだ明かりのついていない家が何軒かあった。
道路の先は少し暗く、角を曲がった向こうまでは見えない。
あの道を通れば、駅へ着くまでに何があるのだろう。
誰かとすれ違うかもしれない。
誰にも会わないかもしれない。
立ち止まる人がいるかもしれない。
自分も、何かを確かめるために足を止めるかもしれない。
どれも、まだ起きていないことだった。
亮介は右へ曲がった。
角を曲がると、古い住宅の窓からテレビの音が聞こえてきた。
少し先では、子どもが自転車を押している。
道路の向こうには、細い月が見えていた。
亮介は歩きながら、今日の綾音の顔を思い出した。
駅の時計の下で笑った顔。
図書館の棚の前で考え込んでいた顔。
玄関で、また誘ってねと言ったときの顔。
どれも、今日見たものだった。
数か月前の娘ではない。
いまの綾音だった。
亮介は、鞄の肩紐を少し持ち上げた。
ずれてはいない。
ただ、肩の位置を直したかった。
歩きながら直し、そのまま進んだ。
背後から、犬の鳴き声が一度だけ聞こえた。
亮介は振り返らなかった。
あの夏、自分が歩かなかった道に何があったのか、確かめる方法はない。
娘が本当に同じ日にあの細道を通ったのかも、あの男性が立ち止まらなければ何が起きたのかも、分からないままだった。
たぶん、これからも。
それでも今、右へ曲がった道の先には、まだ見たことのない景色が続いている。
亮介は少し歩幅を広げた。
角の向こうから、人の話し声が聞こえてきた。
その声へ向かって歩いていく。
誰もいない道ではなかった。
けれど、亮介はもう引き返さなかった。
完




