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通らない道  作者: asnt2026


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8/30

第8話 帰り道

午後五時十分。

 亮介は机の上の書類を片づけ、鞄を持って立ち上がった。

 いつもより二十分ほど早い。

 今日は帰り道で余計な時間を使うかもしれないと思い、仕事を少し前倒しで終わらせたのだった。

 廊下へ出ると、コピー機の前に人が並んでいた。

 亮介はその横を通り、階段へ向かう。

 向こうから同僚の男性が歩いてきた。

「瀬戸さん、お疲れさまです」

「お疲れさま」

 男性は亮介の少し手前で足を止め、抱えていた書類を持ち直した。

 紙の端がずれていたらしく、片手で叩いて揃えている。

 亮介はその横を通り過ぎかけて、思わず立ち止まった。

「どうかしました?」

 男性が顔を上げた。

「いや、何でもない」

「そうですか。お疲れさまです」

 男性は書類を抱え直すと、そのまま歩いていった。

 亮介は廊下に残された。

 背後でコピー機が動き始める。

 男性が止まったのは、書類を揃えるためだった。

 理由は分かっている。

 それでも、すれ違う直前だった。

 また同じことを考えている。

 亮介は鞄の持ち手を強く握り直し、階段へ向かった。

 降りる途中で、上から若い職員が駆け下りてきた。

 職員は亮介を見ると速度を落としたが、すぐにその横を通り過ぎた。

 危うく肩が触れそうになる。

「すみません」

 職員はそう言って階段を下りていった。

 亮介は手すりを握ったまま、その背中を見送った。

 今のは普通だった。

 急いでいる人が、狭い階段で少し速度を落としただけだ。

 それに、相手は立ち止まらなかった。

 何もおかしなことは起きていない。

 そう思った。

 けれど、もう一つの考えが浮かぶ。

 普通にすれ違っただけなのか。

 それとも、急いでいたから止まらなかったのか。

 どちらなのかは分からない。

 亮介は自分の足元を見た。

 左足が一段下にある。

 右足はまだ上の段に残っている。

 手すりを握る指先に、わずかに力が入っていた。

 階段を下りる。

 たったそれだけのことを、今は一つずつ確かめるようにしなければならなかった。

     *

 外へ出ると、空は薄い灰色に覆われていた。

 夕方の光が雲の向こうに残り、建物の壁をぼんやりと照らしている。道路には昼間の熱がほとんど残っておらず、風が吹くたびに植え込みの葉が乾いた音を立てた。

 市役所の正面玄関には、帰宅する職員が何人か集まっていた。

 自転車に乗る人。

 駐車場へ向かう人。

 駅へ歩いていく人。

 それぞれが自分の帰り道を持っている。

 亮介はその光景を見ながら、駅へ向かって歩き始めた。

 最初の交差点までは、誰ともすれ違わなかった。

 信号が青に変わる。

 横断歩道を渡る。

 向こう側へ着いたところで、女性が一人歩いてきた。

 薄いコートを着た女性だった。

 片手に折り畳み傘を持ち、もう一方の手にはスマートフォンを握っている。

 亮介とすれ違う少し前、女性はスマートフォンの画面へ目を落とした。

 歩幅が小さくなる。

 亮介は反射的に足を止めた。

 女性は画面を見たまま、亮介の横を通り過ぎていった。

 そのとき、女性の肩がわずかに亮介の腕へ触れた。

「あ、すみません」

 女性が顔を上げる。

「いえ」

 亮介は身体を引いた。

 女性は軽く頭を下げ、再び歩き始めた。

 何も起こらなかった。

 むしろ自分が立ち止まったせいで、相手の進路に残ってしまったのかもしれない。

 亮介はその場に立ったまま、女性の背中を見送った。

 今のように、必ずしも人は止まらない。

 歩き続けることもある。

 肩が触れることもある。

 それなら、今まで見てきたものは何だったのだろう。

 考え始めた途端、また別の歩行者が近づいてきた。

 亮介は道の端へ寄った。

 男性はそのまま通り過ぎた。

 続いて、若い女性が歩いてきた。

 亮介はまた止まった。

 女性も何事もなく通り過ぎていく。

 駅までは、まだ十分以上歩かなければならない。

 亮介は腕時計を見た。

 五時十八分。

 早く帰ろうと思っていたのに、もう何分も経っている。

 それでも、目の前に人が現れると、どうしても足が止まった。

     *

 途中の商店街では、夕食の買い物をする人が増え始めていた。

 八百屋の店先にはみかんが箱ごと並べられ、惣菜店の前では揚げ油の匂いが濃くなっている。通りの両側から店の明かりが漏れ、アスファルトの上には人の影が重なっていた。

 亮介は人の少ない側を歩いた。

 店の前で立ち止まっている客たちを避け、道路の中央寄りへ進む。

 すると向こうから、子どもを連れた女性が歩いてきた。

 小学校低学年くらいの男の子だった。

 男の子は片手で母親の手を握り、もう一方の手に小さな紙袋を持っている。

 紙袋の中には、丸いパンが二つ見えた。

「だから、明日持ってくんだって」

 男の子が言った。

「分かったから、ちゃんと袋持ってて」

「持ってるじゃん」

 母親は笑いながら、子どもの手を引いた。

 二人は亮介のほうへ向かって歩いてくる。

 亮介は道の端へ寄った。

 そのときだった。

 男の子が急に足を止めた。

「あ」

 母親が振り返る。

「どうしたの?」

 男の子は足元を見た。

 右足の靴紐がほどけていた。

 母親は小さくため息をつき、しゃがみ込んだ。

「もう、さっき結んだばっかりでしょう」

「走ってないよ」

「走ってなくてもほどけるの」

 母親は紐を引っ張り、結び直し始めた。

 亮介はその横を通り過ぎようとした。

 しかし、一歩目が出なかった。

 母親がしゃがんでいる。

 子どもはその横に立っている。

 どちらも、こちらを見ていない。

 ただ靴紐を結んでいるだけだ。

 何も不自然ではない。

 それでも、今まで見てきた光景と重なった。

 犬を連れた女性。

 白いスニーカーの紐を結び直した女性。

 新聞を抱え直した男性。

 折り畳み傘を直した男性。

 皆、何かを直していた。

 何かを確かめていた。

 誰も、亮介を避けようとしているわけではなかった。

 男の子が顔を上げた。

 亮介と目が合う。

 ほんの一瞬だった。

 男の子はすぐに母親のほうを向いた。

「もういい?」

「ちょっと待って。まだ結んでるから」

 母親の指が紐の端を引っ張る。

 結び目が小さく締まった。

「はい、いいよ」

 母親が立ち上がる。

 亮介はまだ、その場に立っていた。

 二人は亮介の横を通り過ぎていく。

 男の子が紙袋を揺らした。

 中のパンが一つ傾いた。

「ほら、落ちるよ」

 母親が注意する。

 その声が遠ざかるまで、亮介は動かなかった。

 しばらくして、ようやく歩き出した。

 数歩進んだところで、また足が止まった。

 さっきの親子がいた場所を振り返る。

 もう誰もいなかった。

 道の端には、靴紐を結び直した跡など残っていない。

 ただ、店先の明かりがアスファルトを照らしていた。

 亮介は自分の靴を見た。

 紐はほどけていない。

 何も直すところはなかった。

     *

 駅へ着いたのは、午後五時四十一分だった。

 いつもなら、とうに改札を通っている時間だった。

 亮介は駅前の時計を見上げた。

 五時四十三分発の電車には、まだ間に合うかもしれない。

 改札へ向かう。

 階段を上り始めたところで、前を歩いていた男性が足を止めた。

 男性は上着の内ポケットを探っている。

 定期券か何かを確認しているのだろう。

 亮介も足を止めた。

 男性は少しして歩き始めた。

 そのあとを追いかけるように、亮介も階段を上がった。

 改札の前には何人かが並んでいた。

 亮介は人の少ない列を選んだ。

 前の女性がカードをかざす。

 扉が開く。

 女性が通る。

 亮介も続こうとした。

 そのとき、隣の改札から若い男性がこちらへ向かってきた。

 亮介は一瞬、足を止めた。

 男性はそのまま横を通り過ぎていった。

 自動改札の前で、亮介は動けなくなった。

 背後から人の気配が近づく。

「すみません」

 誰かが声をかけた。

 亮介は慌てて脇へ寄った。

 後ろに並んでいた女性が、不思議そうな顔でこちらを見ながら改札を通っていく。

 亮介は頭を下げた。

 何も悪いことをしたわけではない。

 けれど、今の自分の行動は明らかにおかしかった。

 改札の前で突然立ち止まり、後ろの人を待たせてしまった。

 相手が道を譲ったわけではない。

 自分が勝手に止まっただけだ。

 亮介は少し離れた壁際へ移動した。

 改札を通る人たちを見ている。

 誰も立ち止まらない。

 次々とカードをかざし、扉を抜け、ホームへ向かっていく。

 時折、残高不足で止まる人もいた。

 そのたびに小さな電子音が鳴り、係員が声をかける。

 普通の駅だった。

 普通の夕方だった。

 亮介はその中で、自分だけが立ち止まっていることに気づいた。

 やがて発車ベルが鳴った。

 ホームのほうから、電車のドアが閉まる音が聞こえてくる。

 亮介は顔を上げた。

 電車が動き出す。

 金属の車輪がレールを擦る音が、駅舎の中へ長く響いた。

 乗るつもりだった電車だった。

 亮介は、その音が遠ざかるのを聞いていた。

 そして、夕方のバス停にいた女性のことを思い出した。

 交通系ICカードを握りしめたまま、発車したバスを見送っていた人。

 あのときは、ほんの数秒の遅れだった。

 今度は、自分だった。

 何人もの歩行者を先に行かせ、何度も立ち止まり、結局電車に間に合わなかった。

 亮介は腕時計を見た。

 五時四十五分。

 次の電車まで、あと十五分ある。

 壁際に立ったまま、しばらく動かなかった。

 ホームへ上がってしまえばいい。

 次の電車を待つだけだ。

 それなのに、改札へ向かう一歩がなかなか出なかった。

     *

 帰宅したのは午後六時半を過ぎた頃だった。

 玄関の照明を点けると、いつもの場所に靴が並んでいる。

 亮介は鞄を床に置き、靴を脱いだ。

 部屋の中はひんやりしていた。

 昼間の暖かさはすっかり消え、窓の外からは遠くの車の音が聞こえてくる。隣家の換気扇が低く回り、どこかで焼いている魚の匂いが、わずかに室内へ入り込んでいた。

 亮介は上着を脱ぎ、食卓の椅子へ腰を下ろした。

 足が少し重かった。

 いつもと同じ距離を歩いただけなのに、何度も立ち止まったせいか、妙に疲れていた。

 スマートフォンが震えた。

 綾音からだった。

『パパ、土曜日の発表、来れるよね?』

 亮介は画面を見た。

 学校の行事は午後二時からだった。

 駅から学校までは、歩いて十分ほどかかる。

 その道には、当然ながら人がいる。

 子どもたち。

 保護者。

 先生。

 誰かとすれ違うたびに立ち止まっていたら、時間どおりに着けるだろうか。

 そんな考えが浮かび、亮介は指を止めた。

 綾音からもう一通届く。

『終わったら本屋寄っていい?』

 亮介は小さく息を吐いた。

 何を考えているのだろう。

 娘は、父親が来られるかどうかを聞いているだけだ。

 それなのに自分は、学校までの道に何人の歩行者がいるかを考えている。

 亮介は返信を打った。

『もちろん行くよ。本屋も寄ろう』

 すぐに返事が来た。

『やった!』

 続いて、笑っている猫のスタンプ。

 亮介は画面を見ながら、少しだけ口元を緩めた。

 綾音は、父親が普通に歩けなくなっていることを知らない。

 恵子も知らない。

 理沙以外には、誰にも話していなかった。

 話したところで、どう説明すればいいのだろう。

 歩いていると、ほかの人が道を譲る。

 だから怖くて歩けない。

 そんなことを言われても、普通は困るだろう。

 亮介はスマートフォンを伏せた。

 窓の外では、誰かが歩いている。

 足音が近づいてきて、家の前を通り過ぎ、遠ざかっていった。

 何も起こらなかった。

 亮介は立ち上がり、窓のそばへ行った。

 カーテンの隙間から道路を見る。

 街灯の下を、買い物袋を提げた男性が歩いていた。

 その向こうから、別の女性が歩いてくる。

 二人は少しずつ道の端へ寄り、何事もなくすれ違った。

 立ち止まることもなかった。

 声をかけ合うこともなかった。

 互いの身体が通れるだけの場所を空け、自然に歩いていく。

 亮介はその光景を見つめた。

 自分がいない道では、人はこんなふうに歩くのか。

 そう思ってから、すぐに考え直した。

 いや、自分がいても普通に歩く人はいる。

 すべての人が立ち止まるわけではない。

 それは、これまで何度も見てきたことだった。

 ただ、もう以前のようには眺められなかった。

 男性が道の端へ寄る。

 女性も少しだけ身体を傾ける。

 それだけの動きを、亮介は最後まで目で追っていた。

 二人の姿が見えなくなると、道路には誰もいなくなった。

 静かな夜の住宅街だった。

 窓を閉めようとしたとき、亮介は自分の靴が玄関に置かれているのを思い出した。

 明日の朝も、あれを履いて外へ出なければならない。

 駅へ向かう。

 市役所へ行く。

 誰かとすれ違う。

 今まで何千回も繰り返してきたことだった。

 亮介はカーテンを閉めた。

 部屋の明かりが、ガラスに薄く映っている。

 自分の顔が見えた。

 何も変わっていない顔だった。

 それなのに明日の朝、玄関のドアを開けたとき、最初の一歩を出せるだろうか。

 そう考えているうちに、亮介は自分が窓の前に立ったまま、ずいぶん長い時間を過ごしていたことに気づいた。

 家の外では、また誰かの足音が聞こえた。

 近づいてきて、遠ざかっていく。

 その足音は、一度も止まらなかった。

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