第7話 止まってください
市役所の玄関前で立ち尽くしているあいだに、空がすっかり暗くなっていた。
瀬戸亮介の横を、何人もの職員が通り過ぎていく。
駐輪場へ向かう若い男性。手提げ鞄を抱えた女性。二人連れの職員が仕事の話をしながら階段を下りてきて、一人が亮介に気づいて会釈した。
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
亮介は返事をした。
二人はそのまま歩いていく。
何も起こらなかった。
次に出てきた職員も、亮介の前を普通に通り過ぎた。
誰も足を止めない。
玄関のガラス扉が開くたび、建物の中に残っていた暖かい空気が流れ出し、外の冷たい空気と混ざった。駐車場には雨上がりのような土の匂いが残っている。街灯に照らされた植え込みの葉は黒く光り、その奥から虫の細い声が聞こえていた。
亮介は腕時計を見た。
午後五時四十八分。
退勤してから、もう二十分近く経っている。
鞄の持ち手を握り直し、階段を下りようとした。
そのとき、駐輪場から一人の男性が歩いてきた。
男性はこちらへ向かっている。
階段を下りた亮介と、ちょうど正面ですれ違う位置だった。
亮介は足を止めた。
男性が通り過ぎる。
それから階段を一段下りた。
今度は、駐車場のほうから女性が歩いてきた。
亮介はまた止まった。
女性はスマートフォンを見ながら、その横を通り過ぎた。
亮介は階段の途中に立ったまま、誰もいなくなった通路を見た。
ここから駅までは、歩いて十五分もかからない。
いつもの道だった。
それなのに、階段を下りきるまでに、こんなに時間がかかるとは思わなかった。
「瀬戸さん?」
背後から声がした。
振り返ると、浜野理沙が玄関の前に立っていた。
上着を羽織り、肩から小さな鞄を提げている。もう帰るところらしかった。
「まだいらしたんですか」
「ああ、ちょっと」
亮介は階段を下りきった。
理沙が近づいてくる。
「忘れ物ですか?」
「いや、そうじゃなくて」
説明しようとしたが、言葉が続かなかった。
理沙は亮介の顔を見て、それから駅へ向かう道路へ目をやった。
「帰りにくいですか」
亮介は小さく笑った。
「歩けないわけじゃないんだけどね」
「はい」
「人が来ると、どうしても気になって」
理沙は何も言わなかった。
亮介は階段の脇へ寄った。
「さっきから、何人も通ったんだよ」
「ええ」
「俺が止まってると、みんな普通に歩いてくんだ」
理沙はしばらく亮介の横に立っていた。
玄関の自動ドアが開き、警備員が外へ出てくる。
警備員は二人に軽く頭を下げ、駐車場の施錠を確認しに歩いていった。
「瀬戸さん」
「うん」
「私、駅のほうまで一緒です」
「そうなの?」
「はい。少し歩きませんか」
亮介は道路を見た。
向こうから誰かが来る。
その人が通り過ぎるのを待ってから、歩き出そうと思った。
すると理沙が言った。
「今、誰かが来るのを待ちました?」
亮介は彼女を見た。
「……うん」
「どうしてですか」
「俺が歩くと、止まるかもしれないだろ」
「でも、止まらないかもしれませんよね」
「そうだけど」
理沙はそれ以上何も言わず、亮介の隣へ並んだ。
二人で歩き始めた。
*
駅へ向かう道は、夕方になると帰宅する人が増える。
市役所の裏手を抜けると、古い商店と住宅が混じる通りへ出る。道路の片側には細い歩道が続き、反対側には小さな駐車場がいくつかあった。
どこかの店で魚を焼いているらしく、焦げた醤油の匂いが漂っている。
道沿いのクリーニング店では、白い蛍光灯の下で店員がハンガーを掛け直していた。ガラス越しに見えるシャツが、一枚ずつ奥へ滑っていく。
亮介は理沙と並んで歩いた。
最初の数十メートルは、何も起こらなかった。
理沙が今日の記録について話し始める。
「午前中の男性、覚えてますか。箱を持ってた人」
「ああ」
「止まったあと、箱を持ち直してましたよね」
「うん」
「あれ、最初から持ちにくそうだったんです」
亮介は理沙を見た。
「そうだった?」
「はい。ずっと右手で底を支えてたから、重かったんだと思います」
「じゃあ、普通のことだよね」
「それは、そうです」
理沙は少し考えた。
「ただ、箱を持ち直すのが、瀬戸さんとすれ違う直前だったんですよね」
亮介は前を見た。
何も答えなかった。
理沙もそれ以上は続けず、二人の靴音だけがしばらく並んだ。
向こうから女性が一人歩いてきた。
買い物帰りらしく、両手に袋を提げている。
女性は亮介とすれ違う少し手前で、右手の袋を持ち上げた。
袋の中で何かが傾く。
女性が足を緩める。
亮介は、その動きを見ていた。
右足が地面についたとき、次の一歩を出すのをやめた。
理沙も隣で足を止めた。
女性は袋の持ち手を握り直し、二人の横を通り過ぎていった。
すれ違うとき、女性は小さく頭を下げた。
亮介も会釈した。
袋の中でプラスチック容器が触れ合う音がして、女性はそのまま遠ざかっていった。
「今の人」
亮介が言った。
「はい」
「止まったよね」
「少し、速度は落としてました」
「俺が止まったら、また歩いた」
理沙は女性の背中を見送った。
「袋を持ち直し終わったからかもしれません」
「うん」
「どちらかは、分からないです」
亮介は頷いた。
それは正しい答えだった。
何が原因なのか、たった一度見ただけでは分からない。
自分が足を止めたから女性が歩き始めたのか。
女性が袋を持ち直したのと、自分が立ち止まったのが、たまたま重なったのか。
そんなことを確かめるには、何度も繰り返して観察しなければならない。
しかし亮介は、もう一度同じことが起きるのを見たいとは思わなかった。
「瀬戸さん、行きましょうか」
理沙が言った。
亮介は歩き出した。
今度は、足元を見ないようにした。
視線を遠くへ向ける。
駅のほうには、赤い看板の薬局が見えている。
そこまで歩けばいい。
そう思った。
ところが十歩ほど進んだところで、また向こうから人が来た。
年配の男性だった。
男性は亮介の進む側を歩いている。
あと数歩で、二人の進路が重なる。
亮介は少し道端へ寄った。
男性も、同じように端へ寄りかけた。
二人の動きが重なった。
亮介は足を止めた。
男性は一瞬だけこちらを見て、それから普通に通り過ぎていった。
「すみません」
亮介は反射的に言った。
男性は気にした様子もなく、軽く手を上げただけだった。
亮介はその背中を見た。
理沙が隣へ戻ってくる。
「今のは、瀬戸さんもよけましたね」
「うん」
「相手の方も」
「そうだね」
「普通のすれ違いだと思います」
亮介は頷いた。
そのとおりだった。
狭い場所ですれ違うとき、互いに同じ方向へよけてしまうことはある。
そんな経験は、以前にも何度もあった。
けれど今は、その程度の出来事ですら、自分と関係があるように思えてしまう。
亮介は、今度は自分から歩き出せなかった。
理沙が少し前で振り返った。
「瀬戸さん」
「ごめん」
「何かありました?」
「いや」
亮介は足元を見た。
「普通に歩くって、どうやるんだったかなと思って」
理沙は笑わなかった。
しばらく黙ったあと、亮介のところへ戻ってきた。
「じゃあ、少し止まってましょう」
そう言って、道路の端に並んだ。
二人の前を、歩行者が一人通り過ぎた。
続いて、自転車が一台。
少し離れたところで、学生らしい二人組が笑いながら歩いている。
誰も亮介のことを気にしていなかった。
それなのに彼は、その場から動けなくなっていた。
*
翌朝、亮介はいつもより早く出勤した。
まだ人の少ない時間なら、歩くことを気にせずに済むと思ったからだった。
実際、駅から市役所までの道では、ほとんど誰ともすれ違わなかった。
そのことに気づくと、少し歩きやすくなった。
しかし、庁舎に着いてから考えた。
今朝はたまたま人が少なかっただけなのか。
それとも、自分が歩いていたために、誰かが別の道を選んだのだろうか。
後者を考え始めると、確かめようがなかった。
通らなかった人の姿は、どこにも残っていない。
亮介はその考えを振り払うように、机の上の書類を整理した。
午前十時頃、理沙が道路維持課へやってきた。
「瀬戸さん、昨日の件なんですけど」
亮介は顔を上げた。
理沙は薄いファイルを抱えていた。
「今日、午前中にもう一度、現場の確認をしようと思ってます。市役所の西側にある通路なんですけど」
「うん」
「人の流れが見やすいところで、しばらく様子を見たいんです」
亮介は少し迷った。
また歩くのか。
また、誰かが足を止めるところを見るのか。
そう考えると、机から立ち上がるのが億劫になった。
「今日じゃないと駄目かな」
理沙は亮介を見た。
「お仕事、何かあります?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
亮介は書類の端を揃えた。
「もう少し、何を確かめるのか整理してからでもいいんじゃないかな」
理沙はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「それもそうですね」
ファイルを開き、机の上へ置いた。
「じゃあ、まず記録の確認だけしましょうか」
亮介は頷いた。
その返事をした瞬間、少しだけ肩が軽くなった。
外へ出なくて済む。
誰かとすれ違わなくて済む。
そのことに安心した自分が、妙に引っかかった。
*
昼過ぎ、二人は市役所の西側にある通路へ出た。
結局、資料だけでは確かめられないことが残った。
庁舎と別館をつなぐ通路で、片側には植え込み、反対側には低いコンクリートの壁がある。二人が並んで歩ける程度の幅があり、昼休みには職員が行き来していた。
秋の陽が薄い雲を通して差し込み、植え込みの葉の上に柔らかな光を落としている。建物の影に入ると空気はひんやりしていたが、風が止まるとまだ少し蒸した。近くの給食センターからなのか、煮物のような甘辛い匂いが流れてきた。
理沙は通路の端に立った。
「今日は、無理に誰かとすれ違おうとしなくていいです」
「うん」
「ただ、普通に歩いてみてください。私が人の動きを見ます」
亮介は通路の先を見た。
向こうから男性職員が一人歩いてくる。
その後ろには、書類を抱えた女性もいた。
亮介はゆっくり歩き始めた。
男性職員とすれ違う少し前、相手がポケットへ手を入れた。
鍵束が取り出される。
男性は立ち止まり、鍵を確認した。
亮介はその横を通り過ぎる。
男性はすぐに歩き始めた。
理沙は何も言わなかった。
亮介も黙って歩いた。
次に近づいてきた女性は、書類を抱えたまま普通にすれ違った。
何も起こらなかった。
亮介はそのことを少しだけ嬉しく思った。
しかし、数歩進んだところで向こうから別の人が来た。
今度は年配の女性だった。
女性は亮介のほうを見ながら歩いていたが、近づく途中で少し速度を落とし、肩に掛けた鞄を持ち直した。
亮介は、女性が足を止めそうになった瞬間に、自分も止まった。
すると女性は、鞄の位置を直し終えるとそのまま歩いていった。
亮介は動かなかった。
女性の靴音が遠ざかる。
そのあとで、理沙が近づいてきた。
「瀬戸さん」
「うん」
「今、止まりましたよね」
「うん」
「どうしてですか」
亮介は女性の背中を見た。
「鞄を直してたから」
「はい」
「俺が通ったら、また止まるかもしれないと思って」
理沙は頷いた。
「そうですか」
彼女は手帳へ何かを書き込んだ。
亮介は、その動きを見ていた。
「浜野さん」
「はい」
「俺が止まれば、みんな普通に歩くんだよな」
理沙はペンを止めた。
「少なくとも、今見ている範囲ではそうですね」
「じゃあ、俺がずっと止まってれば、誰も変なことしなくて済むのかな」
理沙は顔を上げた。
「瀬戸さん」
「いや、変なこと言ってるのは分かってる」
亮介は笑おうとした。
しかし、口元がうまく動かなかった。
「でも、歩くたびに誰かが止まるんだったら、俺が止まってればいいんじゃないかって」
理沙は、しばらく黙っていた。
通路の向こうから別の職員が歩いてきた。
二人の横を普通に通り過ぎていく。
その靴音が遠ざかってから、理沙が言った。
「瀬戸さん。止まってください」
亮介は顔を上げた。
「え?」
「今のまま、少しだけ」
亮介は足を動かさずにいた。
理沙は通路の向こうを見た。
歩行者が一人来る。
その人は普通に通り過ぎた。
続いて、二人連れの職員が来る。
二人も、そのまま歩いていく。
理沙は何かを確かめるように頷いた。
「はい。ありがとうございます」
亮介は黙っていた。
「でも、瀬戸さん」
理沙は手帳を閉じた。
「これで、ずっと止まっているわけにはいかないですよね」
亮介は、すぐには答えられなかった。
分かっている。
仕事もある。
帰らなければならない家もある。
娘と会う約束だってある。
歩かなければ、どこにも行けない。
当たり前のことだった。
しかし、その当たり前のことを、今はどうしても簡単に考えられなかった。
理沙は少し声を落とした。
「無理に歩かなくてもいいです。でも、止まっていれば全部解決するわけでもないと思います」
亮介は足元を見た。
自分の靴が、通路の白い舗装の上に並んでいる。
何も変わっていない。
靴も、足も、身体も。
それなのに、次の一歩を出すことだけが、昨日までとはまったく違うことのように思えた。
「……そうだね」
亮介は小さく答えた。
理沙は何も言わなかった。
二人はしばらくその場に立っていた。
通路を歩く人たちは、誰も足を止めなかった。
そのことが、亮介にはたまらなく奇妙に感じられた。
自分が動かなければ、世界はいつもどおりに動く。
そんなことを、今まで一度も考えたことがなかった。




