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通らない道  作者: asnt2026


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7/30

第7話 止まってください

市役所の玄関前で立ち尽くしているあいだに、空がすっかり暗くなっていた。

 瀬戸亮介の横を、何人もの職員が通り過ぎていく。

 駐輪場へ向かう若い男性。手提げ鞄を抱えた女性。二人連れの職員が仕事の話をしながら階段を下りてきて、一人が亮介に気づいて会釈した。

「お疲れさまです」

「お疲れさま」

 亮介は返事をした。

 二人はそのまま歩いていく。

 何も起こらなかった。

 次に出てきた職員も、亮介の前を普通に通り過ぎた。

 誰も足を止めない。

 玄関のガラス扉が開くたび、建物の中に残っていた暖かい空気が流れ出し、外の冷たい空気と混ざった。駐車場には雨上がりのような土の匂いが残っている。街灯に照らされた植え込みの葉は黒く光り、その奥から虫の細い声が聞こえていた。

 亮介は腕時計を見た。

 午後五時四十八分。

 退勤してから、もう二十分近く経っている。

 鞄の持ち手を握り直し、階段を下りようとした。

 そのとき、駐輪場から一人の男性が歩いてきた。

 男性はこちらへ向かっている。

 階段を下りた亮介と、ちょうど正面ですれ違う位置だった。

 亮介は足を止めた。

 男性が通り過ぎる。

 それから階段を一段下りた。

 今度は、駐車場のほうから女性が歩いてきた。

 亮介はまた止まった。

 女性はスマートフォンを見ながら、その横を通り過ぎた。

 亮介は階段の途中に立ったまま、誰もいなくなった通路を見た。

 ここから駅までは、歩いて十五分もかからない。

 いつもの道だった。

 それなのに、階段を下りきるまでに、こんなに時間がかかるとは思わなかった。

「瀬戸さん?」

 背後から声がした。

 振り返ると、浜野理沙が玄関の前に立っていた。

 上着を羽織り、肩から小さな鞄を提げている。もう帰るところらしかった。

「まだいらしたんですか」

「ああ、ちょっと」

 亮介は階段を下りきった。

 理沙が近づいてくる。

「忘れ物ですか?」

「いや、そうじゃなくて」

 説明しようとしたが、言葉が続かなかった。

 理沙は亮介の顔を見て、それから駅へ向かう道路へ目をやった。

「帰りにくいですか」

 亮介は小さく笑った。

「歩けないわけじゃないんだけどね」

「はい」

「人が来ると、どうしても気になって」

 理沙は何も言わなかった。

 亮介は階段の脇へ寄った。

「さっきから、何人も通ったんだよ」

「ええ」

「俺が止まってると、みんな普通に歩いてくんだ」

 理沙はしばらく亮介の横に立っていた。

 玄関の自動ドアが開き、警備員が外へ出てくる。

 警備員は二人に軽く頭を下げ、駐車場の施錠を確認しに歩いていった。

「瀬戸さん」

「うん」

「私、駅のほうまで一緒です」

「そうなの?」

「はい。少し歩きませんか」

 亮介は道路を見た。

 向こうから誰かが来る。

 その人が通り過ぎるのを待ってから、歩き出そうと思った。

 すると理沙が言った。

「今、誰かが来るのを待ちました?」

 亮介は彼女を見た。

「……うん」

「どうしてですか」

「俺が歩くと、止まるかもしれないだろ」

「でも、止まらないかもしれませんよね」

「そうだけど」

 理沙はそれ以上何も言わず、亮介の隣へ並んだ。

 二人で歩き始めた。

     *

 駅へ向かう道は、夕方になると帰宅する人が増える。

 市役所の裏手を抜けると、古い商店と住宅が混じる通りへ出る。道路の片側には細い歩道が続き、反対側には小さな駐車場がいくつかあった。

 どこかの店で魚を焼いているらしく、焦げた醤油の匂いが漂っている。

 道沿いのクリーニング店では、白い蛍光灯の下で店員がハンガーを掛け直していた。ガラス越しに見えるシャツが、一枚ずつ奥へ滑っていく。

 亮介は理沙と並んで歩いた。

 最初の数十メートルは、何も起こらなかった。

 理沙が今日の記録について話し始める。

「午前中の男性、覚えてますか。箱を持ってた人」

「ああ」

「止まったあと、箱を持ち直してましたよね」

「うん」

「あれ、最初から持ちにくそうだったんです」

 亮介は理沙を見た。

「そうだった?」

「はい。ずっと右手で底を支えてたから、重かったんだと思います」

「じゃあ、普通のことだよね」

「それは、そうです」

 理沙は少し考えた。

「ただ、箱を持ち直すのが、瀬戸さんとすれ違う直前だったんですよね」

 亮介は前を見た。

 何も答えなかった。

 理沙もそれ以上は続けず、二人の靴音だけがしばらく並んだ。

 向こうから女性が一人歩いてきた。

 買い物帰りらしく、両手に袋を提げている。

 女性は亮介とすれ違う少し手前で、右手の袋を持ち上げた。

 袋の中で何かが傾く。

 女性が足を緩める。

 亮介は、その動きを見ていた。

 右足が地面についたとき、次の一歩を出すのをやめた。

 理沙も隣で足を止めた。

 女性は袋の持ち手を握り直し、二人の横を通り過ぎていった。

 すれ違うとき、女性は小さく頭を下げた。

 亮介も会釈した。

 袋の中でプラスチック容器が触れ合う音がして、女性はそのまま遠ざかっていった。

「今の人」

 亮介が言った。

「はい」

「止まったよね」

「少し、速度は落としてました」

「俺が止まったら、また歩いた」

 理沙は女性の背中を見送った。

「袋を持ち直し終わったからかもしれません」

「うん」

「どちらかは、分からないです」

 亮介は頷いた。

 それは正しい答えだった。

 何が原因なのか、たった一度見ただけでは分からない。

 自分が足を止めたから女性が歩き始めたのか。

 女性が袋を持ち直したのと、自分が立ち止まったのが、たまたま重なったのか。

 そんなことを確かめるには、何度も繰り返して観察しなければならない。

 しかし亮介は、もう一度同じことが起きるのを見たいとは思わなかった。

「瀬戸さん、行きましょうか」

 理沙が言った。

 亮介は歩き出した。

 今度は、足元を見ないようにした。

 視線を遠くへ向ける。

 駅のほうには、赤い看板の薬局が見えている。

 そこまで歩けばいい。

 そう思った。

 ところが十歩ほど進んだところで、また向こうから人が来た。

 年配の男性だった。

 男性は亮介の進む側を歩いている。

 あと数歩で、二人の進路が重なる。

 亮介は少し道端へ寄った。

 男性も、同じように端へ寄りかけた。

 二人の動きが重なった。

 亮介は足を止めた。

 男性は一瞬だけこちらを見て、それから普通に通り過ぎていった。

「すみません」

 亮介は反射的に言った。

 男性は気にした様子もなく、軽く手を上げただけだった。

 亮介はその背中を見た。

 理沙が隣へ戻ってくる。

「今のは、瀬戸さんもよけましたね」

「うん」

「相手の方も」

「そうだね」

「普通のすれ違いだと思います」

 亮介は頷いた。

 そのとおりだった。

 狭い場所ですれ違うとき、互いに同じ方向へよけてしまうことはある。

 そんな経験は、以前にも何度もあった。

 けれど今は、その程度の出来事ですら、自分と関係があるように思えてしまう。

 亮介は、今度は自分から歩き出せなかった。

 理沙が少し前で振り返った。

「瀬戸さん」

「ごめん」

「何かありました?」

「いや」

 亮介は足元を見た。

「普通に歩くって、どうやるんだったかなと思って」

 理沙は笑わなかった。

 しばらく黙ったあと、亮介のところへ戻ってきた。

「じゃあ、少し止まってましょう」

 そう言って、道路の端に並んだ。

 二人の前を、歩行者が一人通り過ぎた。

 続いて、自転車が一台。

 少し離れたところで、学生らしい二人組が笑いながら歩いている。

 誰も亮介のことを気にしていなかった。

 それなのに彼は、その場から動けなくなっていた。

     *

 翌朝、亮介はいつもより早く出勤した。

 まだ人の少ない時間なら、歩くことを気にせずに済むと思ったからだった。

 実際、駅から市役所までの道では、ほとんど誰ともすれ違わなかった。

 そのことに気づくと、少し歩きやすくなった。

 しかし、庁舎に着いてから考えた。

 今朝はたまたま人が少なかっただけなのか。

 それとも、自分が歩いていたために、誰かが別の道を選んだのだろうか。

 後者を考え始めると、確かめようがなかった。

 通らなかった人の姿は、どこにも残っていない。

 亮介はその考えを振り払うように、机の上の書類を整理した。

 午前十時頃、理沙が道路維持課へやってきた。

「瀬戸さん、昨日の件なんですけど」

 亮介は顔を上げた。

 理沙は薄いファイルを抱えていた。

「今日、午前中にもう一度、現場の確認をしようと思ってます。市役所の西側にある通路なんですけど」

「うん」

「人の流れが見やすいところで、しばらく様子を見たいんです」

 亮介は少し迷った。

 また歩くのか。

 また、誰かが足を止めるところを見るのか。

 そう考えると、机から立ち上がるのが億劫になった。

「今日じゃないと駄目かな」

 理沙は亮介を見た。

「お仕事、何かあります?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

 亮介は書類の端を揃えた。

「もう少し、何を確かめるのか整理してからでもいいんじゃないかな」

 理沙はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。

「それもそうですね」

 ファイルを開き、机の上へ置いた。

「じゃあ、まず記録の確認だけしましょうか」

 亮介は頷いた。

 その返事をした瞬間、少しだけ肩が軽くなった。

 外へ出なくて済む。

 誰かとすれ違わなくて済む。

 そのことに安心した自分が、妙に引っかかった。

     *

 昼過ぎ、二人は市役所の西側にある通路へ出た。

 結局、資料だけでは確かめられないことが残った。

 庁舎と別館をつなぐ通路で、片側には植え込み、反対側には低いコンクリートの壁がある。二人が並んで歩ける程度の幅があり、昼休みには職員が行き来していた。

 秋の陽が薄い雲を通して差し込み、植え込みの葉の上に柔らかな光を落としている。建物の影に入ると空気はひんやりしていたが、風が止まるとまだ少し蒸した。近くの給食センターからなのか、煮物のような甘辛い匂いが流れてきた。

 理沙は通路の端に立った。

「今日は、無理に誰かとすれ違おうとしなくていいです」

「うん」

「ただ、普通に歩いてみてください。私が人の動きを見ます」

 亮介は通路の先を見た。

 向こうから男性職員が一人歩いてくる。

 その後ろには、書類を抱えた女性もいた。

 亮介はゆっくり歩き始めた。

 男性職員とすれ違う少し前、相手がポケットへ手を入れた。

 鍵束が取り出される。

 男性は立ち止まり、鍵を確認した。

 亮介はその横を通り過ぎる。

 男性はすぐに歩き始めた。

 理沙は何も言わなかった。

 亮介も黙って歩いた。

 次に近づいてきた女性は、書類を抱えたまま普通にすれ違った。

 何も起こらなかった。

 亮介はそのことを少しだけ嬉しく思った。

 しかし、数歩進んだところで向こうから別の人が来た。

 今度は年配の女性だった。

 女性は亮介のほうを見ながら歩いていたが、近づく途中で少し速度を落とし、肩に掛けた鞄を持ち直した。

 亮介は、女性が足を止めそうになった瞬間に、自分も止まった。

 すると女性は、鞄の位置を直し終えるとそのまま歩いていった。

 亮介は動かなかった。

 女性の靴音が遠ざかる。

 そのあとで、理沙が近づいてきた。

「瀬戸さん」

「うん」

「今、止まりましたよね」

「うん」

「どうしてですか」

 亮介は女性の背中を見た。

「鞄を直してたから」

「はい」

「俺が通ったら、また止まるかもしれないと思って」

 理沙は頷いた。

「そうですか」

 彼女は手帳へ何かを書き込んだ。

 亮介は、その動きを見ていた。

「浜野さん」

「はい」

「俺が止まれば、みんな普通に歩くんだよな」

 理沙はペンを止めた。

「少なくとも、今見ている範囲ではそうですね」

「じゃあ、俺がずっと止まってれば、誰も変なことしなくて済むのかな」

 理沙は顔を上げた。

「瀬戸さん」

「いや、変なこと言ってるのは分かってる」

 亮介は笑おうとした。

 しかし、口元がうまく動かなかった。

「でも、歩くたびに誰かが止まるんだったら、俺が止まってればいいんじゃないかって」

 理沙は、しばらく黙っていた。

 通路の向こうから別の職員が歩いてきた。

 二人の横を普通に通り過ぎていく。

 その靴音が遠ざかってから、理沙が言った。

「瀬戸さん。止まってください」

 亮介は顔を上げた。

「え?」

「今のまま、少しだけ」

 亮介は足を動かさずにいた。

 理沙は通路の向こうを見た。

 歩行者が一人来る。

 その人は普通に通り過ぎた。

 続いて、二人連れの職員が来る。

 二人も、そのまま歩いていく。

 理沙は何かを確かめるように頷いた。

「はい。ありがとうございます」

 亮介は黙っていた。

「でも、瀬戸さん」

 理沙は手帳を閉じた。

「これで、ずっと止まっているわけにはいかないですよね」

 亮介は、すぐには答えられなかった。

 分かっている。

 仕事もある。

 帰らなければならない家もある。

 娘と会う約束だってある。

 歩かなければ、どこにも行けない。

 当たり前のことだった。

 しかし、その当たり前のことを、今はどうしても簡単に考えられなかった。

 理沙は少し声を落とした。

「無理に歩かなくてもいいです。でも、止まっていれば全部解決するわけでもないと思います」

 亮介は足元を見た。

 自分の靴が、通路の白い舗装の上に並んでいる。

 何も変わっていない。

 靴も、足も、身体も。

 それなのに、次の一歩を出すことだけが、昨日までとはまったく違うことのように思えた。

「……そうだね」

 亮介は小さく答えた。

 理沙は何も言わなかった。

 二人はしばらくその場に立っていた。

 通路を歩く人たちは、誰も足を止めなかった。

 そのことが、亮介にはたまらなく奇妙に感じられた。

 自分が動かなければ、世界はいつもどおりに動く。

 そんなことを、今まで一度も考えたことがなかった。

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