第6話 あなたが歩くと
月曜日の朝、瀬戸亮介は市役所の裏手にある道路を歩いていた。
通勤時間の混雑がひと段落した午前九時半。
道の向こうには小さな図書館があり、その隣には古い郵便局が建っている。歩道のない道路だが車の通行量はそれほど多くなく、近くの商店へ買い物に来た人や、駅へ向かう歩行者がときどき通り過ぎていた。
空は朝から薄く曇っていた。
建物の隙間から入る風は少し冷たく、昨夜の雨が残した湿り気が、コンクリートの塀や植え込みからゆっくり立ち上っている。道路脇のパン屋からは焼きたての生地の匂いが流れ、開店準備をしている店員が、金属製の看板を歩道の端へ運んでいた。
亮介は、道路の向こうに立つ理沙を見た。
彼女は小さな手帳を持ち、時折腕時計を確かめている。
今日は、金曜日に確認した住宅街とは違う場所で、歩行者の動きを見ることになっていた。
道幅も、周辺の建物も、通る人間の数も違う。
共通していることがあるとすれば、どちらも人が日常的に使っている市道だということくらいだった。
亮介は図書館の角を曲がり、郵便局のほうへ歩いた。
正面から男性が一人やってくる。
年齢は四十代くらい。胸の前に小さな段ボール箱を抱え、片手で底を支えていた。
亮介は道の端へ少し寄った。
男性もこちらへ向かってくる。
そのまますれ違おうとしたところで、男性の歩く速度が落ちた。
箱を抱えていた腕が、少し下がる。
男性は一度立ち止まり、段ボールの底を支え直した。
亮介はその横を通り過ぎる。
背後で、箱の角が服に擦れるような音がした。
振り返ると、男性はもう歩き始めていた。
何もおかしくない。
箱が重かったのだろう。
持ち直すために立ち止まっただけだ。
亮介は自分へそう言い聞かせながら、少し先の交差点まで歩いた。
そこで折り返す。
理沙は道路の反対側で、何かを書き込んでいた。
「どうだった?」
亮介が声をかけると、理沙は顔を上げた。
「一人、少し止まりましたね」
「箱を持ってた人?」
「はい」
「あれは箱を直してたんだと思うよ」
「そうでしょうね」
理沙は手帳へ視線を落とした。
「その前に通った女性は、普通に歩いてました」
「うん」
「自転車の人も、そのまま」
「そうだね」
亮介は道路を振り返った。
パン屋の前では、店員が看板の位置を何度か直している。
図書館の入口から出てきた男性が、自転車にまたがった。
道路の反対側を高齢の夫婦が歩いていく。
ありふれた朝の光景だった。
「ここでも起こるんだな」
亮介が言うと、理沙はすぐには答えなかった。
「まだ、そうとは言えませんけどね」
「うん」
「次は少し止まってもらっていいですか」
「ここで?」
「はい。通行の邪魔にならない場所で」
亮介は頷き、道路脇の植え込みの前へ移動した。
そこには古い案内板があり、図書館と郵便局の位置が簡単な地図で示されている。
亮介は案内板を眺めながら、手帳を取り出した。
特に書くことはない。
それでも何かしていないと、ただ道路に立っている自分が目立つような気がした。
理沙は少し離れたところで、人の流れを見ている。
やがて一人の女性が歩いてきた。
薄い茶色のカーディガンを着て、布製の買い物袋を持っている。
女性は亮介のほうへ向かって歩いてきた。
亮介は手帳から目を上げた。
女性は足を止めなかった。
そのまま亮介の横を通り過ぎていく。
靴底が舗装の上で小さな音を立て、買い物袋の中の瓶らしいものが、歩くたびにかすかに触れ合っていた。
亮介は女性を見送った。
しばらくして、別の男性が歩いてきた。
男性も立ち止まらず、亮介の横を通った。
そのあとに来た若い女性は、スマートフォンを見ながら歩いていたが、亮介の前で速度を落とすことはなかった。
理沙が近づいてくる。
「今のところ、普通ですね」
「そうだね」
「瀬戸さん、動いてないですよね」
「うん。ずっとここ」
「じゃあ、もう一度歩いてみてもらえますか」
亮介は手帳をしまった。
「さっきと同じ方向でいい?」
「はい。無理に誰かとすれ違おうとしなくていいです。いつもどおり歩いてください」
亮介は頷いた。
いつもどおり。
その言葉が、少しだけ気になった。
普段、自分はどんなふうに歩いているのだろう。
歩幅は大きいほうだろうか。
右足から出すのか、左足から出すのか。
そんなことを考え始めたせいで、最初の一歩が妙にぎこちなくなった。
理沙に見られていると思うと、ますます歩きにくい。
亮介は小さく息を吐き、図書館のほうへ歩き始めた。
*
二度目の往復では、向こうから若い男性が歩いてきた。
黒いリュックを背負い、片手には折り畳んだ傘を持っている。
雨はもう降っていない。
男性は亮介とすれ違う少し手前で、傘の留め具が外れていることに気づいたらしく、右手を持ち上げた。
歩く速度が落ちる。
傘の布が少し広がりかけ、男性は慌てて押さえた。
亮介はその横を通り過ぎた。
背後で、留め具を留め直す小さな音が聞こえる。
振り返ると、男性はもう歩き出していた。
亮介は足を止めた。
何となく、さっきと同じだと思った。
段ボール箱を持ち直した男性。
傘の留め具を直した男性。
二人とも、自分とすれ違う少し前に速度を落としていた。
しかし、それぞれに理由がある。
傘の留め具が外れたのなら、直すのは当然だ。
亮介は道路の反対側に立つ理沙を見た。
彼女もこちらを見ていた。
理沙は手帳へ何かを書き込み、顔を上げる。
少しだけ眉を寄せている。
亮介はその表情が気になった。
普段の仕事なら、気になることがあればすぐに聞く。
しかし今日は、何を尋ねればいいのか分からなかった。
自分が歩くと、人が立ち止まる。
そう言ってしまえば、何かが確定するような気がした。
亮介は理沙のところへ戻った。
「今の人も、止まりかけたね」
理沙が言った。
「傘を直してた」
「はい」
「たまたまだろうけど」
「そうかもしれません」
理沙は記録用紙を見た。
「でも、少し気になるんです」
「何が?」
「止まる人がいることじゃないです」
亮介は理沙の顔を見た。
「その人たちが、いつ止まるのか」
理沙は道路の向こうへ目を向けた。
「瀬戸さんが近づく直前なんですよね」
亮介は、何か言おうとした。
けれど、うまく言葉が出てこなかった。
そんなことは、前から分かっていた。
犬を連れた女性も、靴紐を結び直した女性も、あのバスに乗り遅れた人も。
自分とすれ違う少し前に、何かをしていた。
しかし、それは自分が見た場面だけを覚えているからではないのか。
何も起きずに通り過ぎた人のことは、いちいち覚えていない。
「偶然かもしれないだろ」
「はい。だから、別の場所でもう少し確認したいです」
理沙はすぐに頷いた。
否定されなかったことに、亮介は少し肩の力が抜けた。
同時に、彼女がまだ調査を終わらせようとしないことも気になった。
*
昼休みを挟み、二人は市役所から歩いて十分ほどの場所にある小さな商店街へ向かった。
午後の商店街は静かだった。
八百屋の前には段ボール箱が積まれ、店先の野菜には霧吹きで水がかけられている。少し先の理髪店では回転灯がゆっくり回り、店内からはラジオの野球中継が漏れていた。
昼間の陽が建物の間へ差し込み、白い舗装の上にまだらな影を落としている。揚げたてのコロッケの匂いが風に乗って流れ、店の奥では金属製の盆を重ねる乾いた音が聞こえた。
亮介は商店街の入口で立ち止まった。
「こっちは人が多いね」
「さっきよりは」
理沙は周囲を見回した。
「でも、道幅は広いです。車もほとんど入ってこないですし」
「そうだね」
「瀬戸さん、いつもどおり歩いてみてください」
亮介は頷いた。
今度は、あまり考えずに歩こうとした。
通行人の動きを数えたり、足を止めた理由を考えたりするのをやめる。
商店街を普通に歩く。
それだけのことだった。
最初にすれ違ったのは、買い物帰りらしい高齢の女性だった。
女性は亮介のほうへ向かって歩いてきたが、すれ違う少し前に立ち止まり、買い物袋を持ち直した。
袋の中で野菜が動いたらしい。
女性は中身を確かめ、口を結び直す。
亮介はその横を通り過ぎた。
すぐあとに、自転車が一台通った。
自転車に乗った男性は速度を変えず、亮介の横を抜けていった。
少し先では、若い男性が二人、店先で立ち話をしている。
二人は亮介が近づいても動かなかった。
道路を塞いでいるわけでもないので、亮介はその横を普通に通ることができた。
何も起こらない人もいる。
そのことが、かえって気になった。
亮介はさらに歩いた。
向こうからスーツ姿の女性がやってくる。
片手には細長い紙袋があり、もう一方の手でスマートフォンを持っている。
女性は亮介の少し前まで来たところで、店のショーウインドーへ目を向けた。
足が止まる。
紙袋の端が、女性の膝に触れた。
亮介はその横を通り過ぎようとした。
そのとき、なぜか足が動かなくなった。
何かに掴まれたわけではない。
身体は普通に動く。
ただ、女性が立ち止まったことを確認した瞬間、亮介自身も足を止めていた。
女性はショーウインドーを見ている。
その店には、新しい季節物の服が並んでいた。
女性は一度だけ値札へ目を向けたあと、何も買わずに歩き始める。
亮介の横を、普通に通り過ぎていった。
彼女は亮介を見なかった。
声もかけなかった。
ただ、歩いていった。
亮介はその背中を見つめた。
理沙が少し遅れて追いついてくる。
「どうしました?」
「今の人」
「はい」
「止まっただろ」
「ええ」
「でも、俺が止まったら、そのまま歩いていった」
理沙は亮介の足元を見た。
「そうですね」
「さっきの住宅街と同じだ」
理沙はすぐには答えなかった。
亮介は店のショーウインドーを振り返った。
女性が見ていた服が、ガラスの向こうに並んでいる。
薄いベージュ色の上着。
紺色のスカート。
値札には、少し大きめの赤い数字が印刷されていた。
買い物の途中で目に入れば、足を止めたくなるような商品だった。
何も不自然ではない。
それなのに、女性が足を止めた瞬間だけが、妙にはっきり思い出せた。
自分が近づいた。
女性が止まった。
自分も止まった。
女性が歩き出した。
その順番が、頭の中で何度も繰り返された。
*
市役所へ戻ったのは、午後二時半を過ぎた頃だった。
理沙は、午前中からの記録を会議用の小さなテーブルへ広げた。
亮介はその向かいに座り、紙に並んだ時刻を眺めていた。
住宅街。
図書館の裏。
商店街。
場所が違う。
道幅も違う。
歩いていた人間も、もちろん違う。
それなのに、似たような動きが繰り返されている。
「瀬戸さん」
理沙が言った。
「変なことを聞いてもいいですか」
「何?」
「先週、深見さんの家で映像を見たとき、瀬戸さんが歩いている場面が何度かありましたよね」
「うん」
「あのとき、私は道路の状態ばかり見てました。でも、金曜日の映像を見直して、ちょっと気になったんです」
理沙は記録用紙を一枚、亮介の前へ滑らせた。
時刻の横に、小さな丸がいくつもついている。
「瀬戸さんが歩いていた時間と、立ち止まった人がいた時間です」
「うん」
「全部じゃありません。関係なさそうな停止もありますし、瀬戸さんが歩いてても普通に通り過ぎる人もいます」
理沙は一度、言葉を切った。
「でも、近くで進路が重なりそうになった人が、先に歩く速度を変えてるんです」
亮介は紙を見た。
記録の意味は分かる。
ただ、それが何を表しているのかを考えようとすると、思考が途中で止まった。
「みんな、理由があるんだろ」
「あります」
「傘を直したり、荷物を持ち直したり」
「そうです」
「じゃあ、何もおかしくないじゃないか」
思ったより強い声が出た。
理沙が少し顔を上げたので、亮介は膝の上で手を組み直した。
「ごめん。責めてるわけじゃないんだけど」
「いえ」
理沙は首を振った。
「私も、何か特別なことが起きてるって決めつけたいわけじゃないです」
その言葉に、亮介は少しだけ頷いた。
理沙は続けた。
「だから、止まってるときの記録も見ました」
別の紙が出される。
「瀬戸さんが道路脇で立ち止まってたときは、同じような場所を人が普通に通っています」
「それは、俺が邪魔にならないところにいたからだろ」
「そうかもしれません」
「歩いてるときだって、別に道の真ん中を歩いてるわけじゃない」
「ええ」
理沙は記録用紙を重ねた。
「さっきの商店街は、道幅が広かったですよね」
「うん」
「それでも、同じようなことがありました」
亮介は返事をしなかった。
商店街の女性が浮かぶ。
ショーウインドーを見て立ち止まった人。
自分が止まると、普通に歩き出した人。
「浜野さんは、何が言いたいの」
ようやく声が出た。
理沙は少し考えてから答えた。
「まだ原因は分かりません。ただ、道路の構造や場所だけでは説明しにくくなってきました」
「うん」
「今日、瀬戸さんが歩いているとき、私はずっと人の動きを見てました」
理沙は紙を裏返した。
そこには、午前と午後の観察結果が簡単に整理されていた。
亮介が歩いている時間。
立ち止まっている時間。
別の場所を歩いている時間。
どこにも、怪異などという言葉は書かれていない。
ただ、事実だけが並んでいた。
「瀬戸さんが歩くと、近くの人のほうが先に道を譲ることが多いんです」
亮介は顔を上げた。
理沙は目をそらさなかった。
「何もないときもあります。でも、場所を変えても同じようなことが起きて、瀬戸さんが止まると普通に通り過ぎる。そこまで重なると、偶然だけでは片づけにくいと思います」
「俺が?」
「はい」
「俺が歩くと?」
理沙は頷いた。
亮介は記録用紙へ目を落とした。
自分が歩いた道。
その横で立ち止まった人。
自分が止まると、何事もなかったように歩き始める人。
これまで見てきた光景が、順番を変えて頭の中へ戻ってきた。
犬を連れた女性。
新聞を持ち直した男性。
靴紐を結んだ女性。
バスに乗り遅れた人。
誰も、自分に何かをされたわけではない。
誰も、自分を見て怖がったり、逃げたりしていない。
ただ、少しだけ道を譲っていた。
亮介は手のひらを見た。
何も変わっていない。
爪の形も、指先の細かな傷も、昨日と同じだった。
「じゃあ、あの道は?」
自分でも驚くほど小さな声だった。
「深見さんの家の前の道」
理沙は答える前に、少しだけ唇を結んだ。
「少なくとも、あの道だけに原因があるとは思えません」
「道路じゃないのか」
「はい」
理沙は記録用紙を指で押さえた。
「瀬戸さんが歩いているときに、何かが起きているように見えるんです」
亮介は椅子の背にもたれた。
窓の外では、庁舎の駐車場から車が一台出ていくところだった。
運転手が入口の警備員へ手を上げる。
警備員も軽く会釈を返す。
何でもないやり取りだった。
亮介は、その動きを最後まで見ていた。
*
仕事を終えたあとも、亮介はしばらく席を立てなかった。
課内では帰り支度をする職員が増え、椅子を引く音や書類をしまう音が続いている。
誰かが「お疲れさまでした」と言う。
別の誰かが返事をする。
窓の外では夕方の光が薄くなり、駐車場の照明が一つずつ点き始めていた。
亮介は鞄を持ち、ようやく立ち上がった。
廊下へ出る。
階段を下りる。
玄関の自動ドアが開くと、冷たい外気が顔に触れた。
どこかで落ち葉を燃やしているような匂いがしたが、近くに煙は見えなかった。
庁舎の前には、歩行者が何人かいた。
仕事を終えて帰る職員。
自転車を押している女性。
書類の入った封筒を抱えた男性。
皆、それぞれの方向へ歩いている。
亮介は階段の下で足を止めた。
このまま駅へ向かえば、帰宅できる。
いつもどおりの道だ。
何も考える必要はない。
そう思って一歩踏み出しかけたとき、向こうから来た男性が、鞄を持ち直すために足を緩めた。
男性は亮介のほうへ向かっている。
まだ少し距離がある。
亮介は、その動きを見ていた。
男性は鞄の取っ手を握り直した。
それから顔を上げ、こちらへ歩いてくる。
亮介は動かなかった。
男性はそのまま近づき、亮介の横を通り過ぎていった。
何も起こらなかった。
普通の人が普通に歩いただけだった。
亮介は男性の背中を見送った。
そのあと、駅へ向かって歩き出そうとした。
右足が少し前へ出る。
靴底が地面へ触れる直前、また向こうから別の人が来るのが見えた。
亮介は足を戻した。
その人は何もせず、普通に通り過ぎていった。
冷たい風が庁舎の壁に沿って流れ、亮介の上着の裾を揺らした。
いつもなら、何も気にせず歩いていたはずだった。
誰が向こうから来ようと、すれ違えばいい。
必要なら自分が少し道を譲ればいい。
それだけのことだった。
しかし今は、足を出すタイミングが分からない。
歩き始めれば、あの人も止まるのだろうか。
今度の人は、何を理由に立ち止まるのだろう。
靴紐か。
スマートフォンか。
鞄の中の何かか。
そう考えているうちに、亮介の前を三人の歩行者が通り過ぎた。
誰も振り返らなかった。
誰も彼を気にしていなかった。
亮介は鞄の持ち手を握り直し、もう一度歩こうとした。
しかし、また誰かが近づいてきた。
その人が通り過ぎるまで待つことにした。
待っているあいだに、別の人が来た。
亮介はまた待った。
いつの間にか、庁舎の玄関灯が明るく感じられるほど辺りが暗くなっていた。
駅へ向かう道は、目の前にまっすぐ伸びている。
通行止めの標識もなければ、道路を塞ぐものもない。
それなのに亮介は、そこからなかなか歩き出せなかった。




