第5話 何も起こらない道
金曜日の朝、深見澄江の家の前を、十三人が通った。
そのうち二人は自転車に乗っていた。
歩いていた十一人のうち、一人が道路脇で足を止めた。
男性は携帯電話を耳に当て、しばらく話してから歩き始めた。
もう一人、買い物袋を持った女性が少し速度を落としたが、後ろから来た自転車を先に行かせるためだった。
ほかの人たちは、何事もなく通り過ぎていった。
画面を見ていた浜野理沙は、時刻と人数を書き込んだ。
午前九時十二分。
深見家の居間には、朝の光が障子越しに差し込んでいた。昨夜は雨が降らなかったらしく、窓の外の敷石は乾いている。室内には淹れたばかりの緑茶の香りが残り、庭のどこかで水道の蛇口が閉まる音がした。
澄江は洗濯物を干しているところだった。
今日は道路相談の確認として、普段と同じ時間帯にどのくらい人が立ち止まるのか調べることになっていた。
澄江も、もう少し確かめたいと言った。
「どうですか、何か分かりそう?」
縁側から戻ってきた澄江が尋ねる。
「まだ何とも。普通に歩いてる人のほうが多いですね」
「そうでしょうねえ」
澄江は理沙の前へお茶を置いた。
「私も、いつも止まるって言ってるわけじゃないんです。止まるときが妙に気になるだけで」
「どんなところがですか」
「そうねえ」
澄江は画面をのぞき込んだ。
ちょうど高齢の男性が杖をついて歩いているところだった。
男性は塀の途中で立ち止まり、足元を確かめるように杖の先を動かしたあと、また歩き始めた。
「ほら、ああいうのは別に何とも思わないんです」
「杖をついてますしね」
「そう。足元を確かめてるんでしょう。でも、たまに何もないところで急に止まる人がいるから」
理沙は映像を止めなかった。
男性がゆっくり歩いていく。
そのあとに、スーツ姿の若い女性が現れた。
女性は前を見たまま歩き、丁字路を曲がって画面から消えた。
「この人は?」
「普通に歩いてますね」
「そうよね」
澄江は少し笑った。
「こうしてずっと見てると、何でもない道ね」
理沙も笑った。
まったくそのとおりだった。
午前中の映像には、道路に何か問題があるような様子は見られない。
通行人の歩く速度はそれぞれ違い、荷物の多い人はゆっくり進み、急いでいるらしい人は足早に通り過ぎる。
道を譲る人もいれば、譲らずにそのまま進む人もいた。
当たり前の光景だった。
理沙は確認票の端へ、小さく線を引いた。
何も起きないことを記録するのは、意外と難しい。
止まった人なら時刻を書けばいい。
しかし、止まらなかった人については、どの地点からどの地点まで歩き、何秒で通過したのかを決めなければ、比較する材料にならない。
理沙は道路の端にある電柱と、ごみ収集容器の位置を目安にした。
映像に映る短い区間を通過するまでの時間を、何人かについて確認してみる。
速い人も遅い人もいた。
それだけだった。
*
亮介が市役所から連絡したのは、午前十一時過ぎだった。
『そっちはどう?』
理沙は電話を耳に当て、画面を止めた。
「今のところ、特に変わった様子はないです」
『立ち止まる人もいない?』
「何人かいますよ。電話してる人とか、杖を直してる人とか。でも、何か共通した動きがあるかと言われると」
『そうか』
「瀬戸さん、午後は来られます?」
『二時前には行けると思う。別件が終わればだけど』
「分かりました。もう少し見ておきます」
電話を切ったあと、理沙は澄江へ午後の予定を伝えた。
「瀬戸さんも来るんですね」
「はい。もう一度、路面の状況も見たいそうです」
「熱心ねえ」
澄江はそう言いながら、テレビ台の上に置いていた眼鏡をかけ直した。
「でも、道路には何もないんでしょう?」
「今のところは」
「じゃあ、どうして人が止まるんでしょうね」
理沙は返事を考えた。
何かがあるから止まる。
それとも、止まる人がたまたま目についただけなのか。
どちらもまだ確かめられていない。
「少なくとも、ここを歩く人がみんな止まるわけじゃありません」
そう答えると、澄江は頷いた。
「それはそうね」
ごく自然な返事だった。
理沙はもう一度、映像の再生を始めた。
道路に人が現れる。
歩いていく。
消える。
また別の人が現れる。
その繰り返しだった。
何も起こらない映像は、見ているうちに時間の感覚を曖昧にしてしまう。
画面の中の影が少し動いたことだけが、時間の経過を教えていた。
*
亮介が到着したのは午後一時五十分だった。
朝から別の道路の確認に出ていたため、作業服の背中にうっすら汗が染みている。
南倉市は昼過ぎから雲が広がり始めていた。
陽が隠れると空気は急に涼しくなり、道端の植木が風に揺れている。どこかで刈ったばかりの草の匂いが漂い、開け放たれた窓からはラジオの声が低く聞こえていた。
「お疲れさまです」
理沙が玄関先へ出てきた。
「どうだった?」
「午前中は、特に変わったことはありませんでした」
「全然?」
「いえ、立ち止まる人はいましたよ。ただ、普通に歩いてる人も多くて」
理沙は記録用紙を見せた。
時刻と人数が細かく並んでいる。
「今の段階だと、道路に原因があるとは言いにくいですね」
「そうか」
亮介は記録に目を通した。
何十人もの歩行者が通っている。
そのうち何人かが立ち止まり、ほかの人は歩き続ける。
考えてみれば当然のことだった。
前の日まで自分が何を気にしていたのか、少し分からなくなった。
「じゃあ、これで終わりにする?」
亮介が尋ねると、理沙は少し迷った。
「もう少しだけ、午後も見てもいいですか」
「もちろん」
「時間帯が違うと人の動きも変わると思うので」
「そうだね」
亮介は道の向こうへ目をやった。
小型のトラックがゆっくり近づいてきた。
道路の端には、高齢の男性が一人歩いている。
トラックが男性の横を通り過ぎた。
男性は一歩だけ道端へ寄り、車が通るのを待った。
ごく普通の譲り合いだった。
理沙も同じ光景を見ていた。
「瀬戸さん、少し道路のほう見てきます?」
「うん。側溝の位置も確認しておく」
「私はこっちで記録を続けます」
亮介は頷き、道路へ歩き出した。
澄江の家の前を通り、丁字路のほうへ向かう。
そこへ向こうから、新聞を小脇に抱えた男性が来た。
六十代くらいの男だった。
男性は亮介の姿を見ると、歩く速度を少し落とした。
それから新聞を持ち直し、折り畳まれた端を指で押さえた。
亮介は男性の横を通り過ぎる。
男性は新聞を抱え直すと、再び歩き始めた。
亮介は、その動きを見送った。
何かが起きた。
そう思ってしまったこと自体が、もう癖になっている。
男は新聞を持ち直しただけだ。
理由もある。
それなのに亮介は、通り過ぎたあとで振り返ってしまった。
男はもう普通に歩いていた。
*
午後三時を少し回った頃、亮介は再び澄江の家へ戻った。
理沙はパソコンの前に座ったまま、先ほどの映像を確認していた。
「どう?」
亮介が声をかける。
「何人か、ちょっと気になる動きがありました」
「どんな?」
「まず、この人です」
画面には、新聞を抱えた男性が映っていた。
亮介が見かけた人だった。
男性は普通に歩いていたが、あるところで少し速度を落とし、新聞を持ち直す。
その横を亮介が通り過ぎる。
「この人、新聞がずれたんでしょうね」
「そうだと思う」
「でも、少し止まりかけてますよね」
理沙は映像を戻した。
男性が新聞に手をかける。
そのすぐあと、画面の端から亮介が現れる。
亮介は足を止めず、男性の横を通り過ぎていった。
「これだけなら、普通です」
「うん」
「でも、もう一つありました」
理沙は別の時刻の映像を開いた。
亮介が丁字路のほうから戻ってくる。
向こうから買い物袋を持った女性が歩いてきた。
女性は亮介に近づくと、道端へ寄った。
買い物袋の中で何かが傾いたらしく、女性は袋の口を開いて中身を直している。
その横を亮介が通過した。
女性は袋を持ち直し、歩き始めた。
「この人も、袋を直してるんですね」
「そうだね」
理沙は画面を止めた。
「気になるのは、そこじゃないんです」
亮介は理沙を見た。
「どこ?」
理沙はすぐには答えず、午前中の記録用紙を隣に置いた。
「午前中も、袋を直す人はいました。スマートフォンを見る人もいたし、靴を直した人もいました」
「うん」
「ただ、午後に比べると、歩いている途中で急に速度を落とす人が少ない気がするんです」
「時間帯が違うからじゃない?」
「私もそう思いました。だから、まだ何とも言えません」
理沙は記録用紙の一部を指さした。
「瀬戸さんが来る前は、こうです」
次に、午後の部分を示す。
「来てからは、少し変わってます」
亮介は用紙を見つめた。
数字が並んでいる。
人数も、通過時間も、停止した回数も、どれも大きな違いではない。
少しだけ、午後のほうが停止が多いように見える。
「これだけじゃ分からないよね」
「はい。通行量も違いますし」
「天気も変わった」
「そうなんです」
理沙は頷いた。
亮介は少し安心した。
原因になりそうなものは、いくらでもある。
たまたま午後に止まる人が多かった。
それだけの話かもしれない。
理沙は映像を閉じず、別の部分を再生した。
午後二時四十分頃。
亮介が道路脇で立ち止まり、側溝の蓋を確認している。
その横を、一人の女性が歩いていった。
女性は何もせず、普通に通り過ぎた。
「このときは、何もないですね」
理沙が言う。
「そうだね」
「瀬戸さん、ずっと止まってたんですか」
「蓋の具合を見てたから、しばらくは」
理沙は再生を続けた。
亮介はしゃがみ込み、側溝の縁を確かめている。
そこへ別の歩行者が現れた。
男性だった。
男性は亮介の横を通り、そのまま歩いていった。
亮介は顔を上げるだけで、動かなかった。
理沙は映像を止めた。
室内には、冷蔵庫の低い音が響いていた。
「止まってるときは、普通ですね」
「そりゃ、そうだろう」
亮介は笑った。
しかし、理沙は笑わなかった。
別に深刻な顔をしているわけでもない。ただ、何かを考えているようだった。
「浜野さん?」
「あ、すみません」
理沙は画面を見直した。
「これ、場所を変えても同じことが起きるんでしょうか」
「場所?」
「はい。別の道路で」
亮介は少し考えた。
「同じような道なら、似たことは起こるんじゃないかな」
「そうかもしれません」
「道路の条件を調べるなら、比較したほうがいいよね」
「ええ」
理沙は頷いたが、画面から目を離さなかった。
そこには、側溝の前でしゃがみ込む亮介が映っている。
その横を、歩行者が普通に通り過ぎていく。
いつもと同じ住宅街だった。
誰も立ち止まらない。
何も起こらない。
亮介は、画面の中の自分が少し滑稽に見えた。
側溝の蓋を調べるために、わざわざしゃがみ込んでいる。
その間、通行人は何事もなく歩いている。
道路に異常があるようには、どうしても見えなかった。
「月曜日、もう一か所見てみませんか」
理沙が言った。
「別の道路を?」
「はい。今度は市役所の近くで」
「いいけど、何を比べるの?」
理沙はすぐに答えなかった。
少しだけ唇を結び、画面の中の亮介と、その横を通り過ぎる男性を見比べた。
「道路が違っても同じことが起きるなら、何が同じなのか考えられると思うんです」
亮介は、その言葉の意味を考えた。
道幅か。
時間帯か。
通行人の数か。
それとも、ほかに何かあるのだろうか。
理沙が記録用紙を閉じる。
「まだ、何も分かってませんけど」
そう言って、少し笑った。
亮介も頷いた。
ただ、帰る前にもう一度だけ映像を見せてもらった。
画面の中で、亮介は立ち止まっている。
その横を男性が普通に通り過ぎていく。
数秒後、画面の中の亮介が歩き出す。
道路の向こうから別の人間が近づいてきた。
亮介は、その人物が何をしていたのか思い出せなかった。
映像を再生すれば分かることだった。
けれど、もう一度見たいとは言い出せなかった。
何を確かめようとしているのか、自分でも説明できなくなっていた。




