第4話 間に合わなかった人
女が足を止めたのは、バス停まであと三十メートルほどの場所だった。
肩に掛けた鞄が前へ滑り、肘の内側で一度跳ねる。女はそれを押さえようとして右手を上げたが、何かを思い出したように鞄の口を開き、中をのぞき込んだ。
瀬戸亮介は、その二歩ほど手前を歩いていた。
道幅は決して狭くない。ただ、角の家から伸びた植木が道路側へ少し張り出しているため、二人がそのまま進めば、どちらかが肩を引く必要はあった。
女は立ち止まり、鞄の中を探り始める。
亮介は植木の枝に触れないよう少し身体を傾け、その横を通り過ぎた。
薄い水色のシャツに黒いズボン。女の足元には履き慣れた様子のスニーカーが見え、白い靴紐の先が小さく揺れていた。
女は何かを探している。
それだけのことだった。
亮介が角を曲がると、広い道路の向こうに緑色の路線バスが見えた。
バスは停留所に停まっていたが、ちょうどドアを閉じるところだった。
空気の抜ける短い音がして、車体がわずかに傾く。
それからゆっくりと動き出した。
後ろで駆け足が聞こえた。
「あっ」
先ほどの女だった。
女は鞄から交通系ICカードを取り出したまま、歩道の端まで走った。けれどバスはすでに車道へ出ており、赤い尾灯を小さくしながら交差点のほうへ離れていく。
女は二、三歩進んだところで立ち止まった。
カードを握った右手が、しばらく胸の前に残っていた。
「もう、なんで今なの」
誰に言うでもなくつぶやき、女は鞄の口を閉じた。
亮介は声をかけかけて、やめた。
自分にはどうすることもできない。
次のバスを待つか、駅まで歩くか。女が選べるのは、おそらくそのどちらかだろう。
停留所の時刻表には、次の便まで二十四分あると書かれていた。
女は時刻表を見上げ、息を吐いた。
その横を、何台もの車が通り過ぎていく。
十月に入ってから、日暮れが急に早くなったように感じる。午後四時半を過ぎたばかりだというのに、住宅の屋根が道路へ長い影を落とし、日陰には昼間の熱がもう残っていなかった。
近くの惣菜店から揚げ油の匂いが流れ、道路の向こうでは工事用の機械が低い音を立てている。信号が変わるたび、車の列が動き出し、しばらくしてまた静かになった。
女はスマートフォンを取り出した。
画面を何度か触り、時刻表をもう一度見上げる。
亮介は停留所の前に立ったまま、ふと先ほどの細い道を振り返った。
あの女が鞄を開いたのは、自分とすれ違う直前だった。
もっと手前でカードを探していれば、どうだっただろう。
あるいは、バス停まで歩いてから探していれば。
いや、乗る前にカードを用意しておくのは珍しくない。あの場所で思い出しただけかもしれない。
女がカードを探していた時間など、せいぜい数秒だった。
その数秒がなかったとしても、バスに間に合ったかどうかは分からない。
運転手がもう少し早くドアを閉めていたかもしれないし、信号の巡り合わせで出発が早まっていた可能性もある。
亮介はもう一度、女を見た。
女はスマートフォンを耳に当てていた。
「ごめん、一本逃した。うん、次ので行く」
声は落ち着いていた。
「大丈夫。先に始めてて」
電話を切ると、女はバス停のベンチへ腰を下ろした。
特別なことは何も起きていない。
バスに乗り遅れた人が一人いる。
ただそれだけの光景だった。
それなのに亮介は、女が鞄へ手を入れた瞬間の動きを、何度も思い出していた。
*
「ずいぶん見てましたね」
道路の向こうから浜野理沙が戻ってきた。
片手に交通安全施設の確認票を持ち、もう一方の手で髪を耳にかけている。
今日は、この付近に設置された注意喚起標識の反射材を確認するため、一緒に現地へ来ていた。
「バス、行っちゃいましたね」
「うん」
「知り合いの方ですか?」
「いや。さっき道ですれ違った人」
亮介は停留所のほうを見た。
女はベンチに座ったまま、鞄の中の物を整理している。
「カードを探してて、ちょっと止まったんだよ。それでバスに間に合わなくて」
「ああ、ありますね。そういうこと」
「そうだね」
理沙は確認票を閉じた。
「私もたまにやります。改札の前でカードが見つからなくて、後ろの人に先に行ってもらったり」
「うん」
「気になるんですか?」
亮介は答える前に、植木が張り出した細い道へ目を向けた。
「あの人が止まったの、俺とすれ違う直前だったんだ」
「はい」
「それで俺が通ったら、また歩き始めた」
理沙は黙って聞いていた。
「この前の住宅街でも似たことがあっただろ」
「ありましたね」
「何か、関係あるのかなと思って」
理沙は細い道と停留所を順番に見た。
「でも、カードは本当に探してたんですよね」
「うん。出てきたのも見た」
「じゃあ、止まった理由はありますよね」
「そうなんだよ」
亮介は自分でも何を言いたいのか分からなくなった。
女がカードを探した理由は明らかだ。
けれど、なぜあの瞬間だったのか。
そんなことを考え始めたら、毎日何百回と繰り返される人の行動すべてに、理由を尋ねなければならなくなる。
「仮に三秒早く歩いていたら、間に合ったと思う?」
理沙は停留所の位置を確かめた。
「どうでしょう。運転手さんが気づいて待ってくれたかもしれないし、逆にもっと早く出てたかもしれません」
「そうだよな」
「気になるなら、記録しておくのはいいと思います。ただ、止まったこととバスに乗れなかったことは、今は分けたほうがいいです」
亮介は理沙を見た。
彼女は確認票を開き直し、標識の番号を確かめている。
いつもの仕事のときと同じ口調だった。
「瀬戸さん?」
「ああ、ごめん」
「向こうの反射板も見ておきたいので、もう少し歩いていいですか」
「うん、行こう」
二人は道路の端を並んで歩き始めた。
しばらく進むと、前から買い物袋を提げた高齢の男性が来た。
男性は理沙とすれ違う少し前に歩幅を狭めたが、立ち止まりはしなかった。
すれ違ったあとも、そのまま同じ速度で歩いていく。
亮介は男性の背中を見送った。
今のは普通だった。
普通というのは、何を基準に決めるのだろう。
自分も男性に少し道を譲ったし、理沙も身体を傾けていた。
人がすれ違うとき、どちらかが譲るのは当たり前だ。
その当たり前のことを、いつから数えるようになったのか。
亮介は靴の裏に小石が挟まったような気がして、足を止めた。
確かめてみたが、何もついていなかった。
*
帰宅したのは午後七時を少し過ぎた頃だった。
玄関の照明を点けると、靴箱の上に置いた封筒が目に入った。
先週届いた学校からの案内で、娘の綾音が参加する行事の日程が書かれている。
亮介は靴を脱ぎ、封筒を手に取った。
土曜日の午後二時。
その日は綾音と会う約束もしていた。
忘れるわけにはいかない。
冷蔵庫に貼った予定表を確認していると、スマートフォンが震えた。
綾音からのメッセージだった。
『パパ、学校の裏の小さい公園って知ってる?』
亮介はしばらく画面を見た。
以前、娘がまだ低学年だった頃、あの公園で一緒に遊んだことがある。
滑り台の下に砂がたまっていて、綾音が靴の中へ何度も砂を入れてしまった。帰るときには靴下まで砂だらけになり、恵子に笑われたのを覚えている。
『知ってるよ。前に一緒に行っただろ』
少しして返事が届いた。
『うん。あそこらへん、パパも歩くの?』
『前はよく通ってたよ。最近は駅のほうが多いかな』
『ふうん』
亮介は画面を見つめた。
何か用事があるのだろうか。
『どうかした?』
『今日、晴香とそこ通ったから』
そのあとに、小さな猫のスタンプが送られてきた。
亮介も適当なスタンプを返す。
会話はそれで終わった。
綾音は小さい頃から、何でも話す子というわけではなかった。
会っているときには学校のことや友達のことをよく話すが、メッセージでは短い返事が多い。何か聞きたいことがあっても、最初からその用件を言うとは限らない。
今回も、ただ公園を思い出しただけなのだろう。
亮介はスマートフォンを伏せ、冷蔵庫を開けた。
冷たい空気が顔に触れる。
奥に残っていた総菜を取り出し、電子レンジへ入れる。
回転皿がゆっくり動き始めた。
亮介はその前に立ったまま、夕方のバス停を思い出していた。
鞄を探る女の指。
遠ざかる緑色の車体。
間に合わなかったあと、女が誰かへ電話していたこと。
予定を少し遅らせてもらっただけかもしれない。
何か大切な用事だったのかもしれない。
どちらなのかは分からない。
電子レンジが終了音を鳴らした。
亮介は扉を開け、熱くなった容器を取り出した。
指先に熱が伝わり、慌てて持ち直す。
それだけのことで、少しだけ現実へ戻された気がした。
食卓に座り、割り箸を割る。
テレビでは、明日の天気を伝えていた。
週末はよく晴れるらしい。
亮介は綾音との約束をもう一度確認してから、スマートフォンを置いた。
もし、自分が誰かの前で数秒立ち止まったら。
その人の一日は、少しだけ変わるのだろうか。
そう考えかけて、亮介は箸を動かした。
そんなことを確かめる方法はない。
誰かが立ち止まった理由なら、聞けば教えてもらえる。
しかし、立ち止まらなかったら何が起きていたのか。
それは、誰にも分からなかった。




