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通らない道  作者: asnt2026


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4/30

第4話 間に合わなかった人

女が足を止めたのは、バス停まであと三十メートルほどの場所だった。

 肩に掛けた鞄が前へ滑り、肘の内側で一度跳ねる。女はそれを押さえようとして右手を上げたが、何かを思い出したように鞄の口を開き、中をのぞき込んだ。

 瀬戸亮介は、その二歩ほど手前を歩いていた。

 道幅は決して狭くない。ただ、角の家から伸びた植木が道路側へ少し張り出しているため、二人がそのまま進めば、どちらかが肩を引く必要はあった。

 女は立ち止まり、鞄の中を探り始める。

 亮介は植木の枝に触れないよう少し身体を傾け、その横を通り過ぎた。

 薄い水色のシャツに黒いズボン。女の足元には履き慣れた様子のスニーカーが見え、白い靴紐の先が小さく揺れていた。

 女は何かを探している。

 それだけのことだった。

 亮介が角を曲がると、広い道路の向こうに緑色の路線バスが見えた。

 バスは停留所に停まっていたが、ちょうどドアを閉じるところだった。

 空気の抜ける短い音がして、車体がわずかに傾く。

 それからゆっくりと動き出した。

 後ろで駆け足が聞こえた。

「あっ」

 先ほどの女だった。

 女は鞄から交通系ICカードを取り出したまま、歩道の端まで走った。けれどバスはすでに車道へ出ており、赤い尾灯を小さくしながら交差点のほうへ離れていく。

 女は二、三歩進んだところで立ち止まった。

 カードを握った右手が、しばらく胸の前に残っていた。

「もう、なんで今なの」

 誰に言うでもなくつぶやき、女は鞄の口を閉じた。

 亮介は声をかけかけて、やめた。

 自分にはどうすることもできない。

 次のバスを待つか、駅まで歩くか。女が選べるのは、おそらくそのどちらかだろう。

 停留所の時刻表には、次の便まで二十四分あると書かれていた。

 女は時刻表を見上げ、息を吐いた。

 その横を、何台もの車が通り過ぎていく。

 十月に入ってから、日暮れが急に早くなったように感じる。午後四時半を過ぎたばかりだというのに、住宅の屋根が道路へ長い影を落とし、日陰には昼間の熱がもう残っていなかった。

 近くの惣菜店から揚げ油の匂いが流れ、道路の向こうでは工事用の機械が低い音を立てている。信号が変わるたび、車の列が動き出し、しばらくしてまた静かになった。

 女はスマートフォンを取り出した。

 画面を何度か触り、時刻表をもう一度見上げる。

 亮介は停留所の前に立ったまま、ふと先ほどの細い道を振り返った。

 あの女が鞄を開いたのは、自分とすれ違う直前だった。

 もっと手前でカードを探していれば、どうだっただろう。

 あるいは、バス停まで歩いてから探していれば。

 いや、乗る前にカードを用意しておくのは珍しくない。あの場所で思い出しただけかもしれない。

 女がカードを探していた時間など、せいぜい数秒だった。

 その数秒がなかったとしても、バスに間に合ったかどうかは分からない。

 運転手がもう少し早くドアを閉めていたかもしれないし、信号の巡り合わせで出発が早まっていた可能性もある。

 亮介はもう一度、女を見た。

 女はスマートフォンを耳に当てていた。

「ごめん、一本逃した。うん、次ので行く」

 声は落ち着いていた。

「大丈夫。先に始めてて」

 電話を切ると、女はバス停のベンチへ腰を下ろした。

 特別なことは何も起きていない。

 バスに乗り遅れた人が一人いる。

 ただそれだけの光景だった。

 それなのに亮介は、女が鞄へ手を入れた瞬間の動きを、何度も思い出していた。

     *

「ずいぶん見てましたね」

 道路の向こうから浜野理沙が戻ってきた。

 片手に交通安全施設の確認票を持ち、もう一方の手で髪を耳にかけている。

 今日は、この付近に設置された注意喚起標識の反射材を確認するため、一緒に現地へ来ていた。

「バス、行っちゃいましたね」

「うん」

「知り合いの方ですか?」

「いや。さっき道ですれ違った人」

 亮介は停留所のほうを見た。

 女はベンチに座ったまま、鞄の中の物を整理している。

「カードを探してて、ちょっと止まったんだよ。それでバスに間に合わなくて」

「ああ、ありますね。そういうこと」

「そうだね」

 理沙は確認票を閉じた。

「私もたまにやります。改札の前でカードが見つからなくて、後ろの人に先に行ってもらったり」

「うん」

「気になるんですか?」

 亮介は答える前に、植木が張り出した細い道へ目を向けた。

「あの人が止まったの、俺とすれ違う直前だったんだ」

「はい」

「それで俺が通ったら、また歩き始めた」

 理沙は黙って聞いていた。

「この前の住宅街でも似たことがあっただろ」

「ありましたね」

「何か、関係あるのかなと思って」

 理沙は細い道と停留所を順番に見た。

「でも、カードは本当に探してたんですよね」

「うん。出てきたのも見た」

「じゃあ、止まった理由はありますよね」

「そうなんだよ」

 亮介は自分でも何を言いたいのか分からなくなった。

 女がカードを探した理由は明らかだ。

 けれど、なぜあの瞬間だったのか。

 そんなことを考え始めたら、毎日何百回と繰り返される人の行動すべてに、理由を尋ねなければならなくなる。

「仮に三秒早く歩いていたら、間に合ったと思う?」

 理沙は停留所の位置を確かめた。

「どうでしょう。運転手さんが気づいて待ってくれたかもしれないし、逆にもっと早く出てたかもしれません」

「そうだよな」

「気になるなら、記録しておくのはいいと思います。ただ、止まったこととバスに乗れなかったことは、今は分けたほうがいいです」

 亮介は理沙を見た。

 彼女は確認票を開き直し、標識の番号を確かめている。

 いつもの仕事のときと同じ口調だった。

「瀬戸さん?」

「ああ、ごめん」

「向こうの反射板も見ておきたいので、もう少し歩いていいですか」

「うん、行こう」

 二人は道路の端を並んで歩き始めた。

 しばらく進むと、前から買い物袋を提げた高齢の男性が来た。

 男性は理沙とすれ違う少し前に歩幅を狭めたが、立ち止まりはしなかった。

 すれ違ったあとも、そのまま同じ速度で歩いていく。

 亮介は男性の背中を見送った。

 今のは普通だった。

 普通というのは、何を基準に決めるのだろう。

 自分も男性に少し道を譲ったし、理沙も身体を傾けていた。

 人がすれ違うとき、どちらかが譲るのは当たり前だ。

 その当たり前のことを、いつから数えるようになったのか。

 亮介は靴の裏に小石が挟まったような気がして、足を止めた。

 確かめてみたが、何もついていなかった。

     *

 帰宅したのは午後七時を少し過ぎた頃だった。

 玄関の照明を点けると、靴箱の上に置いた封筒が目に入った。

 先週届いた学校からの案内で、娘の綾音が参加する行事の日程が書かれている。

 亮介は靴を脱ぎ、封筒を手に取った。

 土曜日の午後二時。

 その日は綾音と会う約束もしていた。

 忘れるわけにはいかない。

 冷蔵庫に貼った予定表を確認していると、スマートフォンが震えた。

 綾音からのメッセージだった。

『パパ、学校の裏の小さい公園って知ってる?』

 亮介はしばらく画面を見た。

 以前、娘がまだ低学年だった頃、あの公園で一緒に遊んだことがある。

 滑り台の下に砂がたまっていて、綾音が靴の中へ何度も砂を入れてしまった。帰るときには靴下まで砂だらけになり、恵子に笑われたのを覚えている。

『知ってるよ。前に一緒に行っただろ』

 少しして返事が届いた。

『うん。あそこらへん、パパも歩くの?』

『前はよく通ってたよ。最近は駅のほうが多いかな』

『ふうん』

 亮介は画面を見つめた。

 何か用事があるのだろうか。

『どうかした?』

『今日、晴香とそこ通ったから』

 そのあとに、小さな猫のスタンプが送られてきた。

 亮介も適当なスタンプを返す。

 会話はそれで終わった。

 綾音は小さい頃から、何でも話す子というわけではなかった。

 会っているときには学校のことや友達のことをよく話すが、メッセージでは短い返事が多い。何か聞きたいことがあっても、最初からその用件を言うとは限らない。

 今回も、ただ公園を思い出しただけなのだろう。

 亮介はスマートフォンを伏せ、冷蔵庫を開けた。

 冷たい空気が顔に触れる。

 奥に残っていた総菜を取り出し、電子レンジへ入れる。

 回転皿がゆっくり動き始めた。

 亮介はその前に立ったまま、夕方のバス停を思い出していた。

 鞄を探る女の指。

 遠ざかる緑色の車体。

 間に合わなかったあと、女が誰かへ電話していたこと。

 予定を少し遅らせてもらっただけかもしれない。

 何か大切な用事だったのかもしれない。

 どちらなのかは分からない。

 電子レンジが終了音を鳴らした。

 亮介は扉を開け、熱くなった容器を取り出した。

 指先に熱が伝わり、慌てて持ち直す。

 それだけのことで、少しだけ現実へ戻された気がした。

 食卓に座り、割り箸を割る。

 テレビでは、明日の天気を伝えていた。

 週末はよく晴れるらしい。

 亮介は綾音との約束をもう一度確認してから、スマートフォンを置いた。

 もし、自分が誰かの前で数秒立ち止まったら。

 その人の一日は、少しだけ変わるのだろうか。

 そう考えかけて、亮介は箸を動かした。

 そんなことを確かめる方法はない。

 誰かが立ち止まった理由なら、聞けば教えてもらえる。

 しかし、立ち止まらなかったら何が起きていたのか。

 それは、誰にも分からなかった。

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