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通らない道  作者: asnt2026


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3/30

第3話 映っていたもの

映像の中には、何もおかしなものが映っていなかった。

 住宅街の細い道路。

 向かいの家のブロック塀。

 電柱の下に置かれた、青い蓋のごみ収集容器。

 画面の左下には日時が小さく表示されている。映像は思ったより鮮明で、塀の上から伸びた植木の葉が風に揺れる様子まで分かった。

「これ、結構よく見えますね」

 浜野理沙が言った。

「最近のは安くてもきれいに映るんですよ。息子が選んでくれたんですけど」

 深見澄江は少し得意そうに笑った。

 水曜日の午後三時過ぎ。

 亮介と理沙は、澄江の家の居間に通されていた。

 玄関脇に取り付けられた防犯カメラは、道路側の一部を映すように設置されている。以前、家の前にごみが放置されたことがあり、それ以来使っているのだという。

 撮影されているのは玄関前から丁字路の手前までで、道路全体が見えるわけではない。

 録画は二週間ほどで古いものから消える仕組みらしい。

「こんな映像でよければ見てください。私も気になってたものですから」

 澄江が麦茶を置いた。

 透明なグラスの表面に細かな水滴がついている。畳のある居間には、窓から薄い午後の日差しが差し込み、エアコンの冷気に混じって、洗ったばかりの布巾の匂いがした。

 庭では、どこかの家から飛んできたらしい枯れ葉が一枚、敷石の上を転がっていた。

 いつもと変わらない住宅街の午後だった。

 亮介は椅子へ少し身を寄せた。

「月曜日の四時過ぎだったと思います」

「白い犬を連れた方ですね」

 理沙が画面を操作する。

「その人が止まったところ、見たいんですよね」

「うん。俺が来た直後だったから、四時十分くらいからでいいと思う」

 理沙は再生位置を動かした。

 画面の中で、一台の軽自動車がゆっくり通り過ぎていく。

 しばらくして自転車の女性が現れ、そのまま角を曲がった。

 小さな子どもが、祖母らしい女性に手を引かれて歩いてくる。子どもは道路脇の草を指さし、何かを話していた。

 祖母が一度立ち止まる。

 亮介は思わず画面へ顔を近づけた。

 しかし祖母は、草を見ようとした子どもに合わせて止まっただけだった。子どもが歩き始めると、二人もすぐに動き出した。

「これは普通ですね」

 理沙が言った。

「そうだね」

「そもそも、何を普通じゃないって判断するかが難しいですけど」

 理沙は再生速度を少し上げた。

 画面の中で影が伸びたり縮んだりし、歩行者が速足で通り過ぎていく。

 やがて白い犬が現れた。

「あ、これだ」

 亮介が身を乗り出した。

 理沙は再生速度を戻した。

 白い犬が、道路の右側から歩いてくる。

 飼い主の女性はその後ろについていた。

 赤いリードがゆるくたわみ、犬は鼻先を左右へ動かしながら進んでいる。

 亮介は、あのとき女性と向かい合っていたことを思い出した。

 真正面から見たときには気づかなかったが、横から見ると犬は思ったより落ち着きなく歩いている。少し進むたびに首を振り、道端の匂いを嗅ごうとしていた。

 それが、あるところで急に前へ進もうとした。

 飼い主の足が止まる。

 リードが伸びた。

 犬の首が引かれ、小さな身体がわずかに後ろへ戻る。

 女性はポケットへ手を入れた。

 亮介は画面を見つめた。

 この場面だった。

 自分が覚えているとおりの光景で、違っているのは見る角度だけだった。

 何も変なものは映っていない。

 女性の後ろに誰かが立っているわけでもなければ、足元に何か落ちているわけでもない。

 女性はポケットから鍵束を取り出した。

 持ち直して、またしまう。

 そのあいだも犬は前へ進もうとしていた。

「鍵が気になったんでしょうね」

 理沙が言った。

「そう見えるよね」

「実際に鍵を触ってますし」

 そのとおりだった。

 亮介は頷いた。

 画面の端に、自分の姿が現れた。

 市役所の作業服を着て、手帳を片手に歩いている。

 女性の横を通り過ぎるところで、軽く頭を下げていた。

 自分では普通に会釈をしたつもりだったが、映像で見ると少し大げさだった。

「瀬戸さん、ずいぶん丁寧に頭下げますね」

 理沙が笑った。

「そうかな」

「道路の確認に来てる人には見えないです」

「何に見える?」

「訪問販売とか」

「勘弁してよ」

 二人が笑っているあいだに、画面の中の亮介は通り過ぎていた。

 そのすぐあと、女性が歩き始める。

 犬は待ちかねたように先へ進んだ。

 理沙は再生を止めた。

「普通ですよね」

 亮介はグラスへ手を伸ばした。

 麦茶はすっかり冷たくなっていて、口に含むと少し濃い香りがした。

「普通に見えるね」

「というか、鍵を直したかったから止まった。それ以上でも以下でもない気がします」

「うん」

 そう答えながら、亮介はまだ画面を見ていた。

 女性が鍵を取り出したのは、いつだっただろう。

 自分が近づいてからか。

 それとも、もう少し前から気にしていたのか。

 そんなことを考えたところで、何かが分かるとも思えなかった。

     *

「ほかの映像も見ます?」

 澄江が尋ねた。

「お願いできますか」

 亮介が答えると、澄江はテレビ台の下から小さな箱を取り出した。

 中には防犯カメラの説明書と、日付を記したメモが何枚か入っていた。

「月曜日の夕方に、二人ほど止まったと思うんです。それから昨日の朝も」

「時間は分かります?」

「正確には覚えてないけど、朝はゴミ出しのあとだったから八時半くらいかな」

 理沙が画面を切り替えた。

 昨日の朝。

 道路はまだ濡れている。

 画面の隅に水たまりが見え、近くの塀には雨粒が残っていた。

 やがてジャージ姿の女性が歩いてきた。

「あ、この人」

 亮介は思わず声を出した。

 白いスニーカーの紐を結び直していた女性だ。

 画面の中の彼女は、昨日見たとおり、道の端へ寄ってしゃがみ込む。

 右足の靴紐を結ぶ。

 その横を、市役所の作業服を着た男が通り過ぎていく。

 亮介だった。

「なるほど」

 理沙が言った。

「本当にほどけてますね」

「だろう」

「じゃあ、別におかしくない」

「そうなんだけどね」

 亮介は膝の上で手を組んだ。

 画面では、女性が立ち上がって歩き始めていた。

 そのとき、道の向こうから自転車が一台来た。

 制服姿の男子高校生が、濡れた路面を気にする様子もなく走り抜ける。

 女性も歩き続ける。

 誰も止まらなかった。

「こういう人のほうが多いんですよね」

 理沙が言った。

「何も起こらない人?」

「はい。立ち止まった人だけを拾っていくと、何か規則性があるように見えちゃうかもしれないですし」

 亮介は頷いた。

 理沙が言っていることは分かる。

 もし、ここで十人の人間が普通に歩き、一人だけ立ち止まったとしたら。

 その一人だけを記録していれば、道路にはいつも妙なことが起きているように見える。

 実際には、どこでも同じくらいの人が立ち止まっているのかもしれない。

「ほかの道路も見ないと駄目だな」

「そうですね。あとは、同じ場所で撮れている別の時間帯とか」

「なるほど」

 理沙は少し考えてから、映像を巻き戻した。

「さっきの犬の人、もう一回いいですか」

「何かあった?」

「ちょっと気になったところがあって」

 月曜日の映像に戻る。

 女性が歩いてくる。

 犬が先へ進む。

 飼い主がポケットへ手を入れた。

 理沙は、その少し前で再生を止めた。

「どうした?」

「この人、最初から鍵を出そうとしてたんですかね」

「分からないけど、そうじゃない?」

「でも、止まる直前までは普通に歩いてますよね」

 亮介は画面を見た。

 確かに、女性は歩いていた。

 鍵を探しているようには見えない。

 ただ、歩きながらポケットの中の物が気になることはあるだろう。

「急に気づいたんじゃないかな」

「そうかもしれません」

 理沙は再生を再開した。

 女性が歩く。

 犬も歩く。

 数歩進んで、女性の足が止まる。

 リードが伸びる。

 鍵束が取り出される。

 その横を亮介が通り過ぎる。

 そして女性が歩き出す。

「やっぱり普通ですね」

 理沙が言った。

 亮介は笑いながら頷いた。

 その笑いが、口の中で少し乾いた。

 普通。

 それで済ませていいはずだった。

 何も起きていないのだから。

     *

 澄江の家を出た頃には、午後四時を回っていた。

 門の前に立つと、室内との温度差で少し汗ばんだ。

 住宅街には斜めの日が差し込み、電柱の影がアスファルトの上を横切っている。

 近所の家からは洗濯機の脱水音が聞こえ、塀の向こうで誰かが布団を叩いていた。道路脇の排水溝には昨夜の雨水がわずかに残り、湿った落ち葉の匂いが漂っていた。

 亮介は丁字路のほうを見た。

 どこにでもある道だった。

 何かが飛び出してくるような暗がりもなければ、見通しが極端に悪いわけでもない。

 塀の高さも、道路の幅も、昔から変わっていないのだろう。

「どう思います?」

 理沙が隣に立った。

「正直、まだ何とも言えないな」

「私もです」

「映像で見れば何か分かると思ったんだけど」

「見えましたよ。人が止まったところ」

「それだけだったな」

「それだけですね」

 理沙はそう言ってから、道路の向こうへ目を向けた。

 小さな女の子が、母親らしい女性と手をつないで歩いている。

 女の子が何かを指さし、母親が立ち止まった。

 亮介は反射的に、その足元を見てしまった。

 母親は子どもの話を聞いていただけだった。

 二人はすぐに歩き出す。

「もう、誰かが止まるたびに気になりますね」

 理沙が言った。

「そうなんだよ」

「でも、あれは普通ですよね」

「うん」

「じゃあ、何が違うんでしょう」

 亮介は答えられなかった。

 少し離れたところを、宅配便のトラックがゆっくり通り過ぎていく。

 運転手は窓を開け、通りかかった住民に軽く頭を下げた。

 女性は立ち止まらず、そのまま歩いた。

 亮介は、また足元を見てしまった。

「明日、別の時間帯も確認しましょうか」

 理沙が言う。

「そうだね。もう少し条件を揃えないと」

「深見さんには、映像をしばらく残しておいてもらうようお願いしておきます。扱いはちゃんと確認してからにしましょう」

「頼むよ」

 理沙は頷き、先に歩き出した。

 亮介もそのあとを追おうとしたが、スマートフォンが震えたので足を止めた。

 課内からの連絡だった。

 翌朝の現場確認について、時間を変更できないかという内容である。

 短い返事を打ち終え、顔を上げる。

 理沙は数メートル先で立ち止まっていた。

 道路脇に貼られた市の広報ポスターを見ている。

「浜野さん」

 声をかけると、理沙は振り返った。

「何ですか」

「先に行ってていいよ」

「いえ、待ってます」

 ごく普通の返事だった。

 亮介はスマートフォンをしまい、歩き出した。

 理沙もそれに合わせて進み始める。

 ほんの数歩歩いたところで、向こうから来た男性が道の端へ寄った。

 男性は郵便受けに入っていたらしい封筒を二、三枚手に持ち、差出人を確認している。

 亮介は男性の横を通り過ぎた。

 少し遅れて理沙も通る。

 男性は顔を上げ、歩き始めた。

 理沙はその様子を振り返って見ていた。

「今の人、何か気になりました?」

 亮介が尋ねる。

「いえ。郵便を見てただけですね」

「そうだよね」

 理沙は歩きながら、自分のスマートフォンを取り出した。

「やっぱり、映像をもう少し長く見たいです。止まったところだけじゃなくて、その前後も」

「そのほうがいいか」

「はい。途中から見てると、何がきっかけだったのか分からないですから」

 亮介は頷いた。

 自分でも同じことを考えていたはずだった。

 何かが起きた瞬間だけを見ていても、分からない。

 その前から、何がどう動いていたのか。

 普通の状態と、何が違うのか。

 そういうことを確かめなければならない。

     *

 その夜、亮介は自宅の食卓で、昼間の映像を思い出していた。

 冷蔵庫のモーターが低く唸り、窓の外では、ときどき車の走る音が聞こえる。

 夕食に買ってきた弁当の容器を片づけたあと、亮介は手帳を開いた。

 犬の飼い主。

 靴紐を結び直した女性。

 スマートフォンを見た男性。

 どれも理由がある。

 どの行動も、単独で見れば何もおかしくない。

 亮介はペンの先を手帳に置いたまま、しばらく動かなかった。

 映像の中で立ち止まった女性の姿が浮かぶ。

 犬は先へ進もうとしていた。

 その後ろで、女性が急に歩くのをやめた。

 亮介は、映像の続きも思い出した。

 市役所の作業服を着た自分が、その横を通り過ぎていく。

 ずいぶん丁寧に頭を下げていた。

 理沙に言われたときは笑ってしまったが、映像の中の自分は、あんなふうに見えていたのだろうか。

 手帳に何かを書こうとして、やめた。

 自分がそこにいたことまで記録する必要があるのか、よく分からなかった。

 現地を確認しに行ったのだから、映っているのは当然だ。

 靴紐を結び直した女性の映像にも、自分は映っていた。

 それも、自分が見かけた場面を確認したのだから当たり前だった。

 亮介はペンを置き、食卓の照明を消した。

 暗くなった部屋の中で、冷蔵庫の音だけが少し大きく聞こえた。

 寝室へ向かいかけたところで、スマートフォンが震えた。

 理沙からだった。

『深見さんの映像、明日もう一度確認させてもらえることになりました』

 続けて、もう一通届く。

『立ち止まったところより、少し前から見てみたいです』

 亮介は短く返信した。

『了解。よろしくお願いします』

 画面を閉じる。

 あの犬は、いつから前へ進もうとしていたのだろう。

 女性は、いつから鍵を直そうとしていたのだろう。

 考え始めると、どちらも分からなかった。

 昼間の映像では、女性が足を止める直前まで、普通に歩いていた。

 そのことだけは、確かだった。

 そして彼女が立ち止まる少し前、画面の端には、市役所の作業服を着た男の姿が入り込んでいた。

 亮介は寝室の入口で立ち止まった。

 別に、それが何かを意味するわけではない。

 自分が通りかかったから、女性とすれ違った。

 ただそれだけのことだった。

 そう思いながらも、昼間の映像をもう一度最初から見たくなった。

 女性が足を止めたところではなく、その少し前から。

 自分が、まだ画面に映っていないところから。

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