第3話 映っていたもの
映像の中には、何もおかしなものが映っていなかった。
住宅街の細い道路。
向かいの家のブロック塀。
電柱の下に置かれた、青い蓋のごみ収集容器。
画面の左下には日時が小さく表示されている。映像は思ったより鮮明で、塀の上から伸びた植木の葉が風に揺れる様子まで分かった。
「これ、結構よく見えますね」
浜野理沙が言った。
「最近のは安くてもきれいに映るんですよ。息子が選んでくれたんですけど」
深見澄江は少し得意そうに笑った。
水曜日の午後三時過ぎ。
亮介と理沙は、澄江の家の居間に通されていた。
玄関脇に取り付けられた防犯カメラは、道路側の一部を映すように設置されている。以前、家の前にごみが放置されたことがあり、それ以来使っているのだという。
撮影されているのは玄関前から丁字路の手前までで、道路全体が見えるわけではない。
録画は二週間ほどで古いものから消える仕組みらしい。
「こんな映像でよければ見てください。私も気になってたものですから」
澄江が麦茶を置いた。
透明なグラスの表面に細かな水滴がついている。畳のある居間には、窓から薄い午後の日差しが差し込み、エアコンの冷気に混じって、洗ったばかりの布巾の匂いがした。
庭では、どこかの家から飛んできたらしい枯れ葉が一枚、敷石の上を転がっていた。
いつもと変わらない住宅街の午後だった。
亮介は椅子へ少し身を寄せた。
「月曜日の四時過ぎだったと思います」
「白い犬を連れた方ですね」
理沙が画面を操作する。
「その人が止まったところ、見たいんですよね」
「うん。俺が来た直後だったから、四時十分くらいからでいいと思う」
理沙は再生位置を動かした。
画面の中で、一台の軽自動車がゆっくり通り過ぎていく。
しばらくして自転車の女性が現れ、そのまま角を曲がった。
小さな子どもが、祖母らしい女性に手を引かれて歩いてくる。子どもは道路脇の草を指さし、何かを話していた。
祖母が一度立ち止まる。
亮介は思わず画面へ顔を近づけた。
しかし祖母は、草を見ようとした子どもに合わせて止まっただけだった。子どもが歩き始めると、二人もすぐに動き出した。
「これは普通ですね」
理沙が言った。
「そうだね」
「そもそも、何を普通じゃないって判断するかが難しいですけど」
理沙は再生速度を少し上げた。
画面の中で影が伸びたり縮んだりし、歩行者が速足で通り過ぎていく。
やがて白い犬が現れた。
「あ、これだ」
亮介が身を乗り出した。
理沙は再生速度を戻した。
白い犬が、道路の右側から歩いてくる。
飼い主の女性はその後ろについていた。
赤いリードがゆるくたわみ、犬は鼻先を左右へ動かしながら進んでいる。
亮介は、あのとき女性と向かい合っていたことを思い出した。
真正面から見たときには気づかなかったが、横から見ると犬は思ったより落ち着きなく歩いている。少し進むたびに首を振り、道端の匂いを嗅ごうとしていた。
それが、あるところで急に前へ進もうとした。
飼い主の足が止まる。
リードが伸びた。
犬の首が引かれ、小さな身体がわずかに後ろへ戻る。
女性はポケットへ手を入れた。
亮介は画面を見つめた。
この場面だった。
自分が覚えているとおりの光景で、違っているのは見る角度だけだった。
何も変なものは映っていない。
女性の後ろに誰かが立っているわけでもなければ、足元に何か落ちているわけでもない。
女性はポケットから鍵束を取り出した。
持ち直して、またしまう。
そのあいだも犬は前へ進もうとしていた。
「鍵が気になったんでしょうね」
理沙が言った。
「そう見えるよね」
「実際に鍵を触ってますし」
そのとおりだった。
亮介は頷いた。
画面の端に、自分の姿が現れた。
市役所の作業服を着て、手帳を片手に歩いている。
女性の横を通り過ぎるところで、軽く頭を下げていた。
自分では普通に会釈をしたつもりだったが、映像で見ると少し大げさだった。
「瀬戸さん、ずいぶん丁寧に頭下げますね」
理沙が笑った。
「そうかな」
「道路の確認に来てる人には見えないです」
「何に見える?」
「訪問販売とか」
「勘弁してよ」
二人が笑っているあいだに、画面の中の亮介は通り過ぎていた。
そのすぐあと、女性が歩き始める。
犬は待ちかねたように先へ進んだ。
理沙は再生を止めた。
「普通ですよね」
亮介はグラスへ手を伸ばした。
麦茶はすっかり冷たくなっていて、口に含むと少し濃い香りがした。
「普通に見えるね」
「というか、鍵を直したかったから止まった。それ以上でも以下でもない気がします」
「うん」
そう答えながら、亮介はまだ画面を見ていた。
女性が鍵を取り出したのは、いつだっただろう。
自分が近づいてからか。
それとも、もう少し前から気にしていたのか。
そんなことを考えたところで、何かが分かるとも思えなかった。
*
「ほかの映像も見ます?」
澄江が尋ねた。
「お願いできますか」
亮介が答えると、澄江はテレビ台の下から小さな箱を取り出した。
中には防犯カメラの説明書と、日付を記したメモが何枚か入っていた。
「月曜日の夕方に、二人ほど止まったと思うんです。それから昨日の朝も」
「時間は分かります?」
「正確には覚えてないけど、朝はゴミ出しのあとだったから八時半くらいかな」
理沙が画面を切り替えた。
昨日の朝。
道路はまだ濡れている。
画面の隅に水たまりが見え、近くの塀には雨粒が残っていた。
やがてジャージ姿の女性が歩いてきた。
「あ、この人」
亮介は思わず声を出した。
白いスニーカーの紐を結び直していた女性だ。
画面の中の彼女は、昨日見たとおり、道の端へ寄ってしゃがみ込む。
右足の靴紐を結ぶ。
その横を、市役所の作業服を着た男が通り過ぎていく。
亮介だった。
「なるほど」
理沙が言った。
「本当にほどけてますね」
「だろう」
「じゃあ、別におかしくない」
「そうなんだけどね」
亮介は膝の上で手を組んだ。
画面では、女性が立ち上がって歩き始めていた。
そのとき、道の向こうから自転車が一台来た。
制服姿の男子高校生が、濡れた路面を気にする様子もなく走り抜ける。
女性も歩き続ける。
誰も止まらなかった。
「こういう人のほうが多いんですよね」
理沙が言った。
「何も起こらない人?」
「はい。立ち止まった人だけを拾っていくと、何か規則性があるように見えちゃうかもしれないですし」
亮介は頷いた。
理沙が言っていることは分かる。
もし、ここで十人の人間が普通に歩き、一人だけ立ち止まったとしたら。
その一人だけを記録していれば、道路にはいつも妙なことが起きているように見える。
実際には、どこでも同じくらいの人が立ち止まっているのかもしれない。
「ほかの道路も見ないと駄目だな」
「そうですね。あとは、同じ場所で撮れている別の時間帯とか」
「なるほど」
理沙は少し考えてから、映像を巻き戻した。
「さっきの犬の人、もう一回いいですか」
「何かあった?」
「ちょっと気になったところがあって」
月曜日の映像に戻る。
女性が歩いてくる。
犬が先へ進む。
飼い主がポケットへ手を入れた。
理沙は、その少し前で再生を止めた。
「どうした?」
「この人、最初から鍵を出そうとしてたんですかね」
「分からないけど、そうじゃない?」
「でも、止まる直前までは普通に歩いてますよね」
亮介は画面を見た。
確かに、女性は歩いていた。
鍵を探しているようには見えない。
ただ、歩きながらポケットの中の物が気になることはあるだろう。
「急に気づいたんじゃないかな」
「そうかもしれません」
理沙は再生を再開した。
女性が歩く。
犬も歩く。
数歩進んで、女性の足が止まる。
リードが伸びる。
鍵束が取り出される。
その横を亮介が通り過ぎる。
そして女性が歩き出す。
「やっぱり普通ですね」
理沙が言った。
亮介は笑いながら頷いた。
その笑いが、口の中で少し乾いた。
普通。
それで済ませていいはずだった。
何も起きていないのだから。
*
澄江の家を出た頃には、午後四時を回っていた。
門の前に立つと、室内との温度差で少し汗ばんだ。
住宅街には斜めの日が差し込み、電柱の影がアスファルトの上を横切っている。
近所の家からは洗濯機の脱水音が聞こえ、塀の向こうで誰かが布団を叩いていた。道路脇の排水溝には昨夜の雨水がわずかに残り、湿った落ち葉の匂いが漂っていた。
亮介は丁字路のほうを見た。
どこにでもある道だった。
何かが飛び出してくるような暗がりもなければ、見通しが極端に悪いわけでもない。
塀の高さも、道路の幅も、昔から変わっていないのだろう。
「どう思います?」
理沙が隣に立った。
「正直、まだ何とも言えないな」
「私もです」
「映像で見れば何か分かると思ったんだけど」
「見えましたよ。人が止まったところ」
「それだけだったな」
「それだけですね」
理沙はそう言ってから、道路の向こうへ目を向けた。
小さな女の子が、母親らしい女性と手をつないで歩いている。
女の子が何かを指さし、母親が立ち止まった。
亮介は反射的に、その足元を見てしまった。
母親は子どもの話を聞いていただけだった。
二人はすぐに歩き出す。
「もう、誰かが止まるたびに気になりますね」
理沙が言った。
「そうなんだよ」
「でも、あれは普通ですよね」
「うん」
「じゃあ、何が違うんでしょう」
亮介は答えられなかった。
少し離れたところを、宅配便のトラックがゆっくり通り過ぎていく。
運転手は窓を開け、通りかかった住民に軽く頭を下げた。
女性は立ち止まらず、そのまま歩いた。
亮介は、また足元を見てしまった。
「明日、別の時間帯も確認しましょうか」
理沙が言う。
「そうだね。もう少し条件を揃えないと」
「深見さんには、映像をしばらく残しておいてもらうようお願いしておきます。扱いはちゃんと確認してからにしましょう」
「頼むよ」
理沙は頷き、先に歩き出した。
亮介もそのあとを追おうとしたが、スマートフォンが震えたので足を止めた。
課内からの連絡だった。
翌朝の現場確認について、時間を変更できないかという内容である。
短い返事を打ち終え、顔を上げる。
理沙は数メートル先で立ち止まっていた。
道路脇に貼られた市の広報ポスターを見ている。
「浜野さん」
声をかけると、理沙は振り返った。
「何ですか」
「先に行ってていいよ」
「いえ、待ってます」
ごく普通の返事だった。
亮介はスマートフォンをしまい、歩き出した。
理沙もそれに合わせて進み始める。
ほんの数歩歩いたところで、向こうから来た男性が道の端へ寄った。
男性は郵便受けに入っていたらしい封筒を二、三枚手に持ち、差出人を確認している。
亮介は男性の横を通り過ぎた。
少し遅れて理沙も通る。
男性は顔を上げ、歩き始めた。
理沙はその様子を振り返って見ていた。
「今の人、何か気になりました?」
亮介が尋ねる。
「いえ。郵便を見てただけですね」
「そうだよね」
理沙は歩きながら、自分のスマートフォンを取り出した。
「やっぱり、映像をもう少し長く見たいです。止まったところだけじゃなくて、その前後も」
「そのほうがいいか」
「はい。途中から見てると、何がきっかけだったのか分からないですから」
亮介は頷いた。
自分でも同じことを考えていたはずだった。
何かが起きた瞬間だけを見ていても、分からない。
その前から、何がどう動いていたのか。
普通の状態と、何が違うのか。
そういうことを確かめなければならない。
*
その夜、亮介は自宅の食卓で、昼間の映像を思い出していた。
冷蔵庫のモーターが低く唸り、窓の外では、ときどき車の走る音が聞こえる。
夕食に買ってきた弁当の容器を片づけたあと、亮介は手帳を開いた。
犬の飼い主。
靴紐を結び直した女性。
スマートフォンを見た男性。
どれも理由がある。
どの行動も、単独で見れば何もおかしくない。
亮介はペンの先を手帳に置いたまま、しばらく動かなかった。
映像の中で立ち止まった女性の姿が浮かぶ。
犬は先へ進もうとしていた。
その後ろで、女性が急に歩くのをやめた。
亮介は、映像の続きも思い出した。
市役所の作業服を着た自分が、その横を通り過ぎていく。
ずいぶん丁寧に頭を下げていた。
理沙に言われたときは笑ってしまったが、映像の中の自分は、あんなふうに見えていたのだろうか。
手帳に何かを書こうとして、やめた。
自分がそこにいたことまで記録する必要があるのか、よく分からなかった。
現地を確認しに行ったのだから、映っているのは当然だ。
靴紐を結び直した女性の映像にも、自分は映っていた。
それも、自分が見かけた場面を確認したのだから当たり前だった。
亮介はペンを置き、食卓の照明を消した。
暗くなった部屋の中で、冷蔵庫の音だけが少し大きく聞こえた。
寝室へ向かいかけたところで、スマートフォンが震えた。
理沙からだった。
『深見さんの映像、明日もう一度確認させてもらえることになりました』
続けて、もう一通届く。
『立ち止まったところより、少し前から見てみたいです』
亮介は短く返信した。
『了解。よろしくお願いします』
画面を閉じる。
あの犬は、いつから前へ進もうとしていたのだろう。
女性は、いつから鍵を直そうとしていたのだろう。
考え始めると、どちらも分からなかった。
昼間の映像では、女性が足を止める直前まで、普通に歩いていた。
そのことだけは、確かだった。
そして彼女が立ち止まる少し前、画面の端には、市役所の作業服を着た男の姿が入り込んでいた。
亮介は寝室の入口で立ち止まった。
別に、それが何かを意味するわけではない。
自分が通りかかったから、女性とすれ違った。
ただそれだけのことだった。
そう思いながらも、昼間の映像をもう一度最初から見たくなった。
女性が足を止めたところではなく、その少し前から。
自分が、まだ画面に映っていないところから。




