第2話 それぞれの理由
翌朝、亮介が同じ道へ着いたとき、道路はまだところどころ濡れていた。
夜のあいだに短い雨が降ったらしい。
アスファルトの黒い部分と乾き始めた灰色の部分が入り交じり、側溝の近くには細かな砂が寄っている。低い塀の向こうから湿った土の匂いが漂い、朝日を受けた植木の葉が光っていた。
八時二十五分。
近くの小学校へ向かう子どもたちの姿は少なくなり、代わりに自転車で駅へ急ぐ人が増えている。
亮介は角の手前で足を止め、昨日の記録をスマートフォンで確認した。
側溝の蓋に大きな問題はない。
舗装にも危険な箇所は見つからなかった。
本来なら報告書をまとめて終わりにするところだが、どうにも引っかかるものがあった。
昨日の帰りに聞いた足音である。
後ろから近づいてきた男性は、あれほど速く歩いていたのに、どうして自分を追い抜く直前で遅くなったのだろう。
考えてみれば、理由はいくらでもある。
スマートフォンを確認していたのかもしれない。持っていた買い物袋が重かったのかもしれないし、前を歩く自分に気を遣っただけかもしれない。
どれもありふれたことだった。
それでも、立ち止まった途端に男性の足音が速くなった瞬間だけは、妙にはっきりと思い出せた。
亮介は画面を閉じ、歩き出した。
昨日と同じ丁字路へ向かう。
そこへ、駅の方角から若い女性が歩いてきた。
紺色のジャージに白いスニーカー。肩から大きなスポーツバッグを下げ、片耳にイヤホンを入れている。
亮介は道の左側を歩いていた。
女性も同じ側へ向かってくる。
すれ違うには、どちらかがわずかに横へ寄れば十分だった。
女性は亮介の数歩手前まで来たところで、ふと足元を見た。
それから道の端へ移動し、しゃがみ込む。
靴紐を結び始めた。
亮介はその横を通り過ぎかけて、少し歩調を緩めた。
白いスニーカーの右足だけ、紐がほどけていた。
女性は両端を引っ張り、結び目を作る。イヤホンのコードが肩のあたりで揺れた。
亮介はそのまま歩いた。
背後から、立ち上がるときの衣擦れが聞こえる。
靴紐がほどけていたのなら、結ぶのは当然だ。
なのに昨日の男性のことを思い出したせいか、今の女性も、自分が通り過ぎるのを待っていたように感じられた。
考えすぎだろう。
亮介は腕時計を見た。
八時三十二分。
女性が靴紐を結び直すのに要した時間は、おそらく十秒もない。
そういうことを数え始めた自分のほうが、よほど変なのかもしれなかった。
*
深見澄江の家の前では、朝から掃除が行われていた。
澄江は竹ぼうきで道路脇の落ち葉を集めている。昨夜の雨で濡れた葉が地面に張りつき、掃くたびに箒の先が小さく跳ねた。
「おはようございます」
亮介が声をかけると、澄江は顔を上げた。
「あら、瀬戸さん。今日もいらしたの」
「昨日の件、もう少し確認しておこうと思いまして」
「そうですか。ご苦労さまです」
澄江は箒を壁へ立てかけた。
「そういえば、今朝もいましたよ。ここで止まった人」
「何時ごろですか」
「七時半になる少し前かしら。買い物袋を提げたおじいさんで、急に袋の中をのぞき始めたんです」
「何か落としたんでしょうか」
「さあ。でも、しばらくして普通に歩いていきましたよ」
亮介は時刻を控えた。
七時半前なら、まだ自分は家にいた。
「ほかには?」
「さっき、自転車の人が二人通ったくらいですかね。あとは……ああ、白い犬の人も」
「昨日の?」
「ええ。今日も同じくらいの時間に来るんだなと思って見てました」
「また立ち止まりました?」
「いいえ、今日はそのまま。犬が塀の匂いを嗅ぎたがって、ちょっと引っ張ってましたけど」
澄江は笑った。
「犬のほうが、寄り道したかったみたい」
亮介も口元を緩めた。
昨日と同じ人が同じ道を通って、今日は立ち止まらなかった。
別に不思議ではない。
それでも、澄江が話した二つの出来事を手帳へ書き込んだ。
七時半前。男性、買い物袋を確認。
八時前。犬の散歩、停止なし。
書き終えてから、亮介は何を調べているのだろうと思った。
市役所の仕事として道路を確認しに来たはずなのに、いつの間にか知らない人の日常の行動を記録している。
もし上司に理由を聞かれたら、どう説明すればいいのだろう。
「瀬戸さん」
澄江が、道の向こうを見ながら言った。
「あの人も、何か探してるのかしら」
亮介が振り向くと、丁字路の角に男性が立っていた。
四十代くらいで、片手にスマートフォンを持っている。
男性は画面を見たり、向かいの家の表札を見たりしていた。
道に迷ったのかもしれない。
「住所を確認しているんじゃないですか」
「そうかもしれませんね」
男性は、やがて一軒の家のほうへ歩いていった。
それきりだった。
澄江は再び箒を持った。
「こうして見てると、別に変でも何でもないんですけどね」
「そうですね」
「ただ、前はこんなに人が止まるのを見た覚えがなくて」
亮介は返事をしなかった。
自分にも、昨日まではそんな覚えがなかったからだ。
もっとも、他人が道の途中で何秒立ち止まったかなど、普通は覚えていない。
気にし始めたから目につくようになっただけかもしれなかった。
澄江に礼を言い、亮介は丁字路へ向かった。
さっきの男性が立っていた場所まで歩き、辺りを見回す。
道路の角には電柱が一本あり、その下に古い消火栓の標識が立っている。向かいの家の表札には小さな文字が並んでいたが、道路からでも十分に読めた。
亮介は、自分が何を確かめたいのか分からないまま、その場に少し立っていた。
横から自転車が一台通った。
高校生くらいの男子が、片手でハンドルを握りながら通り過ぎる。
特に速度を変えた様子はない。
少し遅れて、高齢の女性が買い物用の手押し車を押してきた。
亮介の前を横切り、そのまま澄江の家のほうへ歩いていく。
女性は亮介に気づくと軽く会釈をしたが、立ち止まりはしなかった。
亮介も頭を下げた。
何も起きない。
これが普通なのだろう。
そう思いながら、もう一度歩き始めた。
数歩進んだところで、向こうから来た若い男性がポケットへ手を入れた。
スマートフォンを取り出す。
画面が光っていた。
男性はそのまま道の端へ寄り、親指で何かを操作し始めた。
亮介は男性の横を通過した。
追い越してから振り返ると、男性はまだ画面を見ている。
数秒後、スマートフォンをしまい、歩き出した。
その間、亮介は何度か肩越しに男性を見ていた。
相手が不審そうな顔をしなかったのが、せめてもの救いだった。
*
市役所へ戻ったのは、十時を少し回った頃だった。
道路維持課の事務室には、コピー機の熱と紙の匂いがこもっていた。
窓際の席では、同僚が電話を肩に挟んだまま道路台帳をめくっている。奥ではプリンターが不規則な音を立て、そのたびに数枚の用紙が吐き出されていた。
亮介は机に座り、昨日からの記録を整理した。
道路の状態。
相談者の話。
立ち止まった人の位置。
書き出してみると、どれも説明のつく出来事ばかりだった。
靴紐がほどけた。
鍵を直した。
住所を確認した。
スマートフォンを見た。
それぞれ単独なら、報告する必要さえない。
亮介が画面を見つめていると、机の横から声がした。
「瀬戸さん、例の住宅街ですか」
顔を上げると、浜野理沙が立っていた。
交通安全に関する相談を担当している職員で、亮介とは道路の見通しや危険箇所の確認で何度か一緒になっている。
机の上には別件の資料が抱えられていた。
「そう。昨日行ってきたんだけど、よく分からなくてね」
「舗装ですか」
「いや、舗装は問題ないと思う」
「じゃあ、何です?」
亮介は少し迷ってから、画面を理沙のほうへ向けた。
箇条書きにした観察記録が並んでいる。
理沙は一行ずつ読んでいたが、やがて首を傾けた。
「歩いてる人が止まるんですか」
「そう」
「車が来たとかじゃなくて?」
「そういう場合もあると思うけど、見た限りでは関係なさそうだった」
「何か避けてるんでしょうか」
「それが分からない」
理沙は椅子を一つ引き寄せ、亮介の隣へ座った。
「足元に原因があるとか。舗装の色が急に変わってるとか」
「それも見た。段差もないし、蓋のがたつきもない」
「何人くらいです?」
「俺が実際に見たのは四、五人かな。深見さんっていう住民の方は、ほかにも見てるらしい」
「四、五人かあ」
理沙は資料を膝の上へ置いた。
「その人たち、止まる理由は分かってるんですよね」
「うん。少なくとも、見た目には」
「じゃあ、止まらなかった人は?」
亮介は顔を上げた。
「止まらなかった人?」
「その道を通った人、全員が止まるわけじゃないんでしょう」
「もちろん」
「だったら、何人が普通に歩いて、何人が止まったのか分からないと、判断しにくいですよね」
亮介は手元の記録を見た。
立ち止まった人については細かく書いてある。
しかし、何も起こらず通過した人はほとんど記録していなかった。
「確かにそうだな」
「住宅街なんですよね。通行量、そんなに多くないでしょうし」
「多くはないね」
「じゃあ、もう少し見てみますか」
理沙は立ち上がった。
亮介は、あっさり言われたことに少し驚いた。
「浜野さんも来てくれる?」
「私も交通安全の関係なら確認しておきたいですし。何かあるって決まったわけじゃありませんけど」
理沙はそこで少し笑った。
「人が普通に歩いてるだけなら、それが分かれば十分じゃないですか」
そのとおりだった。
亮介は頷きかけて、手帳の端に書いた一行を見た。
犬の散歩、停止なし。
その下には、今朝の別の記録がある。
歩行者、通知確認、約五秒停止。
二つを見比べても、何も分からなかった。
*
その日の夕方、亮介はもう一度だけ住宅街を通った。
仕事で使った道具を車に積み込み、近くの駐車場へ返しに行った帰りだった。
澄江の家の前には、濡れた落ち葉が小さな山になっている。
朝の掃除から少し時間が経っているはずなのに、道の端だけ妙にきれいだった。
亮介はそこで足を止め、側溝の蓋を眺めた。
昨日と同じ擦り傷が残っている。
家の中から食器の触れ合う音が聞こえ、少し先では子どもが自転車の補助輪を鳴らしながら遊んでいた。
その向こうから、白い犬を連れた女性が歩いてきた。
昨日見かけた人だった。
亮介は電柱の脇へ寄り、そのまま動かずにいた。
女性が近づいてくる。
犬は道の端へ鼻を向け、一度だけ草の匂いを嗅いだ。
女性は少しリードを引き、犬に声をかけた。
「ほら、帰るよ」
犬は不満そうに首を振ったが、すぐに歩き出した。
女性もそのまま亮介の前を通り過ぎた。
今度は立ち止まらなかった。
亮介はその背中を見ていた。
赤いリードが女性の手の中で小さく揺れ、犬の尻尾が左右に動いている。
よくある夕方の散歩だった。
しばらくして、亮介は自分が何分も同じ場所に立っていたことに気づいた。
そこまでして確かめる必要があったのだろうか。
少し笑いそうになったが、誰もいないのでやめた。
スマートフォンを取り出し、理沙へ短いメッセージを送る。
『深見さんの家に、道路が映るカメラがあるか聞いてみます。映像で確認できるかもしれません』
送信したあと、亮介は歩き出した。
その瞬間、向かいから来た男性が道の端へ寄り、鞄を持ち直した。
亮介は男性の横を通り過ぎる。
男はそれから歩き始めた。
誰もいないところまで来て、亮介は一度だけ振り返った。
男性はもう見えなかった。
何も起こらなかった人の数も記録すべきだと、理沙は言っていた。
では今の男性は、どちらに数えればいいのだろう。
鞄を持ち直しただけなら、普通に歩いていた人間と同じだ。
ただ、そのために立ち止まっていたことも、確かだった。
亮介は手帳を取り出した。
何を書こうか迷っているうちに、道路の向こうで信号が変わり、数人の歩行者が一斉に歩き出した。
彼らは誰も立ち止まらなかった。




