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通らない道  作者: asnt2026


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第1話 犬だけが止まらなかった

犬は、飼い主が足を止めたことに気づかなかった。

 白い小型犬が短い脚をせわしなく動かし、瀬戸亮介のほうへ歩いてくる。首輪から伸びた赤いリードが、途中でぴんと張った。

 犬の身体がわずかに後ろへ引かれる。

 飼い主の女性は道の端に寄り、上着のポケットを探っていた。

「ちょっと待ってね」

 声をかけられた犬は一度だけ振り向いたものの、すぐに鼻先をアスファルトへ戻した。リードを引かれても、前へ進みたい気持ちは変わらないらしい。

 亮介は歩幅を狭めた。

 道幅は四メートルほどある。車がすれ違うには少々窮屈だが、人間と犬が行き違う程度なら何の問題もない。

 女性の脇を通ろうとしたところで、何となく目が合った。

「すみません」

 女性が小さく頭を下げた。

「いえ」

 亮介も会釈を返し、その横を通り過ぎた。

 後ろでリードの金具が鳴った。続いて、乾いた爪の音がアスファルトを叩き始める。

 振り返ると、女性はもう普通に歩いていた。

 片手には鍵束が握られている。ポケットから落ちそうになっていたものを直したのだろう。

 犬は相変わらず先を急いでいた。

 何でもない光景だった。

 ただ、歩いているあいだにふと思い出したのは、女性が立ち止まった位置だった。

 もう少し先にも電柱の脇に広い場所があったし、反対側には月極駐車場の出入口もある。それなのに、彼女は自分とすれ違う直前の場所を選んで足を止めていた。

 もっとも、鍵が落ちそうになったのなら、場所など選んでいられない。

 亮介は道路の端へ目を落とした。

 側溝の蓋が、三枚続けてわずかに色を変えていた。

 そのうち一枚には新しい擦り傷がある。

 今日確認しに来たのは、そちらのほうだった。

     *

 南倉市の住宅街には、同じような道がいくらでもある。

 昭和の終わり頃に建てられた家と、最近建て替えられたらしい白い外壁の住宅が隣り合い、ブロック塀の上からは手入れの行き届いた植木がはみ出していた。道路沿いに歩道はなく、車が来れば人が自然に端へ寄る。電柱の根元には、いつ置かれたのか分からない植木鉢が二つ並んでいる。

 九月も終わりに近づいているというのに、午後の日差しにはまだ夏の名残があった。

 家々の隙間から流れてくる風は涼しいが、日向に立つと舗装の熱が足元から戻ってくる。どこかの家で洗濯物を取り込んでいるのか、柔軟剤の甘い匂いが漂い、開け放たれた窓の向こうからテレビの笑い声が聞こえていた。

 亮介はしゃがみ込み、側溝の蓋に指をかけた。

 がたつきはない。

 表面の凹凸も残っている。雨が降れば多少滑りやすくなるかもしれないが、少なくとも歩行者が急に足を止めるような状態には見えなかった。

 市役所の道路維持担当になってから、こうした確認には何度も足を運んでいた。

 舗装のひび、側溝の破損、見通しの悪い交差点。実際に危険な場所もあれば、現地へ来てみると何の問題も見つからない場所もある。

 今回の相談は、後者に近いようだった。

 最初に届いた内容は、少し変わっていた。

『家の前で歩行者が不自然に立ち止まることがある。道路に問題がないか見てほしい』

 具体的な事故の報告はない。

 転んだ人もいなければ、段差を指摘する住民もいなかった。ただ、何人かが似たような場所で足を止めるらしい。

 道路の下に空洞ができているとか、舗装が沈んでいるとか、そういうことを心配しているのだろうと亮介は考えていた。

「瀬戸さんですか」

 声のしたほうを見ると、道路に面した家の門扉が開いていた。

 五十代後半くらいの女性が、片手に小さなじょうろを持って立っている。薄い紫色のシャツの袖を肘までまくり、サンダルを履いた足元には、さっき水をやったばかりらしい濡れた跡が残っていた。

「市役所の瀬戸です。深見さんですね」

「すみませんね、わざわざ来てもらって」

「いえ。ちょうど近くの現場もありましたから」

 女性は深見澄江と名乗った。

 門の内側には鉢植えがいくつも並んでいた。土が湿った匂いに混じって、どこかから魚を焼く匂いが漂ってくる。

 澄江はじょうろを玄関脇へ置くと、亮介の足元をのぞき込んだ。

「何かありました?」

「いま見た限りでは、段差も特にありませんね。車が通ったときに蓋が浮くようなこともなさそうです」

「そうですか。じゃあ、道路は大丈夫なのね」

「おそらく。ただ、もう少し確認してみます」

 澄江は頷いたあと、道の向こうへ目をやった。

「別に急いで直してほしいとか、そういう話じゃないんです。気になっただけで」

「皆さん、どの辺りで立ち止まるんですか」

「あの角の手前とか、うちの前とか。決まってるような、決まってないような」

 亮介は手帳を開いた。

「時間帯はどうでしょう。朝が多いとか」

「どうかしら。朝も見ますし、夕方も」

「何か避けてる感じですか。車とか、自転車とか」

「そういうときもありますけどね」

 澄江はそこで言葉を切り、少し考えるように口を結んだ。

「この前なんて、男の人がうちの前で止まって、急に靴を直し始めたんです。別に変なことじゃないんですけど、その前にも似たことがあって」

「靴紐がほどけたんじゃないですか」

「ええ、そうだと思います」

 あっさりとした返事だった。

 亮介は、続けて何を聞けばいいのか分からなくなった。

「だったら、問題はなさそうですね」

「そうなんですよねえ」

 澄江も困ったように笑った。

「だから、こんなことで呼んでよかったのかと思って」

 亮介は手帳を閉じた。

 相談者自身が異常だと言い切れないものを、役所の職員がその場で説明することは難しい。

 道路に危険がなければ、それでいいのかもしれなかった。

 そのとき、少し離れたところで宅配便の軽ワゴンが停まった。

 運転席から降りた若い配達員が、荷物を抱えて玄関へ向かう。配達先の家では子どもの泣き声がしていて、配達員はインターホンを押したあと、しばらく空を見上げていた。

 亮介はその様子を何となく眺めた。

 何も起こらなかった。

 当たり前のことだが、少し肩透かしを食った気分になった。

「そういえば」

 澄江が言った。

「さっき、犬を連れた方とすれ違いませんでした?」

「ええ。白い犬の」

「あの方も、ちょっと止まってましたよね」

「鍵か何かを探してたみたいです」

「そうでしたか」

 澄江は納得したように頷いた。

 けれど、じょうろを取りに戻るでもなく、門扉に片手を置いたままでいる。

「いつも、そういう理由があるんです」

「理由?」

「止まった人には、みんなちゃんと理由があるんですよね」

 亮介は手帳を開きかけた手を止めた。

 何と答えればいいのか迷っていると、澄江の家の奥から電子レンジの終了音が聞こえてきた。

「あら、いけない」

 澄江は門扉を閉めながら頭を下げた。

「お仕事の邪魔してすみません。何もなければ、それでいいですから」

「また何かお気づきのことがあれば、連絡してください」

「はい。ありがとうございます」

 澄江は玄関へ戻っていった。

 亮介はしばらく門の前に立っていたが、ようやく手帳へ短い所見を書き込んだ。

 路面異常なし。

 歩行者の不自然な停止については、発生条件不明。

 そこまで書いて、二行目を消した。

 何人かが立ち止まっただけで、何かが発生したと記録するのは大げさな気がした。

 結局、舗装と側溝に問題が見られなかったことだけを残した。

     *

 現地を離れたのは、五時を少し過ぎた頃だった。

 西へ傾いた日が屋根の間に入り込み、住宅街の細い道には長い影が伸びている。昼間は気にならなかった夕食の匂いがあちこちから流れ始め、換気扇の低い音に混じって、包丁がまな板を叩くような音も聞こえていた。

 亮介は駅へ向かうつもりで、住宅街の南側へ歩き出した。

 市役所には戻らず、そのまま帰宅していいことになっている。

 スマートフォンを取り出し、勤務記録の時刻を確認する。

 十七時八分。

 画面を閉じて上着のポケットへしまった。

 その少し後から、足音が聞こえてきた。

 革靴ではない。靴底の硬いスニーカーのような、軽く弾む音だった。

 一定の間隔で近づいてくる。

 亮介は道の端へ少し寄った。

 後ろから来る人のほうが速く歩いているなら、先に行かせたほうがいい。

 ところが、足音はなかなか追いついてこなかった。

 最初は気にも留めなかった。

 自分が思っているより速く歩いているのかもしれないし、後ろの人も急いでいるわけではないのだろう。

 左手にはブロック塀が続き、右手には月極駐車場がある。

 駐車場の入口を通り過ぎたところで、足音が少し大きくなった。

 乾いた靴底が、アスファルトを二度叩く。

 亮介の数歩後ろまで来ているらしい。

 そろそろ追い抜くだろうと思った。

 しかし、足音の間隔が変わった。

 さっきよりゆっくりになっている。

 亮介も無意識に歩調を緩めた。

 後ろの音が、さらに遅くなる。

 車のエンジン音が遠くで聞こえ、どこかの家の門扉が閉まった。

 気にするほどのことでもないのに、亮介は足音の間隔を数えていた。

 自分の靴が地面に触れる。

 少し遅れて、後ろから一歩。

 また自分が歩く。

 そのあとに、もう一歩。

 追いつくほど速くもなく、離れていくほど遅くもない。

 亮介は道路脇の側溝に視線を落とした。

 さっき調べたものと同じ種類の蓋が並んでいる。そのうち一枚の端に、小さな欠けが見えた。

 気になって足を止める。

 しゃがむほどではないが、念のため写真を撮っておこうと思った。

 スマートフォンを出しかけたときだった。

 後ろの足音が、急に近づいてきた。

 顔を上げると、紺色のポロシャツを着た男性が、亮介の横を通り過ぎるところだった。

 三十代くらいだろうか。片手にビニール袋を提げ、もう一方の手でスマートフォンを持っている。

 男性は亮介に軽く会釈した。

「すみません」

「いえ、どうぞ」

 男性は少しだけ歩幅を広げ、そのまま先へ行った。

 さっきまでの遅い足音が嘘のように、軽快な靴音が遠ざかっていく。

 亮介は男性の背中を見送った。

 急いでいたのだろう。

 それなら、もっと早く追い抜けばよかったのに。

 道幅は十分にあった。

 すぐ横の駐車場には車もなく、すれ違いや追い越しを邪魔するものは何もない。

 亮介は自分が立っていた位置から道路を見渡した。

 欠けた側溝の蓋が足元にある。

 もう写真を撮る必要はないような気がした。

 スマートフォンをしまい、再び歩き始める。

 男性の姿は、すでに角の向こうへ消えていた。

 そのあとしばらく、亮介は後ろから足音が聞こえてこないことを確かめるように、いつもより少しゆっくり歩いた。

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