安龍福
毎年二月二十二日は「竹島の日」です。
「竹島の日」は島根県に竹島が編入された日を記念した島根県の記念日で、編入されるまでは政府の直轄地でした。
戦後、我が国に軍隊がいないことを良いことに、韓国が侵略して以降は係争地となってしまいましたが、この韓国による侵略は我が国の憲法が平和を謳っても絵空事、綺麗事に過ぎない空文であると証明した事件でもあります。
日本国憲法の前文にある「平和を愛する諸国民」という前提が失われて久しいと断言するものです。
さて表題の安龍福とは、何者でしょうか?
この人物は江戸時代に鳥取藩へ連行されて来た者です。
韓国の教科書では「竹島を返還させた英雄」として扱っているようですが、事実は全く違います。
安が連行されて来る四年前、当時は竹島と呼ばれていた鬱陵島で、鳥取藩の漁民が朝鮮人と揉め事を起こしました。
更に翌年も密漁をしていた為、鳥取藩の漁民は彼らを連行します。
帰港した漁民がありのままを鳥取藩に伝え、鳥取藩は幕府に上奏、幕府は対馬藩を通じて朝鮮側に抗議を行いました。
この時、幕府も鬱陵島を自国領土としていた為に、朝鮮側と領土問題となります。
安は帰国後に朝鮮政府からも取り調べを受けていますが、鳥取藩、長崎奉行所、朝鮮政府の取り調べでは一致する部分がほとんどないほどの虚言癖の持ち主です。
この事件の三年後、領土問題を解決した幕府は竹島と呼ばれていた鬱陵島への渡海を禁止し、鳥取藩もこの幕命に従います。
それを知らない安は鳥取藩へ密航して来ました。
この時も虚言癖を発揮してデタラメを並べ立てているのですが、最も面白いのは「鳥取藩主に直談判してやったぜ」という部分です。
安が密航して来た当時、鳥取藩主は参勤交代で江戸にいましたので、直談判はできません。
更に翌年、対馬藩が 「去年の秋に貴国の人が上程したことがあったが、朝廷の命令で出したのか」と問うと、朝鮮政府の役人である李世載は「もし述べなければならないことがあれば、通訳官を江戸へ送る。何を思い憚って、狂った愚かな漁民を送ることがあろうか」と回答しています。
また、安を取り調べた朝鮮の軍事行政機関である備辺司は「風に漂う愚民にいったっては作為することがあっても朝廷の知るところではない」と明言していて、全く取り合う必要のない事を対馬藩に伝えています。
なお、この密航事件を起こした安龍福は、朝鮮政府により流罪に処せられました。
領土問題が解決した後で大立ち回りを演じても、何も得るものはありません。
この安龍福を英雄とするのは、無理が有り過ぎます。
※古い記事を資料として添付します。
実事求是
第32回 ハンギョレ新聞電子版の外務省の固有の領土論批判について
韓国のハンギョレ新聞電子版は2011年3月31日、日本の中学校の教科書に竹島問題が記載されたことに関連し、「日本 独島専門家も‘竹島固有の領土論゛は誤り」と報じた。そこには外務省批判を続ける島根大学名誉教授の内藤正中氏と在日独島運動家の朴炳渉氏とともに私の顔写真を掲載し、「いくら日本政府の立場を代弁する右派学者でも、固有の領土論は成立することが難しい点を認めた」として、私までが竹島を「日本の固有領土ではない」と主張したと伝えている。
確かに2008年末、記事を書いた金度享記者からは3時間ほど、拓殖大学近くの喫茶店でインタビューを受けたことがある。だがその時、「固有の領土論」に関しては、外務省の見解との違いはお話したが、竹島が日本の固有の領土ではないとは言っていない。それは3時間ほどのインタビューで、最も重要なポイントとなったのが、韓国側には竹島の領有権を主張する歴史的根拠がないという事実にあったからである。
そこで私は、韓国側には竹島の領有権を主張する歴史的権原がないとした上で、日本側の竹島研究には日本政府の見解と島根県(及び私)の見解があると説明し、「固有の領土」についても見解の相違があるとお話したはずである。それを私が「固有の領土論は成立することが難しい点を認めた」と飛躍されたのは、いかなる理由からであろうか。
なぜなら竹島が韓国領でない事実は、すでに金度享記者の記事でも触れられているからである。金度享記者は、島根大学名誉教授の内藤正中氏の主張を根拠に、外務省の固有の領土論を批判しているが、その内藤正中氏は、金度享記者が報ずる記事の中で、現在まで独島(竹島)が「韓国領土という決定的な証拠が出ていない」とし、内藤氏自身も未だに「独島が韓国の領土とは主張していない」と、語っているからだ。
では内藤氏は、何を根拠に外務省批判をしていたのであろうか。金度享記者によると、内藤正中氏の外務省批判の根拠は二つある。その一つが、江戸幕府が「1696年、欝陵島と独島を朝鮮領と確認し、日本の漁夫たちの出漁を禁止した」と内藤教授が反駁した事実。
二つめは、1877年の太政官指令の解釈である。内藤氏は、太政官指令の「竹島外一島の儀、本邦関係これなし」を「1877年3月、独島と欝陵島は日本の領土とは関係が無いので心得るよう」と解釈し、独島と欝陵島は日本領ではないとした、としている。内藤正中氏によると、江戸幕府が竹島を朝鮮領とし、明治政府も1877年3月、太政官指令で竹島を日本領ではないとしているので、それを固有の領土とすることはできない、というのである。
だがこの内藤氏の歴史理解は、事実を伝えていない。江戸幕府は1696年1月、竹島(欝陵島)への渡海禁止を鳥取藩に伝えるが、それは欝陵島への渡海禁止で、竹島(独島)は含まれていないからだ。さらに韓国側は、江戸幕府のこの決定を1696年6月の安龍福による鳥取藩領への密航事件と結びつけ、安龍福の活動で欝陵島と独島は朝鮮領になった、と歴史教科書にも記述している。
しかし安龍福の密航は竹島への渡海禁止が通達された後で、すでに江戸幕府は鳥取藩米子の大谷・村川両家に与えた渡海免許を返還させていた。ところが密航後、朝鮮に戻った安龍福は「欝陵島で鳥取藩米子の漁民等と遭遇し、それを追って鳥取藩まで行き、鳥取藩では藩主に抗議して、欝陵島と竹島を朝鮮領にした」と、供述したのである。韓国側はこの安龍福の供述を歴史の事実とし、竹島が韓国領となった歴史的根拠とするのである。
だが安龍福の供述は、事実を伝えていない。欝陵島への渡海禁止が通達された五ヶ月後、鳥取藩領に密航して来た安龍福に対し、江戸幕府の指示を受けた鳥取藩は、安龍福を加露灘から追放していたからである。ところが帰還後の安龍福は、朝鮮側の取り調べで、鳥取藩主は、「欝陵島と于山島は既に朝鮮領となったのだから、再び越境する者があったり、対馬藩が無理な要求をしたりしてくれば、国書を作成し、訳官を送ってよこせば重く罰してやろう」と語ったとし、安龍福の帰国に際しても、食料と護衛の使者をつけてくれるといったが、それを断ったと供述していた。この安龍福の供述は、日本史の知識があれば偽証は見抜けるはずである。鳥取藩が幕府に代わって領土交渉に応ずるはずもなく、朝鮮との外交窓口は対馬藩に限られていたからだ。
韓国側では、日本側の史料を正確に読んでおらず、安龍福の供述だけを根拠に、江戸幕府は竹島と欝陵島を朝鮮領と認めたとしているのである。内藤正中氏は、江戸幕府が「1696年、欝陵島と独島を朝鮮領と確認」したとするが、内藤氏の主張には根拠がないのである。
同様のことは1877年3月、太政官が竹島と松島に対し、「竹島外一島の儀、本邦関係これなし」とした太政官指令の解釈でも言える。内藤正中氏は、1876年、島根県が竹島と松島を島根県に編入すべきか中央政府に伺いを立てた際、太政官は「独島と欝陵島は日本の領土と関係が無い」と解釈した。だがこれは内藤氏の恣意的解釈に過ぎない。
その理由は、当時の地図や海図は、1840年のシーボルトの「日本全図」(写真1)の影響を受け、実在しないアルゴノート島に竹島と表記され、欝陵島には松島と表記されていたからである。
このシーボルトの「日本全図」により、その後の地図や海図では、江戸時代に竹島と呼ばれていた欝陵島が、松島と表記されることになるのである。そこに現在の竹島が登場するのは1849年、フランスの捕鯨船リャンクール号によって発見され、リアンクール岩礁と命名されてからである。
そのため当時のフランスやイギリスの海図(写真2)には竹島と松島、それにリアンクール岩礁が描かれ、混乱の痕跡を見ることができる。
太政官指令で「本邦関係これなし」とされた「竹島外一島(松島)」の「竹島」と「外一島」とは、当時の地図上では、破線で描かれた未確定のアルゴノート島(竹島)と欝陵島(松島)を指していたのである。
その地図上の松島が、欝陵島であったことが確認されたのは、太政官指令の3年後、1880年9月に実施した天城艦の測量結果による。外務省嘱託の北澤正誠はその天城艦の水路報告を参考に、1881年8月、『竹島考証』をまとめ、松島を欝陵島とし、欝陵島の東約2キロに位置する竹嶼をチクトウ(竹島)とした。1882年、欝陵検察使の李圭遠は「欝陵島外図」を作図する際、これまで于山島と表記されていた竹嶼に、竹島と表記するのである。
これらはシーボルトの「日本全図」で欝陵島が松島と表記されて以来、その地理的認識が海図や地図に定着していった経緯を示している。それを韓国側では、太政官指令の「竹島外一島の儀、本邦関係これなし」の竹島を欝陵島と解釈し、外一島を江戸時代以来の松島として、「太政官は松島(現、竹島)を日本領とは関係がないとした」と強弁してきた。それを積極的に主張してきたのが、島根大学名誉教授の内藤正中氏と在日独島運動家の朴炳渉氏である。だが太政官は、松島(欝陵島)は日本領と関係がないとはしたが、その中には現在の竹島は含まれていなかったのである。
さてこのように見てくると、内藤正中氏が外務省批判の根拠とした太政官指令も、外務省の「固有の領土論」を論駁する論拠にはならない、ということである。では内藤正中氏が「現在まで、日本内の資料には、竹島は日本の領土でないという資料が多い」とし、その実例として挙げた『韓海通漁指針』(1903年刊)と『最新韓国実業指針』(1904年刊)には、証拠能力があるのだろうか。金度享記者はその内藤氏の説を受け、両著には「朝鮮江原道に属す欝陵島とそれに附属するリャンコ島(独島)と言った記述が出ている」と報じているが、それには信憑性があるのだろうか。
だが『韓海通漁指針』と『最新韓国実業指針』も外務省の固有の領土論を批判する論拠としては、使えないのである。『韓海通漁指針』では、韓国の版図を「北緯23度15分乃至42度25分、東経124度30分乃至130度35分の間に位し」とし、『最新韓国実業指針』では「その位置、北緯23度15分より42度25分に至り、東経124度30分より130度35分に及ぶ」と、明記しているからだ。一方、竹島(リャンコ島)は「北緯37度9分30秒、東経131度55分」に位置し、朝鮮の疆域には含まれていないのである。
内藤正中氏及び韓国側の竹島研究の特徴は、文献の一部を恣意的に解釈し、竹島の領有権を主張するところにある。事実、内藤正中氏が「日本内の資料には、竹島は日本の領土でないという資料が多い」として挙げた『韓海通漁指針』と『最新韓国実業指針』も、内藤正中氏が文献の一部のみを見て、肝心な部分は読んでいなかっただけのことである。
韓国側ではその内藤正中氏の主張を奇貨とし、外務省の固有の領土論を批判する論拠としているが、内藤氏自身は「現在まで独島(竹島)が「韓国領土という決定的な証拠が出ていない」としている。
韓国側には、竹島の領有権を主張する歴史的権原はないのである。
そこで「独島は我が領土」と主張する人々に、お願いしたいことがある。それは歴史の事実と真摯に向き合い、韓国が隣国の領土を侵奪したという過ちを率直に認め、速やかに日本に返還する努力を始めることである。
(以上)
ソース 島根県・Web竹島問題研究所 実事求是(文・下條正男)
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-2/takeshima05-n.html




