誰かが笑った 2
タワー三十階。超能力研究所と機器開発工房という隠れ蓑の『ユグラシル』本部。
ニックがげっそりと隈を作って現れた。
「なんじゃその、今にも死びとになりそうな顔は?」
従者が用意した朝食を摂りながら、タガラ姫が目を丸くした。驚き様は十二歳のそれ。
「なんだじゃねぇ。それはこっちだ。なんだあの嵐は?」
昨日、アキラを自分の家に通したニックは、直後から後悔の連続だった。
部屋を隅々まで見て回り、風呂に入ってはタオルを忘れたと騒ぎ、聴きたくもない鼻唄の騒音を垂れ流し、パジャマを忘れたと騒いで、ニックが着ていたオーバーサイズのシャツを着てまたうろつく。
おやつが一つもないからコンビニへ行って買ってくると言うのをニックが引き留めて押し問答。折れたニックが初めて菓子を買うという行動を起こした。
テレビが無いと叫び、仕方がないから音楽でも聴くと、勝手に再生を始めてプレイリストがクラシックだけと文句を言う。
とっとと寝ろと部屋に押し込んだのは一度も使われずじまいの子供部屋で、狭いとまた文句を言った。
「訂正。嵐じゃねぇ。警報レベルの暴風。返せ俺の静かな空間…」
完璧にペースを乱されたニックはテーブルに豪快な音を立てて突っ伏した。六歳の頃から見守っていた職員は、初めて見る十九歳らしい青年をほほえましく見ていた。
「はいはい。今日の予定よ」
フランソワが朝食中のタガラ姫とニックの間に入ってきた。
「ニコラスは坊やを連れてきてね。右目の遮蔽コンタクトの試作ができたのとグローブの調整。あんたも、キャンセラーの調整よ。坊やは検査もあるから事前説明よろしく」
淡々と、一切の感情を廃して彼女は言う。仕事モードに入った彼女からは、横槍を許さない緊張感があった。長い台詞を淀みなく話す本業の、女優の片鱗を見る思いである。
「面倒」
突っ伏していた顔を上げて、嫌な顔を向けた。テーブルに押し当てていた額が赤い。
「あんたの相棒でしょう?」
呆れて細い眉をつり上げる。今は副業モードなのに女優の顔は崩さなかった。
「相棒?貸すぜ。振り回されてみやがれ」
応戦した。
「要らないわよ。男の子なんて。さっさと連れてきなさいってば」
よく通る凛とした声。舞台女優もこなす腹式呼吸の声はフロア中に響き渡った。
「おれもアキラとはまだ会ってないから。会いたいな」
タガラ姫を扉の向こうに送ったイサトゥが戻ってきて声をかけた。仕方ねぇ。ふて腐れた声をあげて、ニックは再びタワー上階へ戻った。
二二九階のフロアは全て住居。エレベーターが開くと左にはキッチンがある。
下の研究所へ降りる前はキッチンの向こうの食卓でアキラがトーストにたっぷりイチゴジャムを塗りたくって、ご満悦という表情で一口目を食べる所だったが、今は冷蔵庫に入っていた作り置きのミートボールを温めて食べるところだった。
「それ食ったら、今夜の食事が…」
言っている最中にフォークに二個を同時に突き刺して、口に放り込まれた。
「お前、人んちのメシ勝手に食うな」
「えぇ?だって昨日、自分の家だと思えって言ったじゃん」
アキラが抗議した。
言った。確かに言った。しかし他人の家の次の日の朝にすることか?お前の国の奥ゆかしい民族性はどこに忘れた?
そう怒鳴りたかったが、仕事の時と何ら変わらない行動にこれがアキラなんだと納得と諦めがわきあがった。
「早く食っちまえ。人が待ってる」
もう文句の出ようがない。それだけ言って行動を急かした。今夜は外食か?仕事以外で外に出歩くのは性に合わない。
********************
「やぁ」
エレベーターの扉が開くと、アキラには懐かしい顔が笑顔で迎えてくれた。艶気のない灰色の、毛先だけ緑のパサパサの髪。顔色はいいが眠たそうな目。ヨレヨレの服に意図したように汚れの目立つ白衣を着た、
「イッくんだ!」
ぴょんとアキラが飛び上がった。
「あの時、君は死んだと思ってたよ。無事だったんだね。今までどうしていたの?今どこにいるの?ここにいるの?何してるの?」
機関銃のように早口で矢継ぎ早の質問に、イサトゥは苦笑しながら足を後退させた。
「わらわの花嫁を困らせてくれるな」
質素だが手の込んだ刺繍の民族衣装を着た少女が現れた。
「えーと…たがら…」
「姫を付けよ」
幼さの中にも触れがたい威厳を湛えた少女は苦笑した。相変わらずだな。とも付け加えられた。
「イサトゥは今、わらわの花嫁じゃ」
「花嫁?男はやめたの?」
やめるわけない。おれは今も気持ちは男だよ。アキラの問にイサトゥは首を振った。
「花嫁というのはタガラ姫様の言葉遊びだよ。全員が何らかの能力持ちで、障壁を作ったり各国へ飛んで情報収集したり」
語り口調は以前のような無理に声を低くしたり自信の無さげなものではなかった。自分の中と折り合いがついたような物怖じのしない堂々としたものだった。
「めでたい気分になろうぞ?」
タガラ姫が言う。十二歳の少女らしい発想がほほえましい。が、やっていることは子供らしいものではなかった。
「再会も終わったし、俺は工房に行くから、大人しく待てよ」
ニックに強調されて言われた。工房と呼んでいるが、マスター依頼の仕事で使う機器の開発や調整を行なっている研究所らしい。
振り向きながら『黙っていろ』と圧をかけているニックを見送り、初めて緊張してきた。ここは完全にアキラの知らない空間だ。
「じゃ、アキラはこっちに来て」
イサトゥは壁で仕切られた部屋のドアを、開いて待っている。
「ここは超能力の制御や未熟能力の開発研究をしてるんだ」
奥へ案内しながら言う。
中はさらにパーティーションで仕切られた個室がいくつか並んでおり、人の姿も見えた。
その奥のいちばん広い部屋で数人が作業をしていた。
「ここへ来るまで何日かかってるの?何度呼び出してものらりくらり。遅いわ!」
一人、凄みをきかせた声をあげ、女が立ち上がってこちらを向いた。細くりりしい眉。勝ち気な紫色の瞳。左目の下には小さなホクロがひとつある。ショートの巻き毛は癖が強い。そしてとてつもなくセクシーな体つき。
アキラは彼女の正体を知っていた。
フランソワ・シャルジュ。激しく凛々しいアクションから悲劇やロマンス、かと思えばセクシーなイメージを壊すコメディまでこなせるマルチな女優だ。
「フランソワさん?」
「ぁぁん?」
再び厳しい眼差し。本名はフランソワーヌなのだが、レズビアンを公言している彼女はその女性名を嫌って、男性名にしたと聞いている。しかも極度の男嫌いだとも。
しかし、だからといって怯むアキラではなかった。
「本物?本物のフランソワさん?」
じりじり近づいてアキラは鼻息を荒くした。思えば初めて観た彼女の映画は『スカイランナー』~疾風のヒロイン~とサブタイトルが付いているように、息もつかせぬ展開にわくわくしたものだ。格好良くてセクシーな彼女に憧れた。
「ちょっとイサトゥ。この厚かましいナマモノが、あんたの言っていたアレ?」
「…です」
セクシーさとは程遠い口の悪さ。イサトゥは申し訳なさそうに頷いた。
「ナマモノ…?」
アキラの笑顔がひきつる。
「ま、見た目は可愛いのは認めるわ。でも男じゃねぇ」
眉をしかめている。厳しい表情ながらも、やはり美しい。
「いいわ。早速データを取らせて」
舌打ちをして、仕方がないという態度でくるりと踵を返す仕草がなんとも美しい。こんな人に体をあーだこーだされるなんて、夢みたい。いや、夢だ。覚めないで。
「言っとくけどね、私はあんたの体なんて触りたくないわ」
考えがダダ漏れだったようだ。嫌悪の表情で彼女は言ったが、アキラに伝わった気配がなかった。期待の眼差しを向け、彼女に触れられるのを待っているようだった。
『バカ』が付くほど女には目がないとニコラスが言っていたのを、彼女は思い出した。ポケットからレースのハンカチを取り出し、彼女はアキラに差し出す。
「これを持ってな。あー…プレゼントだ」
女優のはずだが棒読み。しかしアキラは気付かない。
「いいの?嬉しいなぁ」
いい香りがする。今をときめくスター女優の、何とも言えない香り。
ハンカチを鼻先に近づけ…それから意識がない。
「なんなのこの子」
くったりとしたアキラを害虫でも見るような目で見つめて言った。アキラの脇を抱えてよろけるイサトゥは苦笑しかできなかった。
突拍子もない行動は、以前に経験済みだ。それに付き合うニックも我慢強いと思った。
目が覚めた。まだ少しボーッとして、体が動かない。
フランソワさんから繊細なレースのハンカチをもらった後から記憶がない。少しスパイシーな香りの、どちらかといえば男性的な香水の香り。
「起きたみたいだよ」
イサトゥの声。
「あんたの言った通りだよ、ニコラス。こいつバカだね」
「だろ。でもまぁやればできる奴。…だと思うぜ。バカだけど」
「でも、バカな子ほど可愛いよ。女装したらだけど」
「女装しても男は男でしょうが。こんなバカでも良いって言う女の子がいるの?可哀相だわ」
「いるらしいぜ。ま、実害のないバカだからいいんじゃねーか?」
聞こえてくる会話に、怒りがわいてきた。
「バカバカ言わないでよ。バカー!」
飛び起きる。
「起きたし」
フランソワが肩を揺らして笑っている。
「なんだよ。みんなしてさぁ」
膨れっ面をしてぼやく。腕には採血の痕があった。
「検査は終わったよ。血液検査に脳波、内臓にも異常無し。遺伝子検査は少し時間をもらうね」
フランソワは検査のデータを見ながら言った。
「あがってきている報告も考慮すると、あんたの超能力には余力がまだあるんだ。研究対象としては面白いよ」
書類をはじきながら言う。スクリーンの中の彼女は妖艶でキュートで、女性の中の女性という感じなのだが、目の前にいる彼女はなんともハンサムな雰囲気である。
「ボク、実験されちゃうの?」
「しないよ。データをとって研究と検証するんだ」
苦笑しながらイサトゥが言う。
「定期的に来てもらうけど、拒否は許さないよ」
細い眉を中央に寄せ、彼女は言った。
「フランソワさんがいるなら、毎日来るね」
ハートが飛び出してきそうな声音でアキラが言った。切り替えが早い。
「来なくていい!」
男にはあくまでも冷たい、有名女優だった。
********************
早朝、エレベーターの起動音にアキラが慌てた。そっと冷蔵庫に向かうところだったのだ。
「ニック!ここには誰も来ないんじゃなかったの?エレベーターが動き出した!」
主寝室に飛び込んだ。絶対に入るなと言われていたが緊急事態。
寝ていたニックも飛び起きた。オーバーサイズのシャツの胸元が大きく開いていてアキラはちょっと目のやり場に困ったが、それどころではない。
アキラのドタバタの向こうで、パタンと主寝室のドアが静かに閉じられたのが分かった。
まずい。このままでは…!ニックは一気に覚醒した。慌ててキッチンへ飛び込んだ。
キッチンに、シンプルな黒いメイドドレスにロングエプロンをつけた、年の頃四十代の女性が長い髪をひっつめて仕事を開始するところだった。
「まだお休みになっていてよろしいですよ」
彼女はにっこり笑って言った。絶対に面白がっている顔だ。
「彼女はハルエさん。この家の家事を任せているハウスキーパー」
ニックが困ったような恐れのような顔で言った。
「そっか!ボク、ドロボーかと思ったよぉ」
にしゃっと笑った。
「ニコラスさんはご趣味が変わられたのですか?以前はエドワードさん一筋の…」
「いい。ハルエさんの趣味は分かっているからいいって」
ニックが慌てて言うと、あら?とわざとらしく首をかしげてみせた。
この国へ来た時から彼女には世話になっている。学習もマナーもこの国の常識についても彼女から学んできた。自分もエドワードも彼女には頭が上がらないのだ。彼女の趣味についても。
彼女はアキラに深々と頭を下げた。
「初めまして、アキラさん。ハウスキーパーのハルエと申します。この家には十三年お仕えしております。この度『ユグラシル』創設にともない身を明かしてもよいと許可が下りましたので改めて…」
ニックは目を丸くした。彼女が話した事は初耳だった。
ここへ来たのは家政婦協会からの派遣ではなかったのだ。彼女はマスター直下の部下であったという。
「では、これからどうぞよろしくお願いいたします」
再び、見本のような角度でハルエさんはお辞儀をした。
「お前な…」
ニックはうんざり呆れた声をあげた。アキラはまだ着替えもせず、ソファの上で胡座をかきつつ作ってもらったサンドイッチを頬張っている。手にしたタブレットではニュースを観ている。かれこれ一時間半。
ニックの呆れた声も入らないほどの集中だ。ちゃらんぽらんながら肝心な事はしっかりしている所があるのはこのせいかとニックは思った。
「ニック、お腹減ったけど、作り置きの食べてもいい?」
「その手にしてるのはなんだ?」
「えーと、おやつ?」
サンドイッチを凝視してアキラが言った。お前は今まで、朝から何を食っていたんだ?ニックは空を見上げた。天井のすぐ上は青天。
「タガラちゃんがさ、ボクの残りの力のこと訊いてきたけど、考えてたけど分かんないんだよね」
結局作り置きの肉じゃがを食べている。また外食になりそうだ。毎日ペースが乱されっぱなし。ニックは頭を抱えた。
「思い出せそうな兆候もないのか?お前、あと二つか三つあるって?」
「うん。なんとなく覚えてるのは地面に手を当てて、絵描いてた。それとねーダンゴムシ転がして遊んでたの思い出したよ」
アキラはげらげらと笑った。何匹も拾いあげて、斜面を転がしたのだと。
「マスターがしばらく休めって言ってたけどさ、タガラちゃんが作った『ユグラシル』と関係あるのかな?」
アキラの言葉に椅子の肘掛けに体を預けて楽譜を読んでいたニックは思い切りコケた。
「おまえ、タガラ姫の話を聞いていたか?」
フィリドはアキラから奪った力を戻してくる。全て戻されればその先は…誰にも想像のつかない変化が…アキラには伝えられない事実だ。
「お前が、狙われてんだぞ」
「なんで?」
「知らん!」
言えるわけがない。誰もが今はまだだと期を待つ時に。
「知らないのに匿われてるなんて、ボク的に無理。買い物行きたいよー。スイーツ巡りしたいよー。退屈だよー」
テーブルに頬杖をつきながらアキラはニックを見ていた。一人で出歩くなと言うなら道連れにしてやると、ニックがにらんだ時ににやりと笑っていた。
「仕方ねぇ。この辺案内してやる」
ずっと家の中で愚痴を言われるのもうんざりだった。気晴らしにタワー近辺を散策するのも悪くないだろう。
「やった!ちょっと待ってね」
アキラは部屋に駆け戻っていった。嫌な予感。
当たった。
誰かコイツの暴走を止めてくれ。
そう思ったが、たぶん自分しかいないのは分かっている。他のやつらはきっと面白がるだろう。自分は…止めることもできず振り回されるのだ。
仕事なら一喝で黙らせられる。が、今は表向きは仕事じゃない。気むずかしい指揮者と大編成のオーケストラとの共演より重圧だった。
「わーい。デートデート!本日はガーリー系でまとてみまっした」
膝丈のフリルのスカートを摘まんでみせた。
「あーそーかよ」
棒読み。頭からうんざりの湯気が出てきそうなニックだった。
「しゅっぱーつ」
「出発じゃねぇ」
アキラに腕をつかまれて、引きずられるようにエレベーターに乗り込んだ。
二百年ほど前の地殻変動装置の発動で引き起こされた大災害から、人類は再び大きく発展をした。その叡知をもって大気圏を抜け、宇宙へ開拓を進めたのだ。今や月にも人はコロニーを作り、生活をしている。
月へ行くには宇宙往還機が使われ、軌道エレベーター上からRLVを発着させる方がコストダウンさせられると軌道エレベーターの開発が進められた。
アキラが暮らす国『ヤマト』も軌道エレベーターの設置候補の国として基点のビルが建てられたが、建設会社が資金不足によって計画を断念。国もコスト高を理由に、設置候補国からも辞退した経緯がある。
軌道エレベーターは二三〇階までは建設されたが、放棄された。
「今更ながらマスターの人脈と経済力に驚かされるよ。あの廃墟、ポンと買っちゃうんだもんな」
霞む巨大な塔を公園のベンチから眺めてアキラは言った。
「廃墟じゃねーし」
ニックが言うが語尾が尻すぼみだ。階上に自分の家があるももの、階下は誰もいない。地上から3階ほどまでは店やクリニックがあり人が往き来するものの、その上はマスターが出資している研究機関があるだけだ。研究機関に至っては秘匿されているので、廃墟といわれても仕方がない。
この街並みは塔を中心に開発をされている。軌道エレベーターが稼働していたならさらに発展する街であったが計画が白紙になり、都市計画が再構築された。
塔の周辺にグリーンベルトがあり、明るい森や林や小川が流れ、老若男女の憩いの場となっている。
さらにその外周に街の賑わいがあり、塔の中に入ると買い物客やクリニックに通う患者たちで結構な客数だった。
「廃墟のタワーだから寂れた街と思って来たことなかったけど、そんなことなかったね。綺麗で静かな街」
グリーンベルトの中の遊歩道を歩きながら言う。
身長が足りないのでたまに中高生向けのモデルをやると言っていたが、そのせいか歩き方は綺麗だった。
屋外時計のある広場まで来た。遊具があり、ベンチが等間隔で奥の林の方まである。
ニックがふと懐かしそうに微笑んだのをアキラは見逃さなかった。
「なになにニコラスくぅん?今、すっごくいい笑顔してたぞぉ」
にしゃにしゃと笑って顔を覗きこんだ。言われて、うろたえて顔が赤い。この散歩道はエドワードと朝によく歩いた。手を繋いで。互いの思いを遂げあったあとは特にだった。幹の影に、枝影に、今もエドワードがいる気がした。
「おれの好きな道。……察しろ鈍感!」
バシッとアキラの背中を叩いた。まだ顔が赤い。アキラはそれ以上は言わなかった。大切な思い出があるのが分かったから。
「居たよ」
臙脂色のシャツにデニムジャケットとハーフパンツ姿の少年が、上空から見ていた。燃えるような髪色以外はアキラに似ていなくもない。笑みを見せているが、明るいというより狡猾。ルトだった。
「どうする?」
さらに高みを振り仰いで言った。
蜂蜜色に近い金髪の男がおもしろそうに笑っている。フィリドだ。──余り苛めるな──男は声を発することなく語りかけた。
──好きにしていい。ただし、傷はつけるな──
はるか眼下でアキラは面白そうに笑っている。
──おれの花嫁なんだからな──見つめるフィリドは実りを待つ農夫のようだった
小さく舌打ちをした。勝手にやるよ。捨て台詞を吐いてルトは景色の中へ消えた。
********************
「は?今、なんて言った?」
「お腹へったな。って言った」
「家、出る前にハルエさんの肉じゃが、食ってなかったか?」
「食った」
ニコニコと言う。
「それでまた?お前、普段どれだけ食ってんだよ」
「こんなものだよ。マムのごはん、美味しいからさぁ」
いつも通りなのだろう。ニックのうんざりした顔を不思議で仕方がないという顔で見つめた。全く罪はありませんという顔。
「どこに消えてるんだよ」
どれだけ食べてもペタンコの腹にもう手に負えないと空を見上げた。今日はこれで何度目か分からない。
「じゃ、そこのオープンカフェに行こうよ。プリンプリン。プリン食べよ」
ニックはまた引っ張られた。食べ物を前にしたアキラは戦車並みの怪力。訂正。大男三人並みではある。
メニューを見ながら悩んでいた。
プリン。
カッププリン。
どんぶりプリン。
バケツプリン。
いやでも、タワーパフェも捨てがたい。真ん中のソフトクリームが十段巻きだった。迷う。
「ここに一日中いる気か?」
じっくり悩むアキラに眉をしかめてニックが睨んでくるので、とりあえずバケツプリンとタワーパフェと生クリームたっぷりパンケーキを頼んだ。
「ニックは?食べないの?」
運ばれてきたパフェやパンケーキに胸焼けしそうだ。コーヒーだけでいい。イラッと声を荒げて答えたが、アキラは動じる素振りさえなかった。
それどころか、ナイフとフォークしか持てないからパフェを食べさせてくれと口を開けて待っている。誰か、俺と交代してくれ。嘆くニックを他所に、一人ではこうやって食べられないから、相棒がいてくれてラッキーだと言っている。相棒じゃねぇ。これでは幼稚園児を連れた保護者だ。空を仰いだのは何度目だろう。
突然風向きが変わった。
ざわっと背骨に悪寒が走った。
何かの気配に、入れたばかりの透視を遮蔽するコンタクトの中心が一瞬光った。こっちの目はコンタクトで塞がれていて見えていないのだが、何らかの力に反応してしまうようだ。改良がいると思った。
ゾ・ゾ・ゾ・ゾ…
地面を這ってくる何かの音を聴いた。二人同時に立ち上がる。
炎が黒い焦げ跡をつけながら、蛇のように素早く這ってくる。周囲から複数、悲鳴があがる。炎の蛇は時々火柱を立ち上らせては走り回った。物に引火させないあたり、まるで大きな悪戯をしかけているようにも感じられる。
焦げ跡を追っての出所を探すが気配すらない。
ある一点。そこから焦げ跡が四方八方へと広がっている場所を見つけた。そこが中心なのだろう。
ニックがアキラの左目を見た。
アキラは頷いてグローブを外した。焦げ跡の始まりの地面に手のひらを押し付けた。
両手が地面にめり込む感覚。沈む。
楽しげに笑う声。いや、楽しいの中に嘲り蔑む色音が混じっている。ポンコツ。そう言った。
『まだこれからさ。うんと困ればいい!』聞き覚えのある声。
あのルト?イサトゥの父を殺した、目の前で仲間であっただろう女を殺した少年。
場面が変わった。フィリドが見つめている。冷たい笑いを浮かべて立っていた。場所。あの湖の研究所のように見える。
『代わりにはならないが、使えそうだな。付いてこい』それだけ言うと、振り向きもせずに歩き出した。
後を付いていった
「おい。長いぞ。大丈夫か?」
中断された。ニックが心配そうな顔で腕をつかんでいた。
過去に取り込まれた感覚は無いが、ひどく疲れた。以前ほど物に触れるのに恐怖を感じないのは、炎の恐怖から解放されて思い出したことがあったからかもしれない。
「ルト、覚えてる?イサトゥの時にいた子。あの子の仕業だよ?」
アキラの顔が真顔だった。嫌な思い出があるのはニックも知っている。ちゃらんぽらんが消えている時は怒っているか何かに真剣な時だ。
「何がしたいんだ?騒ぎだけ起こしてよ?」
「さぁ?」
『お前に嫌がらせ!』
突然背後から真紅の頭が現れた。アキラの間近で冷たい笑みを浮かべた少年。
さっと手を払うと、大きな力の塊がアキラの足を握って空に放り投げた。
こうなるとニックにはどうすることもできない。催眠は奪われたままだし特殊な聴力があったところで使い物にはならない。
放物線を描いて落下するアキラの方へ駆け寄る以外ないのだ。何が『守れ』だ。ニックは思った。
アキラは落下直前に体の向きを変えてふわりと着地した。ただ、ヒールのある靴だったのでコケた。茂みの中で尻餅をついたあと、服の破れがないか確認している。『今、そこじゃねぇ!』ニックは思わず怒鳴った。
「ごめん。パンツ男物」
頭を掻き掻き笑う。『それも違う!』いや、アキラらしいと言えばそうなのだが…
「あげる。ダンゴムシ」
茂みの中で拾ったらしい何匹かをニックの手の中に入れた。
「いらね」
「少しの間、持っててよぉ」
膨れっ面をして言い、仕方なく受け取るニックに悪戯っぽく笑ってみせた。
『何ふざけてるんだよ』
再びルトが背後に回った。振り向いた瞬間、細い指がアキラの右目を掻いた。
遮蔽コンタクトが剥がされた。指が下瞼も引っ掻いたらしい。血が流れ出す。
突然現れた透視の世界にアキラが悲鳴を上げる。全てが重なって見える景色は、慣れる事ができない。
「ばか。気持ち悪い」
しゃがみこむアキラに、いい気味だとルトは笑った。再びアキラの足を力の塊が掴んで上空へ持ち上げた。右手は右目を押さえ、左手はスカートが逆さまになるのを押さえている。この場に及んでまだそれを気にするとは、さすがだと慌て半分、呆れ半分のニックだった。
「ニック!ダンゴムシ放って!」
アキラが叫んだ。応じるように自然に体が動いた。
アキラのいる上空へそれを放り投げると、百舌鳥の大群が甲高く鳴きながらルトの回りで渦を作り出した。
不意打ちのように襲ってきた鳥の大群に、ルトの力が削がれてあらぬ方向へ飛んでいく。アキラもそれに煽られて離れた茂みの中へ投げ込まれた。
頭から落ちる寸前、誰かが腕を掴んで引き寄せたような気がした。深い藍色の瞳だけ、顔の間近に見えた。その藍色の瞳が、金色に揺らめいてアキラの左目を覗き込む。この炎のように揺れる金の色。覚えがある。
それ、ニックの…言いかけたが『寝ろ』そう声が聞こえ、急な睡魔がやって来た。
誰なのか確認したかった。蜂蜜色の頭が見えた気がした。
フィリドが立っていた。横たえたアキラの下腹部に手を当て何かを聞いているような仕草。
「まだ…だな。さっきのは、奪った力の残りカスか」
呟いた。それからアキラの瞼に触れ、流れた血と傷とを消すと、上空で百舌鳥の群に取り囲まれているルトの手をとった。
「傷つけるなと言ったはずだ」
冷たい指。冷たい声だった。ルトもまた全身に冷たいものを走らせていた。
********************
タワー。『ユグラシル』本部。
アキラが処置台の上で正座している。何だか不穏な雰囲気だ。
「もう一度言いますか?」
クールが細い眉を吊り上げたまま言った。ニックが腕組みをして少し離れたところから成り行きを見ている『ほら見ろ、自業自得だ』そう言わんばかりの目をしていた。
「いらないですぅ。もう結構ですぅ。だって退屈すぎるんだもん」
アキラが泣き真似をした。まだ女装のままなので、クールは女の子を泣かせているようで、何とも言えない罪悪感めいたものがわきあがった。
アキラの気持ちも分からないでもないのだが、自分が狙われているということを自覚して、緊張をもって行動をしてほしいのだが…。
まだほんの数日なのにと、クールは長いため息を吐き出した。
「アキラよ。無事か?」
サンダルの足音をヒタヒタさせながらタガラ姫がイサトゥに先導されて入ってきた。
「ほほぅ。可愛いのぉ」
女装姿にタガラ姫は目を細めた。
「そう言ってくれるのタガラちゃんだけだよぉ」
アキラがにっこり笑う。
「こりゃ。『姫』じゃ」
処置台によじ登ってタガラ姫はアキラの額をペシッと叩いた。軽く。
「して?何がどうなった?ニコラスの話では鳥が飛んできたとか。それにルト?あのちんちくりんか?」
聡い顔をしながらも瞳は少女のようにキラキラと、タガラ姫はアキラから話を訊きたくて仕方がないという顔をしている。
その場にいる全員も作業の手は進めながら、耳はアキラの話を待っていた。
「えっとね、火が走ってきたでしょ。それがガーッと来たから来た方に行って、誰だろって視たらルトでね、そしたらバーっと飛ばされて…」
タガラ姫が煙をバタバタさせるように手を扇いで話を遮った。
「わからん!ニコラス、話せ」
アキラがまだ口をパクパクさせる横で、タガラ姫はニックへ話を振り直した。
カフェでの炎の蛇。
焦げ跡を追ってその中心での過去視。その仕業がルトであったこと。
ルトがアキラへ『嫌がらせ』だと告げたこと。
直後にアキラを放り投げられ、着地点でアキラからダンゴムシを渡された時点でタガラ姫は眉をしかめてアキラを見つめた。
遮蔽コンタクトが剥がされ、再びルトに上空へ吊り上げられ、そこでダンゴムシを放り上げろと言われて行動した直後に百舌鳥の大群がルトを取り囲んだ。
「鳥…どうやったのじゃ?」
アキラに訊いた。
「分かんないや。夢中だったんだもん。なんか、動物と遊んだ記憶がチラッと見えた気がして、空なら虫をエサにする鳥かな?ってニックにダンゴムシあげた」
「感覚で動いたようなものかのぉ?」
小さい顎に手を当てて、タガラ姫は考え込んだ。
「して、フィリドがいたと聞いたが?」
「気を失ってるアキラを見下ろしていた。ルトが傷つけたアキラの顔を治して、それからルトを連れて消えた」
あの時フィリドはニックに『護衛騎士なら姫を守れよ』と皮肉った。何の手出しもできなかったから。
「そやつから何か受け取った感覚はあるか?」
大きな瞳がアキラを見上げた。
「無いよ。ただね、気を失ったんじゃなくて、眠らされたんだ。あいつ、ニックの力を使ってた」
アキラの言葉に、タガラ姫は十二歳の少女から泰然とした静かな佇まいに変わった。
「あやつは他人の力を奪って自分の物とする。すでにアキラと同等の力を持っていながら、それでもそなたの力を奪ったのよ。欲しがったわけではない。面白半分じゃ」
面白半分。アキラにはそう伝えた。一つずつ力を返してアキラの成熟を待っているとは伝えにくかった。
タワー二二九階。ニックの自宅。
「風呂入れよ。泥だらけだろ」
ニックは言った。
そうだ。お気に入りの衣装は破れこそ免れたものの、頭も膝も泥と埃まみれだった。早速風呂場へ直行。
鏡に映る自分の姿に少しだけ違和感があった。何だか腰の辺りが丸い?脇腹から腰骨にかけて緩くカーブしている?
「ニック!ボクって前からこうだっけ?」
素っ裸で飛び出してニックに確認。ニックが飲みかけの水を天井まで吹き飛ばしていた。
「バカヤロウ!ぶら下げて出てくるな!」
戸惑い、怒鳴った。しかししっかり見た。外観で知っている限りの直線的な体型ではない。
静かな変化の兆しなのだろうか?
報告案件。ため息をこぼした。
「おまえな、鼻唄もやめろよ!」
シャワーの音に混じってめちゃくちゃな音程が聞こえてきていた。耐えられるものでは…ない。頭を抱えた。
ニックにとっては穏やかな数日が過ぎている。
アキラは研究所へ顔を出しては、暇そうな研究員を見つけて外出をせびるか、一緒に食事に行こうと誘っている。
今では上から降りてくるエレベーターの起動音と共に、皆が忙しく動き出していた。
「ねぇ、タガラ…姫。暇だよぉ」
タガラ姫が出入りしてくる扉に向かって、アキラはぼやきまくっていた。しかし、扉は一向に開く気配はない。
「そんなに暇なら、俺の仕事に付いてくるか?」
背後から呆れ顔のニックが声をかけた。
「いいの?」
アキラの顔に期待の笑顔。
「ここ何日かで思った。俺以外、お前をコントロールできるやつはいないって。な……。胃が痛ぇけど」
最後の一言がぼやきだった。
「フィリドは力の全部を、アキラにはまだ返してない。お前さえ気をつけていればやつとの接触はない…」
「そのはずじゃ。そしてここの皆は、そなたの来訪に戦々恐々よのぉ」
ニックの後ろから少女が現れて笑った。どうりで扉に向かって喋っていても反応がないはずだ。
「戦々恐々?なんで?」
思い当たる節のないアキラに、周囲にいたスタッフが書類を取り落としたり、コケたり飲みかけの水やコーヒーを噴き出す者が続出していた。
********************
ニックの仕事。
天才バイオリニストとしてもてはやされてから数年、最初こそ誰かのゴリ押しデビューだ、過去の女性バイオリニストのコピーだと叩く者もいたが、その実力は本物だと有名指揮者が語って以来、共演の申し出がひっきりなしだった。それをエドワードは一人で捌き、演奏活動をほぼこの国だけに抑えていた。
しかし彼の死後、マネージャーのいないニックをあるプロデューサーが心配して紹介してくれたのが『サヤ』だった。
演奏活動は国内だけと釘を刺したにもかかわらず、サヤは海外のオーケストラの依頼を入れてしまったのだ。
知ったのはもう演奏プログラムが組まれた後。断るのはプロとしての矜持が許さなかった。
「連れていってやる。ただし、女装厳禁。勝手な行動もだ」
厳しく真剣な目で見つめて言ったが、アキラが真面目に聞いているかは疑わしかった。
なにせ首がもげ落ちるのではないかと思われるほど振っていたから、聞こえていたか疑わしい。
「ごめんなさいねぇ。アタシのミスで申し訳ないわぁ」
到着した空港でサヤと待ち合わせると言っていた。確かに言った。性別までは聞いていなかった。
「この子がアキラ君?小さくて可愛いのネ」
目の前で喋っているのは『サヤ』という名から想像していた人物像の斜め上をいっていた。
ニックの身長を頭一つ半は超える大柄。
パツパツのスーツ…はパンプアップ直後だったらしい。
角刈り頭に髭の剃りあとが青い。
そして、オネェ言葉。
「名前から想像が…」
女装して女子トークで盛り上がろうかと思った。が、盛り上がるだろうが方向が違いそうだった。
「早速で悪いけどぉ、オケの打ち合わせに来てほしいのよ」
「着いたばかりだぞ。予定は早く寄越せ。この仕事が終わったらしばらく休むからな」
ニックの眼差しがいつもより厳しかった。
音楽家のニックは一緒に仕事をしているより怖い。余計なことは言わぬが花。アキラは隣で思っていた。
大きなホールだった。街の市民ホールの比ではない。三階までのシート席とボックス席まである。金の彫像が壁から舞台を見つめ歴史を感じる荘厳さだ。
シート席の中央でアキラはステージ上を眺めていた。オーケストラや指揮者に囲まれているニックの立ち姿が普段の倍カッコよく見えるのだ。
同性ながら色っぽカッコいいと、羨ましくため息をついた。
「彼、天才よねぇ。才能もそうだけど、その日の観客やステージの雰囲気で変わるのよ。あんなカッコよくなったりセクシーだったりぃ」
ニックのステージ衣装を何点か抱えてサヤがやって来た。アタシが男だったらもう舐めまわしてるわと呟いた。心は乙女だったらしい。
「ロビーにアキラ君に会いたいって人が来てたわよ」
「ボクに?」
「背の高い黒髪のイケメン」
言われて心当たりは一人だけだった。
ニックには単独行動はしないと約束していたが、同じホールのロビーだし、大丈夫だろう。アキラは席を立った。
ステージの上からアキラが席を立つのが見えた。声をかけたかったがオーケストラと合わせ中。プロとして中座するわけにはいかなかった。
なんだ、トイレか?間もなく戻ってきたアキラにニックは安心した。アキラのズボンのポケットに、ジョーカーのカードが入っているなど知るよしもない。
公演日当日。昼直後。
「チケットは完売だから、アキラのシートの分は無いそうだ。俺が戻るまで部屋で大人しくしていてくれ」
ニックがほぼ懇願の声だった。
「いいよ。大人しくしてるよ」
やけにあっさり答えたことに違和感を覚えつつも、ニックは迎えに来たサヤと部屋を出ていった。行ってらっしゃーいとアキラの声が弾んでいた。
ステージ衣装を受け取ったニックの顔は音楽家の顔になっていた。
ニックを見送ってからアキラは少しだけ罪悪感を覚えた。なんだか騙しているようで心がざわざわする。
ニックは以前にラグリスを信用できないと言っていたが、あの優しいラグリスを疑う方が難しい。女だったらときめくほど優しいのに。…女だったらだけど…苦笑した。
子供の頃の優しいお兄ちゃんのイメージはそう覆されるものではなかった。
ニックが本番中に、もらったカードの場所へ行って少し話をして、本番終了前に戻ればどうってことはない。ないはずだ。バレたら大目玉だろうが。
ニックがタクシーに乗り込んだだろう時間を過ごしてから、アキラはそっと部屋を出ていった。
どこからかジョーカーのカードがはらりと落ちてきた。
********************
指定されたカフェのドアベルが心地の良い音を響かせた。
背の低い子供のような東洋人がキョロキョロと辺りをうかがっている。
黒髪の長身の男が立ち上がり、優しさを湛えた黒い瞳がそちらへ向けられる。
「アキラ。こっちだよ」
軽く手を上げて、男が呼んだ。
テーブルにすでにカップが二客置かれていた。ラグリスが先に注文していたのだろう。まだ湯気が立っている辺り、タイミングがいい。
「この間、アキラの姿が見えた気がして、確かめてよかった。また会えて嬉しいよ」
ラグリスが優しく微笑んだ。整った顔がとろけそうにアキラを見つめている。
「そーんな顔してもダメだよ。口説くなら女の子相手にしてよね」
追加注文したチョコレートパフェにスプーンを差し込みながらアキラは笑った。
「面白いね」
目が緩く弧を描いて、楽しそうに微笑んでみせる。
「本当に面白い」
アキラの口からはみ出たクリームを指で拭ってやりながら、ラグリスは呟くように言った。指についたクリームを舐め取って、薄く微笑んだ。
「食べたら、少し歩こうか?」
食べるのに忙しいアキラへ頬杖をつきながら見守っていたラグリスは、掬い上げるような笑いをこぼして言った。
「そういえば、アキラが一度だけ泣いたことがあったよ」
傾きかけてきた陽の差し込む街の、通りを歩きながらラグリスは言った。光の加減なのか彼の髪の毛先がキラキラと金色に輝いてみえる。
「えぇ?なんで泣いたんだろう?」
半歩先を歩いていたアキラは、振り向いてラグリスの黒曜石のような瞳を覗き込みながら後ろ向きのまま歩いた。
「あの街って、夕方になると時間を報せる音楽が鳴ってた。覚えてる?」
人にぶつかりそうになったアキラを引き寄せて肩を抱きながら言われた。
「そうだっけ?今は音楽、鳴ってないんだよ」
言った。少しだけ記憶の扉が開いても、音楽の事までは思い出せなかった。
いつの間にか、ニックが演奏中のホールの前を歩いていた。まだ演奏中だろうなと、ホールの上階を振り仰いでみた。
「あの、バカ…」
控室で喉を潤しながら外を眺めていたニックは、見覚えのある小柄な人影に眉をしかめた。
ホテルの部屋から出るなと言いつづけてもこうだ。家で大人しくしている小型犬の方がまだ利口だと思った。
が、隣にいる男がアキラを引き寄せたのを見てざわついた。
「ラグリス?」
音楽家からアキラの相棒に気持ちが切り替わった。耳が周囲の音を拾いだし、アキラの声をとらえた。ラグリスの声も。
『帰る時間になったのに、落としたキャンディの小袋が見つけられないって、泣いたんだよ』
『えぇ?諦め悪いね、ボク』
笑っている。男も笑って上を仰いだ。ニックが見ているのに気付いている笑い。勝ち誇ったように。
行くな。アキラ。
なぜ笑う?
そいつはフィリドだ。騙されている。
無防備に笑うアキラに胸が締め付けられた。届くはずのテレパシーが届かず、焦り出す。
今すぐ間に割り込んでアキラを取り戻したかったが、サヤがやって来てそろそろ準備と声をかけられた。音楽家と相棒の顔が半々で揺れていた。
集中しろ。自分に呼び掛けた。
焦りの気持ちは押し込めた。しかし第三楽章の後半でミスった。誤魔化したが、後味が悪かった。
終わった後、サヤがまた急な依頼を入れてきた。チャリティコンサートだと。街の野外劇の前座でオーケストラのメンバー数人とカルテット。
「おまえの優秀さは認める。どうしたいかも分かる。でも、俺に仕事を詰めないでくれ。いつものパターンでいい。これはキャンセル。体調不良とでも言ってくれ」
怒鳴り口調だった。それよりは焦っていた。
アキラはホテルへ戻っただろうか?確認しなければ。思った。
********************
紺色のテントが揚げられている。テントには蛇が二匹絡まったような旗が風になびいている。
「ショー、見ていく?今は俺が座長なんだよ」
ラグリスは誇らしげに笑ってみせた。
はっきりとは覚えていない。幼かったから。でも火傷を負う前の思い出が、断片的に出てくるようになっていた。
テントには覚えがある。両親に連れられて見に行ったマジックショー。舞台には大人に混じって子供もいた。十三・四の少年の、大がかりな脱出イリュージョン。
あれ?ラグリスは?脱出ショーを見せていた少年の頭は金色だった。幼い記憶だ。どこか曖昧になっているようだ。
「新作イリュージョンだよ?」
考え込んでいるのだろうと、ラグリスはさらに誘った。
ニックはいつも、一次会だけは打ち上げに参加すると言っていた。タダ酒を飲んでくると笑っていたっけ。たぶん今回もそうだろう。根拠はないがそう思った。
「行くよ。行く行く!」
「なら、決まりだ。アキラには特別席だぞ」
ラグリスの嬉しそうな笑顔が眩しかった。
テントの大きさの割に座席数は多くはなかった。舞台装置の関係なのだろう。
「お祭りのチャリティイベントなんだ。今日は子どもたちを招待してるんだよ」
どうりで、子供が多いわけだ。
「ボクが入って大丈夫?」
「アキラは大丈夫だよ。俺の招待なんだから。それに主役」
ラグリスはアキラの肩を優しく抱きしめた。
********************
ニックはホテルへ到着。
もどかしくポケットを探ってカードキーを出した。
中が薄暗い。やはりアキラは戻ってきていない。
あのバカ。
バカヤロー
考えなしのちゃらんぽらん。腹の底で悪態をつきながら部屋の奥へ進んだ。
「?」
何かを踏んだ。カードだ。
トランプ?
拾いあげて背筋が冷たくなった。二匹の蛇が絡み合うカードの絵。裏はジョーカー。メッセージ付。
『護衛。ご苦労』
体が動いた。外へ飛び出した。
頭のどこかで警鐘が鳴っている。
『アキラがまたバカをやりやがった!』
タガラ姫へテレパシーを送った。返事は待たない。
とにかくアキラの行きそうな所。立ち寄りそうな場所を探した。
野外劇に出る子ども達なのか、古い時代衣装の子どもとよくすれ違う。どこだ?アキラの行きそうな場所?
正面に大きなテント。その上に見覚えのある模様の旗。カード。二匹の蛇が絡み合う…。
「では皆さん。本日最大のショーは『人体消滅』ご覧あれ!」
見覚えのあるはちみつ色の頭。けして派手ではない品の良いスーツを着てテントの上で優雅な動きを見せている。フィリドだ。
その隣、目隠しをされて、能天気に手を振っているのはアキラ。
ニックの体が半歩動きかけた時、ジィジィと奇妙な鳴き声と驚く声が背後から押し寄せてきた。
振り向く。
赤い小さな玉。燃えている。
ジィジィとネズミのように鳴いて、波のようにやってくる。
熱い。炎なのに熱いだけで周囲を燃え上がらせることはしない。
「本日。街の伝説の再演!」
フィリドが大袈裟な動きでテントと同じ色の布をアキラに被せた。
炎の玉がテントを襲った。
燃え上がる。化学繊維の焼ける匂いが立ち込め、イリュージョンは失敗したのではないかと周囲がざわついた。
あの中には娘が。誰かが叫ぶ。
方々から子供の名を叫ぶ者。
消火を試みる者。サイレンの音。
ニックの耳に一斉に流れ込んできた。
テントは瞬く間に炎に包まれ、
そして消えた。
焦げのない骨組みだけを残して。
そこに子どもたちも、アキラもフィリドもいなかった。
子どもたちを心配し、泣き叫ぶ大人たちの悲鳴がニックの耳を満たしていった。
『獲られた。フィリド』
タガラ姫へのテレパシーは短かった。
********************
ずいぶんと静かだとアキラは思った。マジックに歓声をあげる声さえ聞こえない。
「もう目隠しは取ってもいい?ラグリス?」
まだ目隠しをされたままだった。
返事がない。仕方なく自分で目隠しをほどいた。
「あれぇ?」
景色が違う。テントの中のステージの上ではない。
夜とも昼とも判別つかない暗い部屋。
奥の方。誰かが座っている。
近づいた。
暗がりの中、そこだけライトが当たっているように誰かが座っていた。ゆったりと。
足を組んだ漆黒のスーツに、はちみつ色の髪が輝いているようだ。最近、ちらちらと現れるこの男。この右目に力を返した…。
「お前が、フィリド?」
はっきりと対面するのは初めてだった。
紺色の目がアキラを見つめてにぃっと笑う。背中が寒くなるような恐ろしい笑みだった。
「久しぶりだな。アキラ」
優しげな声色。だが底に冷えた鉄の塊があるような無機質。
「お前がボクの力を盗った?」
「へぇ。話を聞いたか」
立ち上がった。見上げるほど背が高い。ラグリスと同じくらいだと思った。
「ニックの催眠の力も盗っただろ」
問いではなく確認。
長身の男がゆらりとアキラに近づいた。ゆっくり手を伸ばし身を引きかけたアキラの首…顎の下を鷲掴みした。
「面白いモノを持っていたら、使ってみたいだろう?」
見つめられた。
炎の中の記憶が帰ってくる。
自分の目を見つめる藍色の目。自分が力を持っているから、貰っていくと言った少年。少しずつ返すと言っていた…。
「返せよ。ニックに。ボクの力も!」
「い、や、だ」
アキラの顔の間近でククッと笑った。楽しそうだ。
「でも、そのうち返すから。子ども達と遊んでなよ。子供、好きそうだし、退屈しないように沢山連れてきてるぞ」
闇が払われた。
百人近い子ども達が、荒野の中で泣いている。震えている。
「お前、何がしたいんだ?」
怯える子ども達を見て腹が立ってきた。
「さぁ?まぁ、色々あるかな?」
近寄ったフィリドの手が、アキラの下腹部…臍の下辺り…に触れて息を殺した。
「熟し方が足りない」
手を離してアキラの胸を押した。軽い力のはずなのに、アキラは子ども達の中へ飛ばされた。
辛うじて巻き添えにすることはなかったが、砂利の上に転がって擦り傷だらけだ。
「あぁ、済まない。加減を間違えた」
フィリドが滑るように近づいてきた。
「大切なアキラに、傷はつけられない」
フィリドはアキラの擦り傷の上を、撫でるように手を滑らせた。傷が消えていく。
「次いでだ。ひとつ返しておこうか」
顎を鷲掴むと額を合わせた。冷たい額。視界の全部が藍色の瞳になった。アキラの左目を射貫くように見つめる。
「何…した?」
フィリドを押し退けた。
頭の中心で何かが軋んでいる。
痛い。
痛いだけじゃない。深いところから何かが浮上してくるような感覚。
まるで何かに引っ張られているような、空気の塊が腰を押し上げているような感覚。
腹の中が違和感でいっぱいになっていく。
吐きそうだ。
「ぅえ…」
頭痛。
違和感。
吐き気。吐いたかもしれない。
何か、甘いもの…ポケットを探ったところで意識が飛んだ。
********************
「仕方あるまい。仕事のある身じゃ」
タガラ姫が落ち込むニックの頭を撫でている。
アキラが消えて数時間後、彼女が所有する高速飛空艇がニックの滞在する国へ到着した。待ちきれないニックが、着陸したばかりの飛空艇に近づいた今はエンジン音など気にしていられない。タラップが降りてタガラ姫が現れ、膝から崩れたニックの頭を撫でたのだ。少女が『仕方がない』と言いながら。
「全く危機感のカケラも無いようじゃのぅ。フラフラフラフラと蝶のようじゃ」
アキラに怒っているのだが、十二歳の姿は可愛らしいだけだった。
「して、アキラの気配は聞こえんのか?まだ?」
「ダメだ。テレパシーは届いていないみたいだし、声も聞こえない。場所を遮断されているか、眠ってるか」
どんよりと頭を抱えた。どんな時でもヘラヘラしていた。占い師に拉致された時も爆睡していた。見ていないと何をしでかすか分からない。
俺が見ていないと…。あのバカ…。
その台詞は無意識だったかもしれない。イライラと焦りと心配で頭が混乱する。手首を思いきり噛んだ。わずかに血の味がした。
「わらわが視えるは、まだ先じゃ。アキラが力を得るにはまだ猶予がある。花嫁達もあのアホぅを探しておる。ニコラスのできることをせよ」
アホぅと言った。蝶のようだと。全くその通りだ。
「マスターより指示です」
クール。赤い瞳はアンドロイドの方。
「こんな時だ。断ってもいいよな?」
仕事を受ける受けないは、仕事をこなす本人に任されている。こんな時だ。やってられない。
「断れません。指示は行方不明となっている子ども達を探せよと。アキラに関わることです」
言われてニックの目が据わった。厳しい眼差しだった。あの頃…エドワードを失って間もない頃の、誰も寄せつけない眼差しだった。
どこかで自分を嘲笑っているだろうフィリドへ怒りを強くした。
奪い返す。
ジョーカーのカードを強く握りしめて床に叩きつけた。
誰かが笑った 2 〈了〉




