誰かが笑った 1
「一人で大丈夫か?運転も片眼だしよぉ?」
スタンバイハウスの駐車場の前で、ニックは言った。
「大丈夫だよ。片眼でもニックより上手いよ」
白い眼帯が痛々しいが、右目が塞がれているといつものアキラで拍子抜けだ。ニックはコツンとアキラを小突いた。
ペロッと舌を出し、肩をすくめるとアキラは車に乗り込み、マスターから依頼された現場へ向かった。運転はいつもより慎重だった。
「では行きましょうか」
アキラの車が去るのを家の中から確認したクールが現れると、ガレージのリモコンを操作した。ガレージの地面が割れ、下からもう一台車が現れた。
**********
同時刻。
空港で桃色に染め上げた髪を頭の天辺でお団子にした丸い頬の女性が、ソワソワと到着ゲートの向こうを眺めている。アキラの母だ。
「ヒロシさぁん!」
見つけた人影に彼女は、恋しくてたまらないように声をあげた。
「ソノコさん!」
厚い胸板の男性も彼女を見つけて駆け寄った。にこっと笑うとできる笑い皺が相応の年齢を思わせるが、どこかしらアキラの屈託のない笑顔に似ている。
「ご免なさいね。お仕事休ませて」
「アキラの事とあっちゃ、仕事なんぞやってられないよ」
彼は笑って言った。
「行きましょう。車が待っているの」
久しぶりの帰還が嬉しくて、彼女は夫の手を取った。
**********
アキラはマスターの依頼で一軒の和菓子屋の前に立った。
「見た限りは普通の和菓子屋さんだね」
アキラは看板を見上げて呟いた。
マスターからの依頼は、この和菓子屋で何か良からぬ物を混入していると噂があったので確かめよという事だ。噂だから公的な機関は動きようが無いため、マスターが動いたらしい。
さて、どうしようかな?思った。店頭に『アルバイト(若干名)募集』の文字を見つけたが、女装で行くべきか否か?
「女装だと接客になっちゃうだろーなぁ。ボクって可愛いから…えへ」
自分で言っておいて照れた。
「あれ?アキラじゃないか?」
背後から声がかけられた。
振り向くとカラスの羽のように艶々とした黒い髪の長身の男が立っていた。彼はやっぱり!と緩い癖毛を揺らして言いながら、アキラを見おろしている。
「えーと。人違い?会ったことある?」
懐かしそうに黒い瞳をキラキラとさせている男を見上げて、アキラは戸惑っていた。全く記憶に無いのだ。
「おれだよ。ラグリス。十二・三年前だから忘れた?アキラは可愛かったからすぐに分かったぞ」
男はアキラの手を取ってブンブン振った。グローブを付けているから、彼の過去は見えない。たぶん外していたら、彼の思い出に引っ張られていただろう。それだけガッチリと両手で握られていた。
「そんな前?ごめんね。ボク六歳より前の記憶が無いんだ。小さかった事もあるけど、何をしたとか、全然…」
少ししょんぼりした。思い出そうとしても、欠片も思い出せないのだ。
「そうか。ごめんな。おれはその頃、親とこの街に来てたんだ。その時にアキラと会って、よく遊んだんだよ。おれが十三の頃?だったかな?」
「ボクと?遊んでくれたの?」
言うと、彼はにっこり笑った。思い出せない記憶を知っている人がいた。それだけで嬉しい。
「公園でウサギのオブジェの上に立って歌ってさ、あれは酷かったなぁ」
ラグリスと名乗った男は、思い出してクククッと笑った。
「時間はある?仕事?」
彼に言われて少し考えた。開いていると言われていた店は、よく見ると『臨時休業』とある。アルバイト募集じゃなかった?見間違い?まぁいいか。深くは考えなかった。
店は逃げないだろうし、人も内部調査をされていると知る者はいない。だったら、調査は明日からでもいいかな?そう思った。ニックには叱られそうだが。
「もっと教えてよ。ボクとどんな事して遊んだの?」
仕事よりもワクワクが止まらない。
どんな子供だったのか?
二人でどんな遊びをしたのか?
お喋りは?
好きな遊びは?
そんなにいっぺんに喋らなくてもいいだろう。時間はあるんだ。ラグリスは笑って 言いながら、路上に停めてあった車にアキラを招き、出発した。
************
二十四時間前。
浅黒い肌の少女は、その部屋でじっと宙を見据えていた。
付き従っていた者達にはただ何も無い空間であったが、少女には輝く巨大な木が見えている。
葉は豊かに繁り風も無いのに葉擦れの音が歌うように響いている。
少女はじっとその樹上の一点を見つめ、声をあげた。
「船を出すのじゃ!」
「空?海上ですか?」
「空じゃ。早い方がいい。向こうへ連絡も」
***********
二十四時間後の現在。
アキラの両親とニック・クールは廃タワーの街へ到着した。アキラの母とだけ面識のあるニックが事情を説明するため、三十階の研究所まで両親を招いた。
──会議室。
ニックはアキラの両親へ報告をした。本来なら報告などせず、催眠術を使ってトラウマを無くしてやれることは可能だったが…炎の件だ。それに催眠の力を奪われている。
「アキラがこの間の仕事で、炎に尋常でない怖がり方をしたんだ」
それを聞いた母親は一瞬手を止めてから、テーブルに出されたカップをとるのをやめた。
「そう。そんな事があったの。アキラちゃん、忘れているようだから言わないでいてくれる?」
反対側のニックやクール。研究所の主だった者たちへ、彼女は話し始めた。
アキラが五歳になった、まもなくだったという。自分の発火能力で全身やけどを負ったのだという。
それ以前のアキラは、親がたじろぐほどの力を発していたらしい。PK、透視、過去視、発火、テレポート、電流を操り、大地を揺らしたと。
信じ難かった。
「ニックくんがアキラちゃんと行った大きな湖の温泉地。湖のそばに大きな建物、見なかった?」
はたと顔を上げた。アキラが既視感があると言ったあの研究所の事だ。
「あそこに有名な、外科と形成のお医者さんがいたのよ。サカキ先生…だったかしら?もうおじいちゃんで引退したらしいんだけど」
重度の火傷を負ったアキラはそこに運ばれ、一年近く治療が続けられたのだという。意識不明の状態が半年以上続き、その間の面会は叶わなかった。やっと面会ができた時にはアキラはそれまでの記憶のほとんどを失い、超能力も失われていたということだった。
「覚えていたのは、アナベルちゃんと遊んでいたことくらいね。私たちの事も親とは認識したけれど、どんなことをしていたとかは覚えてないのよ」
母親は寂しそうに小首を傾げてみせた。
「だから私たち親はその忘れた日々を穴埋めしようって、いっぱい甘やかしたわ。あんな甘えんぼの坊やになるとは思わなかったけど」
くすくすと彼女は笑った。
子供のように屈託なく笑い、どこまでも能天気なアキラにそんな事があったとは。
自分がエドワードと死別し父親と和解できたように、人生は予想外の連続だとニックは思った。
「でも、アキラには全く火傷の痕が無いんだな?」
「サカキ先生、とても優秀なお医者って話だったわ。どんな酷い姿になるかって、覚悟していたのよ。あんな綺麗に痕もなくて、ホッとしたわよ」
母親は当時を思い出してホッと微笑んだ。
「あの時の事、できれば思い出してほしくないわ。これからもずっと」
彼女は言った。長い間があった。ニックはこれからアキラとどう付き合っていくべきか、しばらく考える。
「そうですね。思い出さないよう、俺も気をつけます」
「それでは駄目なのじゃ!」
突然ドアが開き、タガラ姫がイサトゥに伴われて入ってきた。クールが慌てて居住いを正したが、それは誰も気にはしていなかった。
「それでは駄目じゃ。あやつは思い出さねばならん!」
タガラ姫は焦り気味に早口で一同を見渡した。アキラの両親が何故?という顔をしている。
「母御よ、皆よ。この星に関わること心して聴け」
タガラ姫は語った。本来であれば一族の長にのみ口伝で語り継がれてきたこの星の事。
星には意思がある。それを知るものはほんの一握りである。
意思があるが星が何かをするというものではない。
星は太古に命が誕生してから常に一組の生命を選んできた。人類が誕生してからは人間の男女を選ぶようになった。なぜなら人間たちは生き抜くために、様々な工夫をこらすので面白かっのだ。
常に一組の男女を見守り、星はその無事を見届けて次の子を選ぶ。選ばれた彼らに特別な力があるということはない。ただ彼らは常に幸運に恵まれている。何か希望があればそれが叶い、大病は奇跡的に癒え、事故に遭えば軽症ですむ。そして無事に天命を迎えるのだ。
それだけなのだ。
そして二百余年前、人類は国同士の争いの抑止にと『地殻変動装置』を開発した。地中を移動して敵国で発動させるCMSは、誤ってなのか故意であったのかひとつが作動した。
地形の変形。
地震の頻発。
火山の噴火。
それらが各地で同時に多発した。一つでこの災害。全て作動すれば地球は壊れてしまう。愛する人間たちが滅びてしまう。地球は悲鳴を上げていた。
地球は初めて意思を持って子に願った。
いつ作動させられるか分からない装置を破壊して欲しいと。
星の意思は言葉としては届かない。
星が選んだごく普通の子の二人が、何かの使命を感じて行動したのだ。多くの同志が現れ、共に幾多の障害を乗り越えて装置を無効化した。
これも星がもたらした幸運があったからだ。
地殻変動装置が作動して起きた災害は地形の変形だけに留まらなかった。
若干ではあるが地軸も傾いた。季節が大きく変化し、生態系が狂った。
人類にも、時に特殊能力を持つものが産まれ始めたのもこの頃からなのだ。
それから二百有余年、星は今も代々の子ども達を見守り続けている。
そこまで説明してから、タガラ姫はアキラの母の丸い目を見つめた。
「母御よ。アキラもその星の子よ。じゃが、その誕生に違和感はなかったか?」
「違和感?……ですか?」
丸い頬に手を当て、小首を傾げる。親子だ。アキラは母親似だ。
「ソノコさん。…あれは?…二人が…」
夫がそっと肩を抱いて助け舟を出した。夫の言葉に、彼女は思い出して、あぁと声をあげた。
「アキラちゃん…まだお腹の中にいる時ね、双子だったのよ」
皆の注目の目が彼女に注がれた。その視線に少したじろぎつつ、再び彼女は口を開く。
「それがね、五ヶ月頃に急に一人になっちゃったの。お医者さんもとても不思議がって、そういえば大きな病院も行ったわね。ね、ヒロシさん?」
夫が頷いた。
もうすでに小さな赤子の姿になっていたはずなのに、胎内にはもう一人の子の姿が跡形もなく消えていたらしい。
母胎で胎児が消える話はよく聞くが、早い週数の出来事で、二十週近くなってからというのは初めての事だと言われたそうだ。
「でもそれ以外は元気で元気で」
にこにこと、今は丸いだけのお腹を彼女は撫でた。
「違和感って言ったらそれくらいね。高い超能力は言わずもがなだけど」
ちらっと舌を出してウインクして見せる仕草は、やはりアキラの親だ。アキラもよくやっている。
母親の話に、タガラ姫は十二歳とは思えない、厳しく老練な眼差しを向けていた。
「少々驚くことになろうが、その双子は男女で、今のアキラの体には二つの性が融合しておる。あやつ、まだ未成熟の状態じゃ。自分では男・男言うとろうがな」
姫は言った後で、笑って付け加えた。女装は本当に趣味のようだと。
「この話こそ、あやつには言うなよ。して、ここからが問題なのじゃ」
「今、世界では『ラグナロク』という組織が大きくなりつつあるのじゃ」
タガラ姫が言った。
ラグナロクは統制のとれた組織ではないらしい。
暗い目的を持つ個人個人が、一人の男のもとに集まり、その男を首魁として組織したのだという。
「そやつは『フィリド』と名乗っている。奴は首魁に治まりながらも、他の奴らの目的には手は出しておらん。どちらかというと、成り行きを面白がっておるな。奴の目的は一つ。アキラを手に入れることだけじゃ」
「は?」
ニックが思わず声を上げた。あんなちゃらんぽらんどうする気だ?思ったのだ。
「言ったろう。あやつ、まだ未成熟じゃ。そして男にも女にもなり得る体をしておる」
タガラ姫はそのフィリドの目的も気付いているらしい。
「母御、アキラが記憶を失う前の事、覚えておるか?」
「ずいぶん前ですからねぇ。そうねぇ」
彼女が思考を巡らせている間、タガラ姫はニックに指示を出した。
「お主、アキラが治療した医者の家へ行け。あそこにある物を全て掻っさらってこい。わらわ達の話は聞こえておろうから、マイクだけ付けていけよ」
「なんで…?」
耳の事まで知っていると、言いかけた。言う前に、
すうっと、タガラ姫の黒い瞳が間近に迫った。十二歳の瞳ではない。長い時を生きて、境地に達したような輝きがある。息を飲んだ。続きの言葉が出なかった。
「フィリドは未来を見ている。じゃが、わらわも未来を知る。だからフィリドの未来を変えるのじゃ。行け!」
有無を言わせなかった。
「では、私がお供いたします」
赤い瞳に赤いネクタイを締めた、もう一人のクールが現れた。しかしニックの隣には、青い瞳に青いネクタイのクール。
「オリジナル。マスターより行動を委譲されました。私の判断で行動します」
赤い瞳のクールは、青い瞳のクールを見つめて言った。
「彼は私のアンドロイド。普段はマスターの守護を主に、私の補佐をしています。ニコラスを頼みます」
クールとクールアンドロイドとの間で、淡々とコマンドのやり取りが行われた。
***********
フィリドの目的は星を壊すこと。
子供が玩具を分解して遊ぶように、彼は星を壊してみたいのだ。
『星を壊すこととアキラを手に入れることにどんな繋がりがるんだ?』
車の中で話を聴いていたニックは声をあげた。
「アキラはフィリドと同じだけの力を持っておる。違うのは過去を視るか未来を視るかだけじゃ。奴は星が壊れる成り行きを楽しんでおる」
『だから、それとアキラが何の関係があるってんだ?』
苛々して言った。
「奴は幼い頃のアキラに会っている。アキラの力を知覚しアキラの未来を視た。言ったろう?アキラは未成熟じゃ。いずれ女の揺らぎが来る。性が固定されるまで、本人の意思に関係なく男と女を行き来するじゃろうな」
『ちょっと待て!』
ニックに嫌な予感が走った。
『フィリドはアキラを…』
「女として手に入れ、子を成そうとするじゃろうな」
タガラ姫の言葉に、正面にいるアキラの両親が顔色を失った。
「アキラの力を奪い、少しずつ戻して成長を見ておる。炎の力以外は全てな。奴の予知通りアキラは炎にのまれ、記憶を奪い、そのまっさらな頭に力を返していったというわけよ」
酷いと呟くアキラの母の嗚咽が、ニックの耳に届いた。
「ニコラスよ。そなたはアキラを離してはいかんぞ」
『なんで俺?』
「それはほれ、そなたはおなごに興味があるまい。間違いは起きんじゃろ」
タガラ姫の含み笑いが聞こえた。額をおさえてニックは長いため息を洩らした。
「じゃあ、小さい頃のアキラちゃんに会っていたの?そのフィリド?」
母の記憶にアキラの友達関係を重ねてみたが、みんな知っている子供たちだった。
「あぁ、ほらアキラが一時期。よく遊んでいた子がいたな」
父親が思い出して言った。
「あ、そうそう。いたわね!さっきまで居たとか、もう帰ったとかで会ったことのないお兄ちゃんね」
母親も思い出してにこっとした。
「とても優しいお兄ちゃんって。たしか、黒い髪で黒い目で……」
「ラグリス。じゃろ?」
タガラ姫が言葉を掬った。
「そう。ラグリス。って言ってたわね。街に来てるマジシャン?の子だって」
母親が思い出し思い出し、言葉を繋いだ。
「フィリドは時にラグリスと名乗って街に紛れておる。人当たりがよく、善人面ぞ」
苦々しい顔でタガラ姫は言った。
「ラグリスは言葉巧みに人に絡み付き、信用させるに長けておる。騙されるな、ニコラスよ」
『わかった…』
フィリドの計画を阻止する誓いか、アキラを守る決心か、固い返事の中に芯が通った声音だった。
************
「あれ?」
アキラは頓狂な声をあげた。ふと目をあげて景色が違うのにびっくりしたのだ。
「あはは。アキラ、気持ち良さそうに寝てるから起こせなくて、ここまでドライブしちゃったよ」
運転席の黒髪の男がチラッとこちらを見て笑いながら言った。
ラグリスの車に乗り込んで、お喋りした記憶はある。たしか、長いトンネルに入って、少し話が途切れて…
車の窓の縁に肘をかけてぼんやり外を見ていた。トンネルに入り暗く長い壁が続く。
車のヘッドライトで反射した二人の顔が、助手席の窓に写っていた。
ラグリスが窓に映る白い眼帯をつけたアキラを見つめ、窓の影越しに目があった。黒い瞳が対向車のライトで一瞬青っぽく見え、それから……眠たきゃ寝ろと、頭をわしわしと撫でられたっけ。
そして今。
湖に沿って作られた道を走っている。
この湖は…。
チニャが沈んだ湖。思い出して吐き気がしてきた。いや、吐きたい。
「ラグリス、ごめん気持ち悪い…」
「酔ったのかい?車」
申し訳なさそうにラグリスは言って、駐車帯に車を停めた。転がるように車から飛び出し、アキラは茂みの中で盛大に吐き戻した。
これを使えと、ラグリスが真新しいタオルを放って寄越す。ありがとうと伝えたかったが、再びこみ上げてくる。
吐き気と共に頭の中心がガンガン鳴ってきた。今まで感じた頭痛と少し違う気がするが、考える余裕がない。目の前に白い光が飛んで、意識が持っていかれそうになっていた。
「アキラ?」
心配そうに黒い瞳で見おろすラグリスが、肩にそっと手を添えた。
「うん…」
彼に触れられたところからすぅっと何かが払われていくようだった。事実、だんだん吐き気が収まり楽になる。吐き気はチニャを思い出したからだろう。アキラは思った。
「仕事でね、こないだ来たんだよ。小さい女の子、救えなかったんだ…」
吐き気はなくなったが、罪悪感と悲しさは消えない。
「へぇ。どんな女の子?」
立ち上がれそうにないアキラの隣に膝を落として、ラグリスはアキラの髪を梳いた
「うん。はちみつ色の髪でとっても綺麗な深い海のような色の目の女の子。可愛かったなぁ」
アキラはくしゃっと泣き笑いの顔になった。
「そうかぁ。可愛かっただろうな。アキラの子供もきっと可愛いだろうね。こんな可愛いもんな」
ラグリスが笑って言う。
「もう。ボク、男なんだからあんまり可愛い言わないでってば。女装した時は言ってもいいけど」
アキラも笑った。
「それもそうだ。今は男だった」
ラグリスは楽しそうに笑った。
「落ち着いた?落ち着いたら街の方へ行こう。やっぱり温泉饅頭だよな?だろ?」
同意を求められる。違うなんて言えない。甘いのは大好きだ。それだけでご機嫌になれる。
************
ひっそりと空気まで冷たい建物の中へニックは入った。
元は個人病院。
ついこの間まで謎の研究所。
ここにチニャがいて、ここからチニャを連れ出して…
「辛いな…」
ボソッと呟いた。
しかし、このアンドロイドクールが車を操作している間、一度も信号で停められる事がなかった。高速道路に至っては、車が前にも後ろにも一台も無かったのだ。
お陰で通常の運転なら三時間はかかるだろう所を一時間と少し。車の速度メーターが上限まで示した時は本気で泣きたかった。
進行方向の制御は今、私の元にあります。淡々と言って、アクセルをベタ踏みしていたアンドロイドも怖かった。
研究所の中、ひとつ心当りがある。
アキラが窓枠を壊して侵入した部屋。
そこには書類が乱雑に散らばり、書きなぐったメモやペンを入れた資料らしきものもあった。
タガラ姫が言っていたのはその事だと思った。
一方、研究所に停められている車を、深紅の髪の少女が眺めている。横縞のカラフルなニーソックスに白いワンピース。デニムジャケットと、何とも個性的な姿。どこかアキラにも似ている。
「おれは、あいつに嫌がらせするのが面白いんだけどな。あいつの痕跡を消しとけって?つまんない」
ルトだった。
ルトは人差し指の先に炎の玉を浮かせている。その炎を、面倒だと呟いて研究所へ放った。
いくつか資料を手に取っているところへ、ニックの耳が何か爆ぜる音を聴いた。ふわりと何か焼けていく臭い。
濃くなる。
炎の玉がニックやアンドロイドのいる部屋にも漂ってくる。
「ここは危険です。待避します」
ニックを軽々と横抱きにし、アンドロイドが言った。
「待て。まだ燃えていない資料が…」
「人命が優先です。資料は私の目が保存しました」
「うぇ?…ちょ、ちょ、ちょーっ!」
初めてアキラと同じ台詞が 飛び出していた。
***********
「あれ。火事?」
アキラは車から湖の向こうに黒い煙と炎を見つけた。
「野次馬。する?」
ラグリスがククっと笑った。いたずらっぽい笑みだ。
「嫌だよ。ボク、火が怖いんだ」
ぶぅっと膨れた。
「ごめんごめん。じゃあ、温泉饅頭に向かおうか」
ポンポンと頭に手を置かれ、温泉饅頭の言葉で機嫌がなおった。
街の中は火災のサイレンと観光客の喧騒が入り交じっていた。火事は気にしない。あそこにはもう何も無いから。
もう午後も遅い時間、通りを歩いているとつい先日に小さな手をひいて歩いた時を思いだし、眼帯の奥が痛んだ。
鼻先も痛くなる。ぐしぐしっと鼻水をすすった。
「ほら、温泉饅頭」
ラグリスがホカホカとした一個を、アキラの頬にくっつけた。少し熱い。でも餡の香りと饅頭の皮の黒糖の香りが感傷的な気持ちをほぐしていく。
「焼き団子もあるぞ」
言われてくすっと笑った。
「やっと笑った。アキラは笑っている方がいいって」
ラグリスは嬉しそうに笑って、団子の串を持たせた。
「ボクを餌付けするの?」
次から次とアキラの好物を手にするラグリスにアキラはけらけらと笑った。もう持てないって!と笑う。
「あはは。アキラと一緒にいるのが久しぶりだからさぁ。よくおやつ持参で遊んだよな。飴玉落としてこの世の終わりみたいな顔したっけ」
笑われた。そんなこともあったんだと嬉しかった。
************************
夕刻が進んだ。ほの明るい街灯がぼんやり光る。観光客の下駄の音や呼び込みの喧騒が楽しそうに聞こえてくる。火災現場となってしまった研究所を離れ、アキラを診たという医者の情報を探している時だ。
ニックはまだ続く会議の声を聴きつつ、周囲から聞き慣れた音を拾っていた。
アキラ?
声が近い。話しかけている男の声もする。アキラは偽の情報を与えられて、潜入調査をしているはずだ。好物の和菓子屋で売り子でもしているはず。だが、やたらと声が近いのだ。
視線が姿をとらえようと動いた。仕事をしていて、こんなに長時間離れていた事がなかったかもしれない。声はなくても、常に存在を感じていたのがアキラだ。
─何をやっているんだ?─テレパシーを送った。
返ってこない。
届いているはずなのに、何かで遮られているような感覚。透明なビニールシートで覆われているようだった。
心がざわつく。
嫌な予感がする。
ちゃらんぽらんでいつも無防備で、そんな奴がもしフィリドの手に渡れば……考えたくない。
アキラが女になるなどと。
「ニコラス。足湯の四阿にアキラがいます」
すぐそこだった。焦りが判断を狂わせた。
*********************
「おい。仕事はどうした?」
見つけた姿にニックは声をかけた。別の台詞があっただろうが、それしか出てこない。
アキラの隣には長身の黒髪の男が、アキラの肩を抱いて親しげに笑っていたのだ。彼はただ首を巡らせたように見えて、確実にニックと視線を合わせた。うっすらと笑いを浮かべていた。
「あれ?ニック?仕事なの?クールと一緒に?」
にこにこと屈託無く笑い、足を拭いて少しくたびれたスニーカーを履いてニックへ駆け寄った。
ラグリスもすぅっと立ち上がり、アキラの背後にぴたりと着く。笑みは優しい。しかし黒い瞳がまるで洞穴のようにしか見えなかった。
「誰だい、アキラ?」
アキラの両肩に手を添えて彼は言う。まるでこれは自分の物だと主張でもしているかのようだった。
「ニックだよ。ボクの仕事の相棒。ニック、この人はラグリス。ボクが記憶をなくす前、一緒に遊んでくれたんだって」
知ってる。ニックはその言葉を呑んだ。
「お前、また仕事放棄したのか?」
この文句の方が自分らしいと思った。男の正体を知っていると明かすのは、彼の警戒を強くさせてしまう。
「放棄じゃないよ。臨時休業ってなってた。だから明日から。知らせなかったのは悪かったよ、ごめん」
素直なのはいい。素直すぎる。お前は警戒することを知らないのか?言いたくて、でもこの状況では言えない。
「連絡、入れろよ。勝手に遊び呆けてたらみんな迷惑する。帰るぞ」
アキラの手を取った。弾かれた。
「ラグリスに送ってもらうから大丈夫」
「大丈夫じゃねぇ。いいからこっちに来い!」
再び腕を引っ張った。
「そっちだって仕事でしょ?ボクはラグリスと帰るからぁ」
再び振りほどく。
「ずいぶん信用してるんだな」
声を落とした。静かだった。イライラしたときの声音に、どうしてそんな苛ついているのかアキラは不思議だった。仕事をまるっきり放棄したわけでもないのに。
「そいつは信用できねーから言ってるんだ」
言ってしまってまずいと思ったが、口から出たものを回収のしようがない。
「知り合い?今会ったばかりの人に失礼じゃない?」
全くだ。初対面だ。だが、その名前は聞き覚えがありすぎるのだ。言ってやりたいが言えなくて、ニックは指が白くなるほど拳に力を入れていた。
「ニックはニックの仕事をしていてよ。ラグリス、行こ!」
アキラはラグリスの手を取ってニックの前を通りすぎた。見送るしかできなかった。アキラの足音、声を拾うしかできない。
変だニック。アキラも思っていた。本業で離れる事こそあれ、仕事はいつも一緒だ。言い争いはしても仕事に関することだから腹も立たない。しかし交遊関係にまで口を出された今は、いい気分ではない。マムだってあんな口煩くないよ。気をつけてね~とか、それはいけないわよ~っとかなのに。
学校の生徒指導かよっ。膨れっ面で思っていた。
「彼、置いてきていいのかい?」
ラグリスはアキラに手を引かれながら、クックと笑った。面白そうだった。
「いいのいいの。ニックも仕事だったんだろうからね。あのお店とおんなじ、今日は臨時休業!」
言って笑った。そうだそうだ臨時休業だーい。心の中で万歳をした。
**********************
「ラグリスじゃと?」
タワー内、秘された階の会議室でタガラ姫は緊張で張りつめた声を上げていた。先読みを崩された。
彼女が視た先は、ラグリスとの再会はまだ後だった。
報告が入った。アキラが行く予定の和菓子屋。店主とその家族が炎に焼かれていた。それが先読みを崩される鍵だったかと舌打ちをした姿は、とても十二歳の少女には見えなかった。違う何かが、邪魔をしている。そういう思いがよぎった。それは何なのか、先読みに現れてはこない。
『どうする?アキラを無理やり引っ張り戻すか?』
「お主、できるか?」
『わかんね。けど、やるしかねぇだろ』
「確かにな。くれぐれもラグリス…フィリドには気取られるなよ」
アキラを守る布陣を、いま悟られるわけにはいかない。
***********************
アキラはラグリスと遊歩道を歩いていた。湖側は暗く、ちゃぷちゃぷと水音だけがする。
「よかったのかなぁ?本当に?」
ラグリスはアキラの肩に手を回して微笑んでいた。
「まだ言ってる」
何度め?アキラは笑った。
湖の真ん中を箱形の台船が赤い光をチカチカとさせながら横切っていった。
「そういえば、目、大丈夫かい?」
両頬を挟みこんで、ラグリスはアキラの顔を見下ろした。眼帯が痛々しいと言う。端から見れば、口付け寸前のカップルのようだが、そんな甘やかなものではない。ラグリスの指が眼帯に触れそうになった時、
ボッと破裂音とともにヒュルヒュルと音がした。次の瞬間大きな花火が上がった。
「お兄ちゃん!」
アキラの目を覗き込むラグリスの背後で声がした。
赤い髪。白いワンピースにデニムジャケットを着た少女。
「準備はできたよ」
少女は言った。自分を見つめる少女の目に敵意が込められているような気がした。なんとなく見覚えのある目つきだ。
「スクルだよ。おれの妹。あいつアキラに嫉妬してる」
ラグリスが笑った。そういうの、女の子に言ってよ。とアキラが笑った。
「ときめかないよ」
「そうだよなぁ」
アキラの笑いにつられてラグリスも笑った。
突然、すぐ近くで爆発音。
花火を積んだ台船が暴発した。花火が打ち上がらずに四方八方へ飛び散る。アキラの傍にも飛んできて、藪が燃え出した。その炎にアキラの足が動きを止めた。
心拍が跳ね上がった。
呼吸が浅くなり、息苦しい。手も顔も痺れてくる
今度は火のついた花火の玉が転がってきた。
「逃げるよ」
落ち着いたラグリスの声が耳元できこえる。足が動かない。
次の間、転がってきた花火が爆発した。
アキラの悲鳴が長く上がった。ラグリスを振りほどき小さく丸まって母を呼ぶ。
「大丈夫かい?アキラ」
見下ろすラグリスの手にはアキラの眼帯が、熱風にヒラヒラと舞っていた。
「なっさけなー」
正気だったなら、ラグリスの妹というスクルの嘲りを聞いただろう。しかしアキラは炎と全て見える右目と、両方で悲鳴を上げていた。
「さっきもいいもの返したんだぞ。少しは思い出すんだな」
アキラを見下ろすラグリスの毛先が炎で金色に染まって見える。
遠くからアキラの名を叫ぶ声に彼はふっと笑ってスクルの肩を抱いた。
「面白いなぁ。アキラまた会おうな」
背後の熱気と巨大な炎に悲鳴をあげ続けるアキラを見おろし、今やその髪色を元に戻した男は、藍の瞳の目尻と口端に邪悪そうな笑みを浮かべて喧騒が渦巻く闇の中に溶けていった。
「アキラ?」
「嫌だ。やーだー!助けて。熱い。見える全部見える!熱いよぉ」
誰に訴えているのか分からない。アキラの肩を揺すって名を呼ぶ。しかしアキラはニックの腕を振りほどき、炎から逃れようと走り出そうとする。炎の方へ。
「待てよ!そっちに行ったら、また焼かれる」
寸でのところで引き戻し、しゃがみこむアキラの顔を挟みこんでニックは声をあげた。
「逃げるな!前を向け」
荒療治だと思った。だが逃げていればいつまでも引きずっていくだろう。『ショック療法だ』そんなものがあるかは分からないが、今のニックにはこれしかできない。
「やだやだ。熱いの怖いよ」
ズキッと額の奥が痛んだ。記憶の底に深い藍色の瞳を見た気がする。
炎の中。
白い顔と蜂蜜のような琥珀色に彩られた金色の髪。藍色の両方の目で両方のアキラの目を覗き込み、禍々しく笑っている。
『そーんな強い力を持っているからさ。もらってあげるよ。あぁ、でもちょっとずつ返してあげる。全部を返したら、また一緒に遊ぼうな』
年の頃にしたら十三・四の少年だ。新しいおもちゃを見つけたように、藍の瞳をキラキラさせていた。
アキラの額から白く稲妻が一直線に空へ飛び出し、炎が稲妻の周りを螺旋を描いて上っていった。
消えた。
ふっつり、何事も無かったように炎も稲妻もアキラの額から消えていた。
「ぶえぇ。なんか変なの思い出しちゃった」
泣いている。どうしたらいいか分からない。ニックは握っていたアキラの手首を引こうとすると、アキラは拒否した。振りほどいた。
「火なんて見たくないのに。ひどいよ、ニックの馬鹿!」
呼び止める間が無かった。アキラは涙を拭き拭きニックの横をすり抜け、走り去った。
ニックは深いため息を漏らして、タガラ姫へ連絡を入れた。
『アキラが…何か思い出したっぽい』
やり方を間違ったかもしれない。ニックの声は後悔に沈んでいた。
「悔やむなよ。そなたはそなたの最善をつくしたはずじゃ。ラグリスはどうした?」
『消えた。アキラを置いてどこか行きやがった』
ニックの耳はアキラがすすり泣く声を聴いていた。その声を聴きながら、ニックはアキラを傷つけてしまったと後悔に押し潰されそうだった。
湖が見える高台で、アキラはしゃがみこんでべそべそと泣いている。ここまで連れてきてくれたラグリスはいつの間にかいない。
湖の台船はまだ爆発を繰り返し、街中は緊急車両のサイレンと炎と赤色灯で真っ赤だった。記憶の片鱗を宿したアキラはもう炎を見ても怖くはなかった。その代わり、眼帯を失くした右の目に飛び込んでくる全てが重なって気持ちが悪くてしかたがない。
「眼帯ぃぃ、どこ行ったよぉ。気持ち悪ぅぅ」
すんすんと鼻を鳴らして、ペタペタと地面を触りながら眼帯を探し回った。全てが見えている目はすぐ目の前のものは何も見えないのだ。左目だけが暗い地面を見ている。両方が見えている気持ち悪さは、例えが見つからなかった。
耳はアキラがどの辺りにいるのかの距離を把握していたし、すぐに見つかった。しかしニックはアキラの前に出るのをためらっていた。
「クール。これ、アキラに」
パーカーのポケットに入れた予備の眼帯をクールに渡した。
「渡した後はどのように?」
訊かれた。口がパクパクとしか動かない。眼帯をつけた後のアキラの機嫌待ちだ。こんな事は自分らしくないと思った。しかし、同年代の友人の機嫌の取り方など知らないのだ。
「アキラ、これをあなたに」
クールが膝をついてアキラに眼帯を差し出した。見上げる正面に、左目にはクールの顔が見えるのだが、右目には機械のようなものとその先の山の向こうに見える民家の明かりと食卓に乗った食事と…とにかく一直線上に見える全てが平面になって見えていた。
「クール…だよね?ボクの左目に見えてるの」
右目に人間の姿はどこまでも写ってはいなかったから。
「ニコラスが心配しています」
眼帯をつけ直すのを見届けながら言われた。表情が固くなる。
「ボクはテレポートで帰る。眼帯ありがと」
アキラらしい『じゃあね』も、バイバイも無かった。表情の固いまま、アキラはその場から家へテレポートした。
**********************
家へテレポート。
夕方と言うには遅い時間になっていた。アナベルはご飯は食べたろうけど、マムは連絡も入れてないから待っているかな?と、申し訳なく思ってドアを開けた。
「あれ?」
見覚えのある少しくたびれた革靴はいつも父親が履いているもの。
「父さん。父さん、帰ってきたの?知ってたら迎えに行ったのに」
リビングに入るとアナベルと父がアキラを迎えた。
「アキラちゃんをビックリさせたかったのよね」
クスクスとアナベルが笑った。サプライズ成功ねと、キッチンのマムに報告に行った。
アキラの父は月のコロニーで酸素製造と供給の主任技師をしている。中学に上がる頃から月のコロニーの方へ転属して、帰ってくるのは一年の内ひと月ほど。
突然帰ってくるのは初めてだった。サプライズ?なにか珍しい事でもあったのかと首をかしげた。
「ビックリした?アキラちゃんに会いたかったのよねぇ」
母親が笑う。
「いやいや。ソノコさんに一番に会いたかったよ。アキラは次いでさ」
父親がウインクして言うと、アナベルと『ひどい親だね』と笑った。父の顔を見て、さっきまでの胸が苦しい気持ちが和らいだ。
「アキラは仕事は順調なのかい?」
父が問う。副業の事も聞いているので、危険なことはないか心配そうだった。
「大丈夫だよ。こないだはアナベルの…ごめん。仕事の詳しいことは話しちゃいけないんだ」
「いいんだよ。アキラが危ないことをしていなきゃね」
立ち上がってアキラの頭にポンッと手を置いた。可愛い息子にいつも会えなくて、申し訳ない気持ちが乗っていた。
「アキラちゃん、体調に変化はない?」
得意のチキングラタンを乗せて母親がキッチンから現れた。アナベルもサラダボウルを持って手伝っている。
「目の事?うん。眼帯があれば大丈夫。早く新しい眼帯がほしいな。黒くてドクロマークがあってさ」
「それじゃ海賊だろう?」
父が笑って、母が笑ってアナベルが隣で笑ってくれて、アキラはいいなと思っていた。口喧嘩してしまったニックの事を少し心配した。
きっと一人で家にいるのかと、申し訳ない気持ちが沸いていた。少しだけ。
「ニックくんはどうしてるかしらねぇ?」
久しぶりに家族が揃って、ふと母親は呟いた。実のところ昼間会ったときにクールから、あのタワーの最上階に一人でいると聞いていたのだ。
「一度うちに招待しない?」
母の言葉にアキラの顔が強ばった。
「うん。そのうちね」
あら?と母親は気がついた。
「何かあった?いつものアキラちゃんなら、楽しそうにニックくんとの事お話するのにね?」
敵わないなとアキラは思った。仕事以外の出来事は、特に楽しかった事はアナベルもいる食卓で話題にしたものだ。今はまだ、その話をしていない。
「それよりさ」
ことさら声を張り上げた。
「ボク、六歳前の記憶がないでしょ。でもねその頃に一緒に遊んでくれたって人に会ったの。ラグリスっていうんだよ。知ってる?」
両親に言う。アキラが覚えている記憶は、両親の顔とアナベルと遊んだ記憶。それ以外は片鱗さえ思い出せなかったのだ。
ラグリスの名前に両親はしばらく言葉を出せずにいた。何と言えば正解なのか分からない。
「そうそう」
母親が覚えていることだけを伝えた。顔は分からないが、アキラはその子とよく遊んだと。
***********************
ニックは窓側へ向けて置かれたソファの上で遥か眼下の夜景を眺めていた。いや、目に入るだけで眺めているわけでもない。
大きな窓際の棚に母の写真とエドワードから贈られた最後の贈り物と、銀の筒に納められたかつてエドワードだったものが置かれている。エドワードの写真は無い。二人での記念写真さえ無い。全て大統領の子供が生きていると悟られないためだと知らされたのは、エドワードの遺言が開示された後だ。唯一残っているのは、二人で迎えた最後の誕生日に贈られたペアリング。
「アキラの奴…」
友達付き合いがどういうものか分からない。フィリドやラグリスがアキラの傍に寄り、アキラが自分以外に向ける笑顔に腹が立った。言い表せない感情の苛立ちをぶつける自分自身にも腹が立つ。
あまりにも世間知らずだと、苦笑しか出てこなかった。
突然、タガラ姫の声が頭に響いた。ニックが戻ったときは姿がなかったので帰ったとばかりと思っていたのだが。
急ぎ三十階の研究所まで降りた。
「持ち帰ってきた資料を整理だけしたわ」
本業が女優の、ショートヘアのフランソワが厳しい目で言った。既に目を通したらしい。
「落ち込んどるようじゃな?」
タガラ姫がイサトゥに伴われてやって来た。
「あぁ…」
それ以外の返答が出なかった。疑問に思うことは沢山ある。タガラ姫はなぜアキラの体の事までを知っているのか?
未来を知ると言っても、アキラの体の事やフィリドについて、踏み込んで分かるものなのか?
イサトゥの事は突然の再会に驚いたが、まるでタガラ姫の従者然としているのが気になった。
「不思議で仕方の無い顔をしておる」
ニックの傍へ来た。十二歳の少女はニックを見上げ、慈しむような笑みを浮かべてみせた。
何故だろう。
ポロリと涙がこぼれた。人前で涙を見せるなどほぼ無いことだ。しかし緊張の糸が切れたように、膝から崩れた。タガラ姫がニックの頭を撫でる。
「よう頑張ったの。いいのじゃ。諍いもすぐに解決じゃて。今はちと苦しいだろうがのぅ」
まるで母親のようだった。
「ベソっかき。あんたが持ち帰った資料、とんでもないわ」
現れた女優の顔が、演技をしていなかった。
研究所に散らばっていた書類は、やはりアキラに関することだった。
サカキという医者は、そこでアキラを治療した。自分の研究を実証する目的があったらしい。
人工の羊水に沈め、細胞を活性化させて皮膚組織の再生を図る。成功すれば全身に残る傷も癒えるだろう。
だが、もしもアキラを死なせてしまった場合にと、アキラの細胞から何個かのクローン細胞を作り、もしもの時に代わりを渡せるよう凍結保存したらしい。
「じゃ、アキラがクローンってことも?」
ニックが恐ろしい考えに指先を白くしていた。タガラ姫が鼻で笑った。
「言ったじゃろ?アキラはこの星が選んだ子ぞ。星の子にはとてつもなく幸運がもたらされる。天命を全うするのが定めじゃからのぉ。癒えたのよ。たぶん医者がかような複雑手順を踏まなくとも、アキラは生き延びたじゃろう」
机に腰かけたタガラ姫は足をブラブラさせながら、目の前に座るニックの頭をまた撫でた。
十二歳の少女にされて、違和感を感じるより、アキラの治療の方が気になった。
アキラは回復して去った。
アキラが去った後も、彼はクローン研究を続けた。
十年後。若い研究者が訪ねてきた。
彼はポッドの人工羊水に手を加え、クローンの成長を促進させるのだと申し出た。それまで凍結保存されていたアキラの細胞を五歳程度の姿まで促進させることはできても、それ以上の成長は見込めずポッド内で溶けたり形をなさなかったが、目に見えて成果が出た。
成功した。
残された手記は『ラグリスに感謝』で終わっていた。
「ラグリス…あそこにもいたのか…」
気分が悪かった。じわじわと猫のように距離を縮めて、とうとう獲物の背後まで迫ってきているようだ。アキラに飛びかかるまであと少し。
「あやつ…アキラは全く知らなんだ。おのれの事実と向き合うには期が熟しておらん。そなたの守りが必要ぞ。ニコラスよ」
幼い指がニックの顎の先を持ち上げた。十二歳のそれではない。まるで人生を何度もめぐったような所作だった。
「いくつだタガラ姫?」
腹を括ったように落ち着いていた。
「十二歳ぞ。じゃが、わらわの頭には語り継がれた物語がある。未来も見えるし、そなたらの見えぬものも見えておる」
遠い山奥にひっそりと暮らす一族がいる。巫の一族と呼ばれ、占いを生業とし、その長は占いの結果とそれによってもたらされた結果とを口伝で伝えられてきた。一族には代々未来を見通す力があったのだ。地殻変動装置の作動する前から備わっていた力だという。
『見えぬものも見える』それこそは一族の長のみが見ることができる巨大な樹。世界樹。方々に絡まり延びる枝は歴史であり、葉の一葉一葉が人ひとりの歴史であり、その枝葉の先端が現在だという。
それを聞いてニックは大きく息を吸い込んだ。
「こうして秘密を明かしたのも、そなたにアキラを守ってほしいからじゃ」
「でも、なんで俺なんだ?」
「あやつと会ったが、ニコラスの運の尽きじゃ」
笑った。本気か冗談か分からず、眉をしかめた。
「定めとかではない。たまたまじゃ。あの子供じみた好奇心がそなたと出会ったから、繋がったのじゃ。そしてわらわも思ったぞ。守られ育ってきたそなたなら、アキラを守って隠し通せよう。なに、わらわも協力する」
たまたまってなぁと、もう少し文句を言いたかったが何人もの人が会議室に集まってきていた。クールもアンドロイドのクールもいる。
「わらわの花嫁たちよ、陣を張れ。ここを障壁として守りに入る。今これより組織の名は『ユグラシル』守られとる本人は、まだぽやぽやとしとるがな」
タガラ姫はカカカと笑った。さっきの涙もどこへ行ったか、人生を何周こなしたか分からないような少女の貫禄にニックはただ唖然とするばかりだった。
『ユグラシル』知らないうちにニックも組織に組み込まれていたらしい。
「仲直りせぇよ」
タガラ姫はフッと笑ってニックの肩に手を添え、何も見えない扉を広げて消えた。
しばらく考えていた。『守られ、育ってきた』確かにな。ニックは思った。
このタワーでエドワードと過ごし、守られていた。自分の脅威はそれに対抗できると、今では思う。
アキラは…自分が狙われている事さえ知らない。フィリドに力を奪われている以上、対抗のしようもないはずだ。まして、体が変化するなど。
ニックは忙しく行動を始めた人々の中で静かに考えた。全ての音が気にならないほど集中していた。
やがてその場を静かに離れ、ドアを閉めた。皆が何も言わず見送った事さえ気付かなかった。
***********************
「で、話は戻るけど、ニックくんの話を避けてるわね?」
にこにこ笑っているが、母は鋭かった。ほんの小さな言葉の端から、アキラの機微を感じとっていた。
ぱくぱく口を開け、閉め、しばらく考えてやめた。マムに嘘は通じない。
「ニックと口喧嘩。した」
「あらやっぱり?」
丸い目を見開いて小首を傾げてみせた。
「なんだ?早いこと仲直りしないと、どんどん気まずくなるぞ?」
バシッと父親に背中を叩かれた。気合いを入れられた感じだった。
「女の子同士だってすれ違いすぎたら気まずいわ。アキラちゃんとニックっていいコンビだと思うな。ずっと一緒がいいよ」
アナベルも後押しする。
誰も理由を訊かないのが、アキラには心地よかった。言ってしまえば本人を前にした時に変に気構えてしまいそうだから。
呼び鈴が誰かの訪問を伝えた。すかさず母が応対に立ち、
「ニック…?」
リビングにやって来た長身でロングヘアの男はニックだった。三人以上の人がいる個人宅に初めて来たニックは、肩を丸めて居心地悪そうだ。座れと言われても、彼らしくなくもじもじとしている。
アキラも謝ろうと誓った所に現れた当事者に、立ち上がったまま固まっていた。
「言うことあったんでしょ?」
アナベルが助け舟を出す。
うん。あのー。しどろもどろのアキラと、らしくなくモジモジのニック。
「ニックと仲直りしたいよ」
アキラがやっと口を開いた。
「俺も、感情的になってた。……それであの……」
ごめんでもなく。申し訳ないでもなく、何か言いたそうにニックが口ごもる。
「俺の所で、一緒に暮らさないか?」
やっと言葉が出た。ルームシェアは普通の事だ。が、言い様。
アキラは固まった。
アキラは思考停止した。
アキラの頭は真っ白になった。
「あ…」
やっと一音。
「どうしよう、マム。プロポーズ?されちゃった!」
叫んだ。
「はぁ?違うし!」
突拍子もない事に声が裏返って、怒鳴るニック。
「あら、あらあら?結納はいつがいいかしら?善は急げって言うわよねぇ」
真顔で母が言う。
「こういう時の返事って、何て言うのだったっけ?ソノコさん?」
父親がにしゃっと笑いながら言う。
「いく久しくお受けいたします。って言うのよ」
「あぁ、そうだったね。不束な息子だが、よろしく頼むよ」
「アキラちゃん、たまには実家に顔だしてね」
アナベルがうるうるキラキラとした目で訴える。
「うん。里帰りの時は、お土産持ってくるね」
あんぐりと口を開けっぱなしのニックを置いてきぼりにして、会話が続いた。
「男の子だし、結納品にこんぶは要らないかしら?」
母親がそこまで言ってから、最初に吹き出したのはアナベルだった。
「アキラちゃんの家、こういうノリだから慣れてね」
笑いすぎてお腹が痛いとアナベルがしゃがみこむ。
「ごめんな。ナガハラ家恒例の…」
最後まで言えずに、父親も肩を揺らしている。
「ごめんね。ボクん家ってこうだからぁ」
笑いすぎて涙をふきふきアキラも言った。
「お前らなぁ…」
ニックは驚かされすぎて、言葉が追い付かない。それでも、家族が温かい気持ちになれるものだと、初めて知った。
「改めて、いらっしゃい。ようこそ我が家へ。ね」
ポヨンポヨンとした、母親に抱きしめられた。アキラと同じ背丈のピンクのお団子ヘアがニックの鼻先をくすぐった。
「で、なんでいきなり、ボクがニックの家に行くのさ?」
急に真顔になってアキラが言った。話が見えてこないのだ。
「湖…。アキラが視える目を返されたって言った。その時の男。あいつがアキラを狙ってる」
なぜ狙われているのかまでは言えなかった。
「ボクを…?」
考えこんだ。
それから炎の中で思い出した事を話し始めた。
「金髪に藍色の目。まだ子供みたいだったそいつが、ボクの力を持っていくって言った。そして少しずつ返すって。全部ボクに返したら、また遊ぼうって言った」
母親が驚いていた。
「思い出したの?」
「うん。マム。全部じゃないけど、分かった」
思い出したではない。分かったと答えた。そう言いながら、まだ何か考え込んでいる。
「まだ他にも思い出したのか?」
ニックの声が緊張している。
「思い出したわけじゃない。ボクの力、あと二つか三つある…なんとなく分かるの」
誰もが驚いた。ニックは特に驚いていた。アキラの言葉の端々に、いつものふざけた感が無いのだ。
自分の唾を飲み込む音が大きく聞こえる。
「その力を返された時、どうなるんだ?」
ニックも両親も知っている。しかし誰もそれを言う事ができない。その命運を誰も告げることができなかった。
突然。
「アキラちゃん。前に、あたしと遊んだのなんとなく覚えてるって言ってたよね?それも思い出した?」
緊張を破るようにアナベルが嬉しそうに言った。アキラはその声に我に返ったように表情を輝かせた。
「いくつかね。アナベルに花が欲しいって頼まれて、回り道が面倒で水溜り飛び越えようとして失敗した事とか。合ってる?」
「あたし小さくて覚えてないよ」
アナベルが笑うと、母親が泥まみれ水浸しの事があったと笑って思い出した。小さい白い花を手に持っていたと笑った。
力が全て返された時の事をアキラの口から聞かなくてすんだことに、ニックや両親はほっとしていた。アナベルにそっと感謝した。
***********************
「じゃあそう言うことで、幸せにね」
母親が涙を拭く真似をした。また始まったらしかった。ニックはもう驚かず、天井を見上げた。
荷物はリュックに、とりあえず必要なものだけ。すぐにと言われてまとめたのだ。そんなに急がなくてもと言ったが、両親が急かすのだ。しまいには車で来たニックが早く戻りたいとテレポートの催促まで。
「もぉっ!新居にはお姫様抱っこで入ってね」
女の子の甘えた声色で言ってみた。
「ヤメロ」
睨まれて、ぎゃははと笑った。
***********************
「どこか行くみたいだよ」
この光景を高い空間から見下ろしていた、赤い髪の少年が言った。ルトだ。
「匿うんだろう?いいさ。まだ実りには早い」
ルトの肩を抱えてフィリドが言う。
どこへ隠そうと、見つけ出すことは容易い。いや、難しい障壁を壊して収穫するのも悪くないか?面白そうに笑った。奸計の策の成功を思うと笑みが溢れてきた。
誰かが笑った < 了 >




