湖に落ちる一雫 2
「でも、なんでチニャを?」
アキラの言葉にニックは知らないと肩をすくめた。
「わかんねーよ」
行けばわかるだろうと、アキラの肩を押した。
三たびの研究所。
夕暮れ近いせいか建物が不気味に見える。アキラはやっぱり見たことがあるような気がしていた。そういえば、父さんとマムがいたような気がする。それとも、ドラマか何かを見ていたのか?
「さっぱり分からないや」
変な記憶を吹き飛ばすようにアキラは呟いた。
『侵入者だぞ!』背後から声が飛んだ。
振り向いた。燃えるような髪色の、少年のような少女のような姿。どこかで会った?
少しの間考え、怒りがわき上がった。イサトゥの父を殺した、人間を容易く振り回し、雑巾か何かのように叩きつけたあの少年。ルトだ。
彼は意地悪そうな笑みを浮かべ、二人を見ている。いや、視線はほとんどアキラの方へ向いている。
「また会ったな。ポンコツ!」
「ポンコツ言うな!」
無謀にも走り込んで拳をぶつけようと思った。しかし体力も腕力も皆無である。ルトはトンと後方に跳んで、にやにやと笑って消えた。空に溶け込むように見えなくなった。
「何だよあいつ。何がしたいわけ?」
ふんと鼻息が荒い。手出しができなかったニックも苛ついた眉を上げていた。それより、アキラと妙に似通った顔をしているのが気に食わない。
ルトの叫びは研究所にも届いていた。中から数名の職員が銃を片手に出てくる。
「こっちは丸腰だっての!」
やって来る武器携帯の職員をほけっと見つめるアキラの襟首をつかみ、ニックは木陰に潜んだ。
「首詰まっちゃう。やめてよぉ」
変なところにアキラが文句を言う。それからニックに本意。
「チニャはニックに届いたテレパシーを読んだんだよね?あの時、ボクのグローブを受け取れってのを?」
「あぁ」
「だったらさ、ニックが呼びかけるのも可能だよね?」
アキラは言う。アキラのテレパシーは、相変わらずニックとしかリンクできていない。不便とは思わないが、少し面白くないのも事実。
「そういう発想ができるところが、お前らしいよ」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。最近特にだ。まぁ、褒められたと思うことにした。
「じゃ、チニャはよろしくね」
「お前は?」
ふっふーんと得意気な顔をして見せた。
「腕力無いけど、能力はある」
自分なりに研究と訓練はしているようで、アキラはPKの応用だと手のひらを上に向けた。ふわふわと光の玉が揺れている。
「これをねぇ」
ひゅっと指で弾く真似をした。
光の玉が音を立てながら自在に動き出す。
「まだ一つしか出せないけど、なんとかなるっしょ!」
まぁ、お気楽なものだとニックは言った。が、それなりに仕事に向かう姿勢が出てきたのだと嬉しくもなった。少しは当てにされることも減る…かもしれない。
ニックはアキラの様子を伺いながらチニャへ呼び掛け始めた。
──チニャ、わかるか?
ニックが呼んだ。
──お兄ちゃん?
チニャの声が弾む。
──あぁ。チニャはそこから逃げられない?
──水がね。あるの。
水?あのポッドのことだとは思った。
──水が入ると苦しいよ。でも水から出るのも苦しいの。
チニャが全身が濡れたまま、水を吐いていたことを思い出した。
──もう水の中なのか?
──うん。
悲しそうな返答だった。
──アキラと迎えに行く。
と言ったが、はたと思い立った。
──チニャ、外へ来い。苦しいのは少しだけ我慢しろ。
アキラが言うには、チニャは突然現れた。あの草むらに。テレポートができるのではないかと思い当たったのだ。
一方アキラは手のひらに収束させた光を、侵入者の捜索にあたる者たちへ放っていた。ニックに見せたよりも小さく収束させている。力を濃縮させたようにも見えた。
音も熱もなくなったそれは、銃の上を掠め、次々と壊していった。
「ニック、チニャをよろしくね!」
ふわふわ光る力の迸る玉を手のひらに浮かせながら、アキラは研究所へ歩いていった。
「どうする?」
「えへへー。中を壊してくる」
照れと現況が合っていない。あまりにものほほんとアキラは言うのだ。
「危なくなったら戻れ」
はーいとばかりに片手をあげて、アキラは研究所へ向かった。
──来い。チニャ!
再び呼んだ。
数秒の沈黙。
目の前で画像が再生されていくように少女の姿が現れる。苦しげにもがきながら、水をげぇげぇと吐き出した。
研究所内。静か。気持ちの悪いくらいだ。
「破壊?これ全部?マズいじゃない」
女は全て破壊されたポッドを目の前に、途方にくれたような声をあげた。
次いでアキラの気配に気付いた。
「誰?」
「ボクでーす!」
軽いノリで登場。女が目を細めた。
「また、あなた?また、邪魔するわけね」
プラチナブロンドに緑の瞳。両手から雷のように爆ぜる針の玉が複数光って飛び出してきた。ようやく、どこかで見た技だと思った。
どこだっけ?と、首を傾げて考えてもいられない。まだ一つだけしか操れないアキラには、女の繰り出す技の対抗が難しかった。
逃げる。
隠れる。
撃つ。また隠れる。
「前もそうだったけど、逃げるのだけは上手よ」
頭の上から声がした。
見上げてやっと思い出した。女子校生が行方不明になった時の…
「ショッキングパンツ…じゃないピンクの占い師だぁ!」
アキラの叫びに女がぎょっとして降りてきた。怒りなのか、こめかみがピクピクと震えている。
「ふざけてる?」
「んなわけないよ。今思い出した。ショッキングピンク」
やっとスッキリしたと笑う。
「やっぱりふざけてるじゃない!何であなたごときが、あの方の…」
言い終わらないうちに、青い光の塊が女めがけて飛んできた。
「余計なこと言うなよ。くそ婆ぁ」
燃えるような髪のルトが現れた。女がぎりりと奥歯を噛んで睨みつける。
「このポンコツはおれの獲物」
その台詞にアキラはムッとして眉をひそめた。
「ポンコツポンコツって、うるさいよ」
アキラの掌の力が膨れ上がった。その膨れる力にルトが目を細める。
「だってお前、まだ使い物にならない。おれの方が利用価値があるんだよ。お前なんかずっと壊れっちまえ!」
アキラと同じ光球が飛んでくる。複数が唸りをあげて体をかすめていく。
「ルト、叱られるわ」
「うるさい。婆ぁ!死にたいか?」
稲妻が女の腹を貫通した。女が呻いて倒れる。周囲に髪の毛の焼けるような、繊維の焦げるような臭いが立ち込めた。女に動きがなくなる。
「弱いくせに、おれに楯突くなよ。お前もな」
ルトが再びアキラを睨んだ。怒りと恨みが込められている。
アキラの拳が震えた。命を蔑ろにする怒り。まなじりに赤味が差し、吊りあがる。ルトに向けた掌から力の光球が勢いを増して膨れ上がった。
「へぇ。たまに使える奴?でもまだポンコツだよ!」
同じ光球がアキラの物より数倍に膨れて飛んでくる。それを右に払って、ルトへ力を溜めた。
「許さない。どんな奴だって、命あるものを!」
アキラの力が光の中に凝縮。極限で唸り始めたている。初めてルトの顔に焦りが見えた。
「お前なんか。お前なんか!」
めちゃくちゃな稲妻がアキラに襲いかかる。しかしそれはアキラに届く前に消滅。
「おれは認めない。お前なんかいらない!おれだけでいいんだ!」
風が周囲を切り裂く。アキラの髪を切り飛ばし服やむき出しの肌に小さな傷を作った。しかし膨れ上がる力はルトを押し返し、放たれようとしていた。
焦り気味のルトは炎を向け放った。巨大ではないが、人間をひと呑みにしてしまうような大きさ。
悲鳴があがった。怒りに我を忘れても、炎はアキラから怒りさえ奪ったらしい。ガタガタと震え、涙が溢れている。その姿を見たルトが再び勝ち誇ったような笑いをあげた。
「やーっぱりポンコツなんだ?お前なんか、死んじゃえ!」
炎がアキラに向かった。全身を庇うように体を丸めアキラは悲鳴とともに地面に崩れた。
炎は...消えている。
「言いつけを守れない奴は、それこそ死んでこい」
癖のある蜂蜜色の髪に夜の瞳の男。
「消されない内に目の前から去れ」
冷たく言い放った。アキラと扱いの違う自分が悔しくて、目元を赤くしたルトは拳を握りしめたまま無言でその場から消えた。
「よぉ、アキラ。久しぶりだな。そろそろお前に返そうか?いやでも、やっぱりもう少し面白いお前も見ていたいな」
男は気を失って倒れているアキラの前に屈みこみ、頬や髪や唇を指でなぞった。どこかしら愛おしむように。
人の気配。
ニックがまだ濡れたままのチニャを抱えて向かってくる。
「大丈夫か?こっちで炎が...!」
横たわるアキラの前に屈み込む男を見た。さっき会ったばかりの男。アキラを腕に入れて意味ありげな笑みを浮かべていた、あの。
「離れろ」
抱いていたチニャを後ろに庇い、ニックは瞳を金色に変えた。催眠が効かないのは分かっていたが、それでも対抗したかった。
「まだ遊んでいればいいさ。いずれ奪う。お前の力も面白いなぁ」
男は素早かった。いや、滑るように懐に入ってきて、ニックの額を掴んだ。チリチリとした痛み。瞳から金色が消える。
「返して欲しいか?ふん。取り返してみろ。アキラと交換でもいい。そうそう。四十八時間後、面白くなるぞぉ」
男は笑った。笑って溶けるように消えた。
消えた空間を睨んでいたニックは、アキラに近づくチニャに気付いて自分も駆け寄った。
「アキラ?」
「お兄ちゃん?」
ニックとチニャの呼び声にアキラは目を覚ました。何が起きたのか分からないといった顔をしている。焦げた女の死体だけが、何かがあったと物語っていた。
派手な炎があがっていた。まもなくここにも人が溢れるだろう。『とにかくここから離れるぞ』そう言うニックへ異論はなかった。
***********
「あ、見て。チニャに似合いそうな服だねぇ」
今夜の宿を探して歩きながら、アキラは子供服の店を渡り歩いていた。
ニックはといえば、方々のホテルや旅館を探している。飛び込みで一家族分。
『家族だぁ?』
『だってニック、若い男が二人で年端も行かない少女を連れているってだけで怪しいじゃん。子供連れ夫婦が宿に困っている設定の方がいいよ』
それはそうなのだが、アキラのベクトルは女装に向いているのは明白だ。合流した時はたぶん…
「ニックパパ!」
やっぱり…と、天を仰いだ。チニャと同じミントグリーンのサマードレス。アキラはそれに薄いラベンダー色のパーカーを羽織っている。
「似合う?ね、似合ってる?親子みたい?」
「あーハイハイ」
明後日の方を向いて台詞が棒読みだった。
やっととれた宿は街の外れだった。ちょうど研究所の輪郭が見える部屋。眺めはいいが見たくない景色だ。
「マスターの依頼は達成したし、明日の朝出発でいいな。チニャもマスターがなんとかして…くれると思う。たぶんな」
ニックは途中で買った新しい人形でチニャと遊ぶアキラに言った。
「えぇ?もう一日延ばしてよ。温泉もゆっくり入りたいしぃ」
言うと、あぁ?と地獄から見上げて声を出しているのかと思うほどのニックの声。遊びに来てるんじゃないとニックは眉をしかめた。
「お前、チニャを連れて温泉。とか言うんじゃないだろうな?」
「そうだけど?」
「女装男は女湯には入れないぞ」
「あ……!」
マズいことにぶち当たったアキラが声をあげた。やっぱり考え無しのお気楽野郎だ。
そこでふふん。と、ニックが自慢気に隣の部屋への襖を開ける。
脱衣室のガラス戸の向こうに小さな露天風呂がある。小さいけど立派な岩風呂。
しつらえた坪庭も高級感。
「宿代はマスターが支払うだろうから、金に糸目は付けなかった」
ニックは笑った。
そうだ。この副業、食事代や宿代は全て経費とされる。なんていい雇用主だ!アキラは仕事に感謝した。
眠そうなチニャを湯船に浸からせ、宿の浴衣を着せて布団に寝かせる。
アキラは隣でチニャの背中をポンポンと優しく叩き、その刺激にチニャはあっという間に眠りに落ちた。
さてと。と、ニックが脱ぎだした。お前も来いと風呂に誘われる。
「変な気、起こさないでよ」
言った。
「誰がだよ!反省会だ」
お湯を飛ばされた。
しばらく無言が続いた。のぼせそうで二人で岩の上に腰掛け、今は明かりのない黒い影の研究所を眺めた。
「アキラが一人で研究所に行った時、何があった?」
ニックが先に声をあげた。
アキラもそれについて話そうと思っていた。
イサトゥの父親を殺害したルトに会った事。
研究所の女が、女子高生失踪の時にいた女占い師だった事。
彼女がルトに殺された事。…少し声が震えた。
「あの男…チニャと髪色の似た男は?俺が行った時、お前のそばにいた、あの…?」
なんだか気まずいものを訊く気分だ。
「誰かいたの?」
ニックの言葉にアキラは初耳だと目を丸くした。少し安心したようにふっと息を吐いてニックは続けた。
「奴、俺の力を奪っていった」
「奪われたの?貞操じゃなくてよかったね」
にしゃっと笑うと桶の水を頭から浴びせられる。
「ふざけるなよ」
「へーい」
肩をすくめるアキラを横目にニックは続けた。
「俺の目…催眠の力、持ってかれた。畜生。持ってくなら耳の方にしやがれ」
頭を抱えて言った。
この全て聞こえてくる耳。今でこそ周囲だけに集中できるが、それができなかった頃は煩かった。耳奥のキャンセラーをつけて少しはましになったが相変わらずだ。
「ニック。思うんだけどさ。誰かに現れた力って、要らないものは無いのじゃないかな?運命だって時間だって、その人に与えられてどう使うかって、その人次第だと思う。そう思わなかった?」
初めて過去を視ることができると知ったときから、アキラはそれを誰かのために使えたらいいと思った。
「そう思わなかった?」
と、ニックへ首をめぐらせると、ニックの顔が点点点…?
「なにその驚いた顔?」
「お前、すっげー真人間に見える…」
「なんだよ。ボクはいつだって真面目だよ」
お湯を掬ってばしゃりとかけた。
「どーこが真面目だ?いつもちゃらんぽらんだろうが」
ニックもお湯で反撃。
ぎゃいぎゃいと口撃がしばらく続いた。
翌日、二人は無理矢理休暇にした。一般的には無断欠勤という。毎度恒例。毒を食らわば皿までの毒なら、食べてから存分にクールに叱られてやる。
そう。アキラの言い分。ニックは辟易していた。
叱られる覚悟ができたなら、楽しむのみ。
アキラが望んだチニャと露天風呂も、客室で三人でのぼせるまで入ることができた。のぼせて三人で畳の上に転がって午前を過ごす。
午後、観光客で溢れる商店街を浴衣に茶羽織、下駄をカラコロさせて散策した。
アキラがチニャの手を引き、チニャも少し遅れて歩くニックの手を取った。並んで歩く様は若夫婦と子供に見えなくもない。
どっちがママだ?ニックは首をかしげた。
「チニャは次、どうしたい?」
小さな手を引きながらアキラはニコニコと言った。
「うんとねー、あれ」
チニャが指差したのは、店頭で湯気を上げている温泉饅頭。アキラの目が輝く。
こいつなら四個は食う。ニックは思った。
「おばちゃん、八個ちょうだい!」
ニックが転けた。何個食う気だ?
チニャが転けたニックを笑っていた。
街の緑の公園の中には小さな動物園もあった。チニャはそこにも行きたがった。
どこも宿から離れた距離ではないので、宿の浴衣姿で訪れる人も多い。三人もそれに漏れず、カラコロと下駄の音を響かせて動物見学。
「可愛いねー!」
チニャが言ってはしゃぐのはいいが、
「おい何だあれは?あっちのあれも生き物か?」
ニックが思いの外はしゃぎ立てていた。帰り際にはレッサーパンダを見てアキラに似てるとぬいぐるみを買ってチニャに与える始末である。
夕食後、チニャが早くも眠たそうにし始めた。すでに布団が三人分敷かれ、アキラはチニャを布団の中に入れた。
「ねぇお兄ちゃん?子守歌うたって。ママは歌うんでしょ?」
チニャの可愛いおねだりに、アキラは嬉しそうにニコニコと応えた。
ニックが風呂からずぶ濡れで慌てて出てくる。聞こえたらしい。
「歌うな!いいか、歌うなよ。俺が歌ってやる!」
畳をべちゃべちゃにして戻って、浴衣に着替えたニックは頭にタオルを巻いたままチニャの隣に横になった。
「ひどいなぁ。ボクだって子守歌ぐらい歌えるよ」
「騒音。チニャの安眠妨害だ」
眉をつり上げて言った。本気の拒絶だ。
「歌ってぇ」
チニャの甘えにニックは歌いだした。
今世界中で流行っている歌。確か『湖畔の騎士』とかいうオペラの中で歌われる『岸辺の夢』というアリアだったはず。死んだ恋人を想って、夢の中で逢えたらと歌う歌詞。子供には難しくない?アキラはそう思ったが、それ以上に嫉妬心がメラメラ燃え上がった。なんだその声は?
「ニック、ずるい」
寝入ったチニャの上で小声で不満を訴えた。
「なにその、甘々な低音シュガーボイス。なんでそんないい声隠し持ってるわけ?」
「いつもこの声だろうが?」
「いつも?女だったら腰砕けてるよ。優男だし、楽器は弾けるし、声はいいしって、女の子達にキャーキャー言われてるよ。羨ましい。救いは女に興味無しってとこだけ」
本音だった。でも、歌が上手いと言わないあたり、自分が下手という自覚も無いようだ。
「うるせー。お前も寝ろ」
頭に巻いていた、濡れたタオルを投げつけられた。
朝。
「チニャが熱っぽいんだ」
心配でたまらない声音でアキラが訴えた。なんでもない。元気だと言うが、確かに体が熱い。
「昨日、連れ回しすぎたか?」
「大丈夫だよ」
額にあてたニックの手をとってチニャが笑う。
「ダメだよ。熱があって元気でも、急にぐったりしちゃうんだから」
アキラは熱いチニャの手を布団の中に戻した。
「ほんとーのほんとに大丈夫だよぉ」
「分かったよ。だけどもう少し様子をみようね」
しかし午後を過ぎてもチニャの熱っぽい症状は変わらない。クールには散々文句を言われていたが、事情を話して帰りをもう一日延ばそうか?ニックは考えていた。
「お兄ちゃん、湖を見たいよ」
チニャは熱っぽい赤い顔をしながら言った。大丈夫だと言っていたが、本当に赤い顔をしていながらも足取りはしっかりしている。
「綺麗だね。大きいね」
熱っぽい頬を赤くさせ、紺色の大きな瞳をキラキラさせている。
「大丈夫?フラフラしてない?」
アキラがオロオロしていた。
大丈夫大丈夫と湖の遊歩道をトコトコと先を行く。立ち止まってチニャは振り向いた。
「ねぇお兄ちゃん。ママって呼んでいい?」
チニャはアキラに言った。
「ボク?ニックの方が髪も長いし、綺麗なママじゃない?」
「俺に振るな。バカヤロ」
「だって、今女装してないしぃ」
言うと、チニャに明るく笑われる。
「お兄ちゃん、本読んでくれるし、一緒に遊んでくれるもん」
そう言われて特別感が増した。そりゃボクの方が、ニックよりチニャを可愛いって思ってるもん。ふふんと自慢気に思った。いいよと両手を広げてチニャを呼んだ。
「わーい。ママ!」
スリスリとアキラにすり付いてくる。抱きしめた体がさらに熱いような気が…
気のせいではない。長く触れていれば掌を火傷しそうな程に、熱い。
「チニャ……?」
サマードレスの裾から煙があがっている。
「ごめんね。ママ…」
「アキラ、チニャが燃えてる!」
ニックが驚いて声をあげた。
ポッと音がして炎がめくれ上がっていく。サマードレスが灰になって熱風が巻き上がった。チニャの体が炎に呑まれていく。
というよりはチニャが炎になった。
ひっとアキラが息を呑んで固まった。じりじりと半歩後退。しかしチニャが心配で足を前に出そうとする。が、動かない。
「いいの。お兄ちゃん。ママごめんね」
炎が大きくなる。巨大な炎だ。
「お兄ちゃん、ママを守って」
熱気に顔を覆いながら、ニックはアキラを見た。うずくまって泣いている。『マム、助けて。熱いよぉ』アキラが自分の母親を探している姿は完全に子供だった。
「しっかりしろ!チニャを助けるぞ。力を貸せよ」
両頬を激しく叩く。アキラは一瞬チニャへ目を向けるがすぐに悲鳴を上げた。
「おい。いつものお前はどこだ?」
怒鳴りながらニックは、アキラのジャケットに入っているブドウジュースを含んだ。そのまま唇を押し付けジュースを流し込む。
一回、二回、三回目で少し落ち着いた。四回目、アキラの目に正気が戻ってくる。
「チニャ!」
アキラは叫んだ。が、やはり一歩が出ていかない。
「ありがとうお兄ちゃん。ママが戻った」
炎の中で涙を流した。涙は溢れたとたんに音を立てて蒸発していく。
「ママ、お兄ちゃん。あたし行くね」
「どこへ?」
「水の底…」
言うと遊歩道を焦がしながら、桟橋の端まで来て振り向いた。
「白樺の女の子は木に戻っちゃった。あたしは何かな?ありがとうお兄ちゃんたち」
アキラがチニャの名を叫びながら走ってくる。
「お兄ちゃん、怖いのにダメだよぉ」
そう言うと、チニャの小さな体がとぷんと水に呑まれていく。燃えながら。
吹き上がる炎の轟音が消えた。炎を見た人々も急な静寂にざわついている。遠くから緊急車のサイレン。
それ以外は本当に静かだった。
ぱちん!
どこかで指を鳴らす音が聞こえた。その瞬間、周囲の色が薄くなり、まるで水墨画のような景色になる。
「もう少し楽しめると思ったが、あの子の自我は意外と大人になっていたんだな。コントロールできるかと思ったが残念だ」
アキラの背後にあの男が現れた。駆け寄ろうとするニックとは距離がありすぎだ。アキラへ向かって逃げろと叫んでいるが、アキラは動けなかった。
「ポッドから出たあの子は四十八時間後には燃える。この街一つを呑み込めるほどにな。ママだって?お前の子供は立派だなぁ」
男の笑いに嘲りが含まれている。その言葉に怒りを向けたいが体が動かなかった。
「お前に力を返してやる。半分あれば十分だろう?」
男はアキラの左目に掌を押しあて、右目を覗き込んだ。いつだろう?こんな瞳を見た気がする。ひどく懐かしいような恐ろしいような…?何かが思い出せそうで思い出せない。
呼吸が早くなる。
目の奥に激しい痛みが来る。
ガンガンと鐘を叩くような頭痛がする。
吐き気が来る。
息が吸えない!
「何を…した?」
浅く荒い呼吸の間、ぎりぎりと奥歯を噛みながらやっと声をあげた。
「だから、返してやったんだよ」
再び息がかかるほどアキラの顔の間近に男は寄った。
「面白いよなぁ、お前の力。その目でチニャを追うがいいさ」
にやにやと笑いながら言うと、男は目の前から消えた。霧が晴れるように。何も無かったように。
色が戻った。
「アキラ、大丈夫か?」
例の男がアキラに接近するのが気に食わない。ニックは腹が立っていた。
「そうだニック。チニャが湖に…!」
叫んで湖を覗き込んだ。
「何?」
見える。水の中で、なお燃えている少女。
両手を水面へ向け、燃えながら小さくなりながら沈んでいく。
アキラは右目を押さえながら、それでも見えていた。小さな赤い光。
やがて光は弱くなり、底に着いてふっと消えた。炭の熾火が白くなって消えるように何も無くなって水の中に溶けた。
「チニャ…チニャ。ボク、助けられなかった。ごめんね。手を取れなくてごめん。助けられなくて、ごめんね」
焦げた桟橋に腹這いになり、水に顔が付くのではないかと思うほど水面に近づいて、アキラはボロボロと涙をこぼした。しばらく顔を上げられないでいた。
「おい、あいつに何かされたのか?」
ニックに声をかけられ、ノロノロと起きあがる。目の前が普通の景色と、右の目には一直線上に見えるもの全てが飛び込んでくる。頭がクラクラしていた。
「返すって…力を。半分あればって…」
右目を押さえるが手の平を通しても、視界の直線上のものが目に飛び込んでくる。距離も何もかもがなく、全てが重なっているような感覚。
左目を押さえる。いくらかの距離感が生まれた。が、やはり全てが重なって見えた。
「ニック。右目がね、全部見えるよ。どうしよう。閉じてもダメ…」
激しい戸惑い。
「気持ち悪い。気持ち悪い!全部見えてくる」
あの男が『返す』とアキラに言ったものは、見通す目なのだろう。『透視』…アキラには特殊な力だったのかもしれない。普通なら隠された対象物を見るだけなのだろうが、アキラは視線上の全てを同時に見ているらしいのだ。
自分と似ているとニックは思った。
同時発生している全ての物音を聞いてしまう自分と重なる。
「俺と同じになっちまった?」
同じになんかさせるかとニックは思った。その感情に言葉を当てはめるなら『保護』なのかもしれない。かつて自分を外界から守ってくれた大きな存在。愛するエドワードと同じように、これから守ることが増えるかもしれない。そんな予感がした。
とりあえずはクールに連絡だ。
取り乱して震えるアキラの手をとって宿に戻る。両目で見えるものが違うため、アキラは何度もつまづき、弱音を吐いた。
部屋でもまだうじうじぐしぐしと弱気になっている。いつもなら落ち込んでも立ち直りの早い奴が鬱陶しい。
「ほんっとらしくねぇよな。押し倒すぞ!」
眉を吊り上げて脅してみた。
「やだ…」
膝を丸めて顔を埋めても、目の前に様々な物が動いている。時に目をおおいたくなる光景もあるが見えてしまう。
「お前言ったよな?現れた力は要らないものはないんだって。あれはお前のはったり?ただの出任せ?どう使うかそいつ次第って、言ったよな?」
潤んだ目でニックを見た。そうだった。言った。
力の使い処は自分次第だ。うまく使えるか、奢って自滅するかも自分次第だ。だったら多くの人が幸せになるような、力の使い方をしたい。自分が過去を視ることができると知った時から、その気持ちは揺るがない。
「ごめん。弱気になってた。でもね、今だけ肩を貸して。誰かに頼りたいよ」
ぱちぱちと濡れた睫毛をしばたたかせ、ゆっくり目を閉じた。閉じても景色は見える。でも、眠ってしまえばきっと……
現れた力に要らないものはない?ニックは何度も頭の奥で反芻した。この耳を呪った。しかしエドワードが救ってくれた。アキラの言葉が祝福に変えてくれた。
エドワードとこの国へ来る前の記憶を思い出していた。
たしか…
うろ覚えかもしれない。自分で記憶をすり替えているかも?しかし思い出したのだ。誰かが父の名を語った時の計画。計略。陰謀。全てを父に伝えていたと。
それは父を自分なりに助けたい一心だったのだと。
「おい。寝たのか?」
アキラに貸した肩が重くなった。耳のすぐそばで寝息が聞こえる。紛れもないアキラのだ。
遅い時間にクールが到着した。
マスターの研究機関でシールドを用意してくれたようで、その完成を待ってこちらへ来たのだと言う。
「間に合せですから、文句は無しですよ」
先に牽制された。クールが持っていたのは眼帯。しかも、いかにも病院で処置に出されるような白い眼帯。
ニックに眼帯をつけられ、確かに右の目に飛び込んでくるものが無くなり、アキラの態度がやっと柔らかくなった。
「えぇー、どうして白いの?」
「は?」
お前、実は人格が二つあるんじゃないか?ニックが言いたくなるほど、アキラはいつものアキラに戻っている。
悲しみも、ニックの心配や守ろうとした誓いも、アキラの頭のさらに上に飛んでいった気分だった。
「黒くてさー、形もこんな四角じゃなくってぇ…ほら、海賊がよくやってるやつ」
身振り手振りでアキラは説明する。
「ニコラス、アキラは本当に落ち込んでいたのですか?」
いつもと変わらないアキラにクールは冷ややかにニックへ言った。
「俺、自信無くなってきた」
今度はニックが落ち込みそうだ。
ふーむとクールは眼帯のアキラに顔を近づけた。
くいっと眼帯をずらす。
アキラの表情が驚きと戸惑いに変わる。
戻す。ちゃらんぽらん
ずらす。戸惑い。
戻す。ちゃらんぽらん
「ぐわぁー!ボクで遊ばないでぇ!」
こう見えて繊細なんだからねとアキラは言ったが、繊細な人間はそんなことは言わないだろう。
「そこそこ、いつものアキラですね」
いたく真面目にクールは言った。
「そこそこってぇ…」
ぶぅっと膨れた。
「明日は必ず戻りますよ」
クールは言った。言いながらクローゼットから浴衣を取り出している。
「あれ?なにしてんの?」
「何って、これから入浴です。良い部屋ですね」
淡々と話すクール。思惑が見えない。
「泊まるのかよ」
「当たり前でしょう。保護者のいない十代の若者の引率です」
表情を崩さない。さすがクール。
「保護者って…ボクたち成人してるけど…」
「なら、若い二人に間違いがあっては…」
「素直に風呂に入りたいって言えよ」
ニックが呆れて言った。
ぎゃははは!
やっとアキラらしい笑いが漏れた。
ニックとクール。冷静な二人が肩をすくめて微笑みあった。
湖に落ちる一雫〈了〉




