─閑話─ パピと呼ばれたい
数十人の警護に囲まれて一人の男がやって来た。しかもクールが控えているスタンバイハウス。大統領という仕事柄、アキラやニコラスの仕事については少なからず知っているようだ。マスターとも多少の繋がりがあるようで、クールは迷惑そうな顔をしているものの追い出すような雰囲気でもない。
「ここは安全です。皆さんには外で控えていただきたい」
クールが大統領に言った。忖度ないはっきりとした物言いに、アキラの方がハラハラしている。
「それはすまない」
そう言って大統領は片手を上げて指示を出すと、皆ぞろぞろと退室していった。それを見てアキラがふぅと息を吐いてソファに深く座り直した。
「なんかやっと美味しい空気が吸える」
独り言のようにアキラが呟いた。
「彼らも仕事だからね。許しておくれ」
大統領が苦笑した。
ところで、ニキはまだかい?と訊かれた。時間指定があれば途中で待ち合わせてくるのが常だったが、今日は突然の呼び出しだったのでニコラスは遅れることだろう。
「それにね、最近は大分まともになったけど、ニックってば運転すごいヘタ」
からからと笑うアキラの背後で、眉を吊り上げたニコラスが手をグーの形に構えていた。
「痛いよぉ。何すんだよぉ。ニックってばこうなんだよ」
アキラが涙目で訴えた。
大統領はそんな二人を嬉しそうに見ている。一国の主というより、父親の顔だった。
「ニキにはいい友達だな。何でも言い合えるというのはいいことだよ」
「でもこいつ、結構不真面目でイライラさせるんだぜ」
ほうほう。とアキラはにんまりした。以前の、父親に対して嫌悪を剥き出しにした物言いではない。本当に心の中のわだかまりが解けたんだなと思った。
「で、いきなり来た理由は?」
ニコラスが言うと、大統領はふっと笑った。
「ニキに会いたくなったんだ」
「はぁ?」
「最近、公務が忙しくてね。予算だー国会だー国際会議だーって、パピ疲れたよ」
「ぱ…!」
アキラが笑いそうになったのを、背後のクールが丸めた書類で殴った。
「ニキの顔を見て癒されに来たんだ」
大統領が嬉しげにニコラスの顔を見つめた。
「そんな事のために専用機使って、セキュリティの一個団体引き連れて来たのかよ?国の税金舐めるなよ」
ニコラスの言うことは最もだ。
「だってニキ。せっかくパピとの誤解もとけたのに、国に戻らないって言うし」
大柄の大統領がしゅんとした。
「エドワードと暮らしたここが、俺の故郷だって、言ったろ?」
「良くしてもらったんだね。亡くなったのは残念だ」
あぁとニコラスは瞼を伏せた。六つの時にエドワードに連れられて、暮らして、愛しあった国だ。溢れるくらいに思い出が多い。
「三年ほど前だったかな?彼がやって来たことがあったよ」
顔を上げた。ニコラスには初耳だった。
「ニコラスを愛してしまったとね。私に許しを請うてきた」
「わお!『お嬢さんを私に下さい』というやつ!」
クールの丸めた書類が再びアキラの頭を直撃した。大統領が笑っている。
「まぁ、そんなものだね。彼は若い頃から優秀だったし、彼ならいつでもニキを守ってくれると思った。反対はしないさ」
組んだ足を下ろしてゆったりと体をソファに沈めた。
「せっかく認めてもらえたのに、今じゃ未亡人」
アキラが泣き真似をする背後で、クールはスリッパを握りしめていた。
「じゃ、俺の顔も見たし、帰れよ」
ニコラスは来たばかりだというのに、立ち上がった。
「待ってくれ。顔を見にきたのもあるが、別荘から懐かしい物が出てきたから持ってきたのだよ」
懐かしい?母親に関係するものかとソファにかけ直した。
「ニキとお風呂に入る時は、いつも一緒に遊んだんだ」
ソフトビニールのアヒルの人形だった。ほら、懐かしいだろう?と、腹を押してガァと鳴かせる。
ニコラスの肩がフルフルと震えている。懐かしいとか嬉しいというようなものでないことは、吊り上がった眉でよく分かる。今にも怒鳴りたいのをやっと抑えているらしい。
アキラの肩もフルフルと震えている。小さな呟きも。
「ニックとアヒル…ニックとアヒ…」
クールの握りしめたスリッパが、小気味のよい音をあげた。
「大…とぅ…!俺の歳、いくつだと思ってる?こんなもので遊ぶ歳じゃねぇぞ」
大統領となのか父さんとなのか言いかけて、飲み込んでから文句を言った。
「懐かしくなかったかい?お風呂の中でこのアヒルちゃんを泡だらけにして『パピ見て』って、ニキは可愛かったなぁ」
ほっこりと大統領は笑ってみせた。
「そうそう。こっちの大きいのはよく持って歩いていたんだよ」
さっきのアヒルの五倍はありそうなソフビのアヒル。
「でかアヒルとニック…でかアヒルと…」
アキラの肩が遠慮もなく震えた。クールが分厚いハードカバーの本を持っていた。
「いらねぇ。持ち帰れ!」
言われて大統領は再びしょんぼりとしてしまった。
「持ち帰るなら、アヒルちゃんにニックの顔写真貼ったらいいよ」
ケラケラとアキラが笑う。ニックに小突かれ、ハードカバーの本が頭に落ちた。
痛みに涙目になっているアキラをよそに、大統領がもうひとつ頼みがあると言ってきた。
「ニキにパピと呼んでほしいのだ」
「ぱ~~~っ!」
アキラの笑いのツボが崩壊した。気がつくとクールも笑いをこらえていた。ニコラスだけ『笑えねぇ』と眉をしかめている。
「こんな小さな頃は、パピと呼んでくれたろう?まだ舌足らずでね、マミィ・パピィがいつの間にかマミ・パピ。あの頃に戻って呼んでくれないか?」
記憶の無い、六歳より前の昔話になど付き合っていられない。
「ようやく私の手に戻ってきてくれたのだ。父親らしい事をさせてくれないか?一緒にご飯を食べよう。遊園地で楽しもう」
「ぶっ!」
アキラは両手で口を抑えた。
「パピと一緒にお風呂に入ろう」
アキラの肩は大地震並みに揺れていた。大統領の言葉は冗談ではなく本気なのだ。本気ゆえに笑いが抑えられない。
「そうだ。パピがご本を読んであげよう。ニキに読んであげて、パピもお気に入りの本だよ。アヒルちゃんの大冒険」
「それとも、パピと…」
「だあぁぁ!パピパピうるせぇ!」
「聴いたかねアキラくん!ニキがパピと呼んでくれたよ!」
「うんうん!よかったね、おとぉーちゃん!」
クールがアキラの背後から消えていた。しゃがみこんで身体中を震わせていた。
ダーン!
ニコラスは思い通りにならないことやイライラが募ると激しく足元を踏み鳴らす。その激しいバージョンは床を破壊しそうな雰囲気だった。破壊はされなかったが。
アキラも経験したことがないようなニコラスの説教がそれから一時間続いた。




