第5話:遠征の兆候
日暮れ時、鍛錬場の熱気が引いたあとの会議室には、重苦しい沈黙が漂っていた。
部屋の奥、上座の椅子に腰掛けているのは頭領――祖父だ。大柄な体躯は病に侵され痩せてはいるものの、その眼光の尖り具合は全盛期の猛者そのものだった。
卓上には、一枚の皮羊紙が広げられている。
グランヴェール王国軍からの書状。表向きは友好の打診だが、その実質は「黒嶺の断崖周辺における大型魔物の討伐要請」――裏にあるのは里の戦力を削り、都合よく利用せんとする罠だった。
「……なるほど。王国の犬どもが、調子のいいことを抜かしているわけか」
腕組みをした長男アルスが、吐き捨てるように低く呟いた。
隣に立つ次男ルシアンが眼鏡の奥の目を細め、書状の端に記された印章を指でなぞる。
「討伐の対象は、断崖最深部に巣喰う『災厄級』の個体群。要求されている期日も極めて短い。応じなければ『王国の領空および周辺の安全を脅かす潜在的脅威』として、交易制限を課すという含みを持たせていますね」
ルシアンの淡々とした解説に、アルスは不快感を隠そうともせず鼻を鳴らした。
「脅迫のつもりか。断崖の魔物を叩くのは我らの日常だ。だが、王国の都合で命を張る筋合いはない」
「ですがアルス兄さん、断絶を選べば里の補給線が途絶えます。鉱石や特殊素材の流出先を失えば、黒嶺の自給体制は半年と持ちません。これは明確な踏み絵です。彼らは我々が引けないことを理解した上で、この書状を寄こしている」
知的な冷徹さを孕んだルシアンの指摘。対照的な二人の兄のやり取りを、壁際に佇むレナが鋭い眼光で見つめていた。その手は腰の柄に置かれ、いつでも跳びかかれるよう全身の筋肉が収縮している。
「受けるしかないなら、私が先陣を切る。王国の兵どもに、黒嶺の武の威光を刻み込んでやるまでだ」
レナの語気には一切の迷いがない。溢れ出る戦意が狭い室内を満たしていく。
だが、部屋の最も暗い隅、影に溶け込むように立っていたイグニスだけは、兄たちの議論にもレナの威勢にも加わらなかった。
垂れ目をさらに細め、卓上の書状ではなく、その書状が置かれた羊皮紙の「質」と「インクの匂い」に意識を向けている。
(羊皮紙の厚みが不自然だ。王国の正規軍が使う官給品にしては硬すぎる。それに、インクに混ぜられた微量の防腐塗料……これは王都の軍部ではなく、辺境の暗部工作部隊が好む調合だ)
イグニスは脳内で静かに情報を組み上げていた。
これは単なる「戦力の削り取り」ではない。里の主力――すなわちアルスやルシアン、レナといった突出した戦力を遠征へと誘い出し、手薄になった黒嶺の本陣を外部から、あるいは内部から揺さぶるための二段構えの罠だ。
視線を卓上から少し上げると、上座の祖父と目が合った。
病身の老兵は、喋ることもなくただ黙して孫たちの顔を見分している。そして、隅で無言を貫くイグニスの視線が何を見抜いているか、瞬時に察知したかのように、わずかに眉を動かした。
「……イグニス」
掠れた、しかし重低音の通る声が祖父の口から漏れた。
会議室の視線が一斉に、壁際の影へと集まる。
「お前はどう見る」
アルスが侮蔑と不快感を混ぜた視線を向け、レナが不審そうに眉をひそめる。
イグニスはあえて姿勢を崩し、いつもの不真面目なヘラヘラとした笑みを浮かべた。
「俺に振らないでよ、じいさん。アルス兄さんが叩き潰して、ルシアン兄さんが計算通りに片付けてくれれば、俺は裏方で荷物運びでもしてるよ」
「……相変わらずの腰抜けめ」
アルスが吐き捨てて興を削がれたように視線を外した。ルシアンも呆れたように眼鏡のフレームを押し上げる。
だが、祖父だけは笑わなかった。
老頭領の鋭い眼光は、イグニスの緩み切った表情の奥――その瞳の深淵にある冷酷な計算を正確に捉えていた。
「遠征の準備を進めよ。長男アルスを全軍の将とし、次男ルシアンを参謀とする。レナ、お前は先鋒を務めよ」
「はっ!」
祖父の厳格な命令が下る。全員が頭を下げ、覚悟を固める中で、祖父は最後にイグニスへ視線を落とした。
「イグニス。お前は予備戦力として後方補給および雑務を担え。……一匹の虫も漏らさず、荷を改めよ」
「……了解、頭領」
その言葉の意味を、他の誰も深読みしなかった。
「荷を改めよ」――それは裏裏の暗号であり、潜入者や仕掛けられた罠を陰から排除しろという、密かな命だった。
会議が終わり、兄たちとレナが士気を高めながら退出していく。
イグニスは最後に部屋を出る直前、一度だけ振り返った。上座でひとり佇む祖父の姿は、遠くない未来に訪れる破滅と、己の過去が引き寄せた因果の影を静かに背負っているように見えた。
夜の風が断崖を吹き抜ける。
血と毒と、そして裏切りの匂いが、暗闇の奥から確実に漂い始めていた。




