第2話:潜伏地と蹴撃
黒嶺の里の南端、断崖を降りて数十メートルほど下った岩の割れ目に、イグニスだけの「潜伏地」があった。
風が吹き抜け、湿った苔の匂いが充満するわずか二畳ほどの洞穴。頭上を覆う岩棚が直射日光と周囲の視線を完全に遮っている。
イグニスは壁面に背を預け、膝の上に広げた乾燥薬草の袋を手際よく整理していた。
剛角熊から削り取った胆嚢と魔導組織は、今朝一番で里の換金所に流してきた。これで数ヶ月分の毒の原料と、靴の仕込み針を購入するだけの金になる。
本日の予定は終了だ。兄たちが訓練場で行っている武芸の立ち合いに顔を出す気など毛頭ない。ここで日暮れまで眠り、体を休めるのが最も効率的な時間の使い方だった。
目を閉じ、呼吸を落とした、その瞬間。
頭上から砂利がパラパラと落ちてきた。
空気を割る鋭い風切り音。イグニスは思考より先に身体を横へ滑らせた。
直後、イグニスが頭を置いていた岩肌に、鉄芯の入った革靴の踵が深く突き刺さる。
破壊音とともに岩片が飛び散った。
「またこんなところで濡れ鼠みたいに縮こまってやがるな、イグニス」
舞い上がる土煙の向こうから、低い声が響いた。
赤髪を一つに束ねた少女――レナが、突き立てた脚を引き抜きながら立っていた。
高身長で引き締まった体躯。タイトな魔導レザーの防具は、激しい跳躍によって張った腰周りと、圧倒的な太ももの肉感をそのまま浮き彫りにしている。
イグニスは壁に背をつけたまま、垂れ目をさらに細めて見上げた。
「……よくここが分かったな、レナ」
「四日も里を空けて帰ってきたと思えば、訓練にも出ず姿を消す。お前の考えそうなことくらい、足跡を追えば一発だ」
レナは一歩踏み出し、イグニスの胸元を掴み上げようと手を伸ばした。
イグニスは抵抗せず、掴まれるがまま身体の力を抜く。正面から力で争えば、骨を折られるのはこちらだ。
「アルス様もルシアン様も、遠征に備えて鍛錬を重ねているっていうのに……お前はいつもそうだ。ヘラヘラと雑用ばかりして、そうやって陰に隠れて一日を潰す。その腰抜けなタレ目を見ているだけでイラつくんだよ」
吐き捨てるレナの距離が近い。
イグニスは掴まれた衣類の感触を覚えながら、無意識に観察していた。
先ほどの一蹴りの踏み込み。太ももから腰、そしてデカい骨盤へと連動する筋力の走り。手加減なしなら、人の首など一撃で跳ね飛ぶ破壊力だ。肉体としての完成度が異次元すぎる。
「俺みたいな無能が訓練場に行っても、兄さんたちの足手まといになるだけだよ」
「口だけは達者だな」
レナの眉が吊り上がる。
彼女は掴んでいた手を離すと同時に、イグニスの側頭部かすギリギリの壁へ、容赦のない拳を叩き込んだ。衝撃で洞穴全体が僅かに揺れる。
「言い訳はいい。立て。祖霊殿から雑用の言いつけだ。荷運びを手伝え」
「はいはい……」
イグニスは力なく立ち上がり、服についた砂塵を払った。
レナは背を向け、岩の割れ目から外へと跳躍していく。その引き締まった尻と脚のラインが、一瞬だけ陽光に照らされた。
イグニスは一度だけ息を吐き、彼女のあとに続いて潜伏地をあとにした。
命を奪うための破壊力と、それを包む肉体。観察対象としては極上だが、隣にいるだけで命の危険を感じる相手だった。




