第9話「灰の大穴」
「昇級試験の話がきています、リゲルさん」
受付でそう切り出されたのは、手紙を出した翌日だった。
「賞金首の討伐実績により、支部長権限で銅級への特例昇級が推薦されました。ただし灰級からの飛び級には、実地試験が必要です。内容は――〈灰の大穴〉第一層から第三層の踏破。試験官が同行し、索敵、戦闘、判断を審査します」
大穴。ついに、か。
賞金でまず装備を整えた。硬革の胸当てと籠手、それに短刀をもう一本。両手に一本ずつ。大剣を買うことも考えた。継いだ技が疼くのは分かっていた。だが、やめた。俺の五年は短刀の五年だ。借り物の技に、俺の命を預ける勇気はない。
試験当日の朝、大穴の入り口には先客がいた。
岩壁に穿たれた大門。その前の広場は、ちょっとした市場になっていた。素材の買い取り屋、松明と薬売り、地図屋、そして――入り口の脇の壁に貼られた、色褪せた人相書きの列。未帰還者の名前と顔。壁一面、びっしりと。
「見ておくといい。ああなりたくなければ」
声の主が、試験官だった。
鉄級の古株、名をヴァンネスというらしい。五十絡みの、右目に古傷のある男。余計なことを喋らない目をしていた。
「試験中、俺は手を貸さん。死にそうになっても貸さん。引き返す判断も採点のうちだ。……行くぞ」
◇
大穴の中は、思ったより明るかった。
岩肌のところどころに、燐光を放つ苔が張り付いている。灰白色の光。この光のせいで、迷宮全体が灰をかぶったように見える。〈灰の大穴〉の名の由来だろう。
第一層は、広い横穴の連続だった。
「魔物は湧く。どこから湧くかは、誰も知らん。素材を剥いで、地図を売って、それで街が回ってる。おまえが十日やってた薬草採取の、でかい版だと思え」
ヴァンネスの説明は簡潔で、無駄がなかった。歩きながら、俺は足元と壁を読み続けた。獣の痕跡の見方は、地下でも同じだ。糞、毛、爪痕、食い残し。風の流れだけが山と違う。穴の奥から、生き物の匂いを乗せた冷たい風が、絶えず吹き上がってくる。
最初の獲物は、第一層の奥で出た。
灰犬。犬に似た魔物の三頭の群れ。苔の光に紛れる灰色の毛皮で、岩陰から挟むように来た。
――挟ませない。
痕跡は途中から読めていた。三頭分の足跡が、わざとらしく一本道に揃っていた時点で、伏せの形は予想がつく。俺は先に岩壁を背にして、挟撃を正面の扇に変えた。
一頭目、跳びかかりの喉を短刀で迎える。二頭目、体を開いて躱しざま、腱を裂く。三頭目が怯んで下がる。
――そこで、体が勝手に踏み込んだ。
大剣の間合いだった。
継いだ技が、俺の足を、腰を、両断の型に押し込もうとする。だが俺の手にあるのは一尺半の短刀で、間合いは半歩、深すぎた。突っ込みすぎた俺の脇腹を、三頭目の爪が浅く裂く。
「っ……!」
転がって距離を取り、仕切り直して、今度は俺の型で仕留めた。
血の匂いの中で、俺は自分の両足を見下ろした。今のは、まずい。技が流れ込んでいることと、技が俺のものになっていることは、別の話だ。借り物の型は、俺の得物と噛み合っていない。翻訳が要る。大剣の「両断の理屈」から、体重の乗せ方だけを抜き出して、短刀の間合いに書き直す――そういう稽古を、これから積む必要がある。
「……妙な踏み込みだったな、今の」
ヴァンネスが、初めて審査以外の声を出した。
「大剣使いの足だ。おまえ、誰に剣を習った」
「村の狩人に。我流に近い」
「狩人ねえ」
なかなか鋭いな。試験官はそれ以上追及しなかったが、右目の古傷の下で、視線がしばらく俺の足元に残った。嘘はついていない。ただ、全部も言っていない。じいさんとの一つ目の約束は、こういう形で守っていくことになるらしい。
◇
第二層、第三層と、俺たちは下りた。
第二層は、水の層だった。
天井から染み出した水が幾筋も壁を伝い、床のあちこちに黒い水溜まりを作っている。燐光の苔は水際でひときわ明るく、水面が灰色に光って、深さを読ませない。
「水溜まりには近づくな。〈引き込み〉が棲む。腕を掴まれたら、まず助からん」
ヴァンネスの忠告より先に、俺は水際から距離を取っていた。水面に、細かい泡がひとつ、ふたつ。呼吸をする何かが、底にいる。山の沼で水蛇を狩ったときと、同じ気配だった。
「……言う前に避けたな。誰に習った、それも」
「沼の獲物は、泡と水鳥の居場所で読めと。水鳥が浮かんでない水は、腹を空かせた何かがいる水だ」
「狩人の教えか。……大穴に水鳥はいないがな」
「いないことが、答えだと思った」
ヴァンネスは短く鼻を鳴らした。笑ったのだと、少し経ってから気づいた。
道中、試験官は問いを重ねてきた。この分かれ道でどちらを選ぶか。この壁の爪痕は新しいか古いか。松明の油が残り三分の一になったら、どうするか。俺はそのたび、じいさんの言葉で答えた。山と迷宮は違う。だが、「知らない場所で生き延びる理屈」は、どうやら同じ場所から汲めるらしかった。
「おまえの答えは、教本と半分ずれてる」
第三層への下り坂で、ヴァンネスが言った。
「だが、ずれてる方の答えで死んだ奴を、俺は思い出せん。……教本ってのは、生き残った奴が後から書くもんだからな」
灰蜥蜴の群生地を迂回し、天井から落ちてくる岩殻虫を焼き、崩れかけた石橋を渡った。ヴァンネスの採点用の石板に、何かが書き込まれていく音を、俺は背中で聞いていた。
異変に気づいたのは、第三層の後半だった。
血の匂い。
それも、獣のものじゃない。人の血は、匂いが違う。
「試験官。血だ。人の。……この先」
「……ああ。俺も今、気づいた」
ヴァンネスの声が低くなった。俺たちは足を速めた。
通路が開けて、広間に出る。
そこは、戦場の跡だった。
砕けた盾。折れた槍。飛び散った荷物と、燐光の苔を黒く汚した血。そして、倒れている人間が――四人。装備からして、一つのパーティだ。壁際の一人は、上半身と下半身の向きが合っていなかった。
「〈鉄樹〉の連中だ……鉄級の、ちゃんとしたパーティだぞ。なんで第三層でこんな……」
ヴァンネスが呻いた。広間の奥、闇へ続く下り坂から、冷たい風が吹き上げてくる。何かが通った跡――岩の床に、深く抉れた三本爪の痕が、坂の奥へと続いていた。第三層の魔物の爪じゃない。もっと下の階層の、何かだ。
と。
瓦礫の山が、動いた。
「……だ、れか」
崩れた岩と盾の下から、血まみれの腕が一本、伸びていた。
「生きてるのか!?」
駆け寄って、瓦礫を退ける。大盾を被るようにして、大柄な男が埋まっていた。顔の半分が血で染まり、それでも、目だけがぎらぎらと生きていた。
男は俺の腕を、万力のような力で掴んだ。
「……仲間、は」
俺は答えられなかった。答えの代わりに広間を見回した俺の目で、男は全部を悟ったらしかった。掴む手から、力がゆっくりと抜けていく。
「そうか。……そう、か」
男の目から、涙とも血ともつかないものが流れた。
第9話更新です!
月曜日憂鬱ですが、お互い頑張りましょう~
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