第79話「埋め直す日々」
翌日から、ニラは毎日来た。
治療院の寝台の脇。決まって夕方。窓口の仕事を終えてから。手帳を、一冊ずつ抱えて。
「今日は、初めて会った日の話ね」
ニラは、椅子に座ると、事務的にそう切り出した。まるで、依頼の内容を読み上げるときのように。
「六歳の春。うちの店の前で、あなたが泥だらけで転んでた。私が笑ったの。そしたら、あなた真っ赤になって怒ってそれから私が転ぶまで、そこで待ってた」
「……待ってた?」
「待ってた。三日間。毎日、店の前の同じ場所に立ってた。私が同じところで、転ぶのを見届けるまで、帰らないって」
俺は、それを聞いた。
聞いて、頭の中に絵を描いた。泥。店先。笑う女の子。真っ赤になる六歳の俺。
何も、感じなかった。
面白い話だ、と思った。他人の、幼い日の微笑ましい話として。
「……三日目に、私わざと転んだの」ニラは、続けた。「そしたら、あなたすごく満足そうな顔をしてそれから、私を起こしてくれた。……あの日から、私たちは友達になったの」
「……そうか」
「うん。……ごめん。今の『そうか』、他人の話を聞く『そうか』だったね」
見抜かれていた。
「いいの」ニラは笑った。「最初から、そうだって分かってる。……一回で、戻るなんて思ってないから。百回でもって、言ったでしょ」
ペンが走った。
彼女は、話しながら書いていた。何を書いているのか、覗くと――『第一回。初めて会った日の話。リゲルの反応:他人の話として聞いた。「そうか」』
記録していた。
埋め直しの進捗を。
「……あんた、それも記録するのか」
「するよ」ニラは、平然と言った。「私は、記録係だもの。……どの話をしたか。あなたが、どう反応したか。全部書く。そうすれば、どの話があなたの中に届きやすいか、分かってくる。……効率よく、やらなきゃ。私の人生、そんなに長くないんだから」
事務的な口調だった。
事務的な口調で、この人は途方もないことを言っていた。
◇
その、埋め直しの日々は奇妙なものだった。
ニラは、毎日一つずつ話をした。順番は、ばらばらだった。幼い日のことも、ここ最近のことも。順番より、俺の反応を見て、次の話を選んでいるようだった。
星祭りの夜の話。
二人で、屋台を回ったこと。焼き林檎。語り部の伝承。丘から見た街の灯り。
「私、その日濃紺の外出着を、着てたの。髪も結い上げて。……ちょっと、緊張してた」
「……あんたが?」
「私だって、緊張くらい、するよ」ニラは、少し拗ねたように言った。「あなたに、何て言われるか、心配で。……そしたら、あなたしばらく黙ってそれから『似合ってる』って、一言だけ」
その言葉に。
胸の、深いところが微かに疼いた。
「……今、なにか、あった?」
ニラが、目ざとく身を乗り出した。
「……いや。分からない。ただ、少し」
「少し?」
「……胸の、この辺が。疼いた気がした」
ニラは、慌てて、ペンを走らせた。手が震えていた。
『第七回。星祭りの夜、「似合ってる」の場面。リゲル、胸の疼きを自覚。――届いた。届いたかもしれない』
その字は、いつもの几帳面さを失っていた。
◇
だが、話は届く方が少なかった。
焼き林檎の話。丘の話。手帳の話。二人で交わした、無数の言葉。ニラが話すたび俺はそれを聞いて、頷いて――何も感じなかった。
事実は、増えていく。
だが、感情は戻らない。
まるで、他人の日記を、読み聞かされているようだった。よくできた、心温まる他人の物語を。
妙なことも、あった。
ニラが、帰った後。俺の体が、勝手に動くのだ。
卓の上の、湯呑みを二つ、並べていた。無意識に。一つは、俺の。もう一つは――誰のだ。
廊下に、足音がすると、体がそちらを向いた。ニラの、足音を聞き分けているのだと、遅れて気づいた。何百回、この足音を待った体なのか。
体は覚えている。
心だけが抜けている。
それが、一番怖かった。俺の中に、ニラを待ち続けている「体」がまだ住んでいる。そいつは今も、彼女の足音を聞き分けて、湯呑みを二つ出す。
そいつは、誰なんだ。
そいつこそが、本当の俺じゃないのか。
なら、今ここで何も感じずに、話を聞いているこの俺は。
十日ほど経った、ある夕方。
話し終えたニラが、手帳を閉じて、しばらく黙っていた。
「……なあ」と、俺は言った。「辛くないのか」
「え?」
「毎日、俺に二人の思い出を話して。……俺が、何も感じないのを見て。……それは、辛くないのか」
ニラは、答えなかった。
答えずに、窓の外を見た。春の、夕暮れが街を染めていた。
「……辛いよ」
やがて、彼女は言った。
「すごく、辛い。……毎日、あなたに恋を告白してるみたいなものだから。それも、断られるのが分かってる告白を。……毎日」
その言葉の、重さに。
俺は、返す言葉を持たなかった。
「でもね、リゲル」ニラはこちらを向いた。目は、赤かったが笑っていた。「あなたは、もっと、辛いはずでしょう。……大事なはずのものが、大事だって、分からない。それって、たぶん忘れるよりずっと、怖い。名前も、顔も、覚えてるのに、心だけが抜けてる。……そんな体で、あなたは毎日私の話を聞いてくれてる。逃げずに」
逃げずに。
「あなたが、逃げないなら。私も逃げない。……ずるいのは、どっちも同じ」
ニラは、手帳を抱え直した。
「じゃあ、明日はコッツくんに串を奢った日の話をするね。あれ、いい話なの。あなた、自分では覚えてないでしょうけど」
そう言って、彼女は帰っていった。
いつもの、几帳面な足取りで。背筋を伸ばして。
その背中が、廊下の角を曲がるまで。
俺は、目を離せなかった。
なぜ、目が離せないのかも、分からないまま。
◇
その夜、俺はいつもの名前を唱えた。
母。父。じいさん。ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。ドッズ。
そして、ニラ。
名前は、出てくる。顔も。今日何を話したかも。
だが、その名前を唱えるとき。
昔は、何を感じていたのだろう。
思い出せない。思い出せないことを、思い出そうとして、俺はまた白い場所に行き当たる。
ふと、俺は寝台の脇の卓を見た。
そこに、ニラが置いていったものがあった。
焼き林檎が、一つ。
添えられた、小さな紙片には几帳面な字で、こう書かれていた。
『二人で食え、って。……ドルクおじさんの、口癖です。今日は、一人で食べてください。明日は二人で』
俺は、それを手に取った。
まだ、少し温かかった。
かじると、甘くて少し酸っぱかった。
味は、分かった。うまい、とも思った。
だが、それだけだった。
それだけ、なのに。
なぜか、俺の頬を水が伝っていた。
拭っても、拭っても、止まらなかった。
なぜ、泣いているのか。
その理由だけが、どこにもなかった。




