第78話「一番最後に」
目を覚ましたのは、三日後の朝だった。
ギルドの、治療院。窓から春の光が差し込んでいた。体中が痛んだ。だが、痛みがあるということは、生きている、ということだった。
「――兄貴! 起きた! 兄貴が、起きた!」
コッツの、涙声。ガロの大きな手が、俺の肩を、乱暴に叩いた。
街は無事だった。死者は三十一人。それだけの、犠牲で星辰の獣を退けた。大陸の記録の上でも、稀な、戦果だという。ヴェイユがそう記録した。
「あなたが、核を、断ちました」と、審問官は、寝台の脇で静かに言った。「――継がずに断った。……なぜです」
「継ぎたく、なかった」と俺は答えた。
それは、この女に明かしすぎる答えだった。だが、あの瞬間、俺が何を選んだかを、記録に残しておきたかった。
ヴェイユは、しばらく俺を見て。
それから、何も書かずに立ち上がった。
「……この会話は記録しません」
「なぜ」
「私にも、分からない」
灰色の背中が、部屋を出ていった。
◇
見舞いは、途切れなかった。
青麦のピノが、泣きながら来た。オルガ婆が、薬草を届けに来た。ザッハが、無言で酒を置いていった。街の、名も知らない人々が、ひっきりなしに礼を言いに来た。
その、賑わいの合間に。
俺は、いつもの、確認をしていた。
名前を唱える。
母。セラ。父。ドルク。飴を、二つ買う人。じいさん。ベテル。ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。ドッズ。
そして。
ニラ。
ちゃんと、出てくる。
名前も。顔も。ギルドの窓口の、几帳面な手つきも。手帳を、抱えている姿も。全部、そこにある。
何も、消えていない。
継がなかったからだ、と、俺は思った。核を、断って澱を受け取らなかったから。代償もなかった。
そう、思っていた。
◇
ニラが、見舞いに来たのは、五日目だった。
忙しかったのだ。ギルドの窓口は、戦後の処理で、地獄のような有様だった。死者の名簿。遺族への通知。負傷者の手当ての記録。街の、失われた三十一人分の、名前と、その後始末。
全部を、ニラは、一人で抱えていた。
だから、五日来られなかった。
やっと、来た彼女は、疲れ切った顔で、それでも笑った。
「……生きてた」
「ああ」
「よかった」
ニラは、寝台の脇の、椅子に座った。座って手帳を開いた。いつものように。俺が話し、彼女が書く。二人の頭に、残すための、いつもの時間。
「話して」と、ニラは、言った。「戦いのこと。ぜんぶ。……忘れないうちに」
俺は、話し始めた。
スピカの白い光。核の脈打ち。ガロの、盾の列。コッツの、落石。そして核が囁いた言葉。受け取ってほしい、と。
ニラの、ペンが走る。
走って――止まった。
「……最後に、なんて言ったの」
「『俺の器には、もう、入れておきたいものが、いっぱいなんだ』って」
ニラの、目が潤んだ。
「……何が、いっぱいだったの」
俺は、答えようとした。
決まっている。あの瞬間、俺の頭に、あったのは。継いだら消えるかもしれない、大事なもの。母。父。じいさん。隊の、みんな。そして――
そして。
何かが。
一番、大事な、何かが。
あの瞬間、俺の背中を押した何かが。
出てこない。
「……リゲル?」
出て、こない。
名前は分かる。ニラだ。今、目の前にいる、こいつだ。名前も顔も消えていない。ギルドの受付嬢で、幼馴染で、俺の記憶を、書き留めてくれている、大事な――。
大事な何だ?
なぜ、大事なんだ?
手を、伸ばすように、記憶を探った。
探って――底が、抜けていることに、気づいた。
◇
星祭りの夜。
その言葉は覚えている。街の、祭りだ。冬の巨人を祀る。語り部が伝承を語った。三ツ星は忘れぬために、結んだ紐。
では、その夜。
俺は、誰といた。
……ニラと。
ニラと、いた。それは、知識としてある。彼女が、誘ってくれた。二人で屋台を回った。
だが。
何を食べた。
何を話した。
ニラは、どんな、服を着ていた。どんな顔で笑った。あの夜、彼女は俺に何かを言ったはずだ。大事な、何かを。丘の上で。星を見上げて。
白い。
何もない。
星祭りの夜、という「見出し」だけが、そこにあって。中身が、まるごと抜けている。
焼き林檎。
その言葉も、出てくる。留守を守った日、ニラが買ってくれた。「二人で食え」と。父の、口癖ごと。
だが――どんな味が、した?
あのとき、俺の胸の、どこが、あたたかくなった?
分からない。
何も、分からない。
丘。村の、見送りの丘。ニラと、幼い頃、何か約束を。……いや、それは、元から思い出せなかった。だが、その「思い出せない」ことを、二人で話した夜が、あったはずだ。あの星祭りの丘で。
全部。
ニラと、俺の、二人の間にあったもの。
積み上げてきた、時間の全部が。
名前と、顔と、事実だけを残して。
中身が、抜けていた。
◇
「――リゲル。どうしたの」
ニラの、声が、遠かった。
俺は、自分の掌を見ていた。震えていた。
「……ニラ」
「うん」
「あんたと、俺は」
言葉が、出なかった。喉が、塞がっていた。
「あんたと、俺は……幼馴染だ。村から、一緒に来た。あんたは、俺の記憶を書いてくれてる。……それは、分かる。全部知ってる」
「うん」
「でも」
俺は、顔を上げた。
ニラの、顔を見た。
見て――何も、感じなかった。
いや。感じない、のでは、ない。
感じるべき、何かがあるはずの場所が。ぽっかりと空いている。この人を、見たとき、俺の胸には、何かが、灯るはずだった。何かが、痛むはずだった。焼き林檎の、温かさが蘇るはずだった。
それが、ない。
名前を呼べる。顔が、分かる。何をしてくれたか、知っている。
だが。
なぜ、この人が、俺にとって特別なのかが。
分から、ない。
「……あんたが、俺にとって、何なのか」
声が、掠れた。
「分からないんだ。……大事なはずだ。一番、大事だったはずだ。そう、知ってる。頭では。でも――」
でも、その「大事」の、中身が。
どこにも、ない。
◇
ニラは、動かなかった。
手帳を、握ったまま。ペンを、持ったまま。
その、大きく見開かれた目から。
涙が、こぼれた。
一粒。二粒。次から次へと。声も、上げずに。
それから、彼女は、笑った。
泣きながら、笑った。それは、俺が、生涯で見た、どんな表情より、綺麗で、どんな表情より、壊れそうだった。
「……そっか」
ニラは、言った。
「そっか。……そう、なっちゃったか」
「ニラ」
「聞かないで。何も言わないで。……今、私が崩れたら、あなたが、もっと苦しむから。……ちょっとだけ、待って」
ニラは、深く、息を吸った。
吸って吐いた。二度。三度。涙は止まらなかった。それでも、彼女は、震える手で、手帳を開いた。
一冊目。
リゲルのことだけを、書く、帳面。
その、一番、古い頁を。
「……ねえ、リゲル。私、あなたに、話してないことが、一つあるの」
ニラは、頁を俺に見せた。
幼い日の、記録では、なかった。もっと、後の。二年近く前の日付。
初雪の日。
『初雪。リゲル、村の冬を失くす。お母さんの編んだ冬着は、袖がぴったりだった。
――神様。この人から次に何かを取るなら、どうか、私のことは一番最後にしてください』
神様。
この人から、次に、何かを取るなら。
どうか、私のことは。
一番、最後に。
「……ずっと、隠してた」ニラは、涙を、拭いもせずに、言った。「恥ずかしくて。……身勝手だから。あなたが、お母さんの顔を、村の冬を、失くしてるのに。私は、自分だけは、最後にしてくださいって、お祈りしてたの。……ずるいでしょう」
俺は、その、一行を見つめていた。
二年前の、彼女の祈り。
そして、今。
祈りは。
聞き届け、られなかった。
一番、最後にはならなかった。父の次に。彼女が来た。
「……ごめん」
気づけば、俺は、そう言っていた。何に対しての、謝罪なのか、自分でも、分からなかった。ただ、それしか、言えなかった。
「謝らないで」
ニラは、首を、振った。
振って、それから、涙を、乱暴に袖で拭って。
顔を、上げた。
その目は、まだ濡れていた。だが、その奥に、俺の知っている、あの、頑固な几帳面な光が戻っていた。
「……いいよ、リゲル。大丈夫。何にも、大丈夫」
ニラは、手帳を開き直した。両手で持って俺に向けた。
「だって、ぜんぶ、ここにあるから」
頁が、めくられていく。
星祭りの夜。焼き林檎。丘から見た、街の灯り。二人で食べたもの。話したこと。ニラが着ていた、濃紺の外出着。耳元の、星形の耳飾り。
全部。
全部、書いてあった。
二年分。三年分。彼女が、几帳面な字で、書き溜めてきた、俺と、彼女の記録の全部が。
「言ったでしょう」
ニラの、声が震えた。震えながら、それでも、まっすぐ通った。
「消えた後の記憶は、私が埋め直す。百回でも、二百回でも。……そう、約束した。あのとき、まさか、自分のことになるとは、思ってなかったけど。……でも、約束は、約束だから」
彼女は、笑った。
泣きながら。
世界で、一番、強い顔で。
「これから、私、あなたに、私のことを、話すね。毎日。……初めて会った日のこと。丘で、手を振ったこと。星祭りの夜、あなたが『似合ってる』って言ってくれたこと。焼き林檎の味。……ぜんぶ、覚えてるから。私が、覚えてるから」
だから。
「――だから、リゲル。もう一回、私を、好きになって」
その言葉が、部屋に落ちた。
俺は、答えられなかった。
答えられないまま、ただ、この人の、握りしめられた手帳と、涙に濡れた顔を、見ていた。
胸の、どこかが。
名前も、理由も、思い出せない、胸の、どこか深い場所が。
灼けるように、痛んだ。




