第75話「街の選択」
スピカは、第四層で動きを止めていた。
三日。四日。五日。
上がってもこない。逃げてもいかない。ただ、第四層の、ある一点に留まり白い光を脈打たせている。まるで、この街の真下で、何かを探し当てようとするように。
その、不気味な猶予の間に。
街は割れた。
◇
三つの、意見があった。
一つ。逃げる。街を捨てて、スピカが、地上に出る前に、住民を避難させる。
だが、これはすぐに行き詰まった。ヴェルデは、大穴で食う街だ。逃げれば、生きる糧を失う。それに、行商の話では、大陸の他の街も、〈星辰の獣〉の噂で揺れているという。逃げた先に、安全がある保証は、どこにもなかった。
二つ。組合に頼る。バルドー商会の、財力と、抱える探索隊の戦力でスピカに、当たる。組合は、そう囁いた。「独立独歩の限界です。こういうときこそ、大きな傘の下へ」――遺構のときと、同じ囁きだった。
三つ。街の、全戦力を結集して、迎え撃つ。灰の同盟。組合。ギルド。審問局。全部の、垣根を、越えて。
この、三つ目を、押したのが――〈鉄樹〉だった。
「――逃げても、いつか、追いつかれる」
街の緊急の合議の場で、俺は、立って言った。灰の同盟の代表として。
「スピカは、器を探してる。街を、捨てても、器が逃げれば追ってくる。器が留まれば、街に来る。……なら、逃げるのは答えじゃない。組合の傘の下も、答えじゃない。あれは、金貨で買える災いじゃない。……戦うしかない。全員で」
「全員でだと?」組合の、代表が鼻で笑った。「独立系の寄せ集めと、我々の精鋭を同じ隊列に、並べろと? 崩れるのが落ちだ」
「並べる」と、俺は言った。「崩落の遺構で、俺は、それをやった。商会の隊とうちの隊を、同じ号令で動かした。敵味方が、混ざっても生き残るという、一点で揃えば隊列は組める。……あんたのところの、ザッハに訊いてみろ。あの日、誰の声で生き延びたか」
組合の、代表が言葉に詰まった。
その、沈黙を、破ったのは、意外な声だった。
「――〈鉄樹〉の言う通りだ」
審問官ヴェイユだった。
灰色の外套の女が、合議の隅から静かに立ち上がった。
「星辰の獣は、教会の管轄です。本来なら、審問局が、単独でこれに当たる。……ですが、正直に申し上げます。スピカ級の獣は、審問局の手にも余る。過去、これを退けた記録は、大陸全土で、数えるほど。……そのどれもが、街の全戦力を、結集したときでした」
女は俺を一瞥した。感情の読めない目で。
「私は、記録を信じます。記録が示す、勝ち筋を。……〈鉄樹〉の策に、審問局は協力しましょう」
敵かもしれない女の、思わぬ加勢だった。
◇
街は、戦支度を始めた。
大穴の、入り口が要塞化された。組合の、財と同盟の人手で。第四層から、地上へ至る、道の要所要所に、防衛線が引かれた。狭隘部を選び罠を仕掛け、火計の備えをする。狩人の、間引きの、思想を街の、規模に広げた策だった。
その、縄張りの、設計を任されたのは俺だった。
眷属級を、階層主を、落とし仔を狩った経験。西の空白の、地図。二年分の、記録。それが街の防衛線の、設計図になった。
コッツは、罠の総指揮を執った。街中の、器用な連中を集めて、落とし穴と、鳴子と火計の仕掛けを、大穴の道に張り巡らせる。スラム育ちの、少年が、今や街の命綱の一つを、握っていた。
そして――井戸番の、ガロが戻ってきた。
「……盾を貸せ、と言われてな」
大男は、照れ臭そうに、言った。集会所に、預けていた、あの盾を背負って。
「防衛線にゃ、盾使いが要る。……正面に向ける資格は、まだねえ。だが、後ろの避難民を守るために、背中を、向けて立つ盾なら。……」
後ろの、避難民に、背を向けて。前の獣に盾を向ける。
それは、ガロの、新しい盾の向きだった。
「……戻ってきたのか」と、俺は言った。
「臨時だ。臨時。……戦が終わったら、また、井戸に戻る。……だが、今は」ガロは、盾を握り直した。「今は、隊長代行の指示に従う。……なあ、リゲル。俺をどこに置く」
俺は、少し考えて言った。
「――最終防衛線だ。大穴の出口。避難民の、すぐ前。……街に、一番、近い場所をあんたに任せる」
それは、一番重い持ち場だった。もし、他の全ての防衛線が、破られても、そこだけは抜かせない。抜かれれば、街が終わる。
その、最後の壁を、俺は、盾を手放した男に託した。
ガロは、しばらく俺を見て。それから笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「……ありがとよ。リゲル。……その持ち場、命に代えても守る」
◇
支度が整っていく。
だが、俺の胸の底の、不安は消えなかった。
ミレアが、いない。リディアへ発ったきり、まだ帰らない。ヴァンネスも共に。隊の治療の要と、老練の戦力が、この、決戦の場にいない。
そして、何より。
この、防衛戦の、勝ち筋の核心には――俺が、スピカと、直接対峙し、これを討つ、という一点があった。
討てば。継ぐ。
星辰の獣を。星の力の澱を。人ひとりどころではない、途方もない何かを。
継いだら――俺は、何を失うのか。
その問いに、答えのないまま。
決戦の、朝は近づいていた。
◇
決戦の、前夜。
俺は、ニラに話しに行った。強い敵とやる前は、教える。もう、何十回も、繰り返してきた約束だ。
だが、その夜の、俺の話はいつもと違った。
「……全部、話しておきたい」と、俺は言った。「俺の中にしかない記憶を、今夜ぜんぶ。……明日、何が起きるか、分からないから」
ニラは、何も言わずに、手帳を開いた。二冊目も、一冊目も両方。
俺は、話した。思い出せる限りの、全部を。村の夏祭りの、笛の音。じいさんの小屋の、囲炉裏の匂い。初めて、コッツに串を奢った日のこと。ミレアの、初めての憎まれ口。ガロの、塩汁の濃さ。星祭りの夜の焼き林檎。……ニラと、丘で見た街の灯り。
ニラは、書いた。書いて、時々、頷いて、時々、笑って、時々、少し、泣いた。
夜が更けるまで。俺たちは、記憶を、二人の頭に移し替え続けた。まるで、片方がいなくなる、その日の、支度をするように。
どちらが、いなくなるのかは。
まだ、どちらにも、分からなかった。




