第74話「スピカ」
それが、第四層まで上がってきたのは、ミレアがリディアへ発って、十二日目のことだった。
最初に、遭遇したのは、俺たちではなかった。
組合の専属探索隊だ。第四層の警戒に、当たっていた、商会傘下の精鋭。銀級の隊が二つ。深層の異変を、確かめに潜っていた。
帰ってきたのは、三人だった。
十人のうちの、三人。それも、一人は、正気を失っていた。
「……ひ、光が」
生き残りの一人は、ギルドの、治療院の寝台で、うわ言のように繰り返した。
「白い光の槍だ。……見えなかった。速すぎて。仲間が順番に……声を上げる、暇もなく……串刺しに……」
白い光の槍。
その証言を、俺は、ニラと、審問局の書記の、二人が記録するのを、傍らで聞いていた。
「魔物の、姿は」と、審問官ヴェイユが、静かに、訊いた。「見たのですか」
「見た……いや、見えなかった。ただ、白い。全身が、白く光ってて。……星みたいだった。地の底に、星が降りてきたみたいに」
星。
その言葉に、審問局の書記の、ペンが止まった。ヴェイユの、静かな顔が微かに動いた。
「……〈麦の穂の乙女〉」と、彼女は呟いた。「乙女座の一等星。〈スピカ〉。……教会の、古い禁書に、その名が、ある。星の力を体現した、災厄。〈星辰の獣〉と、呼ばれるものの、一体」
◇
〈星辰の獣〉。
その言葉は、俺の、頭の奥の、継承の断片を揺さぶった。
遺構の星図。巨人の星座。そして――涸れ沢の狂戦士が、最期に見せた、暗い穴の底の記憶。あそこにも、星の印があった。
星辰教会。星視盤。星喰らい。星継。そして、星辰の獣。
全部が、「星」という、一つの言葉で、繋がっている。ばらばらだった糸が、この、白い光の槍を、中心に、一斉に、手繰り寄せられていく感覚があった。
「審問官」と、俺は訊いた。「その、スピカってのは……何なんだ。魔物なのか。それとも」
「私に、答える義務はありません」ヴェイユは、静かに遮った。「ですが……教えて、差し上げましょう。あなたが、それと、戦うことになるかもしれないから」
女は、書記を下がらせた。二人きりに、なった治療院の一室で、彼女は声を落とした。
「〈星辰の獣〉は、魔物ではありません。……あれは、星の力の澱です。この世界に、降り注ぐ星の力。人が器に受けて、〈加護〉として使うあの力。……それが、誰にも受け取られず、地の底に、溜まり、溜まって、凝って、意思を持ったもの。それが、星辰の獣」
誰にも受け取られない、星の力。地の底に溜まった澱。
こぼれた、水。
じいさんの、手紙の言葉が蘇った。器から溢れた水は、消えない。どこかに溜まっている――。
「星辰の獣は、飢えています」ヴェイユは、続けた。「自分を、受け取ってくれる、器を探して。……あれは、地の底で、二年上がってきた。何かに引かれるように。……この街に、あれを引く『器』が、あるのでしょう。よほど大きな空の器が」
女の静かな目が俺を見た。
まっすぐに。
「――心当たりは、ありませんか。リゲルさん」
俺は、答えなかった。
答えられなかった。
空の器。星辰の獣を、引き寄せる、器。それが、この街にあるとすれば――俺だ。俺の、空っぽの器が、地の底の澱を、二年かけて、この街の真下まで、手招きしていた。
スピカを、街に呼んだのは。
俺かもしれなかった。
そして、もう一つ、俺の背筋を、冷やしたことがあった。
じいさんの、五通の手紙。あの、繰り返された言葉。支度を怠るな。刃を研げ。階層主が上がってきたら、逃げるな、狩れ。……あれは、この日のことを、言っていたのではないか。二年前から。スピカが、この街に来ることを、あの人は、知っていて――俺を、そのために、鍛え続けていたのではないか。
器を育てるように。
◇
その晩、俺は、一人で、大穴の入り口に立った。
足の裏に、耳を澄ませる。
スピカの気配は、第四層に留まっていた。まだ、上がってはこない。まるで、何かを、待っているかのように。あるいは――何かを、探して迷っているかのように。
二年かけて上がってきた。
何かに引かれて。
ヴェイユの、言葉が正しいなら。あれを、引いているのは、俺だ。俺の器が。なら、俺が、この街を、離れれば。スピカは、俺を追って、街から逸れるのではないか。
街を救うために。俺が、囮になって、スピカを外へ引き出す。
その考えが、頭をよぎった、そのときだった。
「――そんなこと、考えてるでしょう」
背後から声がした。
ニラだった。閉店後の、ギルドを、抜けてきたらしい。息を切らせて。
「あなたが、街を出ればスピカも街から逸れる。自分が、囮になれば、街は助かる。……そう、考えてるでしょう。顔に書いてある」
「……ニラ」
「駄目」
ニラは、俺の前に回り込んだ。
「絶対に、駄目。……一人で、抱え込まないでって、言ったよね。信じるのと、見て見ぬふりは、違うって。……それ、あなたにも返すから。一人で、囮になって、消えようとするのは、それは、私たちを、信じてないってこと。私たちに、見て見ぬふりをさせるってこと」
「だが、俺が、いなければ、街は――」
「あなたがいなくなったら、私は!!」
ニラの声が夜に響いた。
響いて、それから、彼女は、はっと、口を押さえた。押さえた指の、隙間から震える声が漏れた。
「……あなたが、いなくなったら。私が、書いてきた、あなたの記憶は、どうなるの。誰に、話せばいいの。……私、あなたの消えたものを、ぜんぶ覚えてるのに。あなたが、いなきゃ、それは、ただの私一人の、思い出になっちゃう。……そんなの、記録じゃ、ない。ただの忘れ形見だよ」
星あかりの下で、ニラは泣いていた。
泣きながら、それでも、手には、手帳を握りしめていた。
俺の消えたものを、書き留めたあの帳面を。
「……一緒に戦って」と、ニラは言った。「囮になるなら、私も連れてって。逃げるなら、一緒に、逃げて。……一人で、いなくならないで。お願いだから」
俺は、その、握りしめられた手帳を見ていた。
そして、思った。
この人を守るために、この人から、離れる。それは、たぶん間違いだ。
だが、この人を、そばに置いて戦う。それも――もし、俺が、スピカを継ぐことになれば。
次に、消えるのが。
この人だったら。
どちらを選んでも、俺は、この人を失うかもしれなかった。
星辰の獣の、白い光が地の底で、静かに、脈打っていた。俺の器を手招きしながら。




