第72話(幕間)「記録するふたり」
※本話は、受付嬢アルニラムの視点でお送りします。
◇
異端審問局の、ヴェイユさんが、私の窓口に来たのは雨の日だった。
令状を持って、過去の適性検査記録の閲覧を求める――それが、表向きの用件だった。だけど、私には、分かった。この人の本当の用件は記録じゃない。
私を、見に来たのだ。
「あなたが、この支部の記録を一手に担っている、受付の方ですね」
ヴェイユさんは、静かに言った。灰色の外套から覗く指が、私の窓口の判の並びを、そっと撫でた。
「見事な整理です。受注、報酬、討伐記録、遺族への通知。……一つの、乱れもない。あなたは記録を、愛していますね」
褒められたはずだった。でも、背筋が冷たくなった。
この人は、記録を愛していない。記録を、道具として完璧に使いこなしている。愛と、支配は、似ている。どちらも、対象を隅々まで知ろうとするから。
「……仕事ですから」と、私は答えた。
「仕事」ヴェイユさんは、微笑んだ。「ええ、仕事です。私も同じ。記録するのが仕事です。……私たちは、似ていますね。あなたと私は」
似ていない、と思った。強く思った。
でも、口には、出せなかった。なぜなら――少しだけ本当だったから。
◇
私は、記録する。リゲルのために。
リゲルが忘れていくものを、書き留める。リゲルが目立ちすぎないように、事実だけを、選んで書く。リゲルの消えた記憶を、二人の、四人の頭に残す。
ヴェイユさんも、記録する。誰かを狩るために。
疑わしい人間の暮らしを、丸ごと、書き留める。言葉の選び方まで記録する。証拠が動かせなくなるまで、待つ。
同じ、ペンを持って。同じ、几帳面さで。私たちは、正反対の方向を向いている。
……ううん。本当は、少し羨ましいのかもしれない。ヴェイユさんが。
あの人の記録には、迷いがない。誰を狩るか。何を証拠にするか。全部はっきりしてる。組織が、あって、令状があって後ろ盾がある。堂々と、机の上で記録できる。
私の記録は、いつも、こそこそしてる。封緘書庫の、綴じ穴をこっそり調べて。三通の封筒を、隠し持って。リゲルが目立たないように、事実を選んで書いて。誰にも頼まれてない。誰も、守ってくれない。私の記録を、正しいと、保証してくれる組織なんて、どこにもない。
それでも。
私は、ヴェイユさんの側には行かない。
だって、あの人の記録は、増えるほど、誰かの逃げ場を奪っていく。私の記録は、増えるほど、リゲルの、消えたものをこの世に繋ぎ止める。
減っていくものを、増やす記録と。増えるほど、誰かを追い詰める記録。
同じペンでも。行き先が違う。
記録は、それ自体には、色がない。人を守る紐にもなるし、人を縛る鎖にもなる。色を、付けるのは、書く人間の心だ。……いつか、リゲルが言ってた。銭に色はない、色を付けるのは使う人間だって。記録も、同じなんだ。
だから、私は決めた。
ヴェイユさんが、リゲルを鎖で縛ろうとするなら。私は、その鎖の一つ手前でリゲルを紐で繋ぎ止める。同じ武器で。負けないように。
◇
その夜、私は、一冊目の手帳を開いた。
リゲルのことだけを、書く帳面。
最近の頁は、少し様子が違う。前は、「リゲル、今日も帰ってきた」って、一行で、済んでた。でも、今は、書くことが多い。
リゲルが、失ったもの。お母さんの顔。村の冬。初めての狩りの夜。そして――お父さん。ドルクおじさん。飴を二つ買う人。
消えた記憶を、私が書く。書いてリゲルに話す。何回でも。
……でも、最近、怖いことに気づいてしまった。
私は、リゲルの記憶を書ける。でも、書けるのは、私が知ってるリゲルの記憶だけ。私が見たことの、あるものだけ。リゲルの中にしかない、私の知らない記憶は――話してもらわないと書けない。
そして、リゲルは忘れていく。
いつか、リゲルが私に話す前に、忘れてしまう記憶が出てくる。私に話すことすら、忘れて、消えていく記憶が。そのとき、その記憶は、この世から、完全に消える。誰の頭にも、どの帳面にも残らないまま。
それが、怖い。
だから、私は、リゲルにいっぱい話してもらう。毎日会って。今日何を見た。何を思った。昔、何があった。ぜんぶ聞く。聞いて書く。
忘却との競争みたいだ。リゲルが忘れる速さと、私が書き留める速さの。
そして、この競争には――たぶん、終わりがない。リゲルは、これからも強くなる。強くなるたびに、忘れる。私は書き続ける。書き続けて、いつか私の方が先に。
……ううん。それは考えないでおこう。
◇
手帳の、今日の頁に私は書いた。
『審問局のヴェイユさん、窓口に来る。「私たちは似ている」と言われた。似ていない。似ていないと、証明し続けること。それが、これからの私の仕事』
それから、少し迷ってもう一行、足した。
『リゲルの記憶を書くのは、リゲルを縛るためじゃない。リゲルが、リゲルで、い続けるため。……この違いだけは、絶対に間違えない』
ペンを置いて、窓の外を見た。
雨が上がって、雲の切れ間に、星が覗いていた。
冬の巨人は、春の空の、低いところに沈みかけている。でも、三ツ星は、まだ見えた。青い星と、赤い星の間の私の星。二つを、繋ぐ真珠の紐。
繋ぐというのは。
きっと、こういうことだ。片方が、忘れても。片方が、覚えている。片方が、消えても。片方が、書いている。そうやって、二つの星を一本の紐で繋いで離さない。
星はいつか沈む。
でも紐は残る。
……残ってほしい、と、私は思った。願いに近い、記録として、その一行も、手帳の隅にそっと、そっと書き足した。
『どうか、この紐が、最後まで、切れませんように』
第72話更新です!
やっぱり幕間書いてるときが一番楽しいぜ




