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継承者は忘れていく ~才無しと蔑まれた狩人は、敵を狩るたび最強に近づき、大切な記憶をひとつずつ失っていく~  作者: あおあお


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第69話「井戸端」


声をかけたのは、俺の方からだった。


春が本格的になった、ある夕方。青麦の引率の帰り道、俺は、わざと西のスラムを通った。ずっと遠くから見るだけだった、あの井戸へ、足を向けた。


ガロは、いつものように、井戸の脇の石に腰掛けていた。子供が数人、その周りで、水遊びをしていた。大男は、桶で水を汲んでは、子供らの頭上に、雨のように撒いてやっている。悲鳴のような歓声が、上がっていた。


俺に気づくと、ガロの手が止まった。


子供らが、不思議そうに俺を見上げ、それから、蜘蛛の子を散らすように駆けていった。井戸端に二人だけが残された。


「……よお」と、ガロが言った。


「よお」と、俺は返した。


それきり、しばらく、言葉が続かなかった。井戸の滑車が、風で微かに軋んでいた。


「……水、飲むか」


ガロが、桶を差し出した。


俺は、その水を、両手で受けて飲んだ。冷たかった。地の底から汲み上げた水は、大穴の水とは違う味がした。生きている街の、水の味だった。


「うまいだろ」と、ガロが言った。「この井戸の水は、界隈で一番、うまいんだ。……俺が番するようになってから、じゃねえぞ。元からうまいんだ」


「……ああ。うまい」


それだけの、やりとりだった。


だが、その、それだけのやりとりに辿り着くまでに、俺は、二月もかかっていた。


◇


隣に腰を下ろした。


二人で井戸端に座って、暮れていく街を見ていた。


ガロの日々のことを、少しずつ聞いた。


朝は夜明け前に、井戸をさらう。落ち葉や、虫や、時には、酔っ払いが放り込んだ、瓶の欠片を、拾い上げる。昼は、水を汲みに来る者の、順番を捌く。喧嘩の仲裁もする。夕は、こうして、子供らに水を撒いてやる。夜は、集会所の隅で眠る。


「……退屈じゃ、ないのか」と、俺は、訊いた。


「退屈だよ」ガロは、笑った。「退屈で、退屈で、たまらねえ。……だがな、リゲル。退屈ってのは、贅沢なんだ。俺みてえな男には。誰も、傷つけずに、一日が、終わる。誰の、寝首もかかずに夜が来る。……その退屈を、俺は、噛みしめてるんだ。罰みてえに。飯みてえに」


罰みたいに。飯みたいに。


その言い方が、この男の、今の暮らしの全部を言い表していた。贖罪と、日々の糧が同じ、井戸の水から汲まれている。


「……盾は」と、俺は訊いた。


「置いてきた」ガロは、自分の右手を開いて閉じた。「あの、同盟の職人が打ってくれた盾な。……スラムの、集会所に預けてある。ここらは、たまに、区画同士の水争いで、物騒になるからよ。誰か、盾の使える若いのが、要るときのために」


「あんたが、使えばいい」


「……いや」


ガロは、首を振った。


「俺はもう、盾を、正面に向ける資格が、ねえんだ。……盾ってのはな、リゲル。後ろの奴を、信じて初めて、構えられるもんなんだ。俺の後ろにいる奴が、俺を信じてくれてるって、思えなきゃ、盾は上がらねえ。……俺は、後ろの奴の寝床を、売った男だ。もう、あの重さは背負えねえ」


水を撒く手なら、まだ動く。桶を引く腕なら、まだ使える。だが、盾を構える資格は――自分で、手放した。


それが、この男の、けじめの形だった。


「……ドッズを」と、俺は言った。


言うつもりは、なかった。だが口が動いていた。


「俺は、ドッズを殺した。あの、広間で。あんたの写した行程表を、掲げてた男だ。……殺して、あいつの、五年を継いだ」


ガロが、こちらを見た。


「継ぐってのは……あいつの、生きてきた時間を、全部、俺の中に取り込むってことだ。……だから、俺は知ってるんだ。あいつが、どうして、あんな男になったか。隊を失って、看板を失って、それでも、もう一度、鎖を繋ぎ直したくて……商会の手を取った。……あんたと、同じだ」


井戸端の空気が、凍った。


「あんたと、ドッズは、同じ場所から始まった。隊を、守りたかった。守るために、手を間違えた。……違ったのは、一つだけだ。あんたは、矢の雨の中で、寝返ってこっちに戻ってきた。ドッズは、戻れなかった。それだけの差だ」


「……なんで、それを俺に言う」


「恨んでないって、言うためだ」


俺は、暮れていく空を見たまま、言った。


「ずっと、言えなかった。俺の中に、ドッズがいたからだ。あんたの行程表が、巡り巡って、俺に殺させた男が。……その男の分の、言葉が見つからなくて。恨みじゃない。でも、赦すとも言えなかった。……でも、今日分かった。ドッズと、あんたが同じ場所から始まったんなら。俺が、あんたを恨まない理由も、ドッズの中に、あったんだ」


ガロは、答えなかった。


大男の、大きな背中が震えていた。井戸端の石の上で、盾を手放した男が、声を殺して泣いていた。


俺は、それ以上、何も言わずに隣に座り続けた。


かける言葉は、まだ、全部は見つからない。だが、隣に座ることはできた。信じるのと、見て見ぬふりをするのは、違う――ニラの言葉の、意味の続きが少しだけ、分かった気がした。


◇


帰り際、ガロが、俺を呼び止めた。


「……リゲル。一つ、警告がある」


声が、変わっていた。井戸番の声ではなく、十二年、隊長をやった男の声だった。


「井戸番ってのはな、街の、いろんな声が集まる場所なんだ。水を汲みに来る連中が、いろんな話を、置いてく。……最近、妙な噂を聞く」


「妙な噂?」


「教会だ。星辰教会の、異端審問局が、この街に支部を置くらしい。……今まで、ヴェルデにはなかった。辺境の、迷宮都市に、審問局が、直々に。……何かを探しに来る、って話だ」


何かを。


俺の背筋に、冷たいものが走った。


教会が、数えている「星喰らい」。リタの療養院を回る、新しい水晶。そして――審問局の、支部。


全部が、俺という一点に向かって、静かに輪を狭め始めている。そんな気がした。


「……気をつけろ」と、ガロは言った。「おまえの、あの力は。……俺は、詳しくは知らねえ。知りたくもねえ。だが、隠さなきゃならねえ力だってことは、分かる。審問局は、隠されたものを、掘り返すのが、仕事だ」


「……ああ。ありがとう」


俺は、頷いた。


かつて隊長だった男は、隊を離れてなお、隊の――俺の心配をしていた。


井戸端に置かれた、街の声を拾い集めて。動かない右腕の代わりに、耳を澄ませて。


それも、この男の、盾の構え方の一つ、なのかもしれなかった。


第69話更新です!


2回行動えらいぜ

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