第68話「五通目の手紙」
じいさんからの五通目の手紙は、春の初めに届いた。
『リゲルへ
重いものを、継いだな。
詳しくは書かん。行商の噂は、あれこれと騒がしいが、わしが聞きたいのは、噂ではない。お前の体のことだ。眠れているか。飯は、喉を通るか。手は、震えていないか。……人を獲った狩人は、獣を獲った狩人と、別の生き物になる。山でもそうだ。人を撃った猟師は、鉄砲の担ぎ方が変わる。変わったことを、恥じるな。変わらん奴の方が、壊れている。
一つだけ、言っておく。
夜、名を唱えているな。いい習慣だ。続けろ。
そして、その名簿に、獲った男の名も加えろ。
酷なことを言うと思うか。だがな、リゲル。お前が継いだのは、力だけではない。あの男の、生きた時間の全部だ。全部を引き受けた者だけが、全部を、背負って歩ける。名を呼ばずに担いだ荷は、いつか、腐って、背中からお前を蝕む。名を呼んで担いだ荷は重いだけだ。重いだけなら、お前の足腰は、耐えられる。わしが、そう鍛えた。
それと、失ったものについて。
大きかったろう。人ひとり分を継げば、出ていくのも、人ひとり分だ。何が消えたかは、訊かん。訊いても、お前が辛いだけだ。ただ、これだけは、もう一度書いておく。
消えたものは、失われたのではない。場所を変えただけだ。
こぼれた水は消えない。どこかに、溜まっている。お前の父親も、母親の顔も、村の冬も――どこかで、ひとまとめに息をしている。わしは、そう信じている。信じられる日が、お前にもいつか来る。
支度を怠るな。刃を研げ。約束を忘れるな。
ベテル
追伸。得物を替えるなら、柄は、革を二重に巻け。手汗の癖が変わっている頃だ』
◇
手紙を、いつものように、三度読んだ。
一度目。俺は、泣きそうになった。
人を獲った狩人は、別の生き物になる。変わったことを、恥じるな。――この一月、隊の誰にも言えなかったことが、そこには、書いてあった。ミレアは診てくれる。ニラは聞いてくれる。コッツは隣にいてくれる。だが、「変わってしまった俺」を、変わる前から知っていて、変わった後ごと、まるごと肯定できるのは、この世であの人だけだった。
名簿に、獲った男の名も加えろ。――俺が、誰にも言えずに、既にやっていたことを、この手紙は、正確になぞっていた。俺の弔い方を、肯定してくれる人間が、この世に一人だけいた。それが、どれほどの、救いだったか。
二度目。俺は、指が冷えた。
なぞっている。
正確、すぎるのだ。夜、名を唱えているな――「いるか」ではなく、「いるな」。確認ではなく、既知の断定。俺が名前を唱える習慣を始めたのは、三通目の手紙の教えからだ。だが、ドッズの名を加えたことは、誰にも、話していない。ニラにもだ。それを、この手紙は、「加えろ」と、先回りして、命じている。まるで、俺が既に加えたのを、見てきたかのように。
それに、追伸だ。
得物を替えるなら――。
長剣の話は、手紙に書いていない。書く前に、この手紙は届いている。手汗の癖が変わっている、という指摘に至っては、俺自身、言われて初めて、気づいた。長剣の柄を握ると、掌の、汗の出る場所が、短刀のときと違う。
三度目。俺は、便箋を持つ手を膝に下ろした。
それから、俺は、初めてすることをした。
荷の底の油紙から、これまでの手紙を、全部出したのだ。一通目から、五通目まで。卓の上に、順に、並べる。
五枚の、じいさんの字。
並べて、初めて、見えるものがあった。
日付だ。手紙には、書いた日が入っている。村からヴェルデまで、行商の足で、早くて二十日。つまり、手紙の日付は、俺の身に何かが起きた日から、二十日を、引いた日付でなければ、おかしい。
賞金首の裁定に触れた二通目。裁定の日から、届いた日まで、四十日。書いた日は、その中間より――手前だった。噂が村に届くより、早い。眷属級に触れた三通目も、同じだ。そして、この五通目。ドッズの一件から、届くまで、三十日足らず。行商の噂が、事の仔細ごと村まで駆けたにしては、あまりに、あまりに、早い。
一枚ずつ見ていたときは、気づかなかった。早いな、と思っても、行商の足が良かったのだろうと、畳んできた。だが、五枚、並ぶと。
全部が早いのだ。毎回、必ず、噂より先に。
まるで、噂を待つ必要がないかのように。
じいさんは、知っている。
噂で知れる範囲の、外側まで。俺の夜の習慣を。俺の掌の汗を。俺が、何を失ったかを。
――消えたものは、場所を変えただけだ。どこかで、ひとまとめに息をしている。
その一文が、今までとは、違う音で鳴った。慰めの音ではなく。
知っている者の音で。
こぼれた水の行き先を、知っているのか、と、俺は、二通目の返事で、訊いた。あの人は、答えなかった。答えない代わりに、手紙のたびに、同じ慰めを置いていく。消えていない。溜まっている。いつか、信じられる日が来る――。
まるで。
まるで。
◇
返事を書こうとした。
『じいさんへ。一つだけ、教えてくれ。なぜ、俺が名前を唱えていることを、知っている。なぜ、俺の失ったものが「どこかで息をしている」と、信じている、ではなく、知っている書き方をする。じいさんは、何を――』
そこまで書いて、手が止まった。
長いこと、止まったままだった。
それから、俺は、その紙を四つに畳み、さらに四つに畳んで――破った。
破った自分に驚いた。
なぜ、破った。訊けばいいだけだ。あの人は、俺の問いを、はぐらかしたことがない。……本当に、そうか? こぼれた水の行き先の問いは、はぐらかされたままだ。「確かめた」の一語も。器の話も。ならば、なぜ俺は、重ねて問うことを、こんなにも恐れている。
答えは、分かっていた。
問いの先にある答えを、恐れているのだ。じいさんが「知っている」側の人間だと、確定してしまうことを。俺に生き方をくれた、たった一人の人が、俺の知らない何かの、内側にいると、知ってしまうことを。
母の顔を失っても、父を失っても、俺には、じいさんの手紙が、あった。あの手紙だけは、疑いたくなかった。疑えば、俺の背骨が、どこにも、なくなる。
俺は、当たり障りのない返事を書いた。体は健やかだ。名は、唱えている。得物の柄には、革を二重に巻いた。隊は、三人になったが、根は、張っている――。
破った紙片は、竈で燃やした。
燃える紙を見ながら、思った。ガロが、薬の瓶を焼いた竈の火と、これは、同じ色をしている、と。
◇
二十日ののち。アーロイ村。
ベテルは、炉端で、当たり障りのない返事を読み終えた。
読み終えて、老人は、息だけで笑った。
「……訊けなんだか。まだ」
それは、落胆の声にも、安堵の声にも、聞こえた。
老人は、手紙を木箱に仕舞い、それから、炉の前で目を閉じた。
長い、長い、静寂のあと。閉じた目蓋の裏で、何かを確かめるように、老人の唇が、微かに動いた。
「――ドルクか」
誰もいない小屋に、低い声が、落ちた。
「……息子に、よう似ておる。眉の、動きが」
炉の火が、爆ぜた。
窓の外、春のまだ浅い夜空に、冬の巨人が、西へ傾き始めていた。
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