第63話「継承者は忘れていく」
地上に戻ったのは、翌日の夕暮れだった。
ガロは担架のまま、治療院へ。ミレアが付き添った。傭兵の生き残りが二人、縄付きで、衛兵へ。詮議だの、報告だの、後始末の山は、ヴァンネスが「おまえらは、休め」と、全部引き受けてくれた。老兵は、俺たちの顔を順に見て、それ以上何も訊かなかった。訊かないでいてくれることが、その夜は、何よりの薬だった。
宿に戻り、体を拭き、寝台に腰を下ろした。
そして、いつもの習慣を始めた。
名前を、唱える。
――母さん。名はセラ。目尻が下がっていて、左の頬にほくろがあって、怒ると眉だけ動く。俺の腕の長さを、指の先まで覚えている人。
――親父。
名は、ドルク。五年前、冬山で死んだ。
……。
名は、ドルク。五年前、冬山で、死んだ。
それ、だけだった。
顔が、出てこない。日に焼けた顔、と、俺はいつも唱えていた。その「日に焼けた顔」が、言葉のまま、そこにあるだけだった。中身がない。声もない。山菜採りの日の、湿った土の匂いもない。手も、背中も、叱られた日も、褒められた日も――何もない。
名は、ドルク。五年前、冬山で死んだ。
それだけが、名札のように、白い場所に、ぶら下がっていた。
俺は、寝台の上で、長いこと動けなかった。
継いだのは、人の五年。奪われたのは――俺の父親まるごと。
力の代償は、継いだものの重さに釣り合う。人ひとりの生涯を、丸ごと継いだのだ。持っていかれるのも、人ひとり丸ごとだった。
窓の外は、もう暗かった。
俺は、外套を掴んだ。
こういう夜に、行く場所を、俺は一つしか知らなかった。
◇
ニラは、寮の食堂のいつもの席で待っていた。
帰還の報せは、届いていたのだろう。卓の上には、手帳と、湯気の立つ茶が二つ。俺の顔を見て、ニラは、何かを言いかけて――やめた。代わりに、椅子を引いてくれた。
俺は座った。座って、しばらく、湯気を見ていた。
「……人を、殺した」
それが、最初に出た言葉だった。
ニラの手が、卓の上で、微かに動いた。だが、彼女は目を逸らさなかった。
「ドッズだ。……コッツを守るためだった。他に、手がなかった。あったのかもしれない。分からない。何度も、頭の中でやり直してる。だがあの一瞬には、あれしか――」
「うん」
「殺して……継いだ。あいつの五年を。全部だ。あいつが、どんなふうに、隊を作って、どんなふうに、壊れていったか。あいつの目に、俺がどう見えてたか。……全部、俺の中にいる」
「うん」
「それで……代わりに、消えた」
声が、そこで初めて揺れた。
「親父が、消えた。顔も、声も、思い出も、全部だ。名前と、死んだ年だけ残ってる。……なあ、ニラ。俺は、親父の顔を、もう、一生思い出せない。なのに、俺を森に捨てた男の、若い頃の顔は、昨日のことみたいに、思い出せるんだ。……こんなのって、あるか」
ニラは、答えなかった。
答える代わりに、席を立って、俺の隣に座り直した。そして、俺の背中に手を置いた。ミレアが、広間でしたのと、同じように。ただ、ずっと、長く。
どれくらい、そうしていたか分からない。
やがて、ニラは、手帳を引き寄せた。二冊目――村の帳面を開いた。
「……ドルクおじさんのこと、書くね。私が、覚えてること全部」
ペンが、走り始めた。
『リゲルのお父さん。ドルクさん。体が大きくて、声も大きい。笑うと、村の端まで聞こえた。うちの店に来ると、必ず飴を二つ買った。一つはリゲルに、一つは私に。「二人で食え」って。雪の日に、屋根から落ちて、腰を打ってそれでも笑ってた。リゲルが初めて弓を当てた日、村中に自慢して回って、リゲルに、すごく嫌がられてた』
頁の上に、俺の知らない父親が、立ち上がっていった。
いや――俺が知っていたはずの父親が。
「……飴を、二つ」
「そう。いっつも、二つ。……覚えてない?」
「覚えてない。……でも」
でも、その話を聞いた胸の、この場所が妙にあたたかい。
記憶は消えた。だが、記憶が刻んだものは、どこか、もっと深い場所に、根を残しているのかもしれなかった。器の底に沈んで。
「ねえ、リゲル」ニラは、ペンを置いた。「前に、決めたよね。あなたの中にしかない記憶は、消える前に、話すって。……今日から、もう一個増やそう」
「もう一個?」
「消えた後の記憶は、私が埋め直す。何回でも。……あなたが忘れるたびに、私が話す。ドルクおじさんの飴の話を、百回でも、二百回でも。覚え直せなくても、いい。聞くたびに、今みたいに、胸があったかくなるなら、それで、十分だから」
忘れていく男と、埋め直す女。
割に合わない約束だった。どう考えても、ニラの側が、払い続ける約束だ。
それなのに、こいつは、それを笑って言うのだった。
◇
ガロが、隊を抜けたいと言ったのは、三日後だった。
治療院の病室。傷は、塞がり始めていた。だが、大男は、寝台の上で深く頭を下げた。
「……全部、話す。それから、けじめを、つけさせてくれ」
話は、俺たちの推測をなぞっていた。出発の前夜、ドレンの使いが来たこと。要求は、行程表の写し、一枚。断れば、薬を止めると。薬が切れれば、腕がどうなるかは、保証しかねると。
「『接触して、交渉するだけです。荒事は、当会の流儀ではありません』……ドレンの言葉を、信じたわけじゃねえ。信じたふりをしたんだ。信じたふりをすりゃ、腕は動いたままで、誰も傷つかねえ、って算盤をよ。……卓に置くって、ミレアと約束した。その舌の根も乾かねえうちにだ」
ガロは、顔を上げなかった。
「行程表一枚で、コッツは殺されかけて、ミレアは人質に取られかけて、おまえは――人を、殺すはめになった。……俺が、殺させたようなもんだ」
「それは、違う」と、俺は言った。「殺すと決めたのは、俺だ。あんたじゃない」
「なら、こう言い直す。おまえに、その決断をさせる場所まで、隊を運んだのは俺だ」
それには、誰も反論できなかった。
「隊を抜ける。〈鉄樹〉の名は、おまえらが、継いでくれ。……俺は、しばらく、一人で頭を冷やす。同盟の下働きでも、井戸番でも何でもやる。……いつか、盾の向きだけじゃなく、目の向きも間違えねえ男に、戻れたら――そのときは」
そのときは、の先を、ガロは言わなかった。言う資格が、まだないという顔だった。
コッツは、泣いていた。泣きながら、「ばかやろう」とだけ、言った。ミレアは、何も言わずに、退院までの治療の段取りを、事務的に告げた。それが、彼女の、精一杯の「また」の言い方だった。
◇
その夜も、俺は名前を唱えた。
母さん。親父――名はドルク。飴を、いつも二つ買った人。ニラの帳面の、父さん。じいさん。ミレア。コッツ。ヴァンネス。ニラ。ガロ。
ガロの名前は、消さなかった。隊を抜けても、名前は消さない。名前が出てこない奴は、仲間を頭数だと思ってる奴だ――そう教えたのは、あの男だ。
そして、最後に、一つ。
新しい名前を足した。
ドッズ。
銅の鎖の。認識板を、陽にかざしていた男。鎖は一つ輪が切れたら全部終わると、笑っていた男。俺が殺した男。
俺の中で生きる以上、誰かが、こいつの名前も、唱えてやらなければ、ならなかった。それができるのは、世界で俺だけだった。
唱え終えて灯りを消して、俺は、暗い天井を見た。
継承者は忘れていく。
父の顔を。村の冬を。初めての狩りの夜を。これからも、たぶん、もっと、大事なものを。
それでも――今夜、覚えている名前を、俺は、一つずつ、数え続ける。
増えていく名前と、消えていく記憶の、その狭間で。
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