第62話「初めての人」
ドッズの剣は、倉庫の日より、さらに荒れていた。
いや――荒れている、というのは違う。あの日の荒れは、食い詰めた獣の荒れだった。今日のそれは、戻る場所を焼き払った男の、火の色をしていた。
一合。二合。剣風が、頬を裂く。三合目に、砂。四合目に、膝。五合目、俺の死角から、隠し持った短剣の突き。全部躱した。躱せてしまった。
六合目は、来なかった。代わりにドッズは、間合いを切って、荒い息の下から俺を睨んだ。
「……変わったな、おまえ。倉庫ん時より、また、腕を上げてやがる。……いや、違う。腕じゃねえ。目だ。おまえの目、俺の足の、先の先まで見てやがる」
男は、剣を構え直した。構えが変わった。刃を極端に低く。地摺りの喧嘩構え。俺の目が足を読むなら、足そのものを、視界の外の低さに沈める。追い詰められた男の、それでも尽きない、生き汚い知恵だった。
俺の体が、この男の剣を、覚え始めていたからだ。
岩喰らいの足裏が、踏み込みの初動を先に拾う。裂き腕の間合いの感覚が、剣の届く円を正確に描く。狂戦士の対人の勘が、フェイントの、嘘の重心を見抜く。継いできた全てが、目の前の男を、丸裸にしていく。
――終わらせられる。
何度目かの打ち合いで、それが分かった。倉庫の日と同じだ。手首を打てる。剣を毟れる。峰で落とせる。非殺の詰みまでの手順が、盤面の上に見えている。
見えているのに。
「……どうした、掃除屋ァ!! 詰めて来いよ!!」
ドッズが吠えた。吠えながら、退がった。退がった先――倒れたガロと、治療するミレアの方角へ。
俺は詰めた。詰めるしかなかった。あの男を、二人に近づけるわけにはいかない。
手首。
峰が入った。ドッズの右手から、剣が落ちる。倉庫の日と同じ形。詰みだ。あとは、首筋に峰を――
落ちた剣を、ドッズは拾わなかった。
拾う代わりに、男は空いた右手で、懐から何かを掴み出していた。掌に収まる小さな筒。筒の先が、俺ではない方角を向いた。
コッツだった。
駆け寄ってくる、少年の胸の高さ。
「――知ってるか、掃除屋。おまえの詰将棋はな、俺を殺さねえって、決めてかかってるから、読めるんだよ」
筒の中身が、何なのか。仕掛け弩か毒針か。確かめている時間はなかった。ドッズの親指が、筒の留め金にかかっていた。距離。コッツまで、七歩。俺から筒まで、一歩半。峰に返した刃を、順手に戻す時間は――ない。
ない、なら。
逆手のまま。
最短の、一撃で。
俺の右手は、考えるより先に動いていた。
短刀が、ドッズの、喉の付け根に沈んだ。
◇
筒が、乾いた音を立てて、岩床に落ちた。
留め金は、弾かれないままだった。
ドッズの目が、間近で俺を見ていた。驚愕と、それから――奇妙なことに、安堵に似た色が、その目の底をよぎった。
唇が動いた。声には、ならなかった。ただ、その形だけが読めた。
――やれる、じゃねえか。
男の体から、力が抜けた。俺は、その重さを受け止めた。受け止めるしか、なかった。
そして、それが、来た。
◇
熱でも、重さでも、痛みでも、なかった。
それは――洪水だった。
五年分の、人間の生きた時間が、堰を切って、俺の中に、雪崩れ込んできた。
若いドッズが、いた。ギルドの受付で、真新しい銅の認識板を、陽にかざしていた。仲間と、安酒で、隊の結成を祝っていた。〈銅の鎖〉。鎖ってのはな、一つ輪が切れたら、全部終わるんだ。だから、誰も切らせねえ。そういう名だ――若い声が、そう言って笑っていた。
隊がいた。負傷者がいた。抜けた仲間がいた。埋まらない頭数と、減っていく依頼と、増えていく借金がいた。危ない橋を、一つ渡った。渡れてしまった。二つ目は、もっと簡単だった。
森がいた。
トーサの、黒い森。荷馬車の上から見た、田舎者の新入り。星無し。後ろ盾なし。消えても、誰も、騒がない――俺がいた。ドッズの目で見た俺が。警戒も知らない顔で、御者台の隣に座る、間抜けな獲物が。安堵と、後ろめたさと、その後ろめたさに苛立つ心が、ドッズの胸の中で、渦を巻いていた。悪く思うなよ。世の中、こういうもんだ。俺たちだって、生きなきゃならねえ――。
受注停止がいた。空になった溜まり場が、いた。一人ずつ、去っていく足音がいた。倉庫の埃と、値札を待つ死人の持ち物と、膝をついた床の、冷たさがいた。
そして、場末の酒場の、隅の席がいた。
フードの下から、聞いていた。眷属級を獲ったらしいぜ、〈鉄樹〉が。階層主もだとよ。商会の専属を、蹴ったんだと。すげえよなあ、あの隊は――酒場中の声が、あの名前を、繰り返すたび、杯を持つ手に力がこもった。あの森で、消えるはずだった、田舎者が。俺が頭数と数えた、あの獲物が。俺の落ちた分だけ、高く、高く、昇っていく。誰か教えてくれ。どこで、入れ替わった。どこで、俺は間違えた。最初から、か。最初からなのか――。
そして、白亜の館がいた。
綿の声がいた。
――ドッズさん。あなたの目利きを、見込んでのご相談です。あの狩人を、無傷で、回収していただきたい。成功の暁には、〈銅の鎖〉の看板を、当会の後ろ盾で、もう一度、この街に掲げて差し上げましょう。
隊の、板。
それが、この男の最後まで捨てられなかった、たった一つの、火だった。金でも、復讐でもなく。もう一度、鎖の輪を繋ぎ直すこと。
最後に、感情が来た。
憎悪だと思っていた。俺への。
違った。
底にあったのは、羨望だった。焼けつくような。森に捨てた獲物が、捨てた側の自分を追い越して、失わなかったはずの全てを――仲間を、名前を、居場所を――手に入れていくのを、見上げ続けた、五年分の。
そして、その羨望のいちばん底の底に。
疲れた、というたった三文字が、沈んでいた。
◇
「――兄貴!! 兄貴!!」
コッツの声で、俺は、俺に、戻った。
膝をついていた。腕の中に、ドッズの、重さがあった。もう、誰の重さでもない、重さが。
吐き気が、来た。俺は、骸を、静かに横たえて、岩に手をつき、胃の中のものを、全部戻した。
継承のせいではなかった。
流れ込んだ力は、静かに俺の中に収まっていた。対人の剣。裏路地の顔と符丁。油断のない足運び。五年分の、使える力が。
吐いたのは、力のせいではない。
俺の中に、今、ドッズがいるからだ。ドッズの目で見た俺が、いるからだ。間抜けな獲物だった俺と、それを森に置いてきた後ろめたさと、俺を見上げ続けた羨望が――全部、俺のものとして、俺の中にいるからだ。
俺は、この男を、殺した。
殺して、この男の五年を、奪った。
あの日、倉庫で囁いた声の、言った通りに。
「リゲル」
ミレアが、そばに立っていた。ガロの止血を、コッツに引き継いで、来たらしかった。彼女は、俺の背中に手を置いた。何も、訊かなかった。ただ、静かに言った。
「……吐けるうちは、大丈夫よ。吐けるうちは、まだ、こっち側」
こっち側。
その言葉に、掴まるようにして、俺は立ち上がった。
広間には、もう敵はいなかった。傭兵たちは、頭を失って散った。残ったのは、俺たちと骸が一つ。
ガロは、ミレアの応急処置で、意識を保っていた。脇腹の傷は深いが、臓腑は外れている。地上まで、保つ。保たせる。
「……帰るぞ」と、俺は言った。自分の声が遠かった。「全員で」
全員で、という言葉が、口の中で鉄の味がした。
帰り道、殿を歩きながら、俺は、一度だけ振り返った。
広間の岩床に、俺たちが組んだ、石積みがあった。ドッズの骸を、置き去りにはできなかった。魔物に、荒らされないように、石を積んだ。積みながら、誰も口をきかなかった。
石積みの上の暗がりに、俺は頭の中で、名前を置いた。
ドッズ。
姓は知らない。歳も、らない。だが、俺は知ってしまった。銅の認識板を、陽にかざした日の、あの目の色を。鎖は、一つ輪が切れたら、全部終わる、と笑ったあの声を。
俺の中で、ドッズが、俺を見ていた。
これから、ずっと、見続けるのだろう。
それが、人を殺して、その生を継ぐということだった。
第62話更新です!
ドッズ...となっていただけたら幸いです笑
夜にもう一話更新します!!




