第61話「盾の向き」
最初に動いたのは、敵でも、俺でもなかった。
コッツだった。
「――ふざけんな」
少年の声は、低かった。低いまま、震えていた。
「ふざけんなよ、旦那。あんた、言ったよな。全員で潜って、全員で帰るって。名前が出てこねえ奴は、仲間を頭数だと思ってる奴だって。……おれたちの行程を売るってことは、おれたちの寝首を、売るってことだろうが! 姐さんの! おれの! 兄貴の、寝てる場所をよ!!」
「コッツ、俺は――」
「やれ」
ドッズの短い号令が、全てを断ち切った。
岩棚の麻痺矢が、一斉に、俺へ向かって、放たれた。
◇
世界が、狩りの速度に落ちた。
足の裏が、四本の矢の、弦音の位置を拾う。躱す。転がる。岩の陰。
矢は、俺だけを追う。回収対象は、傷物にできない。つまり矢は、俺にしか飛ばない。
なら――俺が、動き続ける限り、射手四人の目は、俺に釘付けだ。
俺は、あえて、広間の中央へ飛び出した。
遮蔽を捨てた獲物に、四つの弦が、一斉に引き絞られる。足の裏で、四人分の指の緊張を数える。放たれる、半瞬前。
俺は、跳んだ。
跳んだ先で、もう一度、跳んだ。
麻痺矢は、殺しの矢より遅い。鉤と布の分だけ、風を食う。その僅かな遅れの中を、縫って走れる。
岩棚の下。射手の死角。装填の音、四つ。装填の間、奴らは盲いる。
「ミレア! 瓶だ! 入り口の右!」
ミレアが、眠り薬の小瓶を、広間の入り口へ投げ割った。踏み込みかけた剣士たちの、先頭の二人が、白い煙を吸って、膝から頽れる。
「撒き菱!」
コッツの手から、菱が扇形に散った。突っ込んできた三人目の足が、鋲底ごと縫い止められる。その隙に、少年は、岩壁を、猿のように駆け上がっていた。射手の岩棚へ。
数は、十一対四。だが、狭い広間で、殺していい側と、殺してはいけない獲物を抱えた側では、動きの自由が、まるで違った。俺は、その不自由を削り続けた。射手の矢を誘い、外させ、装填の間に、剣士の膝を柄で潰す。
それでも、多勢は多勢だった。
コッツが岩棚の射手一人を突き落とした、その背中へ、別の射手が、弩を向けた。麻痺矢ではない。本物の、太矢だった。事故は、事故だ――ドッズの言葉の通りに。
「コッツ!!」
遠い。俺の足でも、届かない。ミレアの声も、届かない。
そのとき。
巨きな影が、少年と矢の間に割り込んだ。
鉄の音。
太矢は、鉄樹の紋のど真ん中に突き立って、止まっていた。
「――ガロ!?」
大男は、答えなかった。答える代わりに、盾を構え直し、岩棚の射手たちへ向かって、吠えた。地の底を震わせるような声だった。
「うちの、斥候に!! 触るんじゃねえええええ!!」
◇
そこからのガロは、鬼だった。
盾で矢を受け、受けたまま、岩棚の下へ、体当たりで突っ込む。棚の支えの岩を、盾の縁で砕く。射手が二人、崩れる棚ごと転げ落ちた。落ちた一人を、盾の面で叩き伏せる。
それは、贖罪の形をした、暴風だった。
十二年分の、盾の技の、全てが、そこにあった。受け、流し、潰し、庇う。傭兵の剣が、二本、三本と、盾に食いついては、弾かれていく。ガロは、一歩も、下がらなかった。下がらないどころか、隊の前へ、前へと、出続けた。まるで、これまで隊に向けていた背中の分まで、今、まとめて、正面に立ち直そうとするように。
「旦那ァ!? てめえ、どっちの味方だ!!」
ドッズの怒声に、ガロは、血を吐くように、答えた。
「決まってんだろうが!! 最初っから!! ……間違えたのは、俺だ! 俺の目だ! だがな、盾の向きだけは!! 一度も!! 間違えたことはねえんだよ!!」
盾の向き。
その言葉と、裏腹の行程表。矛盾の塊のまま、大男は、それでも、隊の前に、立った。十二年、そこに立ち続けた、その場所に。
その背に、ミレアの白い光が、飛んだ。
治療だった。矢傷の浅手を、後ろから、黙って、塞いでいた。卓の約束を破った男の背中を、それでも、彼女の術は、勘定より先に、選んでいた。値段を叫んでから走り出す、あの日と、同じ順番で。
戦況が、傾き始めた。
眠り薬で二人。菱で一人。コッツの突き落としで一人。ガロの突撃で二人。残る剣士は四人と、射手一人と、ドッズ。数の壁は、崩れた。傭兵たちの足が、目に見えて、鈍り始める。金で雇われた者の戦いは、割に合わなくなった瞬間に、終わる。
「ちっ……使えねえ雇われどもが」
ドッズが、初めて、自分の剣を抜いた。
抜いて――俺には、向かわなかった。
男は、広間の隅へ走った。そこには、眠り薬の煙を避けて後退していた、ミレアがいた。治療の手を、菱で足を潰された傭兵にすら、伸ばしかけていた、ミレアが。
「回収が駄目なら、取引だ!! 女の首と、おまえの縄と、交換――」
言い終わる前に、ガロが、間にいた。
どうやってあの距離を詰めたのか、俺にも見えなかった。ただ、大男は、ミレアの前に、盾ごと、体を割り込ませていた。
ドッズの剣が、盾の縁を滑った。
滑って――盾の、届かない場所へ、吸い込まれた。
脇腹だった。盾を支える右腕の、そのすぐ下。革鎧の、継ぎ目。剣身が、半ばまで、沈んだ。
「が……っ」
「ガロ!!」
ミレアの悲鳴と、ガロの膝が岩を打つ音と、俺が地を蹴った音が、重なった。
ドッズは、剣を引き抜き、返す刀で、膝をついたガロの首筋へ、振り上げた。
「まずは、一人。事故だ、事故――」
その手首を、俺の短刀の峰が打った。
剣が、跳ね飛ぶ。ドッズが飛び退る。俺は、ガロとミレアを背に、ドッズの正面に立った。
「……ようやく、来やがったか」
ドッズは、跳ね飛ばされた剣を拾い直した。拾いながら、嗤っていた。嗤っているのに、目だけが、嗤っていなかった。
「なあ、掃除屋。俺はな、ずっと、考えてたんだ。倉庫の日からよ。……なんで、俺は、あの日、おまえに、殺されなかったんだろうなって」
男は、剣先を、俺に向けた。
「答えが出たぜ。おまえは、俺を、見下してたんだ。殺す値打ちもねえって。……上等だよ。なら、今日、教えてやる。見下した犬に、喉笛を食い破られる味をな」
背後で、ミレアがガロの傷を、必死に押さえていた。白い光。だが、傷は、深い。コッツが、駆け寄ってくる。残った傭兵は、もう、遠巻きに、退き始めていた。
この広間に、戦う理由の残った人間は、俺と、ドッズ。二人だけだった。
俺は、短刀を握り直した。
順手から――逆手に。
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