第60話「網」
翌朝、俺は行程を捨てた。
「測量点へは、行かない。隘路も、通らない。……北の岩溝を抜けて、第五層の壁の、旧登路へ回る。遠回りだが、行程表に、一行も載ってない道だ」
誰も、反対しなかった。ガロもだ。大男は、一晩で、目に見えて口数が減っていた。
北の岩溝は、裂き腕の縄張りの、外れも外れ。天井の低い、狭い岩の裂け目が、曲がりくねって続く。待ち伏せには不向きな地形だ。網を張るには、道が細すぎ、曲がりすぎている。
だから、そこで足音を拾ったとき、俺は、自分の耳を疑った。
前方。岩溝の出口の方角。複数の、鋲底の足音。
後方。俺たちが入ってきた側。同じく複数。
挟まれていた。行程表に載っていない道で。今朝、俺が思いつきで選んだ道で。
足音を、数え直す。前方、五。後方、六。歩調が、揃っている。焦りも、乱れもない。追い立てる側の、余裕の歩速だ。しかも、前後の距離の詰め方が、対称になっている。挟撃の呼吸を、訓練で叩き込まれた者たちの、詰め方だった。
「兄貴、上は!?」
「駄目だ。溝の縁は、返しの岩庇。登れば、的になるだけだ」
岩溝の中で、俺は、頭の中の地形図を、めくった。この溝で、唯一動ける場所。天井の裂けた、中央の広間。囲まれることに、変わりはない。だが、狭い溝で前後から潰されるのと、広間で全周を警戒するのとでは、打てる手の数が、違う。
「――どういうことだよ」コッツの声が、掠れた。「なんで、こっちの道が割れてんだ。行程表にも、ねえのに」
なんで。
その答えは、一つしか、なかった。昨夜の、岩尾根の光。あれは、合図だ。俺たちの野営位置の変更が、あの光で、外へ報された。行程表という「予定」が破られたから、今度は「現在地」を、直接、報せる者がいる。
この、四人の中に。
考えを、断ち切った。今は、それどころではなかった。
「岩溝の中央、天井の裂けた広間まで走る! 挟み撃ちを受けるなら、狭い溝の中より、動ける広間だ! ガロ、先頭! コッツ、ミレア、中! 俺が殿!」
◇
広間に飛び込むのと、矢が来るのは、ほとんど同時だった。
頭上の岩棚から、三本。俺は転がって躱し、岩の陰に、隊を押し込んだ。矢を、拾って、見る。太い矢尻――ではなかった。矢尻の代わりに、丸めた布と、鉤。麻痺矢だ。それも、獲物を殺さずに搦め捕るための、狩猟用の。
「殺す気が、ない……?」とミレアが、矢を見て、眉を寄せた。
「俺を、だ」と、俺は言った。「ザッハの警告の通りだ。狙いは回収。俺を、無傷で。……あんたたちは、その限りじゃない」
岩棚の上と、広間の入り口の両側に、人影が、順に立った。
数えて、十一。革鎧に、統一の装備。顔は、布で隠している。だが、その足の運びと、得物の構えは、素人ではなかった。金で揃えた、玄人の傭兵。
そして、その真ん中に、見覚えのある男が、進み出た。
顔を隠していなかった。隠す気が、最初からないのだ。
「――よお、掃除屋」
ドッズだった。
頬の肉が、少し戻っていた。装備も、新しい。だが、目だけが、あの倉庫の日より、さらに、暗くなっていた。
「言ったろ。次に会うときまでに、半端は直しとけって。……直せたか?」
「……戻ったのか、この街に」
「呼び戻されたのさ。ありがてえ話だろ。この街で潰れた俺に、まだ、値をつけてくれる旦那がいた。……仕事は、簡単だ。おまえを、生かして連れてく。それだけだ」
ドッズは、指を、二本立てた。
「二つ、選ばせてやる。一つ。おまえが大人しく縄につく。なら、他の三人は、指一本触れずに、帰してやる。これは、旦那の指示じゃねえ。俺の温情だ。二つ。暴れる。なら――回収するのは、おまえだけだ。他の三人が、この穴の底でどうなろうと、事故は、事故だ」
コッツが、短刀を抜いた。ミレアが、杖を構えた。
「待て」と、俺は、二人を手で制した。
数える。敵、十一。麻痺矢の射手が、岩棚に四。広間の入り口に、剣が七。地形は、囲まれた広間。味方は、四人。ヴァンネスは、いない。勝ち筋は――薄い。だが、ゼロではない。天井の裂け目。岩棚の脆い縁。コッツの撒き菱。ミレアの眠り薬。数えながら、俺は、時間を稼いだ。
「一つ、教えろ、ドッズ。……どうやって、この道が分かった」
「あ?」
「北の岩溝は、今朝、俺が決めた道だ。行程表にも載ってない。なのに、あんたらは先回りしてた。……どうやってだ」
ドッズは、一瞬、きょとんとして――それから、心底、愉快そうに、嗤った。
「はっ。はははは! なんだ、おまえ。まだ、気づいてねえのか。それとも、気づいてて、俺の口から言わせてえのか?」
男は、懐から一枚の紙を出した。
折り目のついた、上等な紙。開いて、こちらへ掲げてみせる。
遠目にも分かった。行程表だった。第六層の、五日分の行程。野営の予定地。測量点。帰路。几帳面な字で、書き写された――。
その、字。
太くて、四角くて、力の入りすぎた、あの字。依頼の帳面で、隊の名簿で、何十回も見てきた。
ガロの字だった。
「――案内料は、もう貰ってる」
ドッズは、紙を、ひらりと振って、ガロを見た。
「なあ? 〈鉄樹〉の、隊長さんよ」
広間の空気が、割れた。
コッツが、ゆっくりと、首を回して、ガロを見た。ミレアも。俺も。
ガロは、動かなかった。
新しい盾を、構えたまま。鉄樹の紋を、正面に向けたまま。大男は、石になったように、動かなかった。その顔から、血の気だけが引いていった。
「ち……ちが」
声が出た。掠れて、割れた、聞いたことのない声だった。
「違うんだ。俺は……行程表を写しただけだ。接触して、話をするだけだと。誰も、傷つけないと。ドレンは、そう――」
それは、否定の言葉の形をした、完全な、自白だった。
ミレアが、目を閉じた。
一拍。たった、一拍だけ。それから、目を開けた彼女の顔からは、あらゆる感情が、拭い取られていた。教会で、寄進の順番を、読み上げていた頃の顔なのだろう、と、場違いに思った。感情を仕舞う場所を、持っている人間の顔だった。
「……卓に、置くって」
声だけが、低く漏れた。
「言ったわよね、ガロ。飴玉ひとつでも、その日のうちに、卓に置けって。あんた、呑んだわよね」
ガロの喉が、動いた。何かを言おうとして、何も出てこなかった。
「旦那ぁ」と、ドッズが、芝居がかった声で、割り込んだ。「商人の『話をするだけ』を、真に受けたのかい。……あんた、十二年もこの街で隊長やってて、それかよ」
嗤い声が、傭兵たちの間に、さざ波のように、広がった。
その嗤いの真ん中で、ガロの盾が――鉄樹の紋が、小さく、震え始めた。
第60話更新です!今日は張り切って2話更新でさあ




