第59話「主なき縄張り」
第六層は、空の玉座だった。
裂き腕という主を失った縄張りは、奇妙な、宙吊りの静けさの中にあった。主の匂いは、まだ岩肌に染みて残っている。だから、次の主の座を狙う魔物たちは、遠巻きに様子を窺っている。残り香の玉座の周りだけ、ぽっかりと、生き物の気配が薄い。
「調査としちゃ、上々の滑り出しだな」とガロが言った。「主なき縄張りの、教科書通りの姿だ。記録して、測量して五日で帰る。……何も、起きなけりゃな」
何も起きないという言葉を、この隊で口にすると、たいてい逆のことが起きる。ミレアがそう言って、コッツが笑い、張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
潜行は、二日目までは、行程表の通りに進んだ。
第五層までは、勝手知った道だ。壁を下り、第六層に入り、旧縄張りの外縁から、測量と痕跡の記録を始める。コッツが距離を測り、俺が痕跡を読み、ミレアが薬草と水場を検分し、ガロが――新しい盾を負ったガロが、隊列の先頭で、道を拓いた。
空の玉座の周りでは、次の王座を巡る、小さな戦が始まっていた。
針顎の若い個体が、縄張りの縁に、爪の標を刻んでいた。別の岩陰には、岩喰らいの小型種の、齧りかけの標。二つの標は、互いの間合いを測るように、少しずつ、玉座へにじり寄っていた。主が消えた縄張りは、一年もすれば、血で次の主を決める。その手続きの、始まりの形を、俺たちは記録していった。
「これ、ぜんぶ帳面に載るんだよな」と、コッツが、測距の縄を巻き取りながら言った。「おれの引いた線が、地図屋の地図になって、知らねえ隊の命綱になる。……悪くねえな、こういう仕事も」
少年の言う通り、それはいい仕事だった。静かで、実りのあるいい仕事のはずだった。
その盾の据わりは、悪くなかった。腕の震えもない。復帰戦としては、上出来のはずだった。
ただ、俺は、二日目の昼から、別のものを数え始めていた。
◇
最初に拾ったのは、糞だった。
いや、正確には――糞が、なかった。
岩陰の窪み。風の抜けない、砂の溜まった一角。野営に向いた地形だ。こういう場所には、小型の魔物の糞や、蟲の食い痕が必ずある。それがない。綺麗すぎる。誰かが、痕跡を埋めて均した砂の色だけが、ほんの僅かに違っていた。
掘った。
砂の下から、出てきた。埋められた、焚き火の炭。炭は、冷え切っていたが、崩れ方が新しい。三日と、経っていない。それから、堅麺麭の欠片。人間の、携行食だ。
「……先客か?」と、覗き込んだコッツが言った。「深層屋の、残りかな」
「深層屋は、焚き火を埋めない」と、俺は言った。「埋めるのは、後から来る誰かに、いたことを知られたくない奴だけだ」
それから、半日の間に、俺は同じものを、あと二つ見つけた。
埋められた野営の痕。均された足跡の名残。岩の上に残った、鋲底の靴の、ごく浅い擦れ。鋲底は、冒険者の履物ではない。傭兵の――隊列で歩く人間の、履物だ。
数は読み切れない。だが、少なくとも八。多ければ、十を超える。
そして、痕跡は全て、俺たちの行程表の、通り道に沿って、点々と、続いていた。
◇
「――待ち伏せだ」
その晩の野営で、俺は断言した。
「先回りされてる。八人から十人。何日も前から、この層に入って、俺たちの通り道に沿って、潜んでる。……行程表の通りに進めば、明日の昼、測量点の手前の隘路で、鉢合わせる」
焚き火が、爆ぜた。
「……偶然、道が被っただけって線は」とガロが言った。
「ない。三つの野営痕が、三つとも、俺たちの行程の見張りに最適な位置だった。偶然は、三度重ならない」
「なら、引き返すか」
「それも、危うい」と、俺は首を振った。「帰り道も、行程表に書いてある。待ち伏せる側なら、退路にも、網を張る。……一番まずいのは、行程表の通りに動くことだ。行きも、帰りも」
ガロの顔が、焚き火の明かりの中で、強張った。
「行程表、行程表って……おまえ、さっきから、まるで、行程表が漏れてるみてえな言い方を」
「漏れてる」
俺は、ガロの目を、まっすぐに見た。
「そう考えないと、説明がつかない。あの野営痕の位置は、俺たちの『予定』を知らなきゃ、選べない位置だ。……行程表を知ってるのは、ギルドの起案筋と、うちの四人と、ニラと、ヴァンネス。それだけだ」
沈黙が、落ちた。
ガロは、何か言いかけて、言葉を呑んだ。呑んで、それから、絞り出すように言った。
「……ギルドだろう。起案が二日で通った依頼だ。起案筋から漏れたと考えるのが、筋だ」
「ああ。それが、一番、筋だ」
俺は、頷いた。頷きながら、ガロの、膝の上の右手を見ていた。
商会の薬で動くようになった、その手が、固く握られていた。岩場の、あの日と同じ形に。
◇
野営地を、変えた。
行程表の予定地から、半里、外した岩陰へ。火は、焚かなかった。見張りは、二人ずつの二交代。俺とミレア、ガロとコッツの組にした。ガロと二人きりの見張りを、俺は、無意識に、避けていた。避けた自分に、後から、気づいた。
野営の支度の間、ガロは、一度だけ、口を開いた。
「……なあ、リゲル。予定地の方が、水場が近い。今からでも――」
「ここにする」
俺の返事に、被せる速さがあったのだろう。ガロは、それきり黙った。黙って、荷から、自分の寝具を解き始めた。その手が途中で二度止まった。何かを、決めかねている手つきだった。荷袋の、内側の隠しに、指が触れて離れた。
触れて離れた、その一瞬を、俺は見た。見て覚えた。今度は、土を被せない。ただ、問い詰めるのは、この地の底では、できなかった。四人の呼吸が揃っていなければ、生きて帰れない場所で、隊の芯を揺らすわけにはいかない。
地上に戻ったら。全部卓に載せる。
そう決め俺は、見張りに立った。
深夜、俺の番のとき。
隣で、ミレアが小声で言った。
「……ねえ。あんたの言った『漏れた先』の勘定に、入ってない可能性が、一つ、あるわよね」
「……」
「あたしは、馬鹿じゃないの。薬。焼かれた瓶。岩場から帰ってきた日の、あんたたちの顔。全部、繋がってる。……言いなさいとは、言わない。でも、覚えておいて。明日、何かが起きたとき――あたしの治療の順番は、あたしが決める。それだけは、譲らないから」
治療の順番は、あたしが決める。
教会を破門された、あの日の順番の話だった。
闇の向こうで、コッツの組と、交代の刻限が来た。立ち上がったミレアの向こう、岩陰の縁で――ガロが、闇の一点を、じっと見ていた。
その視線の先。遠い岩尾根の上で、小さな光が、二度、瞬いて消えた。
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