第6話「母の顔」
ヴェルデの南門をくぐったのは、置き去りにされてから三日目の昼だった。
帰りの道中、俺は何度も、自分の体の「ずれ」に立ち止まった。
歩幅が、以前より半歩広い。荷を担ぐとき、無意識に選ぶ肩が逆になっている。夜営の火を見ていると、覚えのない癖で、右手が地面の小石を拾って握り込む――たぶん、あの男の癖だ。剣だこの位置を確かめる、大剣使いの癖。
力は、便利なだけの荷物ではなかった。他人の体の記憶が、俺の体の上に薄く重なって、時々、俺のほうが間借り人のような心地になる。
それに――涸れ沢で覚えた、あの感覚が消えなかった。「奪った」という感覚だ。あの男の生きた日々を、力ごと、俺は自分の中に流し込んだ。歩くたび、その男の歩幅で歩いている。それは、俺があの男を、体のどこかで、担いでいるということだった。仕留めた獲物を担いで山を下りるのとは、まるで違う重さだった。
二日目の夜、夢を見た。知らない酒場で、知らない男たちと杯を打ち合わせる夢だ。誰の顔も靄がかかっていたのに、ひどく懐かしくて、目が覚めたとき、頬が濡れていた。
あれは、俺の涙だったのだろうか。それとも。
……考えるのは、やめた。夜明けまでまだ間があったが、俺は火を熾し直して、刃を研いだ。手を動かしていれば、余計なことは考えずに済む。それも、じいさんの教えだった。
服は泥と血で固まり、左肩の傷は布を裂いて縛っただけ。門の衛兵が胡乱な目を向けてきたが、灰色の認識板を見せると、面倒くさそうに通してくれた。灰級の小僧が薄汚れて帰ってくることに、この街は関心を持たない。
ギルドの扉を開ける。
昼の酒場のざわめきが、一拍、確かに揺れた。
視線の先を辿るまでもなかった。酒場の奥の卓で、ドッズが木杯を持ったまま固まっていた。取り巻きの二人も、幽霊でも見たような顔をしている。
そうか。もう「報告」は済んでいるのか。
俺はドッズを見なかった。まっすぐ受付へ歩き、カウンターに認識板を置いた。窓口にいたのはニラではなく、年配の職員だった。それでいい。今のこの姿を、あいつには見せたくなかった。
「護衛依頼から戻った。……報告が二つある。一つ、俺は依頼の途中で隊列から切り離された。二つ――トーサ街道の森に出ていた『何か』は、俺が仕留めた」
酒場が、今度こそ静まり返った。
職員は俺の顔と、泥まみれの装備と、酒場の奥で青ざめているドッズとを順に見比べ、それから慎重な手つきで台帳を開いた。
「……仕留めた、というのは、トーサ街道の連続襲撃の主のことですか。銀級二名の未帰還を出している」
「ああ。元冒険者だと思う。人の形をしていた。骸は涸れ沢に置いてきた。これが胸に付いていた」
三つ星の徽章を、カウンターに置いた。
職員の顔色が変わった。奥へ引っ込み、上役らしい男を連れて戻ってくる。質問は半刻に及んだ。骸の場所、戦闘の経緯、そして――なぜ灰級の新人が一人で街道にいたのか。
俺は事実だけを話した。銅の鎖に臨時で雇われ、森で殿を命じられ、置き去りにされた。脚色はしない。狩りの報告と同じだ。見たものを、見た順に。
上役は深い溜息をつき、酒場の奥へ目をやった。ドッズたちの席は、いつの間にか空になっていた。
「……検分隊を出す。骸が確認されれば、討伐は正式に認定される。あれには賞金が懸かっていてな。銀貨で、五十枚だ」
銀貨五十枚。
数字が大きすぎて、すぐには意味が繋がらなかった。革鎧どころか、店の一軒が買える額だ。
「それと、坊主。……よく生きて帰った」
上役はそれだけ言って、徽章を丁寧な手つきで俺に返した。
◇
その晩、傷の手当てを終えた俺は、ギルド職員寮の食堂にいた。
「もう、ほんとに、もう……!」
向かいの席で、ニラが三度目の「もう」を言った。目の縁が赤い。俺の帰還を聞いて窓口から飛んできて、包帯だらけの姿を見て、それから今までずっとこの調子だった。
「無理しないでって言ったのに。約束したのに」
「無理はしてない。された側だ」
「屁理屈!」
ニラは俺の皿に、自分の付け合わせの芋を乱暴に移した。こいつの怒り方は昔からこうだ。怒鳴りながら、飯を寄越す。
「……でも、生きててよかった。よかった……」
声が、急に小さくなった。
「未帰還の報告ね、私、写しを見ちゃったんだよ。リゲルの名前が書いてあるやつ。手が震えて、それで判が押せなくて、先輩に代わってもらった」
返す言葉が見つからなくて、俺は芋を食った。うまかった。三日ぶりのまともな飯だった。
ニラはしばらく黙って俺が食うのを見ていたが、やがて、努めて明るい声を出した。
「そうだ。村に手紙書きなよ。おばさん、心配してるよ。ほら、リゲルのお母さん、心配性なんだから。村を出る日だって、丘の上からずーっと手を振って――」
「――ああ」
相槌を打ちながら、俺は思い出そうとした。
丘の上。手を振る母。あの日の朝。
声は、思い出せる。「気をつけて」と言った、少し掠れた声。名前も分かる。手の、指の節が太いことも。冬になるとあかぎれを作る手だ。
顔が。
顔だけが、出てこない。
声の出どころにあるはずの顔が、霧がかかったように白い。目の色は。鼻の形は。笑うとどこに皺が寄る。何も、何ひとつ、像を結ばない。
「……リゲル?」
ニラの声が遠い。俺は食器を置いて、こめかみを押さえた。落ち着け。疲れているだけだ。三日まともに寝ていない。記憶は疲れると霞む。そういうものだ。
父の顔は、出る。五年前に死んだ父の、日に焼けた顔。じいさんの顔も出る。ニラの顔は目の前にある。村長の顔、隣家の婆さんの顔、出る。出る。全部出る。
母の顔だけがない。
切り抜かれたように、白い。
「おい……嘘だろ」
呟きが漏れた。指先が冷えていく。あの夜――涸れ沢で、流れ込んできた何かの熱と引き換えに、俺は。
「リゲル、顔真っ青だよ。傷が痛むの? ねえ」
ニラが腰を浮かせた。俺は首を振った。言うべきか。言えば、こいつはどうする。この得体の知れない話を、信じるのか。信じたとして、それは、こいつに何をさせる。
……いや。
隠して、この先も続けられるのか。俺は昨日、確かに理解した。あの力は、もう俺の中にある。そして俺は、あれを手放す気がない。手放せば、あの壁の一番上には、一生届かないだろう。
なら、せめて。
「ニラ。……笑わないで、聞いてくれ」
俺は、話した。涸れ沢の夜のこと。流れ込んできた力と、他人の記憶の千切れ。そして今、母の顔だけが思い出せないこと。
ニラは笑わなかった。
途中から一言も口を挟まず、聞き終えると、しばらく手元の茶を見つめていた。それから顔を上げて、言った。
「――っっ。じゃあ、私が覚えておく」
なにか、喉まで出かかった音を遮るように。
「リゲルのこと、全部書いておくから。リゲルのお母さんの顔も、私、覚えてる。目尻が下がってて、笑うとリゲルにちょっと似るの。今夜、忘れないうちに全部書く。絵も描く。下手だけど」
ニラは懐から、あの古い手帳を取り出した。
「人の頭は忘れるようにできてるから、紙に覚えてもらうの。……前に言ったでしょ。だから、大丈夫」
何が大丈夫なものか、と思った。
思ったのに、喉の奥が詰まって、言葉にならなかった。
食堂の灯りの下で、ニラは早速ペンを走らせ始める。真剣な横顔だった。俺はそれを見ながら、自分の掌を握ったり開いたりした。
力は、まだそこにあった。
暖かく優しい母の顔はもうない。
ご覧いただきありがとうございます!
リゲルの初めての喪失です。感情が入りすぎて文がめちゃくちゃになってないか心配です!(笑)




