第5話「星継」
第5話更新です!
最近、暑くなってきましたね。体調管理には皆様もお気を付けください!
正面から打ち合えば、一合で死ぬ。
だから、これは決闘ではない。狩りだ。狩りなら、俺のやり方でやらせてもらう。
巨体が沢を渡り切る、その一瞬――片足が水中の石に乗った瞬間を狙って、俺は石を投げた。顔ではなく、軸足の膝の裏へ。
びくり、と巨体が揺れる。効いてはいない。だが、反応はした。
それでいい。痛覚はある。反応もする。つまり、こいつはまだ「生き物」の理屈の中にいる。
俺は身を翻し、斜面を駆け上がった。
◇
それからの半日を、言葉にするのは難しい。
俺は逃げ、隠れ、仕掛け、また逃げた。
倒木の陰に張った蔓の罠は、一度目は千切られた。だが巨体は確かにつんのめり、俺はその隙に、膝の裏へ短刀を一度だけ走らせた。刃は浅く滑った。皮膚の下が、石のように硬い。
それでも、黒い血が流れた。
血は流れる。なら、失血はする。
崖下へ誘って落石を浴びせた。大剣ごと左腕で受けられたが、その左腕は、以後わずかに下がったままになった。
泥地へ誘い込んだ。膝まで沈んだ巨体が這い出すまでの間に、俺は息を整え、水を飲み、次の仕掛けを組んだ。
観察も、続けていた。
あれの追跡は、俺が動きを止めて岩や木に張りついている間、わずかに鈍る。完全には切れないが、迷う素振りを見せる。逆に、俺が全力で動くほど、追いは正確になる。つまりあれが見ているのは、姿でも匂いでもなく――命の勢いのようなものだ。ならば、動と静を刻め。動いて距離を作り、止まって曖昧にし、また動く。追跡が鈍るその数瞬が、俺の仕掛けの時間になる。
それと、もうひとつ。
あれは、傷を確かめない。膝の裏を裂かれても、腕が下がっても、自分の体を一度も見ない。痛みに反応はするのに、痛みを惜しまない。自分の体を、まるで借り物のように扱っている。
……嫌な言い方が、頭に浮かんだ。
あれは戦っているのではなく、ただ、終わらせ方を探しているのではないか。
考えを振り払った。獲物に情を移すな。それも、じいさんの教えだ。
一撃で仕留める手段を、俺は持っていない。
なら、百の浅手で仕留める。血を流させ、消耗させ、夜を待つ。夜は狩人の時間だ。じいさんと二人、冬の狼の群れをそうやって削ったことがある。あのときの狼の王より、こいつは強い。だが、理屈は同じはずだ。
『ォオオオ……!』
何度目かの咆哮が、夕暮れの森を揺らした。
苛立っている。
半日前まで、こいつの狩りは一方的だったはずだ。動くものを、手前から順に食う。それだけでよかった。それが今、傷は増え、獲物には逃げられ続けている。
苛立ちは、隙だ。
――だが、こちらも限界が近かった。
太腿の裏が攣りかけている。左肩は、掠めた剣の風だけで持っていかれた皮膚が、ずっと熱い。何も食っていない。水だけで半日、全力で山を動き続けた。
集中が切れれば、死ぬ。
俺は最後の仕掛け場に選んだ場所――昼のうちに見つけておいた、涸れ沢の手狭になっている場所へ、自分を餌にして巨体を引き込んだ。
両側は岩壁。道幅は、あの大剣が横に振れない広さ。
月が出た。
雲が切れて、冬の星々が涸れ沢の上に並んだ。
灰色の巨体が、入り口を塞ぐ。もう、俺に逃げ場はない。あちらにも、回り込む道はない。互いに、正面しか残っていなかった。
それでいい。そうなるように、一日かけて組んだ。
大剣は横に振れない。縦の打ち下ろしか、突きだけ。打ち下ろしは大振りで、こいつは半日分の失血で、確実に遅くなっている。
一度だけ、躱せるはずだ。
一度躱せば、懐に入れる。懐に入れば――喉が、届く。
『ォ……』
赤い眼が、俺を見た。
不思議なことに、その光は、最初に見たときより弱く見えた。憎悪とも飢えともつかない揺らめきの奥に、何か別のもの――ひどく疲れた、途方に暮れたような色が、混じって見えた。
巨体が、来た。
大剣が月を隠して、振り下ろされる。
俺は前に出た。下がるのではなく、前へ。剣速の内側へ。刃が背中のすぐ後ろで岩を割り、破片が体を叩く。構わず岩壁を一歩駆け、跳んだ。
灰色の首。半日かけて見極めた、結晶化の谷間。皮膚のまま残された、一筋の急所。
逆手の短刀を、そこへ。
「――ォ」
手応えは、深かった。
巨体が、ゆっくりと膝をつく。大剣が手から滑り落ち、錆びた音を立てて転がった。
俺は短刀を握ったまま、離れられなかった。赤い眼が、間近で俺を見ていた。
そして。
眼の奥の赤が解けるように薄れて、最後に残ったのは――安堵、だった。
それは、確かに安堵だった。
『……ぁ、りが……』
声だったのかどうかも、分からない。
その瞬間、世界が白く灼けた。
◇
流れ込んでくる。
そうとしか言えなかった。倒れた巨体の、眼から、傷口から、光の粒のようなものが立ちのぼり、俺の中へ、雪崩れ込んでくる。
熱い。血管の中を、灼けた星を流し込まれているようだった。
知らない重さが、腕に灼きつく。大剣の重心。刃を潰してなお断つための、体重の乗せ方。踏み込みの深さ。――知っている。振ったこともない大剣の振り方を、俺の体が知っていく。
知らない景色が、瞼の裏で瞬いた。
どこかの戦場。泥と血。背中を預け合う仲間の笑い声。授与式、掲げられる認識板。それから――暗い穴の底、赤い光、誰かの囁き。『強くなりたいか』と、
映像は千々に千切れて、ひとつも掴めないまま流れ去った。
だが掴めなくても、分かった。
これは、この男の、生きてきた時間だ。戦場も、仲間も、待っていた誰かも。それが今、この男の体から抜け出して、俺の中へ、流れ込んでいる。
奪っている。
その感覚しかなかった。俺は今、この男を殺しただけではない。この男が生きた証、つまり力ごと、何もかも奪い取っている。仕留めるのと、奪うのは、違う。狩人は獲物の肉を食らうが、その獣の生きた日々までは、食らわない。
なのに、俺は。
ぞっとした。だが、流れ込む力の、その熱さと快さも、同時に否定できなかった。奪うことへの怖気と、強くなることへの歓びが、同じ一つの流れの中で、溶け合っていた。
最後に、感情だけが残った。
終われた、という、あの安堵。
「……っ、は……」
気づけば、俺は涸れ沢の底に膝をついていた。
月光の下、巨体は動かない。灰色だった肌から黒ずみが引いて、ただの、痩せた男の骸がそこにあった。胸元で、三つ星の徽章が鈍く光っている。
全身が、まだ熱い。
心臓が、二拍子で鳴っている気がする。俺のものと、もうひとつ、覚えのない拍が。
「今のは……何だ」
誰にともなく、呟いた。答える者はいない。
立ち上がろうとして、俺は自分の右手を見た。
短刀を納めたはずの右手が、空を握っている。指の開き、掌の角度――それは、短刀の柄の形ではなかった。もっと太く、重いものの握り。
大剣の、握りだった。
振ったことも、習ったこともない。それなのに右手は、教え込まれた型のように自然に、その形を作っていた。
慌てて手を開く。汗が、月光に光った。
視線が、勝手に骸の傍らの大剣へ吸い寄せられる。錆びて、刃こぼれて、それでも――「あれをまだ使える」と、俺の中の何かが囁いていた。
ぞっとした。
それが力だということは、分かった。半日前の俺が百回挑んでも届かなかった何かが、今、この体の中にある。
だが、これは誰の力だ。
俺は骸を見下ろした。ただの、痩せた男。かつては冒険者で、仲間がいて、認識板を掲げて笑っていた、誰か。
「……あんた、名前は」
骸は答えない。
流れ込んだ記憶の千切れのどこにも、この男の名前は、なかった。
雲がまた星を隠して、涸れ沢が暗くなる。
俺はその場に座り込み、夜が明けるまで、自分の心臓の音を数えていた。二つあるように聞こえた拍は、朝には、ひとつに戻っていた。




