第4話「囮」
予感は、確信に変わりつつあった。
鳥の沈黙。濃すぎる獣の匂い。下げすぎた殿の位置。ばらばらだった違和感が、森に入って半刻もしないうちに、一つの絵に揃っていく。
決め手は、道だった。
街道の脇、下草の折れ方がおかしい。何か重いものが、繰り返し同じ場所を横切っている。獣道にしては太く、直線的で――引きずり痕がある。
熊じゃない。狼でもない。俺の知らない獣の跡だ。
俺は歩を速め、隊列に追いついた。
「ドッズさん。この森、何かいる。鳥が鳴いてない。それに獣道が――」
「おう、気づいたか」
ドッズは振り返らなかった。
振り返らないまま、続けた。
「そうだよ。いるんだ、この森にはな」
声からは笑いの温度だけが抜け落ちていた。
「三月前からだ。トーサ街道に『出る』ようになった。商隊が二つ食われて、討伐隊が組まれて――銀級が二人、帰らなかった。以来、この道の護衛依頼は誰も受けねえ。受けりゃ報酬は倍額だがな」
倍額。
急な欠員。よくあるやり方。
「……俺は、何のために連れてこられた」
「……。」
ドッズが片手を上げた。それが合図だった。馬車が速度を上げ、前衛の二人が馬車に飛び乗る。
「『あれ』はな、動くものを手前から順に食う。誰かが後ろで足止めしてる間に、荷と本隊は駆け抜ける。それだけの算段だ。――恨むなら、後ろ盾のない身の上を恨め」
「待て――」
「悪く思うなよ、掃除屋。おまえが半刻粘れば、俺たちは助かる。ギルドには『新人が魔物にやられた』と報告しといてやる。……ま、星無しにしちゃ上出来の死に場所だろ」
馬車が走り出す。
蹄と車輪の音が遠ざかり――俺は一人、街道に残された。
追うか。一瞬で捨てた。走る馬車には追いつけないし、追いついたところで武装した三人と荷が待っているだけだ。
なら、状況を数えろ。じいさんの教えの一番目だ。山でしくじったら、恨み言より先に、手持ちの札を数えろ。
手持ち――短刀が一本。予備の小刀が一本。腰袋に麻縄が二巻、火口箱、干し肉が少し、水筒。革鎧はまだ買えていないから、体を守るものは布の服だけ。地形は初見の森。日暮れまで、およそ30分。
敵は正体不明。銀級二人を殺した「何か」。
分の悪さに、乾いた笑いが漏れそうになった。銅貨を数えて革鎧を我慢した俺の判断が、まわり回って今日の命綱の細さになっている。街での十日間は無駄ではなかったが、こういう形で答え合わせをさせられるとは思わなかった。
いや――違うな。
答え合わせは、これからだ。じいさんに叩き込まれた五年が本物かどうかの。
森が、軋んだ。
街道の左、木立の奥。何か巨大なものが、幹を押しのけて動く音。みし、みし、と地面が鳴る。引きずり痕の主が、こちらへ来る。
俺は道を捨て、風下の茂みへ滑り込んだ。息を殺す。心臓の音がうるさい。落ち着け。まず見ろ。狩りの最初は、獲物を知ることだ。
それは、街道へ出てきた。
――人、だった。
いや、人の形はしているがなにか違和感があった。
背丈は俺の倍近い。だが膨れ上がった筋肉の輪郭は人のそれで、ぼろぼろの革鎧の残骸が、皮膚に食い込むように張りついている。右手には錆びた大剣。刃こぼれだらけのそれを、地面に引きずっていた。引きずり痕の正体だ。
肌は死人のような灰色。ところどころが黒ずみ、石のように結晶化している。伸び放題の髪の下、落ち窪んだ眼窩の奥で、赤い光が二つ、揺れていた。
胸元に、何かが光った。
鎖の切れた古い徽章。三つ星を横に並べ、四つの星で囲った意匠――どこかの星座を模したものだろうか。こんな成れの果てには、およそ不釣り合いな、丁寧な細工だった。
よく見れば、腰帯の残骸には認識板の留め具が付いている。板そのものは、とうに失われていた。左手の薬指には、肉に埋もれかけた細い指輪。誰かが、どこかで、こいつの帰りを待っていた時期があったのかもしれない。
元冒険者。
直感がそう告げた。銀級二人を殺したのは、魔物じゃない。これだ。
そして――俺は、こうなる何かの過程をまったく知らない。知らないものは、狩れるかどうかも分からない。
『ォ……ォオ……』
それが、喉の潰れた音で唸った。
首がぐるりと回る。赤い眼が、俺の潜む茂みで、ぴたりと止まった。
――風下だぞ。
匂いじゃない。音でもない。なら何で――考える暇はなかった。
巨体が、跳んだ。
倍の背丈が嘘のような速さで間合いが消え、錆びた大剣が茂みごと俺を薙ぐ。転がって躱した。頭上で木が二本、まとめて断たれて倒れる。太さ俺の胴ほどの木が、二本。
まともに受ければ死ぬ。掠っても死ぬ。
走った。
街道を捨て、森の斜面を下る。木の根を跳び、岩を蹴り、枝の下を潜る。狩人の脚だ。村の裏山なら、俺より速く駆けられる獣はそういなかった。
背後で、木々が薙ぎ倒される音が続いた。
離れない。
あれは避けていない。俺が枝を潜り、幹を回り込む間に、あれは森ごと直進してくる。速さで負け、地形でも稼げない。
なら、目を試す。
走りながら外套を脱ぎ、低木の茂みへ投げ込んだ。布は枝に引っかかり、風に揺れて、遠目には潜んだ人影に見える――はずだ。俺自身は逆へ折れ、岩の裏へ滑り込んで息を殺した。
巨体が来る。地響き。俺は岩の陰から、賭けの結果を待った。
あれは、外套を一瞥もしなかった。
揺れる布の前を素通りして、迷いのない足取りで、まっすぐ俺の岩へ向かってくる。
――目でもないのか。
背筋が冷えた。姿を隠しても意味がない。囮も効かない。あれは何か別のもので、俺そのものを追っている。
岩を蹴って、再び走った。次の手を考えろ。考え続けろ。手が尽きたときが、死ぬときだ。
沢へ出た。飛び込み、流れを横切り、対岸の岩場へ。水音で足音は消える。匂いも切れる。岩陰に張りついて、呼吸を殺した。
静寂。
十を数えた。二十を数えた。
――頭上で、岩が鳴った。
見上げた先、岩場の上にあれが立っていた。赤い眼が、まっすぐ俺を見下ろしている。水も、岩も、風も、何の意味もなかったように。
大剣が振り上がる。
岩陰を蹴って飛び出した。着地点に剣が落ち、岩が砕け、破片が背中を打つ。転がりながら理解する。撒くことはできない。あれは眼で追っていない。俺という存在そのものを、直に見ている。
ならば。
逃げ切れないなら、答えはひとつしかない。狩る。
じいさんの声が、耳の奥で蘇った。
『山でしくじって、熊に先を塞がれたらどうする。……逃げ場のない狩人のやることは、昔からひとつだ。狩られる側から、狩る側に戻ることだ』
足を止めた。
振り返る。錆びた大剣を引きずり、灰色の巨体が沢を渡ってくる。急がず、確実に、獲物を追い詰める足取りで。
短刀を、逆手に抜いた。
掌に汗。膝が笑いそうになる。構わない。恐怖はあっていい。恐怖は狩人の道具だ。研ぎ澄ませて、使え。
「……逃げられないなら」
息を、細く長く吐き、臨戦態勢だ。
「――狩るしかない」
リゲルの初戦闘シーンです!
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