第57話「台帳の指紋」
岩場の一件を、俺は隊の全員に話した。
隠すのは、もうやめだった。ガロもそれを望んだ。「隊則を破ったのは、俺だ。隠し事はなしって決めたのは、俺なんだからよ」と、大男は自分から、卓の真ん中に、あの焼け残りの欠片を置いた。
ミレアは長いこと、欠片を見つめてから言った。
「……薬は、続けなさい」
意外な言葉に、全員が彼女を見た。
「もう、体に入ってるのよ。今さら断って、治りかけの骨が変に着いたら、それこそ取り返しがつかない。……それに、はっきり言うけど、あんたの腕が治ることは、隊の戦力の話。それとこれとは、分けて勘定する」
ミレアはそれから、初めて見る厳しい目で、ガロを見た。
「ただし。次に商会から、何か来たら――薬でも、手紙でも、飴玉ひとつでも――その日のうちに、この卓に置くこと。あんた一人の判断は、もう信用しない。……これが、あたしの条件」
「……呑む」と、ガロは頭を下げた。
コッツは何も言わずに、ガロの隣に座り直した。座り直して、それだけだった。少年なりの答えだった。
隊の空気は重かった。だが、割れてはいなかった。膿は半分、出た。半分は――ドレンの「要求」という形で、まだ、どこかに潜んでいた。
◇
一方、街では、独立系の結集が形になりつつあった。
名は、〈灰の同盟〉。
結成の集会は、東区の使われなくなった穀物倉で開かれた。集まったのは、三十を超える隊の頭たち。銀級の古株から、結成したての灰級まで。壁際には、あの〈青麦〉のピノの顔もあった。
規約は、三つだけだった。ヴァンネスが樽の上に立って、読み上げた。
「一つ。買い取りは、同盟でまとめて交渉する。買い叩きには、全隊で荷を引き上げて応じる。二つ。浅層の救援要請には、報酬を問わず、最寄りの隊が出る。三つ。……同盟の中で、飢える新人を、出さない。以上だ」
「それだけかよ」と、誰かが笑った。
「それだけだ」とヴァンネスも笑った。「規約ってのは、増えるほど破られる。守れる数だけに、しとくのさ。……なに、三つ目さえ守りゃ、あとは勝手に強くなる。飢えねえ新人は、育つ。育った新人は、恩を覚えてる。十年経ちゃ、その恩が、この街の地面になる」
拍手は、まばらだった。代わりに、倉のあちこちで、頷く顔があった。派手さのない、だが、根の張りそうな船出だった。
旗頭には、結局、ヴァンネスが立った。
「年寄りの、最後のご奉公よ」と、老兵は笑った。「それに、リゲル。おまえを表に立てるわけには、いかねえからな。おまえは、同盟の『看板』じゃなく、『切り札』でいろ。切り札ってのは、伏せてあるから、切り札なんだ」
ヴァンネスなりの、俺への防壁だった。
◇
そして、もう一つの戦線が、ギルドの中で、静かに動いていた。
ニラだ。
「……見つけたかも、しれない」
その晩、ニラは俺たちの卓に、一冊の綴じ帳を置いた。受注台帳の写し。ギルドの内部資料だ。
「持ち出したのか、それ」とコッツが目を剥いた。
「写しの写し。私が自分の手で、写したもの。……規則の、ぎりぎり内側」ニラは事務的に言って、頁を開いた。「見て。ここ。綴じ穴」
台帳の綴じ穴の縁。目を凝らすと、穴の周りの紙が、ごく僅かに毛羽立っていた。
「台帳はね、夜、綴じ紐で縛って、書庫に仕舞うの。朝開けるのは当番の私たち。……でもこの毛羽立ちは、綴じ紐を何度も抜き差しした痕。それも、急いで乱暴に。私たち窓口は、こんな扱い方しない。頁で名前を覚えてる帳面を、乱暴になんて扱えないもの」
「夜の間に、誰かが、抜いて写して戻してる」と、俺は言った。
「うん。それでね、毛羽立ちの濃い頁を調べたの。……全部、『深い層の、危ない依頼』の頁だった。バジルの帳簿の、『沈む見込み』の売り込みと――符合する」
二十話以上も前の、あの倉庫の帳簿。回収班より先に死地を知る、羽虫ども。その源流が、今、ニラの指の先にあった。
「夜、書庫に入れる人間は、限られてる」ニラは続けた。「夜勤の書庫番。それと、三階に部屋のある、支部長と……補佐官。この三人だけ」
「支部長に、上げたのか」とヴァンネス。
「上げた」ニラは頷いて、それから、唇を噛んだ。「『内部の綱紀は、内部で処す』。……前と、同じ言葉。一言一句、同じ。まるで、用意してあったみたいに」
卓が、冷えた。
内部で処す、が二度、繰り返された。二度目は、もう怠慢ではない。意思だ。
「……だからね、私、保険を作ることにした」
ニラは鞄から、分厚い封筒を出した。封蝋で、固く閉じられていた。
「今までの、全部。封緘された調査報告の目録の写し。署名なしの立会人のメモ。遺品の裁定の記録。偽依頼の雪見紙の写し。ザッハさんの証言の写し。そして、この、綴じ穴のこと。……日付を入れて、まとめて、封をした。同じものを、三通」
「三通?」
「一通は、私が持つ。一通は、ヴァンネスさんの帳面と一緒に。最後の一通は――」ニラは少しだけ、笑った。「秘密。誰も知らない場所。私に、何かあったときのため」
私に、何か、あったとき。
その言葉を、こいつは、なんでもないことのように言った。
「……怖くないのか」と、俺は訊いた。
「怖いよ」
即答だった。
「支部長室を出るとき、膝が笑ってた。夜、書庫の物音で、目が覚めるようになった。窓口で、知らない顔のお客さんが来ると、一瞬、身構えるようになった。……怖いに、決まってるでしょ」
ニラは、封筒の縁を、指でなぞった。
「でもね、リゲル。私、窓口で、ずっと見てきたの。怖いから黙った人の後始末を、全部。封をされた報告書。軽すぎた裁定。処すと言って処されなかったこと。……黙った人たちも、きっと、怖かったんだよ。怖くて、黙って、それで、次の誰かが、その分を払った。私はもう、次の誰かに、払わせたくないだけ」
受付嬢が、街の巨大な力を相手に、記録だけを武器に、静かに戦線を張っている。その危うさに、こいつ自身が、一番気づいていて――それでも、手を止めない。
「……ニラ」と、俺は言った。「無理は」
「するよ」
食い気味だった。
「リゲルだって、してるでしょ。だから、お互い様。……ね、約束したよね。強い敵とやる前は、教えるって。だから、私も教えとく。私の敵は、たぶん、この街で一番、強い。でも、私の武器は、この街で一番、しぶとい」
ニラは、封筒を、鞄の奥に仕舞った。
几帳面な、その手つきが、その夜は、抜き身の刃のように見えた。




