第56話「早すぎる回復」
「――言っておくけど、これは、喜べる話じゃないわよ」
ミレアは、ガロの右腕から手を離すと、突きつけるように、言った。
「砕けた骨が、着き始めてる。それも、尋常じゃない速さで。……あんたの砕け方はね、あたしが半年、毎日術をかけ続けて、ようやく箸が持てるようになるかどうか、って砕け方だったの。それが、ひと月で、桶が持てる? ありえない。人間の骨は、こんな速さで着かない」
「……いい薬が、あったんだよ」
ガロは、目を、合わせなかった。
「南岸の薬師の秘薬だ。骨接ぎの妙薬でな。……ザッハの伝手で、都合してもらった」
ザッハの伝手。
俺は、昼間のザッハの、フードの下の硬い声を、思い出していた。時間がねえ。一度しか言わねえ。――貸し借りなしだ。あの男が、その裏で、ガロに秘薬を都合する義理は、もうない。
嘘だ。
確信に近い形で、そう思った。だが、その場では、言わなかった。コッツが「すげえ! じゃあ、また盾が持てるのか!」と無邪気に沸いていて、ガロが「おう、リハビリ次第だがな」と笑っていて――その、束の間の明るさを、俺の疑いで、割ることが、できなかった。
ミレアだけが、最後まで笑わなかった。
「……効く薬には、必ず値段があるのよ」と、彼女は、小さく、言った。「教会の秘薬もそうだった。効けば効くほど、高い。……銭じゃないもので、払わせる薬ほどね」
◇
二日後の夜、コッツが、俺の部屋の戸を叩いた。
少年は、部屋に入るなり、声を潜めた。
「……兄貴。見ちまった」
「何を」
「ガロの旦那の、薬の瓶。空になったのを、旦那が、竈で焼いてた。瓶を、だぜ? 普通、薬の瓶なんて、薬屋に返すか、洗って使うだろ。焼く奴がどこにいる」
コッツは、懐から、小さな焼け残りの欠片を、出した。瓶の底の部分。煤を、袖で拭うと――硝子の底に、刻印が浮かんだ。
天秤と樽。
「……拾っちまったんだ、竈の灰の中から。おれ、こういうの、目に入っちまう性分だから」
少年の声が、震えていた。
「なあ、兄貴。前に、兄貴は言ったよな。ガロを信じろ、って。おれ、信じてる。今も、信じてる。……信じてるけど、これ、どういうことなんだよ。旦那の腕を治してる薬は、商会の薬だ。借金は、返したのに。手綱は、外れたのに。……なんで、旦那はまだ、商会から、ものを受け取ってるんだよ」
俺は、欠片の刻印を見つめた。
一番、疑わない手から来る。
ザッハの言葉が、氷のように、腹の底へ落ちた。
「……コッツ。よく、報せてくれた」と、俺は言った。「この話、ミレアにも、ヴァンネスにも、まだ言うな。……俺が、ガロと、話す。今度こそ、逃げずに」
今度こそ。
その三文字を、口に出したとき、初めて、自分がずっと逃げていたことを、認めた気がした。
◇
翌朝、俺は、ガロを、街の外の岩場に誘った。
リハビリに付き合う、という名目だった。ガロは、疑いもせずに来た。真新しい、練習用の丸盾を、右腕に、括りつけて。
打ち込みを、何本か合わせた。ガロの右腕は、まだ本調子には遠い。だが、確かに、盾は上がっていた。ひと月前、飴細工のようにひしゃげた盾ごと、岩壁に叩きつけられた腕が。
そして、合わせるほどに、俺の違和感は育っていった。
骨だけでは、ない。
盾を支えるのは、骨ではなく筋だ。ひと月、吊られて動かなかった腕の筋は、痩せる。痩せた筋は、盾の重さに、震えるはずだ。なのに、ガロの受けには、震えがなかった。骨が着いただけではない。落ちたはずの筋まで、戻っている。
骨接ぎの薬では、説明がつかない。これは、体そのものを、作り替える類の何かだ。
南岸の薬師、などという生易しいものではない。
「……いい薬だな」と、俺は、打ち込みの手を止めずに、言った。「南岸の、薬師の秘薬は」
「おう。……高くついたがな」
「いくらだ」
「あ?」
「値段だ。南岸の秘薬の。……銀貨か。金貨か。それとも――」
俺は、懐から、瓶の底の欠片を出した。ガロの足元に放った。
天秤と樽の刻印が、朝の光の中で、鈍く光った。
ガロの動きが、止まった。
長い、長い、沈黙だった。岩場の風の音だけが、二人の間を、流れていった。
「……コッツか」と、やがて、ガロは言った。「あいつの目は、ほんとに、ごまかせねえな」
「ガロ」
「――違うんだ、リゲル」大男は、盾を下ろした。「聞いてくれ。おまえが思ってるようなことじゃねえ。……薬は、確かに商会から来てる。ドレンが、退院の日に、置いていった。『お見舞いです。代金は要りません。ご返済も、要りません。ただの、お見舞いです』とな」
「それを、受け取ったのか」
「最初は、捨てた!」ガロの声が、初めて荒れた。「捨てたんだ、本当だ! だがな……夜中に腕が疼くんだ。動かねえ腕が、だぜ? 動かねえくせに、疼きだけは一人前によ。……で、考えちまうんだ。盾が構えられねえ俺に、何の値打ちがある。地上で顔を売るだけの、置物の隊長に。おまえらが潜ってる間、地上で帳面をつけてる俺に――」
「値打ちならある。あんたは」
「綺麗事を言うな!!」
岩場に、怒声が響いた。
ガロ自身が、その声の大きさに驚いたようだった。大男は荒い息を、二つ、三つ、吐いてそれから、絞り出した。
「……悪い。……綺麗事じゃねえんだよな。おまえらは、本気でそう言ってくれる。分かってる。分かってるから、余計に駄目なんだ。……俺は、施される側でいるのが、耐えられねえんだ。借金も、隊で返してもらった。腕も庇ってもらってる。俺は隊長なのに。守る側のはずなのに」
だから、薬に手を伸ばした。
商会の薬と知りながら。代金は要らない、という言葉の、本当の意味を知りながら。
「……ドレンからの、要求は」と、俺は、静かに訊いた。「もう、来たのか」
「来てねえ」ガロは、首を振った。「本当だ。何も要求されてねえ。……来たら、断る。それだけは、誓う」
「来たら、断れるのか」
ガロは、答えなかった。
動くようになった右手を、大男は、じっと、見下ろしていた。その手が、握られて、開かれて、また握られた。
答えの代わりだった。
◇
帰り道、俺は、一人考えていた。
空の器にだけは、何でも注げる。グレムは、そう言った。あのとき俺は、それを、俺のことだと思った。星無しの空っぽの器。
だが、違う。
器は、俺だけではない。
動かない右腕を抱えた、盾使い。値打ちを失うことに怯える隊長。その、空いてしまった場所に、商会は、薬を注いだ。代金は要りません、と言いながら。
空になった場所に、欲しいものを注ぐ。注がれた側は、それが、自分の力だと思い始める。断る理由が、一日ごとに細っていく。
あの、柔和な老人のやり口が、初めて輪郭を持って、見えた気がした。あれは、脅す商人でも、買う商人でもない。
注ぐ商人だ。
そして、俺は、思い出していた。同じことを、もっとずっと、うまく、温かく、やっている誰かの手紙の文面を。器の話を、繰り返し、繰り返し、俺に説いた、あの懐かしい字を。
その連想を、俺は、頭を振って追い払った。
追い払えたのは、そのときが、最後だったかもしれない。
第56話更新です!昨日は更新できず申し訳ない
ドレンは商人としては優秀です




