第54話「凪の底」
遺構が閉じて、ひと月。
ヴェルデは、祭りの後のような、気だるい静けさに沈んでいた。
外から来た山師と投機家は、潮が引くように去った。三倍に跳ねた宿代は元に戻り、それどころか、空き部屋の札が目立ち始めた。遺構景気を当て込んで店を広げた飲み屋が、二軒、畳んだ。膨らんだものが萎むときは、元の寸法より、小さくなる。街は、その理屈を、体で学んでいた。
南門の外では、去っていく荷馬車の列が、続いた。
その列の中に、あの、痩せた男の姿を、見た気がした。人相書きの前で、息子の絵を、指でなぞっていた男。荷台の上の男は、こちらを見なかった。膝の上に、丸めた紙を一枚抱えていた。人相書きを、剥がして持ち帰ることは、ギルドも、止めない。それが、この街の、精一杯の弔いだった。
そんな凪の底で、商会だけが、動いていた。
「――〈大穴管理組合〉の発足を、ここに告示する」
ギルドの掲示板に、その告示が貼られた朝、独立系の冒険者たちは、板の前に、黒山を作った。
読み上げたのは、ヴァンネスだった。老兵の声は、読み進むほどに低くなった。
「遺構区画の安全管理、および再開後の探索権の周旋は、今後、組合がこれを一括して行う。組合の設立母体は、ヴェルデ商工共済会、ならびに――バルドー商会」
板の前が、ざわめいた。
「再開後の探索権は、組合を『経由』してのみ、付与される。……つまり」ヴァンネスは、告示を、指の背で、弾いた。「遺構が開いたら、その入り口には、永代、商会の関所が建つってことだ。入札は一度きりの競りだった。こいつは、恒久の仕組みだ」
遺構の崩落と閉鎖は、商会にとって、痛手ではなかった。むしろ、好機だった。「安全管理」という誰も反対できない看板で、閉じている間に、仕組みを作る。開いたときには、全てが、組合の――商会のものになっている。
誰かが、吐き捨てた。
「穴が開いてる間は入札で搾って、閉じてる間に関所を建てる、か。……見事なもんだぜ」
◇
その昼、ガロが退院した。
治療院の門を、大男は、自分の足で、出てきた。肋は着き、頭の傷も塞がった。ただ、右腕だけが、まだ、布で吊られたままだった。
「よお。……辛気くせえ顔で迎えるんじゃねえよ」
ガロは、笑った。俺たちも、笑った。コッツが荷物を持とうとして「病人扱いすんな」と小突かれ、ミレアが「病人でしょ」と言い返し、いつもの調子が、そこにあった。
いつもの調子の、はずだった。
宿への帰り道、ガロは、吊った右腕を、時々、左手で押さえた。痛むのか、と訊くと、「いや」と首を振った。
「……重てえんだ。動かねえ腕ってのは、こんなに、重てえもんなんだな」
盾使いの右腕。大盾の全重量を、受け止め続けてきた腕。それが今、布一枚で首からぶら下がっている。
ミレアの診立ては、変わっていなかった。骨は着く。だが砕け方が悪い。盾を、以前のように構えられる保証は、ない。半年か、一年か。あるいは――。
その先を、誰も、口にしなかった。
◇
退院の夜は、飯にした。
ガロが、言い出したのだ。「退院祝いなんてのは、祝われる側が作るもんだ」と、大男は、あの鉄鍋を――買い戻した、メイセンの携行鍋を、竈にかけた。
だが、包丁が進まなかった。
根菜を押さえる右手が、ない。吊られた腕の代わりに、鍋の縁で野菜を押さえ、左手一本で、刻む。何度か、芋が、転がった。転がるたび、ガロは、何でもない顔で、拾った。
「……手伝うわよ」とミレアが、腰を浮かせかけた。
「座ってろ」
静かだが、譲らない声だった。ミレアは、座り直した。
俺たちは、いつもの倍の時間をかけて刻まれる根菜を、黙って、待った。手伝うのは、簡単だった。だが、この男が今、左手一本で刻んでいるのは、野菜だけではないことも、全員、分かっていた。
できあがった塩汁は、少しだけ、塩が濃かった。
「……しょっぺえな」と、ガロが、自分で笑った。「メイセンの野郎に、怒られちまう」
「うまいよ」とコッツが言った。「濃いのも、うまい」
「濃いのは、濃いんだよ」
憎まれ口の応酬の下で、汁は、湯気を立てていた。俺は、二杯食った。濃い塩の味は、その夜の隊の、何かの味に、よく似ていた。
◇
隊の稼ぎは、また、小口の依頼に戻った。
護衛。採取。井戸番。ガロは潜れない。前衛はリゲル一枚、索敵はコッツ、後衛はミレア。ヴァンネスが頭数に入ってくれる日は、深めも行けたが、無理はしなかった。
ガロは、地上の仕事を引き受けた。依頼の選定。買取の交渉。同盟――独立系の連中との、付き合い。動かない右腕の代わりに、大男は、十二年分の顔と信用で、隊を支えた。
支えて、いるように見えた。
だが、俺は、見てしまっていた。あの、病室の封を切られた雪見紙を。そして、退院の荷物の中に、あの便箋が、どこにも、見当たらなかったことも。
捨てたのか。仕舞ったのか。あるいは――返事を、出したのか。
訊けば、いい。それだけのことだった。「あの便箋は、何だ」と。五文字か、六文字の問いだ。
だが、その五文字が、俺の喉を通らなかった。
訊いて、何でもなければ、俺はガロを疑った男になる。訊いて、何かであれば――俺は、それを知った上で、どうすればいいのか、分からなかった。借金は、隊で返した。手綱は外れたはずだ。外れたはずの手綱の先を、確かめに行くのが怖かった。
信じるのと、見て見ぬふりをするのは違う。
ニラの言葉は、ずっと、胸の底に、刺さったままだった。刺さったまま、俺は、抜きもせず、押し込みもせず、日々の依頼で、その上に、薄く、土を被せ続けていた。
◇
その夜、俺は、見た。
宿の窓から、何気なく、通りを見下ろしたときだった。
ガロが、一人で宿を出ていくところだった。
外套を、深く被っていた。吊った右腕を、外套の内に隠すように。足取りは、酒場へ向かうそれではなかった。酒場は、東だ。ガロの背中は、西へ――中央区の、方角へ、消えていった。
中央区には何がある。
ギルド。裁定所。市場。そして――白亜の商会の館。
追えば分かる。俺の追跡なら、気取られずに、あの背中の行き先を、見届けられる。狩人の足なら、造作もない。
俺は、窓辺に立ち尽くしていた。
追わなかった。
仲間を、獲物のようにつけるのか。あの、瓦礫の下から「仲間は」と訊いた男を。ザッハを庇って、腕を砕いた男を。俺の秘密を売らなかった男を。
……売らなかった。あの日は。
頭の中で、誰かがそう付け足した。ドレンの、綿の声によく似た声だった。追い詰められた人間が、いつまで、立派でいられるか。
俺は、窓の鎧戸を閉めた。
閉めても、通りの西へ遠ざかる足音は、しばらく、耳の底に残り続けた。
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