第49話「落とし仔」
閉じ込められた空洞からの脱出路を、最初に見つけたのは、コッツだった。
「……ここ、風が抜けてる。細いけど、人一人なら通れそうだ。この先、下の層に繋がってる」
崩落で塞がれた坑道の脇。岩の裂け目から、細い風が吹き抜けていた。下へ続く道。
「下って……第七層より、下だぞ」と、商会の隊長格・ザッハが、顔をしかめた。「未踏区画だ。何が出るか、分からん」
「上は塞がってる」と俺は言った。「掘り返すには、何日もかかる。水も食料も保たない。……下へ降りて、別の登り口を探すしかない。危険だが、それが唯一の道だ」
敵味方十三人での、奇妙な脱出行が始まった。
リゲルとコッツが先導、ガロとザッハが中衛で負傷者を支え、ミレアが治療しながら全体を診て、殿は商会隊の斥候。〈鉄樹〉と商会隊の役割が、崩落を境に、混ざり合っていた。生きて帰る、というただ一つの目的の前では、天秤と樽の紋も、鉄樹の紋も、意味を失っていた。
裂け目の先は、下りの坑道だった。
遺構の建材と、自然の岩盤が、入り混じった異様な空間。青白い遺構の光は、次第に途絶えていった。代わりに、燐光の苔すら、生えていない、完全な闇。
そして――匂いがした。
血と、獣脂と、饐えた恐怖の、匂い。あの、西の主の匂い。
「……近い」と、俺は、足を止めた。「西の何かが、この、すぐ近くにいる」
足の裏が、告げていた。あの、等間隔の「足音」の主。逆流の、根源。眷属級の岩喰らいも、階層主の裂き腕も、すべてを、住処から追い立てた、その頂点。
それが、この、闇の先にいる。
◇
それは、突然、姿を現した。
いや、姿と言えるのか。
松明の光が届く範囲に、それの、一部があった。全体は、闇に溶けて見えない。ただ、途方もない、大きさだけが分かった。
巨大な、三本の爪。
一本が、人の背丈ほどもある、湾曲した爪。それが、闇の中から、ぬう、と突き出していた。岩を掻き、砕き、上へ、上へと、這い上がろうとする爪。
〈落とし仔〉。
第七層より下の、主。三本爪。前の〈鉄樹〉を、全滅させた、あの現場に、痕跡を残していた、化け物。
だが、それは――手負いだった。
いや、手負い、という言葉では、足りない。それは、ボロボロだった。全身に、無数の深い傷。片方の爪が、根元からもげている。体の、半分が、まるで、内側から崩れかけているように見えた。
つまり、こいつは「何か」ではない。
西の、さらに奥。落とし仔ですら、逃げてきた、その「何か」と。
「……逃げてきたんだ、こいつも」と、俺は、悟った。「逆流の、一番上にいるこいつすら。もっと、深い、何かから」
落とし仔は、俺たちに気づいた。
濁った、巨大な眼が、松明の光の中で、ぎょろりと動いた。飢えと、恐怖と、そして――逃げ場を、失った獣の、絶望がそこにあった。
崩落で、上への道が、塞がれている。落とし仔もまた、この闇に、閉じ込められていた。追い詰められた、頂点の捕食者。それが、俺たち、十三人の獲物を見つけた。
「――散開!」
俺の号令と、落とし仔の突進が同時だった。
◇
それは、絶望的な戦いだった。
落とし仔は、手負いでも圧倒的だった。一振りの爪が、岩盤を、豆腐のように抉る。ザッハの商会隊が、応戦しようと、隊列を組んだが――一薙ぎで、二人が吹き飛ばされた。
「まともに、受けるな!」と、俺は叫んだ。「躱せ! こいつの爪の、リーチの外へ!」
だが、闇が味方しなかった。松明の光は、限られている。落とし仔の、次の一撃が、どこから来るのか、見えない。
見えない、なら。
足の裏で、聴く。
俺は、目を、半ば、閉じた。岩喰らいから継いだ、振動の感覚。落とし仔の、巨体が動くたび、地が、震える。爪が、振り上げられるたび、重心が移る。それを読む。次の一撃の軌道を。
「――ガロ! 右だ! 下がれ!」
俺の警告で、ガロが、跳び退る。半瞬後、その場所を、爪が抉った。
「ザッハ! あんたの隊は、左! そこは、次に来ない!」
俺は、闇の中の十三人を、指揮した。足の裏で読んだ、落とし仔の、次の一手を、全員に伝える。誰も、俺がなぜそれを読めるのか、問わなかった。ただ、俺の声が命を繋いだから、皆従った。
だが、それにも、限界があった。
落とし仔の一撃が、ガロを捉えた。
いや――ガロは、ザッハを庇ったのだ。商会の隊長格。昨日までの敵。それを、庇ってガロは爪の直撃の軌道に、割り込んだ。
「ガロっ!!」
大盾が、爪を受けた。
ガロの盾は、名匠の一品だった。眷属級の一撃も、階層主の鎌も、受けきった鉄の盾。
それが――砕けた。
落とし仔の、一撃の前に、盾は、飴細工のように、ひしゃげ、砕け、そして、ガロの巨体が、岩壁まで、吹き飛ばされた。
「ガロ! ミレア、ガロを!」
ミレアが、駆ける。俺は、落とし仔の、注意を引きつけるため、前へ、出た。
だが、俺の、短刀では届かない。この、闇の巨体には。俺の、五年の狩りでは、この、頂点の捕食者は、狩れない。
なら。
俺の中の、継いだ力の、すべてを使うしかない。
隊の目がある。ザッハたち、商会の隊の目もある。俺の、秘密を見られる。
だが――ガロが、倒れている。仲間が死にかけている。
秘密より、命だ。
「――継いだ、力を、使う」
俺は、短刀を、逆手に構え直した。
そして、足の裏の、振動感覚を全開にした。岩喰らいの大地を読む力。裂き腕の剛腕と間合い。狂戦士の、戦場の勘。俺が、これまで狩ってきた、すべての、獲物の力を。
世界が、遅くなった。
落とし仔の動きの、すべてが、足の裏から、流れ込んでくる。次の一撃。その次。重心の移り。爪の軌道。もげた爪の死角。
見える。
闇の中でも、俺には見える。
俺は、駆けた。落とし仔の、爪の、嵐の、中へ。振り下ろされる爪の、内側を潜り、抉る岩の破片を、躱し、巨体の懐へ。
裂き腕のときと、同じだ。ただ、規模が桁違いなだけだ。
落とし仔の、もげた爪の付け根。そこに、露わになった、傷ついた皮膚の谷。急所。
俺は、そこへ、短刀を突き入れた。
落とし仔が絶叫した。
だが――倒れなかった。
頂点の捕食者は、この程度では死なない。俺の一撃は、致命傷にはならなかった。だが、痛撃にはなった。落とし仔は、俺という、小さいが鋭い脅威に、初めてたじろいだ。
「今だ! 全員、下の坑道へ! 落とし仔が、怯んでる間に!」
俺は、叫んだ。ザッハが、頷き、商会隊が負傷者を、担いで走る。ガロを、コッツとミレア、二人がかりで支える。
俺は、殿で落とし仔の注意を引きつけた。偽の足音を、岩に叩きつけ、本隊の逃げる音を隠す。手負いの、猪を山で撒くやり方で。頂点の捕食者を相手に。
全員が、坑道に滑り込んだ。
俺も、最後に、闇に背を向けて走った。
落とし仔の、絶叫が、背後で闇を揺らした。それは、怒りとも、飢えとも、つかない――どこか、途方に暮れた、獣の叫びだった。逃げ場を、失い、頂点の座から、追い落とされ、なお飢えている、化け物の。
その叫びを、俺は、生涯、忘れないだろうと思った。
――思い出せるうちは。
◇
坑道の、少し開けた場所で、俺たちは、ようやく、足を止めた。
ガロは、意識を失っていた。
肋が、数本折れ、右腕が砕けていた。ミレアが、必死に、治療を続けている。命は取り留めた。だが、重傷だった。
そして――俺の、秘密を。
隊の全員が。ザッハたち、商会の隊も。見ていた。
闇の中を、化け物の、爪の嵐を、潜り抜けて、頂点の捕食者に、痛撃を与えた俺の姿を。
誰も、口を開かなかった。
ただ一人、コッツが、俺を見ていた。
その目には、感謝でも、称賛でも、なく――怯えに、近い何かがあった。
「……兄貴」
コッツの、声が、震えた。
「今の、あれ……人間の、動きじゃ、なかった。……兄貴、あんた、いったい――」
第49話更新です!
実家に帰っておりまして、更新できず申し訳ないです<(_ _)>




