第37話「空白の頁」
その夜、俺はいつものように、名前を唱えた。
寝台に腰かけ、灯りを消して。母。親父。じいさん。ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。ニラ。
一人ずつ、名前と覚えていることを数える。
じいさんのところで、指が止まった。
ベテル。俺に生き方の背骨をくれた人。狩りを、五年かけて教えてくれた人。罠の張り方。風の読み方。急所の突き方――。
初めて、獲物を仕留めた夜。
あれは、いつだった?
冬だった。それは分かる。狼の群れだった。それも分かる。じいさんと二人、崖沿いの谷へ追い込んだ。七頭。「仕留めろ」と、じいさんは言った。「お前の罠にかかった獲物だ。お前が終わらせてやれ」――そこまでは、言葉として言える。
だが。
その夜の、景色がない。
谷の雪の色が。狼の目の光が。震える手で刃を入れた、あの瞬間の重さが。じいさんが最後にかけてくれた言葉が――『それでいい。ためらいは獲物への礼儀だが……』その先が白い。
切り抜かれたように、白い。
冷たいものが、背筋を這い上がった。
――裂き腕だ。
昨日の継承。消えた感覚がない、と思った。喪失は遅れてくる。
よりによって、消えたのは。
初めて狼を仕留めた夜。じいさんが、俺に「終わらせること」を教えた夜。俺が狩人になった、その、始まりの夜。大事にしている思い出は、消えにくいだけで消えない訳ではなかった。
継いだのは、四本腕で敵を裂く、殺しの力。失ったのは、俺が初めて、まっとうに命を終わらせた記憶。
皮肉にもほどがあった。
◇
翌朝、俺はニラの窓口へ行った。
開店前の、まだ客のいない時間。ニラは俺の顔を見た瞬間、何かを察したらしかった。羽根ペンを置いて、静かに訊いた。
「……消えた?」
「ああ」
「何が」
俺は話した。初めて狼を仕留めた夜。じいさんとの、狩人の始まりの記憶。それが、丸ごと白くなったこと。
ニラは、いつものように手帳を開いた。二冊目――村の記録の帳面を。
開いて。ペンを持って。
そして、動きが止まった。
「……書けない」
声が、小さかった。
「その夜のこと、手帳には、書けない。……だって、私、その場にいなかったんだもの。リゲルとじいさんの、二人だけの山の中の夜でしょう。景色はリゲルの中にしか、なかったの」
手帳の頁が、開かれたまま白かった。
今まで、俺が何かを失うたび、ニラの手帳が、それを補ってきた。母の顔は、似顔絵で。村の冬は、ニラの見た冬で。写し絵は原画にはなれない、と分かっていても、それでも、輪郭だけは、繋ぎ止められた。
だが、今度は。
誰も見ていない、俺一人の記憶は、俺が失えば、この世から完全に消える。
手帳という外部には、書けない。
――そのはず、だった。
だが、ニラは、ペンを置いて静かに言った。
「……でもね、リゲル。私、その夜のこと、知ってる」
「え」
「昨日の夜。あんた、話してくれたでしょう。初めて狼を仕留めた夜のこと。七頭を谷に追い込んで、震える手で刃を入れて、じいさんに『ためらいは獲物への礼儀だが、手を止める理由にはするな』って言われた、って」
昨日の、夜。
決戦の前夜。俺が、なぜだか無性に、誰かに預けておきたくて、話した記憶。
「手帳には、書かなかった。書けなかったから。……でも、私の頭には入れた。だから、」
ニラの声が、震えた。震えながら、それでも、はっきりと。
「リゲルが忘れても、私が覚えてる。あんたの初めての夜は、消えてない。ここに――」
ニラは、自分の胸を、とん、と押さえた。
「ちゃんと、ある」
声を、失った。
昨夜、俺がなぜあの記憶を話す気になったのか。ずっと、分からなかった。決戦を前にした験担ぎだと思っていた。違った。俺の中の何かが――たぶん、失うことを繰り返してきた本能が、知っていたのだ。この記憶が、危ないと。だから、消える前に預けろと。
手帳には、書けなかった。誰も見ていない、俺一人の夜だから。
だが、口で話し、耳で聞くことは、できた。
紙より前の、一番古い記録の形。人が、洞穴の火のそばで、狩りの話を語り伝えた、あの形。
「……ずるいな、あんたは」と、俺は言った。声が、掠れた。
「なんで」
「昨日、俺に話させたのは。……こうなるのを、狙ってたのか」
「まさか」ニラは涙を拭って、笑った。「ただ、なんとなく。あんたが強い狩りの前に、大事な記憶を預けたそうな顔してたから、聞いただけ。……でも、そうね。これからは、狙う」
ニラは、二冊目の手帳の、白いままの頁に、それでも、一行だけ書いた。
『リゲルの初めての夜。景色は書けない。でも、私が聞いた。私の中にある。――以上、記録の代わりに、証人になる』
証人。
書き写せない記憶のための、生きた証人。それが、この日から、ニラが自分に課した、新しい役目だった。
俺は失っていく。それは止まらない。止められない。だが、失う前に話す。ニラが聞く。二人の頭に入れておけば、片方が忘れても、もう片方が覚えている。忘却に、二人がかりで抗う。
孤独な喪失が、二人で抱える喪失に、なった。
◇
その日から、俺の夜営の報告は、少しだけ長くなった。
潜行のたび、ニラにその日見たものを話した。第五層の岩の色。裂き腕の血の匂い。継いだ力の感触。それから――思い出せるうちの、古い記憶も。
村の夏祭りの、笛の音。父と山菜を採りに行った日の、湿った土の匂い。じいさんの小屋の、囲炉裏の炭の爆ぜる音。
ニラは、聞いた。手帳に書けるものは書き、書けないものは、ただ、聞いた。聞いて、頷いて、時々、笑った。
それは、奇妙に、穏やかな時間だった。
――思い出は消えても、教わった型は、体に残ってる。
俺は、自分にそう言い聞かせていた。強がりだと、分かっていた。初めて狼を仕留めた夜の記憶は消えても、そのとき教わった「終わらせ方」は、体に残っている。じいさんの狩りは、俺の血肉になっている。だから、大丈夫だ。景色は消えても、俺は、俺の狩りを、続けられる。
だが、その強がりの底で、俺は、一つの問いから、目を逸らし続けていた。
もし、いつか。
型ではなく、想いのほうが――ニラとの、あの丘の記憶のような、俺の芯そのものが消えたら。
そのとき俺は、まだ、俺でいられるのか。
その問いに、答えを出さないまま、俺は今夜も、ニラに、古い記憶を一つ、手渡す。
消えてしまう前に。二人の頭に、残すために。
窓の外の冬空には、巨人の星座が、変わらず昇っていた。三ツ星の真ん中の星が、赤い星と青い星の間で、静かに、二つを繋いでいた。
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