第35話「第五層踏破」
偽依頼の一件のあと、しばらく商会は動かなかった。
不気味な静けさだった。ガロは「一度しくじった手は、間を置く。次の手を練ってるんだろう」と読んだ。ヴァンネスは「あるいは、俺たちの評判が上がりすぎて、迂闊に手を出せなくなったか」と言った。どちらにせよ、束の間の凪だった。
その凪の間に、〈鉄樹〉は着実に力をつけていった。
冬の稼ぎの方針は続いていた。割のいい依頼を選び、深めの層へ潜り、堅実に積む。ミレアの前借りは完済し、隊の帳面は初めて黒字の余りを持った。何より隊としての練度が、目に見えて上がっていた。
変化は、俺自身にもあった。
隊列に留まる、というミレアの教えが、ようやく体に馴染んできた。以前は窮屈でしかなかった「盾の半歩後ろ」が、今は、呼吸の置き場所になっていた。ガロの盾を信じ、コッツの索敵を信じ、ミレアの回復を勘定に入れて立ち回る。一人で完結しない戦い方は、覚えてみれば、一人のときより、ずっと遠くまで手が届いた。
コッツは字を覚えた。ニラの授業のおかげで、今では簡単な報告書なら自分で書く。相変わらず地名は形で覚える癖が抜けないが、「読めるようになったら、依頼の但し書きの罠が見えるようになった」と、いっぱしのことを言うようになった。
ミレアは、少しだけ、隊に情を見せるようになった。まだ料金表は手放さないが、コッツが無茶をすると本気で叱り、ガロが無理を隠すと先回りで手当てをする。妹のリタの手紙が届いた日は、分かりやすく機嫌がいい。
眷属級を獲り、偽依頼の罠を返し、拾い屋を暴いた〈鉄樹〉の名は、今や中堅の中でも一目置かれる存在になっていた。掲示板の前で、俺たちが依頼を選ぶ横で、新人が遠慮がちに道を空けるようになった。かつて「星無しと組むと星を吸われる」と囁かれた俺の名も、今は「眷属級を仕留めた狩人」に上書きされていた。
――上書きされた噂の下に、本物の秘密が眠っていることを、知る者はいなかったが。
◇
その日、俺たちは第五層の本格的な踏破に挑んでいた。
眷属級を討った後、五層の壁は開通したが、第五層そのものを端から端まで踏破した記録は、逆流騒ぎ以降、途絶えていた。ギルドから「五層全域の現況調査」の正式依頼が出て、それを受けられる隊は、実績の上で〈鉄樹〉が筆頭だった。
皮肉なものだ、とヴァンネスは笑った。あれだけ異変を握り潰したギルドが、今度は正式に、俺たちに調査を頼む。「握り潰した報告書と同じ中身を、金を払って買い直してるようなもんさ」と。
第五層は、眷属級のいた頃の死の静寂から、少しだけ生気を取り戻していた。
逃げていた魔物の一部が、戻り始めていた。岩喰らいの小型種が岩盤を齧り、蟲が羽を鳴らす。だが、西側は――相変わらず、静かだった。
「西の空白は、変わってねえな」と、俺は地図に印を入れながら言った。
調査用の地図の上で、それは奇妙な模様を描いていた。
東側には、印が密に散る。魔物の痕跡。縄張りの標。糞。食い痕。生き物の営みの、あらゆる印。それが、地図の中央を過ぎ、西へ寄るにつれて、まばらになり――ある線から先は、ぱたりと、消える。
白紙だ。生き物の痕跡が、何一つ、ない。
「便利なもんだな」と、ヴァンネスが、自分の帳面に、同じ線を写しながら、唸った。「魔物どもが、体を張って、教えてくれてる。『ここから先には、住めない』ってな。……逆流の見取り図が、そのまま、化け物の縄張りの地図になってやがる」
「線の形が、気になる」と、俺は言った。「まっすぐじゃない。緩く、弧を描いてる。……何かを、中心にした、円の一部みたいに」
円の、中心。西の奥の、さらに奥。地図の、外。
コッツが記録を取り、俺が痕跡を読み、ガロが道を拓く。踏破は順調に進んだ。俺たちは今や、この層の歩き方を体で覚えていた。
昼を回った頃、俺たちは第五層の東端――第六層への下り口に辿り着いた。
そこで、俺の足が止まった。
「……匂う」
血の匂い。それも、大量の。人ではない、魔物の血。それも、複数。
下り口の先、第六層への坑道から、濃い血の匂いと、饐えた恐怖の匂いが、風に乗って上がってきていた。
「何かが、この下で、大量に死んでる」
「調査は第五層まで、が依頼だ」とガロが確認するように言った。「第六層は、範囲外だぞ」
「分かってる。だが、覗くだけだ。……この匂いの正体を確かめずに帰るのは、狩人の性に合わない」
慎重に、下り口に近づく。
坑道の少し先、第六層の入り口の広間に、それはあった。
針顎の群れの、死骸の山だった。
十を超える深層種が、折り重なって死んでいた。どれも、喉と腹に、正確な一撃。以前、第五層で見た「駆除」の痕と、同じだ。だが、規模が違う。あのときは三体。今度は、群れごと。
そして、死骸の山の中央に、一つだけ、質なものがあった。
巨大な、腕だった。
針顎のものではない。魔物の、片腕だけが、死骸の山に混じって落ちていた。人の胴ほどもある太さ。肘から先が、鋭い鎌のような一枚刃になっている。その刃には、無数の刃こぼれと、乾いた黒血。
「……〈裂き腕〉の、腕だ」
ガロの声が掠れた。
「第六層の階層主だ。腕が四本ある。そのうちの一本が――もげてる」
階層主の腕が、もげている。
針顎の群れを駆除したのは、この裂き腕だろう。だが、その裂き腕自身も、腕を一本失っている。つまり――裂き腕ですら、何かと戦い傷を負った。
西の、あれと。
「……逃げてきたんだ、こいつも」
俺は、もげた腕を見下ろして言った。
「西の何かから、第六層の階層主が、上へ逃げてきた。逃げる途中で、縄張りを主張する針顎の群れと鉢合わせて、片っ端から駆除した。そして今、腕を一本失ったまま、この上のどこかにいる」
沈黙が、坑道に満ちた。
眷属級の岩喰らいが逃げた。第六層の階層主・裂き腕が、逃げてきた。逆流は、もはや小物の話ではなかった。迷宮の秩序の頂点に近い連中が、次々と、住処を追われている。
「――上に、いるってことは」とコッツが、乾いた声で言った。「そいつ、おれたちの稼ぎ場に、上がってくるってことか」
「時間の問題だな」とヴァンネスが答えた。「五層の壁が開いたばかりだ。裂き腕にとっちゃ、上への道は、もう塞がっちゃいねえ」
俺は、じいさんの手紙の一文を思い出していた。
――階層主が上がってきたときだけは、逃げるな。狩れ。
まるで、これを予見していたかのような一文。あのとき俺は、それを恩師の助言として畳んで仕舞った。今、その一文が、坑道の暗がりで、静かに開き直っていた。
「引くぞ」と俺は言った。「調査は第五層まで。第六層の主が上がってくるなら、それは、また別の狩りだ。……支度が要る。眷属級のときより、ずっと入念な支度が」
帰り道、俺の足の裏には、あの日継いだ「岩の感覚」が、坑道の下の、遠い西の振動を、微かに拾い続けていた。
第35話更新です!
戦闘描写がもっと迫力ある切羽詰まった感じで書けないものか(´;ω;`)




