第32話「ミレアの妹」
異変は、精算の卓で起きた。
週の稼ぎの分配。いつも通り、ミレアが帳面を広げ、いつも通り、桁一つ間違えない計算で銀貨が分けられ――その手が、途中で止まった。
「……ガロ。悪いんだけど、来月分の日当、前借りできる?」
卓が静まった。
ミレアが、金の話で「悪いんだけど」と言った。天地がひっくり返っても聞けないはずの言葉だった。コッツなど、あからさまに耳を疑う顔をしている。
「構わねえが……いくらだ」
「銀貨、四十」
四十。生半可な額ではない。ガロは金額に眉一つ動かさず、ただ静かに訊いた。
「事情は、訊いていい話か」
ミレアは長いこと帳面を見つめて、それから、諦めたように懐から一通の書状を出し、卓の真ん中に置いた。
上質な紙。頭に、星をあしらった印章。
『星辰教会リディア大聖堂付属・聖救療院より。貴殿の預かり人リタ嬢の療養費(星灯料を含む)につき、次期より下記の通り改定する――』
読み上げたコッツが、途中で声を裏返した。
「な、なんだこれ。今までの、倍近えぞ」
「……妹よ」
ミレアは、観念したように話し始めた。
「リタ。十二になる。あたしと十も離れてるの。……両親は流行り病で死んで、あたしたちは二人まとめて教会に引き取られた。あたしは治癒の才があったから、術士見習いに。リタは体が弱くて、生まれつき心臓に雑音があるから、療養院に。……そこまでは、教会に感謝してるのよ。本当に。あの冬、教会が拾わなきゃ、あたしたちは二人とも死んでた」
「破門されたときに、妹さんは」とガロ。
「置いてきた。……置いていくしか、なかった。療養院の外じゃ、リタの体はもたない。薬も、術も、あの設備も要る。だから破門のとき、あたしは一筆入れさせられたの。『退院までの療養費は姉が納め続ける』って。……向こうも分かってるのよ。あたしが絶対に払うって。だから、値は向こうの言い値」
人質、という言葉を誰も口にしなかった。しなかったが、卓の全員が、同じ言葉を呑み込んだ音がした。
「今までも高かった。でも払えてた。眷属級の稼ぎもあったし。……ただ、この改定はおかしい。理由書きを見て」
それから、と、ミレアは一拍おいて、付け足した。
「……破門の日にね。療養院に、リタの顔を見に行ったの。最後になるかもしれないから。そしたら、面会室で司祭様が先に待ってて、にこにこしながら、例の一筆を出してきた。『退院までの療養費は姉が納め続ける』。あたしが署名するまで、リタには会わせない、って顔でね」
「……署名したのね」とミレアは自分で言って、自分で笑った。「するでしょ、そりゃ。それで面会は許された。十五分。リタはあたしの破門を知らされてなくて、『おねえちゃん、外のお仕事が決まったんだね、おめでとう』って。……あの十五分の間じゅう、あたしは笑ってた。人生で一番上手に笑えた十五分だったと思う」
卓の上の書状に、誰も手を伸ばさなかった。
慈善の看板の下に、勘定台がある。それを一番よく知る女が、それでも教会に「感謝してる」と言う。この二つが両立してしまうことが、あの組織の一番の強さで、一番の質の悪さなのだった。
書状の下段に、慇懃な文字が並んでいた。
『昨今、辺境諸域において「星喰らい」の兆候が相次ぎ報告され、聖務および加護の維持に多大の費えを要するに至った。ついては各位の星灯料に相応の負担を願うものである――』
「……星喰らい?」と、俺は訊いた。声が、思ったより硬くなった。
「教会のお伽噺よ」ミレアは肩をすくめた。「他人の星を喰って強くなる化け物がいる、って説話。年寄りの説教の定番。子供を脅すやつ。『言うことを聞かないと、星喰らいに星を吸われるよ』ってね。……それを値上げの口実に使うんだから、いい商売よね」
お伽噺。
俺は、書状の「相次ぎ報告され」の一行から、目を離せなかった。お伽噺は、値上げの口実には使えても、「報告」はされない。報告される、ということは、教会のどこかに、報告を受け取って数える窓口がある、ということだ。
他人の星を喰う化け物を、数えている窓口が。
卓の下で、俺は自分の掌を静かに握った。
「――よし、分かった」
ガロが、卓を仕切り直した。
「前借りは通す。それとは別に、提案だ。冬の間、割のいい依頼を優先で回す。指名料の高い護衛と、深めの層の採取だ。隊の稼ぎの底上げってことにすりゃ、誰の施しでもねえ」
「……回りくどい親切ね」
「親切じゃねえ、経営判断だ。うちの治癒術士に金の心配で腕を鈍らされちゃ、隊が損する」
ミレアは、ふ、と息だけで笑った。それから、初めて見る不器用な仕草で、頭を下げた。
「…………借りとく。利子は、装備の点検無料で」
「元からタダだろうが、それ」
「気づいてた?」
卓に、少しだけ笑いが戻った。
◇
帰り際、ミレアが俺を呼び止めた。
宿への道の途中、街灯の下で、彼女は懐から小さく折った紙を出した。
「……見る? リタの手紙。先月の」
広げると、癖のある丸い字が並んでいた。
『おねえちゃんへ。おかげんいかがですか。わたしはへいきです。せんせいに、しんぞうのおとが、ふゆはすこしおとなしいと、ほめられました。おねえちゃんのはたらいているまちには、ほしがたくさん見えますか。こちらのまどからは、ふゆのきょじんが見えます。おねえちゃんもおなじほしを見ていたら、うれしいです』
「……いい字だ」
「でしょ。習ったのは療養院の先生だけど、丸いのは生まれつき」
ミレアは手紙を丁寧に畳み直して、懐に戻した。
「あたしがどうして専属を嫌ってたか、これで分かったでしょ。専属になると、隊の都合で街を離れられなくなる。リディアは遠いのよ。何かあったとき、飛んでいける身軽さだけは、売りたくなかった。……それを曲げてまで、なんで鉄樹に入ったんだったかしらね。我ながら」
「情が湧いたんだろ」
「……勘定を間違えた、って言って」
ミレアは憎まれ口を叩いて、それから、街灯の先の夜空を見上げた。冬の巨人が、南の空に高く昇っていた。妹の窓から見えるのと、同じ星座を。
「リゲル。あんた、あの説話――星喰らいの話のとき、変な顔してたわね」
心臓が、一つ、跳ねた。
「……そうか?」
「そうよ。まるで、お伽噺だと思ってない顔。……ま、いいけど。あんたの秘密はあんたのもの。あたしは値札のない詮索はしない主義なの」
ミレアはひらひらと手を振って、寮の方へ歩いていった。
一人になった街灯の下で、俺は白い息を吐いた。
星喰らい。
教会が数え、報告を集めている「兆候」。それが本当に俺と同じ何かのことなら――大陸のどこかに、俺と同じ力を持つ「誰か」が、他にもいて、そして教会に見つかり始めている、ということになる。
じいさんの手紙の一文が、また、頭をよぎった。
こぼれた水の行き先を知る者は、僅かだが、いる。
――なあ、じいさん。その「僅か」ってのは、いったい、何人いるんだ。
冬の巨人の赤い星が、答えない代わりに、じっと、こちらを見下ろしていた。
◇
こうして〈鉄樹〉の冬は、「稼ぐ冬」と決まった。
ガロは宣言通り、割のいい依頼を選って受けた。指名料の乗った護衛。深めの層の採取。危険と実入りの釣り合った仕事を、堅実に、一つずつ。ミレアの前借りは月半ばには半分埋まり、隊の帳面は、ゆっくりと上向いた。
金が要る隊が、金を欲しがっている。
そのことは、街の然るべき筋にも、然るべき速さで、知れ渡っていたのだろう。そういう隊の前にこそ、「うますぎる話」は、置かれる。
数日後の朝。ギルドの窓口で、ニラが一通の指名依頼を俺たちに差し出した。その表情はいつになく硬かった。
第32話更新です!
世間は夏休みでうらやましい限りですね~
社会人の皆様は金曜日頑張りましょう!




