第31話「幕間・余白の記録」
※本話は、受付嬢アルニラムの視点でお送りします。
◇
受付の窓口というのは、街の胸の真ん中にある小さな窓だ。
朝、窓を開けると、今日も潜る人たちが列を作る。夕方、窓を閉める頃、帰ってきた人たちが列を作る。朝の列と夕方の列は、たいてい同じ顔ぶれで、たまに、違う。
その「たまに」を、私は判で処理する。
未帰還。処理済み。二つの判は、窓口の抽斗の一番奥に入れてある。一番奥にしまうのは先輩に教わった。「手前にあると、目に入るたびに嫌になるから」って。この仕事の知恵は、だいたいそういう種類のものでできている。
先輩といえば、隣の窓口のロメリア先輩は、この道十五年の大先輩だ。
初日に、先輩は私にこう言った。「いい、ニラちゃん。この仕事で一番大事なのはね、名前を間違えないこと。それだけ。金額は直せる。日付も直せる。でも、間違えた名前で呼ばれたことは、その人の中で直らないの」
それから、こうも言った。「二番目に大事なのは、泣くなら書庫で泣くこと」
私はまだ、書庫で二回しか泣いていない。先輩は「十五年で何回か、もう数えてない」そうだ。この窓口は、そういう場所だ。街の胸の真ん中にあるということは、街の心臓の音も、心臓の止まる音も、一番近くで聞こえるということだから。
私、アルニラム。十五歳。ヴェルデ支部の受付嬢。
みんなはニラって呼ぶ。名付けたのはお母さんで、意味は「真珠の紐」なんだって。ばらばらの珠を、一本に繋ぎとめる紐。受付の仕事は、ちょっとそれに似てると思う。冒険者さんたちの依頼と報酬と生き死にを、台帳の上で一本に繋ぐ仕事だから。
……なんて言うと格好いいけど、今日の私は、書庫の整理を押し付けられて埃まみれである。
◇
記録の癖がついたのは、九つのときだ。
うちは村で一軒だけの雑貨屋で、行商のおじさんが年に何度か、仕入れと一緒に古本を置いていってくれた。読み終えた本を返すとき、私はいつも泣きそうになった。返したら、お話を忘れてしまう気がして。
それで、書き写すことを覚えた。好きな行だけ、帳面に。
そうしたら、あるとき気づいたのだ。書き写した行は、本を返しても、私のものだった。紙に覚えてもらえば、忘れても、なくならない。
――人の頭は、忘れるようにできている。
これは、私の一番古い、一番確かな発見だと思う。だって私は、大好きだった行商のおじさんの顔を、もう思い出せない。おじさんがくれた本の題名は、帳面に全部残っているのに。
だから、リゲルの話を初めて聞いた夜、私はたぶん、この街の誰よりも早く、あの力の恐ろしさが分かった。
忘れることの手触りを、知っていたから。
◇
リゲルのことを書く。
これは私の手帳だから、何を書いてもいいのだ。
リゲルは、無愛想だ。筋金入りだ。九つの頃から知っているけど、あの人が声を上げて笑ったところを、私は片手で数えるほどしか見ていない。
でも、知っている。あの人の「うん」には五種類くらいあって、「大丈夫だ」には嘘のときの音があって、私の皿から芋を取らないくせに、私が皿に乗せた芋は必ず食べる。
それから――これは手帳にしか書けないけど。
あの人が村を出るって決めたとき、私が受付の採用に飛びついたのは、偶然じゃない。おかしいでしょう。分かってる。でも、あの無愛想が一人で知らない街に行くのだと思ったら、居ても立ってもいられなかったのだ。誰かが記録しないと、あの人は自分の頑張りを、ぜんぶ「当たり前」の顔で捨ててしまうから。
……好きなんだと思う。たぶん。九つの頃から、ずっと。
でも、この気持ちには、変な引っかかりが一つある。
丘だ。
村の見送りの丘。あそこのことを考えると、いつも、何かを忘れている気がする。大事な何か。ずっとずっと昔、あの丘で、私は――何かを、した? 言った? 聞いた?
思い出せない。手帳を付け始める前の、九つより前の記憶だ。紙に覚えてもらう前の私のことは、誰も覚えていてくれない。
忘れるようにできた頭を持って、私も生きている。
リゲルの消えた記憶を書き写しながら、ときどき、怖くなる。私はあの人の「村の冬」を書いた。でも私の書いた冬は、私の見た冬だ。あの人の見た冬とは、きっとどこか違う。写し絵は、原画にはなれない。
それでも書く。ないよりは、ずっとましだから。
◇
今日、書庫の整理をしていて、変なものを見つけた。
封緘文書の棚。立ち入りは支部長の許可制で、私は目録の照合をしただけだけど、真新しい封緘が一つ増えていた。日付は先月。整理番号の横の摘要欄に、几帳面な字で『五層調査の件』。
リゲルたちの報告書だ。
封蝋の上から、ちょっとだけ、指で触ってみた。この中に、あの人たちが命懸けで数えてきたものが入っていて、封をしたのは、命を懸けていない誰かだ。
……忘れないでおこう、これも。
目録の写しの余白に、私は小さく書いた。『封緘一件、五層調査。捺印は支部長。立会、外部一名(署名なし)』。署名なし、というのが、たぶんこの余白で一番大事な五文字だ。署名をしない人ほど、その場にいたことを、後で忘れたがるものだから。
◇
夕方、窓口に戻ると、〈鉄樹〉の報告書が回ってきた。
第二層、間引きと採取。全員帰還。リゲルの書く報告書は、相変わらず短い。『討伐二十三。採取、上物三十一株。特記事項なし』。……特記事項なし、じゃないでしょう。あなたの隊、今日、新人の隊が灰犬に囲まれてたのを、通りすがりに丸ごと助けたって、もう窓口中の噂なんですけど。
余白に、書いておく。
『特記事項あり。本人が書かないので受付が書く。新人隊〈青麦〉五名、無傷で生還。リーダーの子が「鉄色の盾の隊に助けられた」と三回言った』
ペンを置いて、ふと、手が止まる。
最近、気づいてしまったことがある。
私、リゲルの笑い方を、ひとつ思い出せない。
十二の夏だったと思う。川で、あの人が珍しく、本当に珍しく、声を出して笑った日があった。何がおかしかったのか、どんな声だったのか。あったことは覚えているのに、中身が、霞んでいる。
あの人の病気が、うつったわけじゃない。これはただの、普通の忘却だ。人の頭は忘れるようにできている。九つの私が発見した、あの当たり前が、私にも等しく効いているだけ。
だけど、思う。
忘れていくのは、あの人だけじゃないんだ。私も、忘れる。街も忘れる。台帳も、いつか黴びる。だから記録は、一人でやる仕事じゃ、本当は足りないのだ。私があの人を書いて、誰かが私を書いて、そうやって紐を編んでいくしか、ないのだと思う。
手帳の今日の頁の最後に、いつもの一行を書く。
『リゲル、今日も帰ってきた』
この一行を書ける日が、一日でも長く続きますように。
窓の外、冬の空に、三ツ星が昇り始めていた。私の名前の星は、あの真ん中。青い星と赤い星の、ちょうど間で光る星だと、お母さんが教えてくれた。……先だっての星祭りの夜、リゲルと見た、あの星だ。
あの夜のことは、忘れないように、手帳の一番いい頁に、書いておいた。焼き林檎の味も、語り部の声も、丘から見た街の灯りも。リゲルは「忘れても覚えていてくれ」と言ったけれど、あの夜だけは、私が忘れる気がしない。書かなくても、たぶん、覚えている。……でも、念のため、書いておいた。人の頭は、忘れるようにできているから。
第31話更新です!
今回は、ニラ視点での幕間を書いてみました。
次話からは物語に戻ります。




