第21話「岩喰らい猟」
夜明け前に入穴し、五層の壁に取り付いたのは、昼を回った頃だった。
眷属級は、いた。
壁の登り口から二百歩の岩原。欠けた岩甲を苔あかりに鈍く光らせ、岩盤に角を立てては、齧るように削っている。縄張りの真ん中で、傷を癒しながら巣を作る。手負いの獣の典型だった。そして手負いの獣は、健常な獣の倍、警戒深い。
「配置につく前に、最後にもう一度だけ言っておく」
岩陰で、俺は皆の顔を順に見た。
「今日の狩りは、九割が『待ち』だ。仕掛けが全部嵌まるまで、誰も、何があっても、決められた場所から動かない。動いていいのは、ミレアの数が『時』を告げたときと、俺が笛を三度吹いたときだけ。……もう一つ。しくじったら、深追いは無しだ。全員で登って、全員で帰る。獲物は逃げても、また狩れる。頭数は、戻らない」
「復唱はいるかい、隊長どの」とガロが笑い、
「前金はもう貰ってるから、ちゃんと働くわよ」とミレアが言い、
「へへ、腕が鳴るぜ」とコッツが石袋を叩き、
「……若いのに仕切られる日が来るとはな」とヴァンネスが古傷の目を細めた。
配置まで、半刻。
ガロとヴァンネスが旧登路を回り込み、岩庇の上へ。石工の倅と、頭上の岩の機嫌を読む男が、二十年もちこたえた亀裂に、静かに楔を打ち増していく。ミレアは中間の岩陰の治療点へ。俺とコッツは、岩原を見下ろす二つの岩棚に分かれ、縄で吊った「足音」の石を、それぞれ三つずつ仕込んだ。
準備は整った。
あとは、油だ。旧登路の最後の下り坂――袋小路へ落ち込む十五歩分の斜面に、俺は樽の油を静かに撒いた。岩喰らいの武器は、止まらない突進。ならば最後の十五歩で、止まる自由ごと奪う。
全ての支度を終えて、俺は自分の岩棚に戻り、笛を握った。
ミレアの岩陰から、布切れが一度だけ振られる。全員、配置完了の合図。
――始めよう。
◇
最初の「足音」を、コッツが落とした。
どん。
岩原の東端。重い一歩分の振動。岩盤を齧っていた眷属級の動きが、ぴたりと止まる。体表の赤い皮膚が、東を「向く」。
十を数えて、二歩目。どん、どん。
眷属級は、動かなかった。角を低くしたまま、じっと振動を「聴いて」いる。前回のような、即座の突進はない。……やはり、警戒している。あの日、偽の足音に裂かれて柱に激突した記憶が、獣なりの学習として残っているのだ。
「(賢くなってやがる)」
だが、それでいい。学習した獣ほど、学習の裏を掻かれる。
俺は自分の棚から、俺の「足音」を落とした。コッツの音より軽く、律動を乱して。一つの重い足音と、一つの軽い足音。大物と小物、二つの獲物が東にいる――そう聞こえるように。
眷属級が、一歩、東へ動いた。
もう一歩。
誘いに、乗り始めた。俺とコッツは息を合わせ、「二つの獲物」を少しずつ、東へ、旧登路の入り口へと歩かせていく。焦らない。獣の疑心が緩む速さでしか、音は動かさない。一歩進めては、長く待つ。待つ間、ミレアの岩陰から、規則正しい布の合図が時を刻み続けた。
半刻かけて、眷属級は旧登路の入り口に立った。
廃道の奥から、コッツの最後の「足音」が、袋小路の方角で鳴る。どん、どん、どん。追い詰めた獲物が壁際で足掻くような、速い律動。
眷属級の四肢が、沈んだ。
――来る。
突進は、岩の雪崩に似ていた。廃道の壁を削り、火花を散らし、巨体が一直線に加速していく。曲がり角を岩甲で擦りながら曲がり、最後の下り坂へ。
油の斜面に、前脚が乗った。
杭のような爪が、初めて、岩を掴み損ねた。
巨体が滑る。速度を殺せぬまま、質量のすべてが袋小路へ雪崩れ込み――頭上で、ガロの怒号が響いた。
「今だジジイ! 抜けェッ!!」
楔が、抜かれた。
二十年分の亀裂が、一斉に悲鳴を上げた。岩庇が根元から折れ、家一軒分の岩塊が、袋小路へ落ちる。
世界が、揺れた。
轟音と土煙。岩棚の上の俺の足元まで、衝撃が突き上げてくる。落石は眷属級の背から後肢を捉え、巨体を岩床へ縫い付けた。岩甲が砕ける音。獣の、初めて聞く絶叫。
それでも、死ななかった。
土煙の中で、前脚が岩塊を押し上げようと軋んでいる。眷属級の生命力は、こちらの見積もりの、さらに上を行っていた。
だが――腹が、見えていた。
押し潰された体勢のまま、胴が捻れ、岩甲の継ぎ目が、赤い皮膚の谷が、露わになっていた。
笛を、三度吹いた。
俺は岩棚を蹴り、崩落の斜面を駆け下りた。土煙の中へ。前脚の暴れる圏内の、その内側へ。継ぎ目までの距離、五歩、三歩――前脚が岩塊を撥ね上げ、破片が頬を裂く。構わない。一歩。
短刀を、両手で、谷へ突き入れた。
岩の皮膚の下は、驚くほど柔らかかった。刃が根元まで沈む。手首を返し、引き裂き、もう一度、深く。
眷属級の絶叫が、途切れた。
白く濁った目が、間近で俺を「見た」。振動ではなく、最期の最期に、目が。
――そして、流れ込んできた。
◇
熱ではなかった。今度のそれは、重さだった。
岩の重さ。地の底の、圧し掛かるような静けさ。皮膚の外側にもう一枚、見えない岩の層が重なるような感触。そして、足の裏から世界が「聞こえ」始めた。ミレアが岩陰から駆け出す足音。コッツが岩棚を降りる振動。ガロとヴァンネスが壁の上で立ち上がる、二つの重さの違いまで。
景色も、来た。
深い、深い岩盤の底。岩を齧る同族たちの群れ。地脈の温い流れ。何十年分もの、岩と静寂の記憶――その最後に、それは、いた。
闇の向こうで、何かが、こちらを向いた。
姿は見えない。ただ、大きさだけが分かった。大きさというより、深さだ。目の前の眷属級が仔犬に思えるほどの、底のない気配。等間隔の足音が、近づいてくる。群れが、狂ったように岩を掘って逃げる。逃げる。逃げる――
記憶は、そこで千切れた。
――妙だ、と、熱の引き際に、思った。
あの涸れ沢の夜、狂戦士から継いだときの、あの「奪った」という感覚が、今回は、薄い。流れ込んできたのは、岩と静寂と、群れの記憶。獣の生きた時間だ。それを奪うことに、俺の心は、ほとんど、痛まなかった。狩人が獲物の肉を食らうのと、地続きの感覚で、済んでいた。
人と、獣とでは、奪う手触りが、違う。
その発見に、俺は、安堵しかけて――すぐに、ぞっとした。
逆さまに言えば、こういうことだ。人から奪うときだけ、俺の心は、痛む。なら、もし、いつか。その痛みにすら、慣れてしまったら。人から奪う手触りが、獣と同じになった、その日の俺は――何と呼ばれるものに、なっているのだろう。
「――リゲル! おい、リゲル!」
気づけば、俺は眷属級の骸にもたれるように膝をついていて、ガロが肩を掴んでいた。
「無事か! 怪我は!」
「……ない。仕留めた反動で、立ちくらみがしただけだ」
嘘は、半分だった。体はもう平気だった。ただ、足の裏から聞こえ続ける「世界の振動」に、頭がまだ追いついていなかった。
「立ちくらみ、ねえ」
ミレアが俺の顔を覗き込み、脈を取り、目蓋の裏を検めた。
「……脈は正常。外傷は頬の切り傷だけ。銅貨五枚ね」
「払う」
「よろしい」
コッツが骸によじ登って、砕けた岩甲の谷間を覗き込み、歓声を上げた。
「うおお……! でっけえ……! なあ、これ全部売ったら、いくらになるんだ!?」
「角と岩甲だけで金貨十枚は下らねえな」とヴァンネスが値踏みした。「討伐報酬と合わせりゃ、隊の借金が消えて釣りが来る。……大したもんだ、おまえら。銀級の隊が尻込みした獲物を、罠と縄と油で獲りやがった」
老兵は骸を見上げ、それから、しみじみと言った。
「三十年この穴で食ってきたが、こんな狩りは初めて見た。……坊主。おまえの師匠ってのは、いったい何者なんだ?」
何者、か。
「――ただの、山の猟師だよ」
俺はそう答えて、短刀の血を拭った。
足の裏では、新しい感覚が、世界の鼓動を数え続けていた。そして、その感覚の来た場所には、あの底のない「深さ」の記憶が、消えない染みのように残っていた。
西にいるのは、あれだ。
名前も姿も知らないまま、俺はただ、一つだけ確信していた。眷属級の岩喰らいが群れごと故郷を捨てたのは、正しい判断だった、ということだけを。
◇
解体と搬出には、丸一日かかった。
角は大人二人がかりで、岩甲は板状に割って荷橇で。五人で曳ける量ではなく、ヴァンネスの伝手で深層屋の運び手を三隊雇った。その運び手たちが地上で吹聴したから、俺たちが壁を登り切る頃には、話は尾鰭どころか胴体ごと膨れ上がっていた。
大穴の入り口には、人垣ができていた。
「来たぞ! 〈鉄樹〉だ!」
荷橇の上の角を見て、どよめきが走る。買い取り屋が飛び出してきて、地図屋が叫び、どこかの隊の新人が呆けた顔で道を空けた。ガロが照れ隠しに手を挙げると、歓声はさらに膨れた。
「全員で潜って、全員で帰る、か」
隣を歩くヴァンネスが、ぽつりと言った。
「前の鉄樹の隊則を、新しい隊で本当にやってのけやがった。……ガロの奴、泣くのを堪えてる顔だぜ、ありゃ」
それから老兵は、ふと、俺に目を移した。
「ときに、坊主。とどめの後の、あの立ちくらみだがな」
「……もう平気だ」
「そうかい。なら、いい」
ヴァンネスはそれ以上、何も言わなかった。言わなかったが、右目の古傷の下の視線が、俺の顔に、一拍だけ長く留まった。試験の日、俺の足運びを「大剣使いの足だ」と言い当てた、あの目だった。
この男の前では、迂闊に転べない。
俺は人垣の歓声に紛れて、そっと、足の裏の新しい感覚を確かめた。石畳の下を走る下水の流れ、人垣のざわめきの重心、遠くの荷馬車。世界はもう、昨日までとは違う聞こえ方をしていた。そのことを、この場の誰も知らない。
――知っているのは、遠い北の村の、じいさんだけだ。
そのことが、このときの俺には、まだ、心強さの側に数えられていた。
第21話更新です!




