第19話「階層主の眷属」
第五層は、静まり返っていた。
悪い静けさだった。
本来の第五層は、岩喰らいの類が岩盤を齧る音、蟲の羽音、水滴の反響――迷宮なりの生活の音で満ちているという。それが今、何もない。燐光の苔だけが白々と岩肌を照らし、音という音が、死に絶えていた。
「……鳥が鳴かない森と、同じだ」
俺は声を最小まで落として言った。
「音を立てる生き物は、逃げたか、食われたか、息を潜めてる。三つのどれでも、答えは一つ。ここには今、音を立てたら死ぬ相手がいる」
隊列を組み替えた。俺が先頭。半歩後ろにコッツ。ガロとミレアは十歩下げて、撤退路の確保。合図は全て手で。声は緊急時のみ。
痕跡の記録は、淡々と進んだ。
三本爪の痕、岩壁の崩落二箇所、深層種の食い残し――いや、違う。食い残しではなかった。針顎の死骸が三体、折り重なっていたが、どれも食われていない。ただ、殺されていた。喉と、腹の急所を、一撃ずつ。
コッツが石板に記録を刻む手が、震えていた。無理もない。俺の手も、汗をかいていた。
これは、捕食じゃない。
縄張りからの、駆除だ。
――そのとき。
足の裏から、微かな振動が伝わった。
等間隔の、重い足音。あの地鳴りだ。だが、遠い。方角は西。壁の下で聞いたときより、離れている。息を吐きかけた、その瞬間だった。
まったく別の方角から、岩が爆ぜた。
「――散れッ!」
叫ぶと同時に、俺はコッツの襟首を掴んで横へ跳んだ。一拍前まで二人が立っていた岩床を、突き破って、それは現れた。
岩の下から、だ。
体長は馬車二台分。全身が黒灰色の岩甲に覆われ、頭部は巨大な鑿のような一枚角。太い四肢の先に、岩盤を砕くための、杭に似た爪。両の目は白く濁り、代わりに、体表の岩甲の隙間から覗く赤い皮膚が、脈打つように明滅していた。
「〈岩喰らい〉! それも眷属級だ!」
ガロの怒号が飛んだ。
「階層主の血を引いた大型だ! 岩甲は槍も矢も通らねえ――抜けるのは腹の継ぎ目だけだが、あの体勢じゃ腹は取れねえぞ!」
岩喰らいの眷属は、濁った目を俺たちに向け――否、目ではない。奴は「見て」いなかった。角をゆっくりと左右に振り、岩床に一度、こつん、と打ちつけた。
振動で、見ている。
理解した瞬間、奴は突っ込んできた。
馬車二台分の岩塊が、信じがたい初速で加速する。狙いは、一番重い足音――ガロだ。
「来い! こっちだデカブツ!」
ガロは逃げなかった。大盾を斜めに構え、正面から受けた。
激突。
鉄と岩の衝突音が、死んだ迷宮に轟いた。ガロの巨体が三歩、削られるように後退する。だが、止めた。盾の角度で衝撃を岩壁へ逃がし、真正面からの質量を、殺しきってみせた。
「効いた手応えが、ねえ……! こいつ、痛みで止まる相手じゃねえぞ!」
岩喰らいが角を振り上げる。ガロが盾ごと弾き飛ばされ、岩壁に叩きつけられた。
「ガロ!」
「治療入る! 三十秒稼いで!」
ミレアが駆ける。俺とコッツが左右に散って、投石と刃で注意を割いた。だが、手応えのなさは絶望的だった。短刀は岩甲の表面を滑るだけ。コッツの投石は、そもそも当たっていることに気づかれてすらいない。
「兄貴! 柱だ! 右奥の柱、根元に亀裂が入ってる!」
コッツの声が飛んだ。見れば、岩廊の右手前方、天井を支える太い岩柱の根元に、古い亀裂が走っている。
使える。
「コッツ! 俺が合図したら、柱の向こう側で一番重い石を落とせ!」
俺は岩喰らいの正面へ回り込み、わざと強く、岩床を踏み鳴らした。どん、どん。重い二歩。濁った目が――否、体表の赤い皮膚が、一斉にこちらへ「向いた」。
来る。
突進の初動、四肢が沈む。俺は駆けた。柱へ向かって、まっすぐ。背後で大質量が加速する音。追いつかれる寸前、俺は叫んだ。
「今だ!」
柱の向こうで、コッツが岩を落とす。ずん、という重い振動。岩喰らいの索敵が、俺の足音とコッツの偽音の二つに裂けた、その半瞬――俺は柱を軸に直角に折れた。
曲がれない巨体は、曲がらなかった。
轟音。岩喰らいの角が、亀裂ごと柱の根元を打ち砕き、天井から岩塊が雨のように降った。土煙。岩甲に岩塊が打ちつける鈍い音が、連続する。
「やったか!?」
コッツの叫びに、土煙の中から、答えが返った。瓦礫を押し退けて、岩の巨体が、ゆっくりと起き上がる。岩甲のあちこちが欠け、赤い皮膚の露出が増えている。効いた。効いたが――倒れない。
――腹の継ぎ目。
ガロの言葉が頭にあった。奴が転換する一瞬、胴が持ち上がり、あの半瞬だけ継ぎ目が覗く。俺の中の、誰かが疼いた。大剣の重さの記憶。両断の型。あの半瞬に叩き込めば、届く。俺の体はその軌道を知っている。知っているのに、俺の手には一尺半の短刀しかない。
気づけば、俺の両手は、足元の岩の破片を拾い上げていた。
長さ四尺の、剣に似た形の岩片。両手で握ったその瞬間、体の芯が、かちりと嵌まる音がした。重心。柄の握り。振り抜きの弧。俺のものではない五体の記憶が、岩片を「大剣」として認識し、歓喜していた。振れる。今なら、あの継ぎ目まで、届く――
「――リゲル! 何してる、下がれ!」
ガロの声で、我に返った。
俺は、岩片を握ったまま、手負いの眷属級へ半歩、踏み出しかけていた。隊列を捨てて。ただの岩の棒で。それがどれほど正気を欠いた半歩か、声をかけられるまで、気づきもしなかった。
岩片を、捨てた。掌に、他人の汗の感触だけが残った。
岩喰らいは、初めて「怒って」いた。角を岩床に突き立て、抉り、瓦礫を撒き散らしながら旋回する。手負いになったことで、振動索敵が乱れ打ちになり、動きから規則が消えていた。
「頭ァ下げろ!」
復帰したガロが、割り込んだ。飛来した瓦礫を盾で払い、隊の前に立つ。
「リゲル! 判断を寄越せ! 続けるか、引くか!」
一瞬で、数えた。
手札。短刀は通らない。投石は無意味。ガロの盾は受けられるが、削れない。ミレアの魔法は治癒が主で、岩甲を抜く火力はない。唯一の急所は腹の継ぎ目、露出は転換の半瞬のみ、しかも手負いで動きの規則が消えた。地形。ここは開けた岩盤で、罠を組む時間も材料もない。俺の中の大剣の型――届き得る唯一の手は、俺の得物では振れない。
勝ち筋、なし。
なら、答えは決まっていた。じいさんの声が、腹の底から聞こえた。『勝てない獲物は、狩らん。それは負けじゃない。今日狩れないだけだ』
「引く!」
俺は叫んだ。
「東の岩廊まで後退! あそこは道幅が奴の胴より狭い、入ってこれない! ガロ、殿は俺が持つ! あんたは二人を先に!」
「――っ、了解だ! 死ぬなよ!」
撤退戦は、三百を数える間の地獄だった。
俺は殿で、投石と足音で奴の振動索敵を攪乱し続けた。重い足踏みを一つ、軽い石を三つ。偽の足音を岩床にばら撒いて、隊の本当の位置を隠す。手負いの猪を山で撒くやり方と、理屈は同じだ。図体が違うだけだ、と自分に言い聞かせ続けた。
岩廊に全員が滑り込んだとき、岩喰らいは、狭隘の入り口に角を一度だけ打ちつけて――追ってこなかった。
荒い呼吸が四つ、暗い岩廊に響いた。
「……生きてる? 全員、生きてるわね?」
ミレアの声に、三つの返事が重なった。コッツはへたり込み、ガロは盾を杖に膝をつき、それでも、四人だった。全員で潜って、全員で帰る。隊則は、まだ破れていなかった。
「記録は」と俺が訊くと、コッツは震える手で、それでも石板を掲げてみせた。
「……取った。全部。眷属級の寸法も、爪の形も」
「上出来だ」
ガロが荒い息の下で笑い、それから、岩廊の外へ目をやった。
「しかし、参ったぜ。第五層に眷属級。逆流どころの騒ぎじゃ――」
言いかけた大男の声が、途中で消えた。
俺も、見ていた。
岩廊の外。岩喰らいの眷属は、俺たちへの興味をすでに失っていた。奴は西の方角へ角を向け、しばらく微動だにせず「聞いて」いた。あの、遠い、等間隔の足音のする方角を。
そして次の瞬間、眷属級の巨体は、身を翻した。
東へ。
俺たちを追うためではない。一目散に、東へ。岩甲を鳴らし、瓦礫を蹴散らし、その逃げ方は――針顎と、同じだった。
「……おい、嘘だろ」
コッツの声が、掠れた。
「あのバケモンが、逃げてる。……じゃあ、西にいるのは、なんなんだよ」
誰も、答えられなかった。
西の暗がりの奥で、地鳴りが、一つ。
それはまるで、俺たちの問いに対する、返事のようだった。
第19話更新です!
3連休最高でしたね




