第18話「五層の壁」
第四層は、水の底に沈んだ聖堂のようだった。
天井が高い。見上げれば、燐光の苔が星のように点々と散り、その下を、太い石柱が何十本も立ち並んでいる。柱の根元は全て、黒い水に浸かっていた。膝までの浅瀬と、底の見えない深みが、まだらに入り組んだ層。通称、水没層。
「第四層の死因の八割は、溺れと〈引き込み〉だ」
先導のガロが言った。
「浅瀬の道筋は毎年少しずつ変わる。古い地図を信じて深みに踏み込んだ奴から死ぬ。……コッツ、頼めるか」
「おう。――ちょい待ってな」
コッツは腰袋から、小石を一掴み取り出した。そして、進行方向の水面へ向けて、一つ、二つ、と投げ始めた。
とぷん。とぷん。
「……なにやってんの、あんた」とミレア。
「音を聞いてんだよ。浅いとこは、石が底を打つ音がすぐ返る。深いとこは、返らねえ。それと水音の高さ。浅瀬は高くて、深みは低い。……ほら、今の。低かったろ。あの柱の左は深い」
コッツは投げては聞き、聞いては進路を刻んでいった。スラムの夜、雨水の溜まった路地を裸足で歩いて育った耳だという。石の跳ねる音だけで、水の底の形が「見える」らしかった。
その耳が、一度だけ、隊を救った。
中程の柱の森を抜けるあたりで、コッツの投げた石が――音を、返さなかった。
とぷん、の後の沈黙。浅いはずの場所で、だ。
「……止まれ」
コッツの声が硬くなった。
「今の場所、地図じゃ浅瀬だ。なのに音が死んでる。底に、音を吸う何かが――」
言い終わる前に、水面が盛り上がった。
浅瀬に化けていたのは、泥の色をした巨大な掌だった。〈引き込み〉。それも、常の倍はある大物。水底に広げた体で浅瀬そのものに擬態し、踏んだ獲物を水底へ畳み込む。踏む寸前だった。半歩の距離だった。
掌が空を掴み、水柱を上げて沈む。ガロが咄嗟に隊列を下げ、俺は着水音の数を数えた。一つ。追撃はない。引き込みは待ちの獣だ。空振りした獲物は、追わない。
「……コッツ。今の判断に、隊から報酬を上乗せする」とミレアが真顔で言った。
「え、マジで」
「あたしが踏む位置だったのよ、今の」
ミレアの声は平坦だったが、杖を握る手の指は、白くなっていた。第四層の死因の八割、という数字が、初めて体温を持って隊の背中に張り付いた。
「大したもんだ」と、俺は素直に言った。「山の沢でも、そこまで細かくは読めない」
「へへ。……つーか兄貴、おれ気づいたんだけどよ。この隊、全員、育ちが変なんだよな。兄貴は山育ちの猟師で、ミレアの姐さんは薬草園育ちで、おれはドブ育ちで。それが全部、迷宮で役に立ってやがる」
「変な育ちほど、変な場所で生きられるってことだろ」
前を行くガロが笑った。
「そういうあんたはどうなのよ、隊長」とミレア。
「俺か? 俺は普通だぜ。石切り場の人夫の倅で、十九で家出して冒険者。……ああ、いや。待てよ。ガキの頃から石切り場で岩の下敷きになりかけて育ったから、頭の上の岩の機嫌だけは、誰より読めるかもしれねえ」
「ほら、変じゃない」
「変なのは育ちじゃなくて、こんな稼業を選んだ俺たち全員の頭だろうよ」
その言い方が妙におかしくて、水没層の暗がりに、少しだけ、隊の笑い声が響いた。
◇
笑い声は、長くは続かなかった。
第四層の中程を過ぎたあたりから、水が、おかしくなった。
最初に気づいたのはミレアだった。
「……ねえ。水が、濁ってない?」
言われてみれば、浅瀬の水が全体に白く濁っている。コッツが屈んで水面に鼻を近づけ、顔をしかめた。
「泥だ。上流――っつーか、水の来る方から、泥が流れてきてる」
「第四層の水源は、東の壁の湧水だ」とガロ。「あの水が濁るなんざ、聞いたことがねえ」
湧き水が濁る。山なら、答えは一つだ。水脈のどこかで、地面が動いている。
進むほどに、異変は形を濃くした。
浅瀬の縁に、深層種のものらしき鱗が点々と落ちていた。引き込みの棲むはずの深みが、いくつも空になっていた。柱の一本には、何か巨大なものが体を擦りつけた痕。高さは、ガロの背丈の倍以上。
そして、爪痕だ。
石柱の根元に、上りの爪痕。岩肌の斜面に、上りの爪痕。全部が全部、下から上へ。すれ違う魔物の影はまばらで、その少ない影も、俺たちを襲うより、先を急ぐことを選んだ。
「……逆流、なんてもんじゃねえな、こりゃ」
ガロが呟いた。
「避難だ。層ごと、引っ越してやがる」
◇
第五層への下り口は、迷宮の言葉で「壁」と呼ばれる大断層だった。
高さ二十丈の岩壁に、九十九折りの下り道が刻まれている。第四層と第五層を隔てる、文字通りの壁。ここから先が、中堅と深層屋の稼ぎ場の境目になる。
その壁の途中で、俺たちは足を止めた。
道が、塞がっていた。
岩雪崩だ。それも古いものじゃない。断面が新しい。数日のうちに崩れたばかりの岩が、九十九折りの中程を、ごっそりと呑み込んでいた。
「迂回路は」
「ある。あるが……おい、リゲル。おまえ、これをどう見る」
ガロに促されて、俺は崩落の縁を検分した。
見れば見るほど、妙だった。
「――崩れたんじゃない。崩されてる」
岩の断面に、擦過の痕が残っていた。太い、三本の筋。等間隔。岩を、外から抉った痕だ。
「爪だ。三本爪。……岩壁を、爪で崩しながら登った何かがいる」
三本爪。
その言葉に、ガロの顔色が変わった。第三層で全滅した前の〈鉄樹〉。あの現場の床に刻まれていた、深く抉れた三本の筋。あれと、同じだ。
「〈落とし仔〉……」
ガロの声は、掠れていた。
「第七層より下の主が、五層の壁を登った――そういうことか? おいおい、冗談じゃねえぞ。あれが上を狩場にし始めたってのか」
「静かに」
俺は片手を挙げた。
風向きが変わったのだ。壁の下、第五層の底から吹き上げる風。その中に、匂いが混じっていた。血と、獣脂と、それから――覚えのある、あの匂い。生き物が極限まで追い詰められたときに出す、饐えた恐怖の匂い。山で、手負いの熊の巣の前に立ったときと同じ匂いだった。
遠くで、地鳴りがした。
一度。二度。等間隔。あれは地鳴りじゃない。足音だ。何か途方もなく重いものが、第五層の底を、ゆっくりと歩いている。
「……調査はここまでだ、って気がしてきたぜ」とコッツが引き攣った声で言った。
「いや」とガロが首を振る。「依頼は第五層の『痕跡の記録』までだ。壁の下を一目見て、痕跡を記録したら、即座に引き返す。深追いは一切なし。……できるか、リゲル」
全員の視線が、俺に集まった。索敵と痕跡読みの要は、俺とコッツだ。
「できる。ただし、条件が一つ」
俺は、腰の短刀の柄を確かめながら言った。
「下りたら、俺の指示で動いてくれ。壁の下は、狩人の領分だ。獲物に気づかれずに見て、気づかれずに帰る。……今日の俺たちは、狩る側じゃない。数えられる側だ」
九十九折りの迂回路を、俺たちは一列で下り始めた。
壁の下から吹き上げる風は、一歩ごとに、濃くなっていった。




