第16話「初仕事」
夢を見た。
村の台所だ。竈の前に、母が立って何かを煮ている。鍋の湯気。根菜の匂い。振り返って、母は俺に何か言う。「気をつけて」だったと思う。声は、掠れたあの声のままだ。
ただ、振り返った先に、顔がない。
髪があり、輪郭があり、声がするのに、その内側だけが、朝靄みたいに白い。夢の中の俺はそれを不思議とも思わず、「うん」と返事をして、家を出る。出た瞬間に目が覚める。
――この夢を見るのは、三度目だった。
寝台の上で、俺はしばらく天井を見ていた。夢は日ごとに手触りが薄くなる。最初は目覚めたあと胸が軋んだ。二度目は、軋みが鈍かった。三度目の今朝は、ああまたか、と思った。
慣れていく自分が、一番、怖かった。
枕元には、ニラが写してくれた紙が一枚置いてある。手帳の一頁の写し。下手くそな線で描かれた、目尻の下がった女の似顔絵と、几帳面な字の注釈。『笑うとリゲルにちょっと似る』『左の頬に小さいほくろ』『怒ると眉だけ動く』。
俺は毎朝、それを見る。見ても、思い出しはしない。それでも、知識としては取り戻せる。俺の母は、目尻が下がっていて、左の頬にほくろがあって、怒ると眉だけ動く人だ。
覚えることと、思い出すことは、違う。
その違いを、俺はこの街に来て、初めて知った。
◇
「――〈鉄樹〉、四名。第三層、薬草『月鈴草』の採取護衛、および灰蜥蜴の間引き。併せて受注で間違いないですね」
受付の窓口で、ニラが依頼書を読み上げた。新生〈鉄樹〉としての、最初の正式受注だった。
「間違いねえ」とガロが頷く。
「では受理します。……ふふ」
「なんだよ、姉ちゃん」とコッツ。
「ん-、なんでもない。四人分の名前が並んでる依頼書って、いいなあって」
ニラは受理印を、いつもより少しだけ丁寧に押した。
◇
潜行は、驚くほど滑らかだった。
コッツの索敵が要所で群れを事前に拾い、ガロの盾が受け、俺が仕留め、ミレアが浅手を即座に塞ぐ。慣らしで擦り合わせた歯車が、本番で噛み合っていく感触があった。
第二層の水場では、灰蜥蜴の間引きを型通りに回した。ガロが盾を打ち鳴らして群れの目を吸い、横腹をコッツの投石が乱し、崩れたところを俺が刈る。三度繰り返して、尾は二十一本。ミレアは仕留めた端から尾の切り口を検分し、「これは上物」「これは傷が入ったから減額ね」と、買い取り屋より辛い査定を下していった。
一度だけ、ひやりとする場面があった。仕留め損ねた一匹が、死んだふりから跳ね起きて、ミレアに向かったのだ。俺が動くより早く、コッツの投石が眉間に入り、返す刀で俺が終わらせた。
「……今の、詫びる。仕留めの確認を怠った」
「次から死骸も数に入れて見張る」とコッツ。
「はい、この話終わり。反省は地上で、集中は地下で」とミレアが締めた。
誰も浮つかず、誰も引きずらない。いい隊になりつつある、と思った。前の隊を知らない俺でさえ、そう思えた。
月鈴草の群生地は第三層の水気の多い岩棚で、白い釣鐘形の花が、燐光の苔あかりの下で薄く光っていた。触れると微かに鈴のような音がする。ミレア曰く、解熱と鎮痛の上薬の材料で、買い取りは葉より花、花より「音の良い株」が高いという。
「音の良し悪しなんて分かるのか」
「分かるわよ。ほら」
ミレアが二つの株を順に指で弾いた。素人の俺の耳にも、片方は濁って聞こえた。
「濁ってるのは虫が入ってる株。……こういうの、教会の薬草園で嫌ってほど仕込まれたの。破門された今となっちゃ、皮肉な財産だけど」
採取はミレアの選別で進み、護衛の間引きも滞りなく済んだ。灰蜥蜴の尾、二十一本。月鈴草、上物ばかり四十株。初仕事としては、文句のない数字だった。
「なあ、これ、うちってもしかして結構強い?」
帰路、コッツが浮かれた声を出した。
「浮かれるな」とガロが笑う。「だが、まあ……悪くねえ。悪くねえよ」
その言葉を、俺も内心で認めていた。ソロの俺なら、この量の採取と間引きに三日はかかった。隊なら一日で、しかも消耗は浅い。何より――今日一日、俺は一度も、継承の力を使う場面がなかった。短刀と、狩人の五年と、三人の背中。それで足りた。
それで足りる日々が続けばいい、と、柄にもなく思った。
思った矢先だった。
「……兄貴。あれ、なんだ」
先頭のコッツが、足を止めた。
帰路の岩廊の脇、崩れた岩の陰に、何かが横たわっていた。
大きい。灰犬の三倍はある。長い胴に、櫂のような四肢。全身を覆う黒曜石のような棘の鱗が、苔あかりを鈍く弾いていた。死んでいる。それも、死んでから日は浅い。
「〈針顎〉だ……」
ガロの声が、強張った。
「深層の魔物だぞ。生息域は第六層より下だ。俺も現物は二度しか見たことがねえ。なんで第三層に――」
俺は死骸に近寄り、狩人の目で検分した。
外傷は少ない。深手は一つだけ。だが、その一つが妙だった。腹側の、鱗の薄い継ぎ目。そこが内側から膨れるように裂けている。それ以外は、四肢の爪が全て割れ、剥がれかけていた。岩を、限界を超えて掻き続けた爪だ。
「……こいつは、戦って死んだんじゃない」
検分の結論を、俺は口に出した。
「逃げて、死んだんだ。四肢の爪が全部潰れてる。何日も、休まず岩を登り続けた爪だ。腹の傷は古傷が開いたもの。つまりこいつは、傷を抱えたまま、飲まず食わずで下の層から這い上がってきて――ここで力尽きた」
沈黙が落ちた。
深層の魔物が、縄張りも餌場も捨てて、命を削ってまで上へ逃げる。
そんな逃げ方を獣にさせるものを、俺は一つしか知らない。山火事だ。山が焼ける年、獣はみんな、火に背を向けて同じ方角へ走る。
「――下で、何かが起きてる」
ガロが、俺の考えを言葉にした。大男は死骸と、その向こう、迷宮の深部へ続く暗がりを順に見て、低く言った。
「持ち帰るぞ、この話。ギルドに報告だ。……嫌な予感がする」
岩廊の奥から、地の底の冷たい風が、絶えず吹き上げてきていた。いつもと同じ風のはずなのに、その日はなぜだか、何かの息のように聞こえた。
◇
地上に戻り、納品と報告を済ませた。
針顎の件は、ガロが窓口の奥で職員と話し込んでいる。俺たち三人は、待つ間、受付前の長椅子に並んで座っていた。
ふと視線を感じて顔を上げると、カウンターの向こうで、ニラが手帳を開いてこちらを盗み見ていた。ペンが動いている。
「……何を描いてる」
「ん-? 内緒」
覗き込むと、手帳の新しい頁に、四人の似顔絵があった。盾を背負った大男、杖の女、串を咥えた少年、そして仏頂面の俺。線は相変わらず下手くそなのに、誰が誰かは一目で分かった。頁の隅に日付と、一行。
『鉄樹、初仕事。全員で帰ってきた』
「初仕事の記念。……こういうのはね、ちゃんと今日のうちに描いておくの」
ニラは満足げに手帳を閉じた。
その頁には、四人の似顔絵の下に、小さく一行、『全員で帰ってきた』と書かれていた。ニラにとっては、それが一番の戦果らしかった。
だが、俺の視線は、その手帳を越えて、奥の窓口に吸い寄せられていた。針顎の報告を聞く職員の顔から、潮が引くように、笑みが消えていくところだった。
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三連休さいこうだぜ




